Saturday 31 March 2018

カラスの巣造り

桜が満開、春爛漫である。公園の花々も咲き始め、寒かった冬の終わりを告げている。又何かが終わり、何かが始まる予感がする。

冬の間、暖を取りに住みついたネズミも去った。夜になるとコトコト走り回っていたが、いつの間にかその足音も聞こえなくなった。昨年は掛かったネズミ捕りだったが、今年は学習効果が効いたのか、収穫がないまま終わってしまった。

代わりに来たのはカラスである。毎年杉の木の上に巣を作りにやってくる。この時期は、洗濯物のハンガーや木の枝を忙しく集める。それが終わると卵を産む。区役所に聞くと、その時点で巣を取っても又産み付けるので、雛が孵ってから除去することにしている。卵だと警戒するカラスが、雛だと無防備になるのは不思議である。4月後半になると、区役所の人が来て、まだ赤い雛を袋に入れて持ち帰る。そっちの方が可哀想な気がするが、やはり気持ちの悪い鳥である。そんな春のルーチンがまた始まった。

Monday 26 March 2018

イエローストーンのYou!

そのグランドキャニオンから、イエローストーン国立公園に向かった。途中、ロッキー山脈の荒々しい自然は迫力があった。イエローストーン公園はルーズベルトロッジに泊り、定期的に湧き出る間欠泉や、マンモスホットスプリングを楽しんだ。

公園内は勿論ヒッチハイクである。ただそこには沢山の競合者がいた。当時はヒッピーと称するベトナム反戦の若者達だった。髪が長く汚い格好がトレードマークで、車線の道路沿いには、多くのヒッピーが親指を立てて車を待っていた。その競争率は大変なものだったが、ある時止まった車があった。「俺か?」と思って誰もが殺到した、その時だった。車の中から「You!!」と自身にご指名があったのである。早速車に乗り込むと、中年の男女の女性は日本人だった。それで納得したのであるが、その人はワシントンDCに住む教授夫妻だった。

奥さんは長崎の十六番館の末裔、ご主人はMITのマンデル教授であった。話をしていると、幸運なことに教授は自身の大学の客員教授だった事も幸いした。それからワシントンDCの御宅に数日お世話になり、我が子のように可愛がってもらった。彼方此方のパーティーにも連れて行って貰い、アメリカの文化を垣間見る機会も頂いた。その後教授が母校の教鞭を取りに来日した。その時山王ホテルで再開した時は、不思議な運命を感じだ。奥さんがどうして長崎を捨ててアメリカに渡ったのか?未だにそれは謎であるが、グラバー邸のエピソードと相まって、以来ずっと気になっているのである。

Sunday 25 March 2018

グランドキャニオンのロバ

そのヨセミテから、グランドキャニオンへ行った。グランドキャニオンでも野宿し、翌朝から下を流れるコロラド川まで下ることにした。天使の道と称する山道を30Kgのバックを背負って歩いた。夏だったので40℃近い照り返しの中、水が全くない砂漠を20Km近く歩くのはきつかった。夕方やっと谷底に着くと、誰しもそのままコロラド川に飛び込んで涼を取った。

湿度が低いので、水から上がると衣服は直ぐに乾いてきた。お腹も満たし、その日はその川辺で野宿することにした。周囲は同じようなハイカーで賑わっていた。そんな人達と雑談していると、大きな二人組のアメリカ人が、「夜は涼しいので明け方から登ろう!」と言い出した。どうやら私が懐中電灯を持っていることを知って、それを頼ってきたようだった。確かにあの暑さの中を登るのは大変だ、そう思って明け方の3時頃だった3人で出発した。ところが30kgの重さは予想以上で、一方大きなアメリカ人は水筒一つ、その差は歴然としていた。やがて陽が出て来ると、「ありがとう!」と言って置いて行かれてしまった。

それからは一人で歩いたが、途中まで登った頃だったか、遂に力尽きて歩けなくなってしまった。行き交う人に救助を求めると、暫くしてレンジャーがロバを連れて降りて来た。そしてそのロバに乗り何とか山頂に戻る事が出来た。その日は久々にホテルに泊まったが、鏡に映る自身の身体が、一日で骨と皮に変身したのには驚いた。完全な脱水状態だった。そんなグランドキャニオンだったが、もう一度歩いてみたくなった。

Saturday 24 March 2018

ヨセミテの流れ星

高野山に泊った時、夜ふと外に出てみた。鬱蒼と茂る木々の間から、冬の夜空に輝く星が見えて来た。中々都会ではお目に掛かれない光景に、暫し見入ってしまった。そう言えば、若い頃見たヨセミテの夜空は美しかったな!、忘れていた野宿を思い出した。

それは夏休みを使って2カ月、アメリカ全土をヒッチハイクした時だった。ロスアンジェルスからグレーハウンドバスに乗って、着いたのはヨセミテ国立公園だった。そこから公園のキャンプ場までは遠く、何人かのヒッピーとヒッチハイクで車を乗り継いだ。夕方になり、今日はこの辺で寝ようかと、2人組のヒッピーと川の畔で野宿することにした。持っていた缶詰を食べ、シェラフに潜り込んだ。驚いたことに、ヒッピー達は真っ裸になって川に飛び込み体を洗い出した。夏とは言え、夜になると凍り付く様な水である。そんな事を諸ともせずジャブジャブやっている、そのワイルドさに人種の違いを感じたりした。

気温がどんどん下がってきて、寝ようと思っても中々寒さで眠れない。川のザーザー流れる音だけが聞こえて来る。そんな時、目に入って来たのは満天の星空だった。眺めていると流星がいくつも横切っては消えていく!それは見た事もない光景であった。その流れ星を一つ二つと数えている内に微睡んできた。何故か、そんな昔の記憶が蘇ってきたのである。

Thursday 22 March 2018

高野山の宿坊

予てから一度は、と思っていた高野山の宿坊を体験してみた。深山霊国の聖地でどんな修行が待っているのだろう?極寒地の座禅、早朝の掃除、質素な食事・・・そう思って行くと、随分と現実は違っていた。

まず通された部屋はテレビ付きの温かな和室、日本庭園が目の前に広がっていた。4時から入浴、温泉ではないが綺麗な風呂である。居合わせた人と湯に浸かりながら、「これって随分イメージが違いますね!」と会話する。夕食は5時半から、食事は部屋に坊主が運んできた。勿論精進料理であるが、懐石風で酒も頼むと出て来た。庭園風景と相まって、優雅な気分になった。翌朝は6時から隣の本堂でお経を聞いた。こちらも椅子と暖房が用意され至り付くせりだ。最後は般若心経で締めるが、一緒に唱えている人が多いのにも驚いた。ともあれお寺というより日本旅館の感覚である。これでは俗世間を逃れて祀られた英霊も、段々居心地が悪くなっているのでは?と少し心配になった。

高野山は弘法大師こと空海が拓いた霊場である。だったらばと、今やっている映画「空海」も早速見に行った。空海が遣唐使として訪れた長安の都が、CGだが綺麗に紹介されていて面白かった。確かに楊貴妃と同じ時代の人だったのも発見だった。中国映画で原題は「悪魔の猫伝説(Legend of the Demon Cat)」だから、映画は日本風にアレンジしたのかも知れない。確かに主役は亡霊の猫で、空海は謎解き人の脇役だった。それにしても、帰国して高野山の地で修行した人のイメージとは程遠い。高野山といい、空海といい、どんどん今風になって行くから何が本当なのか分からなくなる。

Saturday 17 March 2018

紫電改に出会って

暫く前に友人のIさんが、「宇和島に紫電改があるよ!」と教えてくれた。戦時マニアを知ってか、そうは言っても随分と遠い処なので半分諦めていた。以来その事がずっと気になっていたので、今回松山に寄った際に思いきって足を延ばしてみた。

場所は松山から宇和島に向かって車で2時間、宇和島からは更に30㎞の愛南町であった。閉館ギリギリに入ると、確かにあの紫電改が置いてあった。聞くとたまたま海底調査をしていたダイバーが発見したという。引き揚げるとプロペラこそ着水時に曲がっていたが、ほぼ原形を留めていた。パイロットは誰だか分からないが、終戦末期に豊後水道上空で交戦をした後、戻って来た6機の内の1機だったという。被弾はないので燃料切れだったのか、機体は殆ど傷がなかった。館内では搭乗員服姿の人が立っていて、雰囲気を盛り上げていた。

紫電改は、子供の頃に読んだちばてつやのマンガ「紫電改のタカ」で知った。今読んでも良く出来た作品だったと思う。その後、映画「太平洋の翼」で取り上げられた。主人王は漫画と同じ滝一飛曹、松山に集結した343飛行隊の物語である。源田実を演じる三船敏郎や、滝演じる加山雄三など、役者が重鎮の作品だ。台湾の新高山があの「ニイタカヤマノボレ!」だったり、「散る桜、残る桜も散る桜」の件も、その映画から覚えた。やっと巡り会えた実物に浸り、その夜は愛南の銘酒「誠心」とかつおの刺身で、ひとり長年の想いに耽ったのであった。

Friday 16 March 2018

特殊潜航艇のお孫さん

その江田島には、ハワイ奇襲の時の特殊潜航艇が飾ってある。戦後、アメリカから返却されたものである。資料館には勿論その九軍神も祀られていたが、俗に言う捕虜第一号となった酒巻少尉の写真も並べてあった。係りの人によると、その酒巻さんのお孫さんが暫く前にやってきて、「(祖父は)日本が戦争に勝っていたら処刑されていました」と語ったという。酒巻さんは戦後、トヨタのブラジル社長として活躍された。詳し事は分からないが、お孫さんはブラジルから来た人だと言うから、氏は現地で結婚したのだろうか?時代を経てそんな話を聞ける平和を感じた。

実は酒巻さんを知ったのは、テキサス州を旅した時だった。それはミニッツ提督の故郷のフライデリックスブルグで、立派な太平洋戦争博物館が建っていた。座礁してオアフ島に打ち上げられた酒巻艇は、引き揚げられアメリカの各都市を巡回し、戦争国債のPRに駆り出された。その後永久の住処になったのが今の博物館だった。偶然その特殊潜航艇と対面した時は流石に驚いた。殆ど人も訪れることがないテキサスの田舎で、艇は久しぶりに訪れた日本人に向かって、「寂しい、国に帰りたい!」と訴えているようだった。

戦時中、特殊潜航艇は人間魚雷「回天」として進化していった。今回の旅では、徳山市から船で渡る大津島でその回天の訓練場を訪れた。今ではコンクリートの残骸と記念館だけが残るヒッソリとした場所だった。ただ艇を隠した立派な洞窟だけは、当時の面影を十分残していて怖かった。思えば、回天の発案者の仁科中尉の故郷である佐久市の貞祥寺や、靖国神社の遊就館など、あちこち彷徨ったものだ。赤提灯ではないが、黒光りする魚雷兵器は、その冷たい不気味さ故に、人を引き付ける何かがある。

Thursday 15 March 2018

江田島の海軍兵学校

周防大島に行く前に、江田島の海軍兵学校を訪れた。子供の頃に一度行った記憶がかすかに蘇ってきた。整然として校舎は相変わらず美しい。訪れる一般人が通る正門は、広大な敷地に比べると小さかった。それは、多くの関係者は海から来るからだと聞いて納得した。

改めて明治以降の富国強兵の原点を見た気がした。「強い国はまず人造りから」、そんな時代の雰囲気が伝わってくる。アメリカのウエストポイント、英国のダートマスと並ぶ世界三大海軍兵学校、改めて明治という時代は凄かった。係りの人によると、校舎の煉瓦は英国から運ばれてきたと言う。屋根の瓦は一枚20銭、当時の職工の月給が13銭だった頃だった。その姿は当時のままだ。本土空襲が始まる中、呉への爆撃は激しかったが、米軍は終戦後を考えて爆撃対象から外したという。その講堂には接収後に聖母マリアが置かれた教会に変身した。当時そこで各国から来賓を招いて卒業式が行われた。成績順で証書が渡され、1番から200番までの生徒が順次壇上に上がった。そう言えば、今でも官庁採用の「公務員試験XX番」は、この辺から来たのだろうか?

印象深かったのは、卒業生の遺品を預かった建物だった。東郷元帥の遺髪始め、横山大観やフジタの絵画も陳列されていた。何やら終戦時には4万点もの遺品があったが、米軍の接収を恐れた関係者が3万点を焼却、残る1万点を2つに分け寺に隠したという。その寺の名前を聞き逃してしまったが、当時の混乱が伝わってきた。

Tuesday 13 March 2018

陸奥の謎を追って

暫く前に吉村昭著「陸奥爆沈」を読んだ。1943年6月8日、戦艦陸奥は瀬戸内海で謎の爆沈を起こした。製造から時間は経っていたが、40センチ砲は戦局が急を遂げる中、大和に次ぐ規模だった。事故を巡って自然発火説、スパイ説など様々な調査が行われたが、結局捜査は謎に包まれたまま終わった。

そんな中、吉村氏は人為的な犯行説を取っていた。小説ではQ二等兵層と紹介されたいたが、盗みの嫌疑を掛けられた男が、証拠隠滅の為に弾薬庫に忍び込んで放火したという。当時も海中の船体から、同室に居た兵士の遺体を引き上げ調査した。その結果、Q二等兵層だけは見つからなかったというのが有力な証拠になった。氏の凄い処は、Q二等兵層が出た村まで訪ね、ひょっとしてその後も生き延びているのではないかと、男の足跡を追うのであった。

そんな人間臭い話に魅かれたのか、その陸奥記念館に遥々行ってみた。広島から車を走らせること2時間、周防大島に渡るとそこからまた30㎞、辺鄙な半島の先端だったが、流れ着いた遺品や、天皇を迎えた時の写真などが展示されていた。聞くと、そこは陸奥が沈んだ地点に近いと言う。その日はまた来た道を引き返したが、翌日今度は柳井港から松山の三津港まで行くフェリーに乗った。右手に昨日走った海添いの道が見え、左側に陸奥が出港前に停泊した柱島が見えてきた。Q二等兵層の動機と重ね合わせ、当時の様子が身近に迫って来たのであった。

Tuesday 6 March 2018

聖火リレーの発祥

平昌の冬季オリンピックでは、北朝鮮の政治利用が話題になった。選手の競技より、美女軍団の応援が多く報じられた。オリンピックが終わると南北会談が始まり、膠着していた半島に、少し変化の兆した出ていたのは事実である。

そんな中、とある本を読んでいたら聖火リレーの発祥の話が出ていた。それは1936年のベルリンオリンピックから始まったという。考案したのはヒットラーであった。ギリシャで灯した聖火は、バルカン半島を北上し、ハンガリー、オーストリアを通りベルリンに渡った。しかし、そのルートは第二次大戦が始まると、今度はドイツ軍が南下するルートとなったという。正にオリンピックに託けて侵略計画を練った訳であった。常に領土拡張を考えている人ならやり兼ねないと、変に納得した。

今回の北の応援団の中には、軍の関係者も多かったはずだ。後で考えると、戦略上の下見だったりしなければいいが・・・。

Saturday 3 March 2018

シューマンの身投げ

久々にル・ポアン誌の「今日は何の日(c'est arrive ‘aujourd'hui)」を読むと、1854年の2月27日は、作曲家のシューマンがライン川に飛び込んだ日だったという。精神の異常を苦に身投げしたようだが、幸い近くにいた人に助けられ一命と取り留めた。

最近、評論家の西部邁さんがやはり多摩川で同じような事故があっただけに、何故か目に留まった。シューマンは(一説には梅毒と言われているが)、長らく原因不明の病に侵されていた。彼に寄り添ったのは妻クララだった。その献身的な姿に心を魅かれたのは僚友ブラームスであった。余談だが、彼が一生独身だったのも、そのクララへの想いがあった話は有名である。そして、その西部さんも体の病を苦にしていたと新聞に出ていた。特に西部さんは論客だったので、影響された人も多かった。テレビで自民党の高村さんなども、「言論は無意味だ」を意味不明に呟いていたのが印象的だった。

太宰治やレ・ミゼラブルのジャベール警部もいた。場所はパリのセーヌ川、ただこちらは健康問題ではなく、信念が慈悲に負けてしまった。映画「素晴らしき哉、人生(原題:It`s A Wonderful Life)」では、主人公が橋から飛び込もうとすると天使が救ってくれる。天使は彼に、「貴方がこの世にいたからこそ、他の人達の人生も素晴らしいものになっていた」事を諭す。それを知った主人公は、生きる喜びに気が付つくのであった。ただこんなケースは稀だけど・・・。