Thursday, 4 June 2026

阿部監督の逮捕事件

先日、巨人軍の阿部監督が逮捕され退団する事件があった。娘さんが「父から暴力を受けた」と児童相談所に連絡すると、警察が家にやってきて逮捕に至ったという。詳しい事は分からないが、立件もしない即逮捕に違和感があったし、何より一番驚いたのは当の娘さんだったというから可笑しな話である。

これで逮捕されるなら、世のお父さんの殆どが牢屋に入っているだろう。普通なら、家に来た警察官はまず「どうしました?」と聞く。娘は「父に倒されましたがもう大丈夫です、有難うございました」、お父さんも「色々お騒がせしてすみませんでした、以後気を付けます」で済む話である。

それがここまで発展したのは、法律の一人歩きと関係している気がする。法が家庭内の人間関係を阻害するなら本末転倒である。コンプライアンスの順守やAIとの付き合い方も同じであろう。これを機会に専門家で議論して欲しいと思う。

余談だが、オーストラリア入国にはETA(VISA)の申請が必要である。その質問事項の中に、「家庭内暴力(Domestic Violence)がありましたか?」がある。もしそれにレ点を付ければ、多分引っ掛かるだろう。海外渡航にも支障が出るし、これから思っている以上のダメージがある気がする。

Sunday, 31 May 2026

浅草ロック座の国際貢献

 TVのアド街ック天国を見ていたら、「昭和レトロの街」で浅草がNO1に選ばれた。仲見世商店街だけでなく、庶民的な劇場も多い下町文化が評価されたようだ。思い出したのはロック座だった。

1970年代の半ばに、田中首相が訪れたインドネシアで大規模な反日運動が起きた。それを主導したのがインドネシア大学医学部の学生だった。大丸はじめ日系企業がその標的になったので、経団連も鎮静に動いた。そして「彼らを日本に呼んで日本を知ってもらおう!」という事になった。


「相手が学生なら此方も学生がいい」と、とある団体の代表を務めていた関係で呼ばれた。晴天の霹靂とはこの事だったが、費用はアメリカの財団が出すという。麻布にある事務所を訪れ、趣意書を渡すとすんなり通してくれた。古風な一軒家だったが、生まれて初めて日本家屋に土足で上がった。今から思えばそこはCIAの出先機関だった。

それから暫くして一行が日本にやってきた。そして公私に渡る交流を図ったのだったが、ある日彼らを浅草のロック座に連れて行った。何故そこにだったのか覚えていないが、外人をストリップで持て成すのが当時の社会慣行だったのかも知れない。

入ると舞台では艶めかしい女性が裸体を披露していた。それを見たインドネシアの学生は、奇声を上げて館内を走り狂ってしまった。きっと敬虔なイスラム教にはない初めての世界だったのだろう、その思いも掛けない爆発にはビックリした。

彼らが帰国すると、反日運動はピタッと止まったのは言うまでもない。今風に云えば、ロック座が日本の安全保障に大きく貢献した事になる。

余談だが、高校の国語の教師にHさんという人がいた。一年の半分を志賀直哉の暗夜行路につぎ込む変人だったが、彼は若い頃、浅草ロック座の脚本を書いていたと自慢していた。そう言えば、欽ちゃんの奥さんもそこのスターだった。

色々ご縁があった場所が、未だに残っているのは嬉しい限りである。

Friday, 29 May 2026

水俣病と漁師の話

暫く前に、病院の待合室で順番待ちをしていた時だった。目の前に新しい新聞があったので手にしてみた。それは朝日新聞だった。普段はめったに読まないし、慰安婦前後から教条的なタッチが肌に合わないから久しぶりだった。


その日は、水俣病の特集だった。多くの写真入りで、半世紀前に起きた事件を振り返り、未だに多くの患者が大変な日々を送っている様子を紹介していた。自分の中では既に過去のものになっていただけに、現実から目を背けていた罪悪感も湧いて来た。

その中に、ある漁師一家の話があった。大黒柱だった漁師は随分前に亡くなったが、その死因は特定されなかった。しかし家族は暫く前から、その症状が水俣病に似ていると気付いていた。ただそうは思っても、長い間それを口外する事はなかったという。

何故なら、その漁師一家は漁で生活していたからである。もしもひょっとして、水銀が入っていた魚を売っていた事が分れば、村では生きていけなくなる。彼は家族を守ったのかもしれない。

公害の怖さは、魚を食べた被害者がいる一方で、本来は同じ被害者なのに、魚を取った漁師を加害者にしてしまう。それまでは平和に暮らしていた村が、滅茶苦茶になった様子が伝わってきた。

Tuesday, 26 May 2026

暗殺の現場巡り

先日ホワイトハウスに銃を持った男が侵入し射殺された。一カ月ほど前にも、ホワイトハウス主催の晩さん会で発砲騒ぎがあったばかりである。2年前にはペンシルバニアの集会で、 トランプ大統領の右耳を銃弾か掠めたのは記憶に新しい。次から次へと続く暗殺計画に、国内の不吉な空気を感じる。

要人の暗殺は、時によって歴史の大きな転換点になる。安倍さんの時もそうだったが、自民党の求心力に陰りが出た。時を経てその現場に立つと、止まったままの時間を共有する不思議な感覚になる。

その体験の最たるものが、ダラスのJFKだった。10数年前に訪れたが、JFKが被弾した場所の道路には×印が残っていた。オズワルドが狙撃したとされるビルも当時のまま保存されていた。ただそこから単発銃で狙うには余りに遠く、誰もが近くのグラッシーノールと呼ばれる小高い丘が怪しいという気持ちになる。

もう一つはヒットラーの(未遂だったが)暗殺現場である。場所はロシア国境に近いポーランドの「狼の巣」であった。ワルキューレ作戦と称したクーデター計画で、シュタウフェンブルク大佐が総裁大本営仕掛けた爆弾が爆発した。ヒットラーは一命を取り留め計画は失敗したが、防空壕などが現存する中、その現場は跡形もなくなっていた。

シュタウフェンブルクの家系を書いた「Secret Germany]」という本がある。彼は名門貴族の末裔で、ドイツを狂気から解放する崇高な使命感を持った人だった。

Sunday, 24 May 2026

ルイスの転換点

久しぶりに本屋に行くと、齋藤ジン氏の「世界秩序が変わる時」があった。評判がいいと知っていたが、既に15万部に達していた。遅ればせながら読ませてもらったが、ソロスに10億ドルを儲けさせた人だけあって、中々の観察眼だった。

本や自身のプライベートも含め、正直で氏の人柄も伝わる一筆書きは快かった。特に長らくアメリカで仕事をしているせいか、アメリカの底力を良く知っていた。確かにバブル前後の日本叩きは、戦後の占領地政策と似ていた。

「アメリカはカジノのオーナー」というフレーズも良く出て来る。ドルを握っているから仮に中国と戦争しても、決済通貨のドルを抑えてしまえば終わりである。それが中国とロシアの違いのようだ。

写真で見る氏は男なのか女なのか、氏はトランスジェンダーと告白していた。その件で、あの紳士風のベッセント財務長官もゲイだと知って驚いた。

「失われた30年」の元凶は、やはり社員を整理しなかった事だった。氏は「ゾンビ社員」とか「働かないオジサン」と呼んでいたが、思えばとても日本的な処置で、自分で自分の首を絞めていた事になる。そんな時代も終わり、やっと労働需給は逆転した。給与も上が始め「ルイスの転換点」を超えた。

その他、日本はBIS Viewでアメリカの FED Viewを読み違えた事や、銀行潰しの受け皿(法律)が未整備だった事など、今更ながらそうかと思った。

本書が出たのが2024年末であった。あの時の日経平均は39,894円であった。当時は80年代のバブル越えで湧いたが、今では63,339円に何と50%も上がっている。投資していたら、1年半で100万円が150万円、300万円が450万円になっていた。もっと早くこれを読んでいたら、随分と家計も助かった・・・。

Friday, 22 May 2026

日韓のシャトル外交

日韓のシャトル外交が続いている。前回は高市首相の奈良、今回は李大統領の安東と、開催場所にも工夫が施されている。兎角些細な事から感情に火が付くお国柄である。「近くて遠い国」とも言われるが、トップが頻繁に会えば少しは気心も通じるだろう。いい事なので温かく見守りたい。

韓国の対日感情を象徴するのが、戦争博物館の展示である。大きな都市に行くと、その国の戦争博物館を見る事にしているが、ソウルの規模は世界的にも大きい方である。何度か訪れたが、特に朝鮮戦争で使われた兵器が所狭しと並べられていた。

館内の展示は歴史を時系列で辿っているので分かり易い。韓国らしいのは、その内容が時の風潮で替わるのである。

例えば反日が続いた時は、秀吉、加藤清正の朝鮮出兵から植民地時代までの抗日一色だった。処が朴槿恵政権になった頃だっただろうか、敵は日本から北朝鮮に代わっていた。朝鮮戦争や、北のスパイが闇に紛れて上陸する恐怖を煽っていた。

歴史家の宮脇淳子さんは、この書き換えを許容する国民性を「ファンタジー世界の住人」と呼んでいた。時の政権が都合のいいように歴史を弄るのである。「(韓国人は)ゴールポストを動かす」と言われたり、韓流ドラマが受けるのもその辺と関係している気がする。

日本製品の不買品運動や慰安婦像など、謂れのない批判はとても不快であった。もう繰り返して欲しくないので、今の関係が続いてくれればいいが・・・。

Tuesday, 19 May 2026

スパゲティーの話

 グルメ話の最後はスパゲティーである。ヨーロッパを旅すると、殆どランチはスパゲティーそれもボロネーゼにしている。ひき肉にオリーブ油で味付けしたこの一品は、当たり外れがない。

因みに今まで一番美味かったのが、意外にもマケドニアの首都スコピエだった。スコピエはソ連時代の銅像が建ち並ぶ荒廃した町だった。でもマザーテレサの生家を出た処で、小さなレストランのボロネーゼは格別だった。

トマトソースのナポリタンもいい。昔から日本の洋食屋の定番で、日本風にアレンジした味は喫茶店で生き続けている。

そのナポリタンだが、やはり本場のナポリの味に勝るものはなかった。郊外にあるポンペイの遺跡を見て、噴火したベスビオス山に登った。その帰り道、偶然立ち寄ったレストランで食べたナポリタンは最高だった。美味し過ぎて大皿二皿を平らげた。

またボンゴレという魚介類が入ったパスタもある。此方はバルセロナ郊外の漁村で食べた味が忘れられない。

一方ヨーロッパで一番不味いスパゲティーは、何とフランスのパリである。何処も茹で過ぎるからパスタはグニャグニャになる。こればかりはフランス人とイタリア人の味覚の違いを感じるのである。