Saturday 30 November 2013

高麗人って

最近ウズベキスタンに行った人が、「結構韓国人が多いんですよ」という。セントヘレナ島に流されたナポレオンが、島で清王朝の末裔と親しくなったと読んだことがあった。今回もどうしてこんな処にこんな人が?と思った。

調べて見ると、シベリアから移住させられた韓国人が20万人もいたという。同じように旧ソ連に住みついた朝鮮民族は50万人もいたという。彼らの事を高麗人と言うらしい。そう、高麗はコリアンの語源だったり高麗人参は今にその名残を残している。確かに・・・スタンという国にはおよそアジア系の顔をした人が多い。中国人の系統かと思っていたが、これには驚きだった。

今週号の週刊新潮に朴大統領の話が掲載されている。韓国から不適切だと批判があるらしいが、「恨」のことに触れている。昔から良く仕事で知り合った韓国の人と飲んだ。杯が進むと不思議と日本への対抗心が擡げて、熱くなり人によっては涙を流すのには参った。「恨」に繋がる歴史、まだまだ近くて遠い国のかも知れない。

Tuesday 26 November 2013

コカ・コーラのCM

「そのままでいいのさ、素顔に会えるから、感じてる、感じてるコカ・コーラ、爽やかテイスティ・・・」と爽快に歌うコカ・コーラのテーマソング、特に80年代の作品は自信に溢れ輝いていた。振り返る女性の笑顔が当時を象徴している。そのメロディーが最近TVに出始めた。これもアベノミックスの恩恵だろうかと、懐かしいものがある。

コカ・コーラのCMは時代を反映していて面白い。一時は目立たなかったが、最近はやっと活気が出て元気なヴァージョンに変ってきた。メロディーの後段は「初めてじゃないのさ、いつでも一緒だから・・・、もう一度確かめよう、毎日が新しい・・・」と続く。

団塊の世代と話していたら、今の人は可哀想だという話になった。何故かというと、バブル時代を知らないからだという。接待費は使い放題のため、飲み食い、帰りのタクシー代、週末の接待ゴルフ、延いては海外旅行までが会社のポケットから出たからだ。ことの顛末は兎も角、このCMには当時を思い出す懐かしいものを感じるのであった。

Monday 25 November 2013

シャネルとジャッキー

ケネディー暗殺の時に、ジャクリーヌが着ていたのがシャネルのピンクの服だ。彼女は血を浴びた服を着たまま、病院から機上でジョンソンの大統領就任に立ち会った。

暫く前に、シャネルの自伝である山口昌子著「シャネルの真実」を読んだ。山口さんは産經のパリ支局員を務めた本格派だ。彼女の記事を読むために、産經新聞を取る人が結構いるという有名人だ。そのシャネルだが、20世紀の女性解放の流れを上手く先取りして成功した。パリのグランパレが火事にあい、長いドレスが災いして逃げ遅れた女性が多かったことも幸いした。機能的でかつ女性を意識したスタイルが受けたようだ。本では彼女の生い立ちにも触れている。彼女は修道院に預けられた孤児だった。その時の飢えが、モノトーンの色彩にも繋がったと言われている。

ところでシャネルで有名なのは「シャネルの5番」と称する香水だ。マリリン・モンローも付けていた。そのモンローとケネディー大統領は不倫関係にあったので、ジャクリーヌにとってモンローは敵だった。シャネルが取り持つ縁というか、不思議な因縁を感じるのである。

Sunday 24 November 2013

健在の団塊世代

朝のラジオで堺屋太一さんが登場した。これからの団塊の世代を予測した本だそうだ。「油断」や「日本沈没」のように、経済現象に架空の登場人物を配し物語がよりリアルになっているという。聞いていて読んでみたくなった。

それは日本の高齢化社会の予想だ。例えば60歳以上と若い人が雇用機会を巡ってデモで対峙する、2020年の東京オリンピックでは純血主義が崩れ外人が活躍するのでお祭り気分になる、生活保護が一般化するため若者は働かないことに違和感を持たなくなる、亡くなる人の遺品が1万点で遺族が引き取るのは1000点、その残りが市場に出回る・・・等々。

日本は元々食に関しては世界一、そこに持ってきて医療がいいので人は中々死なない。お金も60歳以上が資産の80%以上を持つという。正に高齢化社会を支える条件は盤石だ。今日は秋晴れの一日、たまたま団塊世代と人達とゴルフした。皆大会社の一線を退き優雅に暮らしている。団塊世代は正に日本の形そのもの、これからも話題は尽きないようだ。

Saturday 23 November 2013

終活と就活

満員電車で吊り広告を見ていたら、週刊誌の「天皇・皇后の終活」が目に留まった。就活は聞いたことがあったが、終活は初耳だった。調べてみると、最近出来た造語だそうだ。ヒトの最後をどう生きるか、死と向かい合い準備することのようだ。このご時世、中々いい言葉だと思った。

同じような似同義語に、無職は夢職というのもあった。これも中々上手い事を云うなと思った。無職は収入がなく不安だ。霞を喰うような毎日は、老後を先取りしたようで辛いものがある。ただ過ぎてしまうと懐かしい。思ってもいなかった人生がその葛藤から始まった・・・と思うと、確かに失業時代は夢を求めて仕事していたのかも知れない。

今日TVを見ていたら、サザンオールスターの東北公演をやっていた。素晴らしいコンサートに釘付けになってしまったが、桑田佳祐が最後にジャンバルジャンならぬガンバルジャンと称して、レ・ミゼラブルに倣ったミニミュージカルを組んでいた。思わず笑ってしまったが、プロは面白いことを考える。

ケネディー暗殺50年

今日はケネディー大統領が暗殺されて50年目の日だ。時は1963年11月22日、テキサス州のダラスで事件は起きた。書店にはコーナーが出来るし、多くのメディアが連日記事を載せている。何か新しい事があったのかと、日米同時発売の「ウォーレン委員会50年目の証言(A Crude and Shocking Act)」を読んでみたが、相変わらず事件は闇の中だ。謎が謎呼ぶ殺人事件である。

以前このブログでも書いたが、事件現場の一角はビルを含めて当時のまま博物館として保存されている。訪れた人は、オズワルドが狙った窓から通りを眺めた後、今度は✖印の現場から窓を見上げ、そして首を捻るのである。そもそも、狙撃したとされるビルのパンフレットには、「それはグラシーノールに比べれば小さなビルである」というタイトルである。グラシーノールとは、通りを挟んだ小高い高台のことだ。公開されている8ミリを見ると、3発目の弾丸で大統領の頭は吹き飛ばされているのが、どう見ても後ろからではなく横か前からだ。その犯人が居たのがグラシーノールだった・・・と現場に立った人は思う。それにしても誰が何の目的で・・・?犯人はKGB、カストロ、CIA、FBI、地元のKKKなど、記念館にはその陰謀説がパネルで整理されているから驚きだ。

情報公開は2039年というからまだ26年もある。生きていて真実を知りたいと思うのは私だけではないだろう。まるで昨日の事のような出来事だが、大統領までも殺される国には背筋が寒くなるのである。




Thursday 21 November 2013

キャロライン・ケネディーと京都

キャロライン・ケネディが駐日大使に指名され、先日皇居で信任状の授与式があった。パレスホテルから馬車に乗り、天皇に接見する一連の儀式は思った以上に厳粛そうだった。ニュースではご本人も沙流ことながら、沿道に集まった庶民、元米国大使館員など、改めて日本の伝統に魅せられたようだ。

明日11月22日は、JFK暗殺50周年の記念日だ。御父君は第2次大戦時に中尉で従軍し、乗った魚雷艇が日本軍によって沈められた。その時部下を救った勇姿が大統領選の勝利に繋がったと言われている。またキャロラインが新婚旅行に選んだのは日本だった。何かの縁かも知れないが、ケネディー家と日本の因縁を感じるのだった。

今週はまた京都を訪れた。午後から東寺、東福寺を廻った。正に紅葉真っ盛り、晴れた空の元多くの観光客が訪れていた。歩いていて、ここが大戦下爆撃されないで良かったとつくづく思った。アメリカは敢えて古都を避けたのだろうか。寺も700年前と古い。思えばケネディーの先祖がアイルランドで、悪法のキルケニー法に虐げられていた頃だ。そんなことを考えながら、過ぎゆく秋を楽しんだのであった。

ナチスの絵画

先日、ドイツ南部のアウグスブルクでナチス時代の絵画が発見された。80歳の老人がスイス国境の警備員に職務質問されて、9000ユーロ(約110万円)を所持していたことが発端だった。自宅を調べてみたら、100㎡の部屋の1400点を超える絵画が置かれていた。マチス、ピカソ、シャガール、ルノワールなど、時価にして10億ユーロ(1300億円)相当というから驚きだ。

男は画商の父親から絵画を引き継いだものだという。生涯無職で独身の彼は、絵だけが友達だったらしい。密かに絵を売却しては食い繋いでいたようだが、それにしても永年よくも隠せ通したと感心してしまう。

第2次大戦時に絵画に纏わる話はよく聞く。映画「大列車作戦(The train)」では、フランスから鉄道で持ち出すのを鉄道員が阻止する話だったり、ソ連がドイツからプーシキン美術館に多くの絵画を移送した話は有名だ。今回の発見も、過去を辿れば面白い小説になりそうだ。

Saturday 16 November 2013

ねねの圓徳院と祇園

小雨の降る中、夜の京都を散策した。今回は八坂神社から高台寺、そして圓徳院を廻った。どこも始まったばかりの紅葉がライトアップされ、綺麗だった。夜にも拘わらず、多くの観光客が歩いていた。取り分け、初めて訪れた圓徳院は素晴らしかった。竜安寺のような石庭があり、縁側に座り暫し瞑想に耽った。

圓徳院は秀吉の妻ねねが晩年を過ごした場所だという。案内書には彼女が58歳から没する77歳まで過ごしたと記されていた。女性は亭主が居なくなってから元気になるという。心地良さそうな佇まいと、何より祇園は目と鼻の先、ちょっとお茶でもと歩いて行ける距離だった。東京で言えば赤坂・六本木、晩年はさぞかし快かったのではないかと思った。

して、寒くなった体を温めようと祇園に戻った。暖簾をくぐった割烹は、和服の女将とシャキッとした板前が出迎えてくれた。京都の店は繊細で、何より店に品書きがベタベタ張っていないのがいい。芸術品のような突き出しと温燗、そして何よりの静けさにいい感じになったのであった。

琵琶湖の浮御堂

寒い中、近江八景の一つ、琵琶湖の浮御堂を訪れた。浮御堂は京都から出る湖西線の堅田で下車する。ところが間違って琵琶湖線に乗ってしまった。慌てて引き返えすと、両方の線は山科で分かれ、湖の西廻りが湖西線、東廻りが琵琶湖線の2つがあることが分かった。堅田に向かう途中、比叡山坂本、雄琴温泉・・・とローカルな駅名が続いた。この辺から延暦寺に登るケーブルカーがあるためか、観光客が沢山下車した。そして突然暗くなり雨が降ってきた。

浮御堂に着くと、写真で見た通りに、御堂は琵琶湖にせり出しポツンと立っていた。国宝の重要文化財と聞いてはいたが、それは中にある尊像だけで、本体は再建されたものだった。近くに琵琶湖大橋が見えた。

波一つない静かな風景は、ややもすると物足りなさを感じた。訪れる人もあまりなく、佃煮を売っている土産物屋が寂しそうだった。引き上げる時になって、さっきまで降っていた雨が上がり虹が出た。澄んだ空気と夕焼けが映えて美しかった。それにしても、この辺は時間が止まったような地域だ。京都に戻り雑踏にホッとするものがあった。

Tuesday 12 November 2013

レイテ島の嵐

台風が猛威を振るい、フィリッピンでは1万人が被害にあったという。今回は大変な被害が出た。場所はレイテ島と聞いて、何やら思い当るものがあった。そう昭和19年のレイテ沖海戦だ。追い詰められた日本艦隊が止めを刺された一戦だった。この戦いで空母を殆ど失い、以降は地上戦に入って行った。レイテ湾に突入するはずの栗田艦隊も途中で断念した、俗にいう謎の反転だ。

レイテ沖海戦に先立ち、T戦法というのがあったと「零戦燃ゆ」に出ていた。それは台風を利用した攻撃で、日本海軍が台風シーズンを狙って仕掛けた奇襲作戦だった。敵の盲点を突くはずが、台風の中で飛ばすプロペラ機は如何なものだっただろう。頭文字のTは台風のT、そんなことをやっていた時代だった。

そして12月7日、ハワイ奇襲3周年目に大地震が名古屋を襲った。マグネチュード8の東南海地震だった。報道管制が敷かれ、事態は隠ぺいされたが、三菱始め多くの軍事工場が被害に会った。それは終戦を早めたと共に、特攻を一層加速させた両面を持っていた。ともあれ、今も昔もこの時期は自然が猛威を振るう。

Monday 11 November 2013

風に吹かれて

風には敏感だ、といっても風見鶏ではない。テニスをやっているので、風を味方に付ける必要がある。土曜日は11度と寒いく、北風が吹き昼から雨雲に覆われ暗い日中だった。一転して日曜日には南風、気温も上がったが強風でテニスには不向きだった。ロビングを上げると、ボールは追い風では流されるし、向かい風では死んでしまう。連日、目まぐるしく風向きが変わるのに翻弄されたが、これに慣れるのもテニスである。全てはボールをコントロールすることから始まるからだ。

風に纏わる話は多い。その一つが、竹中平蔵さんの「竹中式マトリクス勉強法」だ。竹中さんは若い頃から論客だったが、相変わらずずばっと本質を突くセンスは一流だ。彼はアリスこと谷村新司さんのファンで今でもコンサートに欠かさず行くという。本でも最後の締めに谷村さんの言葉を引用している。それは「鳥は向かい風の中、飛び立つ」で、彼の戦う気持ちが出ていた。

古くは、ボブ・ディランの「風に吹かれて(Blown' The Wind)」の歌も有名だ。当初は反戦歌だったが、焦燥感に覆い尽くされた時に、気が付けば頬を撫でる風だけが吹いているという歌だ。風に吹かれながら、「答えは風の中にある・・・」と続く。風はないに越したことはないが、そう!風あっての人生だ。



Saturday 9 November 2013

ハローウィンとカボチャ

先週はハローウィンだった。若い人が変った衣装を着て街を歩くお祭りだ。いつから輸入されたか知らないが、昔はなかった。暫く前だったか、会社の中年女性が今日はハローウィンで仮装するという。30歳を過ぎて今更何をやっているの?と喉まで出かかったが、グッと抑えて見送ったものだった。クリスマスも所詮初めはそうだったので、強ち舶来物にケチを付けるつもりはない。ただ所詮は仮装行列だ。

その主役のカボチャだが、コロンブスが15世紀にメキシコからスペインに持ち帰った物だという。英国のサツマイモことサツマと同様、欧州では輸入品だった。廻りまわって今では日本の風物詩になっている。

 
小学校の時、パンプキンという仇名の女の子がいた。読んで字の如く、漫画に出てくるような大きな丸顔にニキビ面だった。時代が時代なら、もう少し違った仇名が付いたと思う。ただ当時はカボチャと言えばジャガイモのような存在、子供は正直だった。ハローウィンのカボチャを見ると、当時の頃を思い出す。


オランダの花文化

アベノミックスの第一の矢は超金融緩和だ。「バンカーに入ったらサンドウェッジでしょ!」と、正にその通りである。一方、インフレ、取り分けハイパーインフレから来るバブルは、80年代の二の舞にならないように、気を付けなくてはならない。

そのバブルだが、歴史上の発端はオランダのチューリップ投機と言われている。1600年代の事ゆえ、誰もそれが何だか知らないが、兎に角球根の買占めが、人々の生活を大きく狂わせたようだ。先日TVでオランダの花を紹介していたが、オランダの花の競りは、当時の教訓から上限が決まっていて、高い方から安い方に向かって競売するという。

オランダは、今や世界の花の流通の60%が経由しているという。欧州のみならず、アフリカ、中東の花がここオランダに集まる、正に魚で言えば築地のような地位を築いている。花は目出度い時も悲しい時も、まるで酒のように欠かせない存在だ。取り分け人生の節目の求愛と謝罪には無くてはならない。TVで面白かったのは、年金生活者は10本で3ユーロ(約400円)と安く買えるということだった。年寄りは家に長くいるせいか、花を見ていると気が和むという。いかにもオランダらしい計らいで感心した。

Wednesday 6 November 2013

Nさんからの手紙

昔お世話になったNさんから葉書が来た。Nさんは今年70歳、暫く前にお会いした時、緑内障を患っていると言っていた。今回の手紙は、その目の負担を軽くすべく、今後は季節の挨拶を失礼するといった趣旨の内容だった。
 
ややもすれば、ダラダラと賀状だけが行き交うことが多い。それを心配して早い内から手を打ってきた。中々出来るようで勇気がいることだと感心した。それで思い出したのは、ゼミの先生だった。会は黙っていれば先生が生きている限り続く。元気なうちはいいが、歳を取ってくると何があるか分からない。ややもすると醜い姿を人目に曝すことにもなり兼ねない。身近にそんなことがあったのか、随分前にXX会は止めになった。
 
人間不思議なもので、一度区切りを付けると気が楽になり、また会ってみようかという気になる。そろそろ師走の足音が聞こえて来そうな今日この頃、また賀状の心配の時期になってきた。そんな折、Nさんの英断はとても参考になるのであった。

Monday 4 November 2013

楽天に負けるな!

楽天イーグルスが日本シリーズで優勝した。創部9年目で頂点を極めた。野球に日頃疎い者でも、この7戦はハラハラした。マー君の無配記録も沙流ことながら、何より東北に本拠地を置く球団の勝利は大きかった。きっと多くの人の願いが通じた賜物だろう。

傍から見ていて星野監督だからこそ、ここまで来れた感じがした。選手は孫の世代、そのため直接指導するのはコーチだったという。つい甘やかしたくなる気持ちを抑え、非情な監督業はさぞかし大変だったと想像する。折しも震災の年から、地元の復興を見ながらのことだった。話を聞いていて、星野さんは奥さんに先立たれ一人住まい、酒は飲まないと聞いてびっくりした。一体どうやって自身をコントロールしていたのだろう?と思った。優勝して開口一番に「選手を褒めてやって下さい!」と挨拶していたのが印象的だった。

そして地元のファンの一言にジーンと来た。それは「楽天に負けるな!」だった。そんな気持ちにさせてくれた快挙だったのだ。

Sunday 3 November 2013

ハニートラップとロシア料理

ゴルフの件で電話したFさんが、「面白い本があるんだ」と言う。ジェイスン・マシューズ著「レッド・スパロー(Red Sparrow)」で、スパイ小説だ。早速読んでみると、ロシアの雀こと、ハニートラップを専門とする女スパイが主人公だった。色仕掛けのプロを養成する専門学校や、諜報員の待ち合わせ場所など、元CIAの著者ならではの世界が紹介されている。

本の最後に、米ロで捕まったスパイ返還が行われる。場所はエストニアのナルヴァである。ナルヴァはエストニアとロシアの国境の町で一度訪れたことがある。ナルヴァ川を挟んで検問所があり、毎日ロシア側から労働者が渡ってくる。かつてはスウェーデンがピュートロ大帝を破った大北方戦争の舞台で、美しい町があったという。それを第2次大戦でソ連が破壊し、結局はソ連がその後居座ったので再建を余儀なくされた皮肉な歴史がある。エストニア側の高台からロシアが見えるが、38度線ではないが、渡ったら最後2度と戻れない怖さが伝わって来る。

本で面白いのは、各場面で出されるロシア料理のレシピが紹介されていることだ。どうやらFさんはそれが気に入ったようだった。

Saturday 2 November 2013

特攻隊員と月光の曲

鳥栖に、特攻で飛び立つ飛行兵が奏でたピアノであると聞いていた。以前から気になっていたので、近くに行った際に寄ってみた。それは駅前のひっそりした会館のロビーに置いてあった。説明によると、太平洋戦争の末期に、ピアノが置いてあった学校に突然2人の特攻隊員が現れ、最後の思い出にとベートーベンの「月光」を弾いたという。

九州は鹿屋、知覧だけでなく、多くの飛行場があった。その飛行兵はどこから飛び立ったのか、そしてその後どうなったのか知る由もない。映画にもなったというが、見たこともない。ただこうして場所柄、今もって当時の面影を残している。信州の別所に無言館があるが、そこに行った時と同じような気持ちになった。

その晩は、三瀬(みつせ)の鳥を味わった。焼き鳥、ささみ、どれをとっても新鮮で旨かった。そして地酒も最高だった。能古見、鍋島、万齢、東一、宮の松と、聴き慣れない銘柄だが、鳥との相性は抜群だ。ちょっとした処に旅情を感じたのだった。