Monday 31 December 2018

ルノーのツィンゴ

2018年が暮れようとしている。獄中のゴーンさんが寒いと、モーフを要求しているらしい。刑務所は暖房が無いから、さぞかし辛いだろう。先日、吉村昭著「破獄」を読んだだけに、獄中の様子が伝わってくる。大変なのは看守も同じだ。昔は脱獄に備えて外套を着なかったので、夜は堪えるらしい。小説はそんな看守のスキを狙って脱走を繰り返した脱獄犯の物語だったが、言葉の通じないゴーンさんはどうしているのだろうか?以前、日産とルノーの車に乗っていた事もあり、気になっている。

日産の車はJフェリーだった。スポーツタイプの3000CCだった。中古車の店頭に並んでいて一目惚れしてしまった。ただ燃費は悪いし、サイドの視角に問題があったので、3年程して犬を飼う時に手放した。一方のルノーは、90年代に発売されたツィンゴである。小型車だが高速道路で時速150kmを出しても安定した走りだった。フランスの車は意外と馬力があったし、何より駐車がスムーズだった。しかしこの20年位はトヨタに乗っている。故障はしないし、走りが安定しているから、最後はトヨタかなと思っている。

そんな日仏の3社連合は、これからどうなるのだろう?背後にはフランスの国家戦略やアメリカも絡むから複雑だ。来年はいよいよ中間選挙にも勝ったトランプ大統領が本格稼働する。アメリカファーストと反グローバルリズムの動きが加速するだろうから、経済では取り分け多国籍企業が標的になるかも知れない。フラット化した世界から、民族に資本が回帰する流れが本当に生まれるのだろうか?ルノーとの提携も、今から思えば日産独自で再建した方が良かったと思えるから猶更だ。来年に何が起きるのか、楽しみだ。

Saturday 29 December 2018

ベンチャー投資と復古史観

暫く前に、官民ファンド「産業革新投資機構(JIC)」の経営人9名が辞職する事件があった。新聞によると、報酬と孫ファンドの開示性が問題だったという。「孫会社の投資まで一件一件報告の義務があるなんて、とてもやって行けない!」、それが実務者の率直な気持ちだろうか。国は税金を使う以上、「東京駅で100人に聞いたら・・・」と、この時ばかりは庶民感覚を優先するから中々噛み合わない。そもそも、ベンチャーに国がファンドを作って投資をする事自体がどうなのだろう?そんなお金があれば、税金を安くして企業に投資出来る環境を作ればいいじゃない!議論にもなってくる。「いや、それが上手くいかないから国が音頭を取るんだ!」、きっと今回もその繰り返しなのだろう。

そもそも、ベンチャー100社に投資しても成功するのは1~2社、殆どが数年以内に撤退するのが世の常である。ベンチャーには技術があるかも知れないが、事業化するにはそれだけでは駄目だ。まして上場となると、経理や営業のプロが要る。収入が無い中で、その人達を食い止めるおカネが掛かる。ファンドなら回収まで短いから猶更だ。そんなネガティブな事を思っていたら、今日の読売新聞に中国のベンチャーファンドは5兆円、アメリカは3兆円もあると報じていた。日本はたったの2000億円弱、これには流石驚いた。だったら頑張らなくちゃ!と少し反省している。

でも、日本では何故ベンチャーが育たないのだろう?ある人が面白い事を言っていたのを思い出した。それは思想の違いで、西洋人は進歩史観で、日本人は復古史観という。確かに西洋人は昔から大西洋を渡って新大陸を発見するように、未知のものにチャレンジする国民性だ。日本人なら島から出るのを嫌う。ノコギリでも西洋は押すがこちらは引くタイプだ。それはキリスト教と儒教の違いかも知れない。日本人はリスクを取る事が苦手だが、一度出来た製品を高度化する能力は高い。苦手な分野は避けて得意の分野で勝負する、ベンチャーもそんな棲み分けが出来ないものだろうか?

Monday 24 December 2018

天皇と忠恕

昨日は平成最後の天皇誕生日だった。皇居には多くの参拝があり、テレビは色々な特集を組んでいた。見ていて、改めて一国民として時代の節目を感じた。中でも陛下が、「昭和が戦争の時代だったのに比べ、平成は戦争が無かった」と語っていたのは、戦争を知らない者には意外な印象だったり、「象徴としての旅の終わり」の件は、ご立派な人徳、人間性が伝わってきた。陛下で良かった、そんな気持ちになった。

そして、陛下の教育と結婚に深く携わった小泉信三博士の話も感慨深かった。改めて博士の存在無くしてその後の陛下もなかった、と思った。国民に寄り添う象徴天皇とは何か、博士はその心構えを「忠恕」という言葉で伝えたという。初めて聞く単語だったが、中々いい言葉だ。昔の人は語彙が豊かだった。また皇太子時代の教育に、博士は福沢諭吉の「帝室論」を使ったというエピソードも紹介していた。早速、本棚から埃を被った福沢諭吉全集を取り出し読んでみた。それは30頁程の短い本で、旧漢字で読み辛く、正直良く分からなかった。ただ「皇室は中立を保つ事が大切」みたいなニュアンスは伝わってきた。それを知っていたかどうか分からないが、先の昭和天皇が、「戦争の反省として皇室が政治関与し過ぎた」と語っていたのと重なった。

博士はまた、陛下のご結婚でも尽力され、女子大から新聞社まで精力的に動かれたようだ。そのエネルギー源は何だったのか?ご子息を戦争で亡くされた事と関係している気がした。著書「海軍主計大尉小泉信吉」は凄い本で、凡人の愛情で到底書ける代物ではない。塾長として送り出した学徒も多く戦死し、我が子も失い、それでも気丈に戦後を生き、残る時間を国体に捧げられた。その陛下も退位する。ひとつの時代の終わりを感じ得ない。

Sunday 23 December 2018

ウエルベックの服従

黄色いベスト(Gilets jaunes)で盛り上がるフランス、マクロン大統領はどうなるのだろう?思い返せば就任直後、戦没式に参加した少年から「マニュ」と呼ばれた事があった。親しみを込めたつもりが、彼は「こういう場所では大統領と呼びなさい」と少年に諭した。当時は微笑ましい光景だったが、今から思うと人心が離散する人柄だったのかも知れない、そんな気がして来た。

そんな現代のフランス社会を抉る小説、ミシェル・ウエルベック著「服従(原題:Soumission)」を薦められて読んでみた。ソルボンヌ大学の教授の日常を通し、イスラム化するフランス社会を深堀した本だった。所々昔の全共闘みたいに、何を言っているのか分からない部分も多かったが、自身の私生活も織り混ぜた自然な流れが快かった。タイトルの服従は、「O嬢の物語」から来ている。どこまで真面目でふざけているのか分からな処だが、佐藤優氏が絶賛しているのは、随所に出て来るフランス式ラムールと、それに相反するイスラムのコントラストが楽しいかったのに違いない、そんな事を確信した。それにしても近い将来、国民戦線と並んでフランスイスラム党が第一党になる、と言うから大変な事だ。

本の中には、教授が訪れる懐かしい場所が沢山出て来た。その一つがペリゴール地方のロカマドール(Rocamadour)、直角に聳え立つ岩山に教会が建つ、ミシュラン3つ星のスポットである。それからポアティエ(Poitiers)も、スペイン、サンチャゴへの巡礼地として紹介されている。あれ?巡礼の出発点はベズレー(Vézelay)じゃなかったの?そう思って調べてみると、巡礼のルートはいくつかある事が分かった。ともあれフランス人は外来文化に寛容で、上手く取り入れながら生きて行く国民性がある。どんな形でイスラムを内製化するのか、そんな事を考える切っ掛けになった。

Tuesday 18 December 2018

COP24のカトヴィッツ

先日、気候変動枠組み条約の会議、COP24が閉幕した。パリ協定の実行ルールが決まったという。これから2020年から始まる削減策の具体化を詰めるらしい。ただ長年この議論を見ているとつくづく空しくなる時がある。確かにパリ協定は素晴らしい合意だったが、だったらあの京都議定書は何だったのか?世代が代わる毎に、温暖化という仮想の敵に向かって議論を、それもゼロから繰り返している。それを支えるのが、世に云う温暖化マフィアである。各国の政府、研究機関、NGOなどに所属し、温暖化で飯を食っている人達の事である。COPは永遠に続くエンドレスの会合で、かつ毎年政府予算も付くから、ひょっとして会議は彼らの生活の為にあるの?そんな事が頭を過る。学歴が高く英語が流暢なのが条件だから、余人をもって代え難いから猶更だ。

そんな今回のCOPだったが、催されたのはポーランドのカトヴィッツ(Katovice)という町だった。それってどこだろう?この夏にポーランドを旅しただけに気になったので調べてみた。するとポーランド第二の都市クラコフ(Krakow)の近くだった。クラコフは以前の首都で、京都みたいな歴史を感じさせる町である。昔はユダヤ人が多く、その関係で近くにアウシュビッツ収容所が建てられたり、あのシンドラーの工場もある。今から30年程前にクラコフのホテルに泊まった時、部屋に置いてあった香水をリキュールと間違えて飲んだ事があった。強烈な刺激に死ぬかと思ったが、その体験が記憶を強固にしている。

南に下ればスロバキアの山岳地帯、更に行けばハンガリー、西に行けばチェコの世界遺産の古都オロモウツ(Olomouc)に出る。派手さは無いが、中欧らしい地味な地域である。

Sunday 16 December 2018

ホテルムーリスの物語

そのリッツホテルから歩いて5分程の処に、やはり5つ星のホテル・ムーリス(最近はLe Meurice)がある。リボリ通りに面し、道路を挟んでルーブル美術館やチュエルリー公園がある観光の中心地である。そのムーリスには、戦時中ドイツの司令部が置かれていた。映画「パリは燃えているか?」に出て来るが、司令官のコルティッツ(Dietrich von Choltitz)が最後に降伏して終わる場所でもある。随分前になるが、その記念すべきロビーで、解放日の8月25日にお茶を飲んだ事があった。まるで歴史に立ち合ったようで、痛く感動した記憶がある。

暫く前に上映された「パリよ、永遠に(原題:Diplomatie)」も、そのコルティッツと、説得に当たったスウェーデン領事との駆け引きを題材にした映画だった。先の「パリは燃えているか?」の領事役のオーソン・ウェルズに比べ、今回の方がより外交官らしかった。面白かったのは、ホテルに隠された抜け道があり、領事はそこから侵入する。元はナポレオン三世が愛人との密会で使ったもので、中々歴史を感じさせる仕掛けだった。その秘密を担保に説得に成功し、パリは破壊を免れた。

戦争で町が全壊した都市は多い。東京もそうだが、ワルシャワ、ベルリン、ドレスデンなど、今では一部が再生されているものの、昔を取り戻すにはやはり限界がある。その点、パリは全て本物が残る数少ない都市である。改めてコルティッツで良かった!そんな気持ちになる一作だった。

Saturday 15 December 2018

ホテルリッツの物語

パリの最高級ホテル、リッツ(Ritz)の宿泊者を綴ったティラー・マッツェオ著「歴史の証人ホテル・リッツ(原題:The Hotel on Place Vendôme)」は、とても興味深い本だった。今だったら、一泊最低10万円はするだろうか?、そんな処に自宅代わりに滞在した人達の実話である。登場人物はサルトル、ボーヴォワール、コクトー、ゲーリング、シャネル、ウィンザー公、ドゴール、デートリッヒ、バーグマン等々、キラ星のような人々で、その素顔に触れられる処がいい。

リッツと言えば、何と言ってもヘミングウェーである。彼の名前は今でもバーの名前にもなっているが、第二次大戦でノルマンジーに上陸して以来、アメリカ人としてパリ一番乗りを目指した。そこまでは知っていたが、その到達の経路が詳しく書かれていた。まだドイツの守備隊と銃撃戦が行われていた最中、チュエルリー公園側を避けて、比較的静かなオペラ座側から入ったようだ。ただ、3番目の奥さんと4番目の奥さんになる女性がホテルで交錯したり、それに長期に滞在していたM・デートリッヒの情が絡む辺りは、ちょっと分からない世界だった。

その他、「王冠を賭けた恋」として有名なウィンザー公と結婚したシンプソン夫人が、滞在中に浮気をする話も初耳だった。一時は英国への帰国話もあった公爵だが、それが切っ掛けでパリ郊外で生涯を閉じたようだ。また戦時中ホテルが存続出来たのは、経営がスイス人だった事、ココ・シャネルの愛人はドイツ人だったので、彼女にスパイ嫌疑が掛かったこと、ドイツの原子爆弾の技術者を拘束するアルソス作戦の舞台になった事など、良く調べていた。今と違ってホテルの数も限られていた時代だったから、世のVIPがパリに来ると決まってリッツに泊まったからこそ生まれた逸話だった。読んでいて、例えば帝国ホテルに泊まったVIPを綴ると面白い本が書ける、なんて思った。

Friday 14 December 2018

ストライブの傾き

もう亡くなってしまったが、昔近所にKさんという御老人がいた。いつも身なりに気を配り、外出する時はジャケットにポケットチーフを飾っていた。そんなお洒落のせいだろうか、80歳を過ぎても背筋は真っすぐ伸びて歩き方も颯爽としていた。誰かが「若さを保つには服装に気を付ける事だ!」と言っていたが、確かに他人の視線を意識すると、芸能人ではないが効果があるようだ。Kさんもきっとそれを知って実践していたのだろう。

そんな事を思い出す切っ掛けになったのは、安積陽子著「NYとワシントンのアメリカ人がクスリと笑う日本人の洋服と仕草」という長いタイトルの新書だった。中々面白い本で、TPOに合ったドレスコードの定石を語っていた。例えば安倍首相のローファー靴やオバマ大統領の白い蝶ネクタイ、大臣認証式での石原伸晃氏の腕時計、河野大臣のベスト、防衛大臣だった稲田朋美さんや片山さつき氏の少女趣味の服など、確かに言われてみれば変だった。特に極めつけは鳩山由紀夫氏、首相としてチンドン屋みたいな恰好で世界に出て行った時は恥ずかしかった記憶がある。逆に小泉進次郎さんや麻生副総理、小池知事はセンスがいいらしい。

意外と知らなかった事も多かった。例えばストライブのネクタイに右肩上がりと右肩下がりがあったことだ。正式な方はパワー・上昇・明るさを象徴する右肩上がりで、公式の場所では常識になっているらしい。今まで右肩下がりブルックス・ブラザーズのタイを勲章のように愛用していたので、少しショックだった。因みに公式の場では無地が基本で、ストライブはカジュアルの部類になるという。ともあれ放っておけば無頓着になる身だしなみだ。馬子にも衣装、ユニクロで買った服でも気分は変る位だから、自身を見直すいい切っ掛けになった。


Thursday 13 December 2018

イギリスの検問所

イギリスのEU離脱(Brexit)が混迷している。2年前の国民投票の結果を受け準備したが、いざ現実となると不安になるのは良く分かる気がする。ただイギリスは大陸でないから、プラスマイナスはプラス、さっさと出て行った方がいいと思う。

そもそもイギリスは、昔から大陸と一線を画してきた歴史がある。EUの前身のEECに加盟した時も、EECが発足してから15年後だったし、統一通貨ユーロにも入らなかった。EUの基本は互助会だから制約や負担が多い。中欧やバルカンを旅すると立派な高速道路が目に付く。きっとEUのお金で作ったものだろうが、負担はイギリスなどの先進国が多い。それから移民の受け入れである。昔からEUに入った人は、ドイツかイギリスに向かうのが定石だった。給料は高いし、社会インフラ、特にイギリスは英語が母国語なのが外人にとって暮らし易かった。その結果、今やロンドンの地下鉄に乗れば、白人より中近東、アジア、アフリカ人の方が圧倒的に多いのに驚く。特に彼らは2世3世だから、移民ではなく列記とした英国人である。BBCキャスターの多様な人種に象徴されているように、嘗ての大英帝国の縮図が今や現実になっている。しかしこのまま放置すればアラブになってしまう!、そんな危惧は誰でも感じている。

ただ離脱すれば不安も多い。その一つが、アイルランドとの国境線である。違法な物流とヒトの出入りを監視する検問所の設置だが、IRAとの紛争の歴史があっただけに、さぞ大変だと想像する。数年前にアイルランドを旅した時、首都のベルファーストから車で30分ほど行ったバンガー(Bangor)という港町に泊まった事があった。週末だった事もあり、市内では昼からパレードがあった。それは村ごとの行進だったが、老若男女がまるで組織化された民兵のようで、部隊を誇示する真剣さが伝わって来た。検問所が出来ると対立も顕著になる。また紛争が始まるかも知れない?そんな事が頭を過る。

Wednesday 12 December 2018

築地のすし大

久々に築地に行った。豊洲に移転してから2カ月、さぞかし閑散としているのかと思ったが、結構賑わっていた。相変わらず外人も多く、余韻を楽しんでいるようだった。折角なので寿司でも食べて帰ろうか?そう思っていると、開店前の店に行列が目に入った。ひょっとして有名な店かと列に加わり、11時の開店を待って暖簾を潜った。

それは「築地すし大」という寿司屋で、10人ちょっと座れるカウンターがある小さな店だった。ビールで喉を潤し、お任せを頼むと板前の手際いい握りが出て来た。七尾の鰆、長崎の赤貝、北方地島の鯖、淡路の鯵、銚子の金目鯛、岩手は普代のイクラ、苫小牧の北寄貝、塩釜のアナゴ・・・、都度板前が産地を冠してくれるので、まるでグルメ旅をしているような気分になってきた。普段は鬱陶しいうんちくが、この時はとても快い。酒は菊正宗の熱燗でこれまた旨い。ただ周囲を見ていると、昼のせいかあまり酒を飲む人はいない。小一時間で切り上げた。
 
そこには歴史を感じる木造家屋、使い古されたカウンター、そして何よりそこで生まれ育った職人達が残っていた。そんなインフラがある限り、築地はまだまだ健在だ、そんな事を実感した一日だった。

Thursday 6 December 2018

Bohemian Rhapsody

「ママ、人を殺してしまったよ!撃ってしまった、人生が始まったばかりなのに・・・」、そんなショッキングなセリフで始まる歌、ボヘミアン・ラプソディー(Bohemian Rhapsody)をテーマにしたクイーン(Queen)の映画を観た。門外漢だったので今まで知らなかったが、中々聞いてみるといい曲だし、フレディー・マーキュリー(Freddie Mercury)の人生も興味深かった。

フレディーはホモだったことは知っていた。正確にはバイセクシュアルだったようだが、何か気持ち悪くて、今まで聞く気はしなかった。しかし、生れは堅実なインド人の家庭だった。調べてみると、Parsiというペルシャ系インド人だったようだ。映画では子供頃にパキスタン人のパキ(Paki)と呼ばれていたので、ひょっとして今のパキスタンなのかも知れない。生れ育ったのはアフリカのタンザニアだったから、物心付くまでの環境はとても想像し難い。その彼が音楽を始めのがロンドンだったが、歌に自身のルーツを持ち出す事はなかったようだ。確かに歌のタイトルのボヘミアンも今のチェコである。タンザニアラプソディーでは、人の心は打たないからだろうか?将又自身の過去と決別したからだろうか?その辺は分からないが、彼の曲が死んでからヒットしているのと何か関係がありそうだ。

映画の後半で、分かれた妻が彼のコンサートに来るシーンがある。一緒に連れ添ったのは新しいパートナーで、その時には妊娠していた。その彼女に向かって彼は祝福する。彼の横にはホモのパートナーがいて、4人が肩を並べていた。その光景はちょっと理解し難かったが、芸術家ならではの関係だろうか?45歳の若さでエイズで死亡、ゾロアスター教の教義で火葬に伏したという。

Sunday 2 December 2018

ロシアのスパイ

連日、トランプ氏のロシア疑惑のニュースが流れている。ロシアが選挙に介入したとかしないとか、部外者にはさっぱり分からない世界である。ただ因果関係だけから推測すると、ちょっと疑わしい!という気になってくる。森友加計(モリカケ)の時もそうだったが、妄想がいつも間にか確信に変わっていくからだ。だから気を付けねば、そんな思いで見ている。

そんな東西の情報戦だが、いつも出て来るのはロシアのスパイである。映画「007のロシアより愛をこめて」のように、昔の悪役は決まってソ連である。最近でも、英国で神経剤を使って二重スパイを暗殺した事件があったし、古くは日本にもゾルゲという人がもいた。そう言えば、数年前にベストセラーになった小説「ミレニアム」も、スウェーデンに送り込まれたソ連スパイの物語であった。ヒロインのリベットは、そのスパイの娘だったので、裏組織から不当な監禁を受けた。彼女はその復讐に燃えて立ち向かうのだが、それにしても「ドラゴンタツゥーの女」に代表される凄い小説だった。

随分前だが、大阪城の天守閣に登った時、金髪の美女に出会った事がある。遠くから見られている視線を感じた事もあり、距離が狭まったので「どこから来たの?」と聞いたのは自然の流れだった。すると「ロシア」と流暢な日本語が帰ってきた。写真スポットに差し掛り、「すみませんが写真を取って貰えますか?」と頼むと、何を勘違いしたのか、「ええ、いいですよ!」とポーズを決めて来た。それは風に金髪を靡かせる美しい光景だった。「いやそうじゃなくて・・・」と事情を説明すると、笑顔で写真を取り消えてしまった。後から考えて、もう少し話を続けた方が良かったかな?とも思ったが、一方であれはロシアのハニートラップだったのか?と頭を過った。冒険小説を読み過ぎると、いつの間にかドラマの主人公になってしまうから怖い。

Friday 30 November 2018

UNESCO世界遺産

秋田の”なまはげ”が、UNESCOの世界遺産に登録された。3年前に、秋田の大学に勤める友人を訪ねて冬の秋田を訪れ、彼と一緒に男鹿半島のなまはげ柴灯祭りを見た事を思い出した。市内から車で1時間弱、氷点下の中、会場の神社に着くと、沢山の観光客が集まっていた。驚くことに、その多くはオーストラリアなどから来た外国人であった。寒い中、はるばるこんな処まで来る気が知れなかったが、こうして正式に世界遺産になると、更に観光客が増えるのだろう。

ただ、世界遺産で観光客を呼び込もうと考えるのは、日本の特色かも知れない。それは海外で箔を付けて凱旋すると名を上げる島国の宿命なのか、将又UNESCOの拠出金NO1の見返りなのか?そう言えば、高尾山もミシュランの3つ星スポットになったのを切っ掛けに登山者が急増したり、江戸時代の浮世絵も、それまでは包装紙だったのが、外国人が持ち帰ってから価値が認識された。日本人は、いつも外から教えられて初めて自身を知る稀有な民族だ。

一方、ヨーロッパの世界遺産はひっそりしているイメージがある。今年、スロバキアの山越えをしていると、名も無い村でUNESCO World Heritageの看板が目に入った。折角なので寄ってみると、それは16世紀の木造教会だった。辺りには誰もいないし、「これが世界遺産!?」と疑った。ガランとした教会を出ようとすると、どこから出て来たのだろうか、突然女性の係り員に呼び止められ1ユーロを取られた。マルタ島の地下憤墓もそうだった。入り口の小さなプレートに、申し訳なさそうにUNESCO World Heritageと書かれていて初めて気が付いた。だったら入ってみようかと、小さな穴を潜ると、洞窟をくり抜いた祭壇があった。紀元前2500年と聞いて、そのさり気なさにビックリした記憶がある。

Thursday 29 November 2018

本棚を見ると

旧知のMさんから、「新聞に推薦図書を載せたので見て!」と連絡があった。Mさんは世界を飛び回った商社マンだけあって、昔から目の付け所がいい。今回も地政学やイスラムから見た世界の本を紹介していたが、相変わらずセンスで、いつも裏切られる事はない。早速アマゾンで取り寄せる事にした。

若い頃だったが、柳田邦男の「マリコ」や、広瀬隆の「赤い盾」が面白いよ!、と教えてくれたのもMさんだった。「マリコ」はアメリカ人女性と結婚した日本の外交官の話である。2人の間に出来た娘マリコは、戦後も日米の懸け橋として活躍した女性であるが、彼女の複眼を通して描かれた世界はとても新鮮だった。「赤い盾」はロスチャイルドの人脈を綴った名著であり、こちらは著者の語学力に痛く感銘した記憶がある。

読書好きのFさんも、「何か最近面白い本ないですか?」と聞くと、必ずいい本を教えてくれる。暫く前だったか、ジョン・トーランドの歴史シリーズがいいというので読んでみると、確かに嵌ってしまった。本を読んでいる人は話題も豊かだし、進化しているから会っていて楽しい。本棚を見るとその人の人柄が分かるというが、確かに幹のように身体の一部になっていく。特に晩年になると、その違いが顕著になる気がする。

Wednesday 28 November 2018

秋の山小屋生活

この秋は、長野の山小屋で過ごしている。朝起きると暖炉に薪を込め、火が温まるのを待ってコーヒーを入れる。水が美味しいから味が違う。朝の日課は犬の散歩である。今年は暖冬というが、やはり山の朝は寒い。ダウンに身を包み眠い目を擦るが、新鮮な空気を吸うと生き返ってくる。朝靄に掛かる日光が眩しい。

天気がいいと、午前中はテニスに行く。東京から移住した人や地元の有志が週4日集まっている。気楽な仲間達で、時間になるとウォーミングアップから、暫くするとダブルスのゲームを始める。2時間休みなしに動き回ると、流石運動した気分になる。愛犬はコートの横で見ている。最初は吠えたが、行き交う人が頭を撫でてくれるので、最近では待つ事にも慣れて来た。テニス仲間は、皆やはり寒い自然の中で暮らしている。こうして人と顔を合わせる事が唯一の温もりなのか、挨拶を交わす笑顔がとてもいい。自然は人を優しくしてくれる。


テニスの後は近くの温泉に行く。無名の鉱泉も多く、そこで一日中過ごすお年寄りに会う。静かな湯に浸かると、適度な疲労感で何とも言えない充実感に変る。すっきりしたところで、昼飯は蕎麦である。新そばのこの季節、きりっと冷たい水で切った蕎麦は格別だ。腹ごなしの後は、冬支度が始まる。暖炉に込める薪の準備は結構大変である。近くの木材置き場に木材を貰いに行ったり、仕込んだ薪を割る。数年乾かしてから斧を入れるが、真っ直ぐ育った木は数回振り下しただけで割れる。しかし曲がった木は中々やっかいだ。それは人間と同じだ!なんて思いながら切っている。1時間ほどの作業が終わる事には汗でビッショリになる。

苦労して仕込んだ薪も、一晩であっという間に燃えてしまう。夜は家の中でも息が白くなる程寒い。石油ストーブもあるが、なるべく使わないようにしている。そのメラメラと燃える火を見ながら飲む酒は旨い。つい時間が経つのも忘れてしまう。時折、外で動物が足音が聞こえる。サル、イノシシ、鹿、犬が敏感に反応する。

Saturday 24 November 2018

水の一滴血の一滴

暫く前に、周防大橋に外国船が衝突した。その事故で水道管が破損し、周防大島の9000世帯が断水状態になった。未だに復旧していないと聞くので、さぞかし生活は大変だと想像する。この春、陸奥記念館を訪れた縁で、気になっている。

記念館は島の東の先端にあった。橋を渡り車で1時間は掛かっただろうか?結構大きな島であった。吉村昭著「陸奥爆沈」を読んだ直後だったので、船が沈んだ柱島近辺の海を見ながら、犯人と思われる男の半生を思い浮かべた。翌日、今度はフェリーで四国に渡った。船が昨日渡った周防大橋を抜け、その記念館辺りに差し掛かると、航路は急に狭くなった。どうやらこの辺は漁場らしく、平日だというのに多くの釣り船が集まっていて、フェリーの警笛で左右に散った。

そう言えば、あのシンガポールも水はジョホールバルを通ってマレーシアから輸入している。昔は「水の一滴、血の一滴」と言って確保が難しかったが、最近はあまり聞かない。下水を上手く再利用しているようだ。兎も角、水は命に繋がるから大変だ。

Friday 23 November 2018

The Greatest Showman

ゴルフの帰り道、ラジオを付けると、紺野美沙子の「音楽遊覧飛行」が聴こえて来た。若い頃、彼女のファンだったので懐かしかった。その日は、オーストラリア人をゲストに迎え、ミュージカルを語っていた。中々間合いが良く快かった。最後に、ゲストの依頼で、アメリカの興行師PT.Barnamの生涯を描いたThe Greatest Showmanの曲を掛けた。初めて聞く歌だったがいい曲であった。その日の夜、偶然テレビでそのミュージカルを放送していた。確かにゲストの推薦するだけあって素晴らしい作品だった。

物語は、見世物小屋で身を立てた男の話であった。ゼロからスタートし、意外な余興で成功するサクセスストーリーである。見ていて、子供の頃に通った縁日にも同じような出し物があった事を思い出した。それは、生きた鶏を食べる小人の女の小屋であった。怖くて実際は入らなかったが、当時はどこも片輪を見世物にしていた。

ただ日本ならそれで終わる処、アメリカが凄いのは、その不遇の人に血を通わせ、逆境から立ち上がるストーリーに仕立てる。エレファントマンもそうだし、オペラ座の怪人、ミスサイゴン、レミゼラブルなど、思えばミュージカルの形ってどれも似ている!見ている人は、どこかで自分と重ねて感動する。生きる力を感じるのだろう。

Wednesday 21 November 2018

女性に財布を渡すと

ゴーン氏は、会社の金を私的流用したと報じられている。永年トップの座に君臨すると、公費払いが当たり前になったのだろうか?自身の結婚式や休暇の宿泊代も会社が肩代わりしたのだろうか?暫くはこのニュースから目が離せない。

たまたま読んでいたジェフリー・アーチャーの短編集にも同じような話があった。タイトルは「Senior Vice President(上級役員)」というカナダの銀行員の物語である。彼の仕事は顧客の資金管理だった。ある時、その顧客の一人を訪ねると、既に死亡した事が分かった。それは大金持ちで、知っていたのは顧客の執事だけである。定年を間近に控えた彼は、その金を海外に送金し、顧客に成りすまして横領しようとした。計画は上手く運んだが、最後で事件が発覚してしまった。その時はどうしてばれたのか、彼には分からなかった。しかし良く考え見ると、取り込んだ執事を、いつの間にか自身の執事として扱うようになり、小切手のサインまでさせていた事に気が付いた・・・というオチである。

そう言えば、付き合っている女性に財布を渡すと、殆どの女性が暫くすると自分のカネと勘違いする、そんな実験をした人がいた。その人が云うには、最初女性は遠慮がちに払う度に聞いて来るが、暫くすると自分のカネだという意識に変るという。お金に纏わる錯覚は、偉い人も女性も同じである。そして、一度始めたら逆戻り出来ない何かがある。

Tuesday 20 November 2018

ゴーン会長の逮捕

昨夜のカルロス・ゴーン会長逮捕のニュースには驚いた。日産を立て直した貢献者だったので、正直ショックだった。

内部通報で発覚したようだが、それにしても差額はどう処理されていたのだろう?昔から足が付かないように、危ないお金は現金で授受する習わしがある。しかし今回のように年間数億円にもなると、そうも行かない。セレブだから、世界に口座があるのは当然だが、問題は日産からどうやって払っていたかである。使途不明金があれば、会計士が気が付かなかったのだろうか?会社ぐるみで架空取引をねつ造したのだろうか?その手口が気になる。日産の発表を見ていると、随分前から今回の準備した様子が伺えた。普通は事件の関連者から捕まえるが、検察も一気に本丸に迫った背景は何だったのか?、謎は多い。

日産のCMに矢沢永吉の”やっちゃえ NISSAN”がある。正にやってしまった事件だった。

Sunday 18 November 2018

銀座のクラブ

ハズキルーペのテレビCMが、日に何度も出て来る。たかが1万円程度の拡大鏡なのに、よくもそんなおカネがあるなあ?って思いで見ている。最近では武井咲が扮するクラブママと、小泉孝太郎と館ひろしのお客に変った。相変わらず軽いお色気がCMを盛り上げているが、久々に見る銀座のクラブに、つい昔を思い出してしまった。

バブル時代だったか、ハシゴの終着はクラブだった。綺麗な服を着た女性に囲まれ、ママさんから「お久しぶりね!」と言われると、自分の家に帰って来たような錯覚になった。見た事も無い高級チョコを食べながら、美女と飲むオンザロックの味はまた格別だ。帰りは勿論タクシー、暫くして請求書が会社に送られてくる。思えば変は仕組みだったが、高い料金も含め、当時は当たり前のように受け止めた。

そんな銀座のクラブだが、思い出すのは赤坂の蕎麦や「砂場」である。今ではもうないかも知れないが、風情のある店だった。夕方になると、出勤前のママを連れた初老の紳士の姿が目立った。ママさんは和服を、客はきちんと背広でお洒落し、まるで泉鏡花の小説に出て来るような趣があった。多分それから店に寄って早い時間に切り上げるのだろう。自分も歳をとったらそんな贅沢を味わいたい!当時はそう思ったが、今となっては夢の夢だ。クラブに行きたしカネは無し、ただ行けば背筋も伸びる気もするから、諦めるのはまだ早いけど・・・。

Saturday 17 November 2018

GODIVAの身売り

最近、ゴディバ(GODIVA)の会社が売りに出された。日本の商社などが触手を延ばしているらしいが、今保有しているのはトルコの会社である。GODIVAはベルギーの会社だと思っている人は多いと思うが、あのゲラン(Gaylian)のチョコのオーナーも韓国のロッテだったり、調べて見ると資本と生産は全く別物と言う事が多い。

そう言えば、高級ゴルフクラブのHONMAも随分前に中国の会社になったり、最近ではシャープが台湾の会社になった。ロンドンのハロッズ百貨店も転売を重ね今ではカタールの会社だし、パリのインターコンチネンタルホテルも、やはりカタール資本だ。吉野家の牛丼がアメリカ牛と中国野菜を思えば、左程驚く時代ではないのかも知れないが、やはり実態を知ると複雑な気分になる。

それにしても、高級チョコはベルギー王室のスウィートのイメージがある。食べて良し、貰って又良し、至福の時にイスタンブール産とか韓国産だと知ると、露店やキムチの臭いが混ざってくる。つくづく食はデリケートで、知らない方が幸せな時もある。

Wednesday 14 November 2018

WWI終結100周年

先日、第一次大戦(WWI)の終結100周年の行事がパリで行われた。トランプ大統領が雨で式典をキャンセルし話題になったが、多くの各国首脳が集まった。日本からは麻生副総理が出席したらしいが、やはり安倍首相が一緒にシャンゼリゼを歩いて欲しかった。

式典に続き、各国首脳は自国民が犠牲になった場所を訪れた。興味深かったのは、その知られざる激戦地であった。トランプさんが行かなかったのはパリ近郊のベロー(Belleau)で、米兵9千人が死傷したらしい。カナダのトルドー首相が訪れたのは、ベルギー国境近くのヴィミー・リッジ(Vimy Ridge)だった。こちらはカナダ兵が23万人も死傷した激戦地で、意外な場所の多さに驚いた。一方、独仏の首脳が訪れたのは、コンピエーニュの森だった。昔訪れたが、有名な列車が置かれていて、第一次大戦でドイツが降伏文書にサインした場所である。ヒットラーはそれに倣い、第二次大戦では逆にフランスに降伏(休戦)文書にサインさせた因縁の車輌である。

流石、安倍さんが行っても近くに日本軍が戦った場所は無いだろう。あるとすればマルタ島である。英国の支援に向かった日本海軍の駆逐艦「榊」がUボートに撃沈され、その乗組員59名の墓がある。明治維新からまだ50年も経ってない時に、よくこんな処までやって来たもんだ!以前マルタ島を旅した時、日本人として誇らしい気分になった。尤も安倍首相は昨年、イタリアのサミットの後でその墓参りを済ませている。だったら今回はいいかも?

Monday 12 November 2018

大平洋VISAゴルフ

昨日の太平洋VISAマスターズゴルフの最終日、初日からトップを走っていた秋吉選手が、最終18番でまさかのOBを出した。見ると10cm程度だったか、白杭からはみ出ていた。方や額賀選手は早々とバーディーを決めて、逆転優勝をした。色々苦労した選手だったと聞き、たまには女神もほほ笑む時があるもんだと思った。秋吉選手はパーでもプレーオフのチャンスがあったのに、あえて攻めた結果が裏目に出た。勝負は最後まで分からないものだ。

でも改めて男子プロって凄い!そんな思いで見ていた。300yのパー4は誰もが直接狙って行く。松山選手などアイアンで打っていた。230yのショートコースも、自分なら届かない距離だから刻むしかない。それを意とも簡単に乗せていく。そもそも今更だが、4日間続けて18ホールを廻るって、並大抵の体力ではない。先日2日続けてプレーした事があったが、2日目の途中から疲労が出て集中出来なくなった。またプロのスウィングは大きく滑らかだ。池田勇太選手など溜めが上手いし、振り急ぎも無い。また今絶好調の今平選手はクラブを短めに握っていた。そうか!そうすると曲がらないかも知れない・・・、色々教えられる事が多かった。

それにしても、ゴルフを職業にするなんて、とても理解出来ない。今回優勝した額賀選手はプロ生活12年で初めての栄冠らしい。その間、毎週トーナメントに出ては負け続けて来た訳からも、毎日どんな気持ちで暮らしてきたのだろう?取り分け奥さんの忍耐って想像を超える。何かの時に聞いてみたい。

Friday 9 November 2018

鬼門の14番ホール

何度やっても、一向に上達しないゴルフ、わざわざ高いお金と時間を掛ける割には、終わってみれば無力感だけが残る変なスポーツである。それでも又時間が経つと懲りずにチャレンジしてみたくなる。何回かに一度打ったグッドショットの味が忘れられないからだろう。そう思うと、何かギャンブルに似ている気がする。

そんなゴルフであるが、毎週のように通う倶楽部のNO14は鬼門である。右にドックレックするパー4のコースだが、第2打のスペースが狭く、左には池がある。最近では大事を取って3打狙いで刻むのだが、それでも風に流され右にOBしてしまう。おまけに先日はシャンクが出た。右に大きくすっぽ抜ける球を見て、世も末の気分になった。こうして、毎回同じ場所で同じミスを繰り返すと、流石自己嫌悪になってきた。夜もトラウマのようにNO14ホールが頭を過り、寝つきも悪くなった。

もうこうなって来るとイップス直前だ。友人の中には、パットのイップスになった人が何人かいる。それまでは何ともない動作が、パットになると硬直するという。楽しいはずのゴルフが、恐怖心が先に立つ。秋のゴルフシーズンだが、もう暫くゴルフなんてやりたくない、そんな気分になっている。


Thursday 8 November 2018

Goldfingerのキャディー

007の映画「ゴールドフィンガー(Goldfinger:以下GF)」に、ジェームズ・ボンドがゴルフをするシーンがある。ボンドは、ゴルフ場で知り合ったGFと5000ドルを掛けてラウンドする。途中、GFの打ったボールがラフに入るが見付からない。実はボンドが足元に隠していたのだが、それを知らずに別の球で打ったGFは、最後に誤球だった事が判明して賭けに負ける、という話である。

そのいかさまを手伝ったのが、GFのキャディーであった。黒服のアジア人で、シルクハットが凶器の用心棒であった。演じたのは、日系の元プロレスラーのハロルド坂田であった。戦後アメリカで俳優として活躍したスターだった。そのキャディーに向かって、ボンドは「ゴルフは韓国ではまだ国技ではないね!」と云って去っていく。

勿論、坂田は日系人で韓国人ではない。1964年の映画だったから、そんな違いはどうでも良かったのだろうが、今や世界のゴルフ界、取り分け女子のトーナメントは韓国勢で独占される時代になった。昔はアメリカに住んでいる韓国人と云えば、果物屋しか思い浮かばなかった。その頃を思うと隔絶の感がある。

Tuesday 6 November 2018

秋の禅寺丸柿

秋が深まり、また冬がやって来る。寒い冬を乗り切るのはいつも大変だ。それは動物も同じで、毎年この時期になるとやってくるネズミがいる。どこから入って来るか分からないが、夜になるとゴソゴソ音がする。翌朝、愛犬がクンクンと嗅ぎまわる頃には姿を消しているが、石鹸や餌箱が咬まれた跡が残っていて痕跡が後を絶たない。何時ぞや、家に来た人にお土産にと思って取って置いた御菓子箱に穴が開いていて、大いに恥をかいた経験がある。以来その復讐に燃えていたが、昨夜やっとネズミ捕りマットに掛かったのを発見した。朝になって犬が騒いでいたので見に行くと、マットにサンドイッチ状態で挟まっていた。一昨年の親子に比べるとかなり大きく、まだ生きているような目でこっちを見ていた。

それからイノシシもいる。先日、2頭のイノシシが救出される騒ぎがあったが、とんでもない話だと見ていた。イノシシはミミズを探して土を掘り起こすので、花壇や畑は滅茶滅茶になる。それも夜中にヒーヒーとうめき声を立てるので気味が悪い。来年はイノシシ年だから、猪突猛進のシンボルになっているらしいが、現実は迷惑意外の何物でもない。何時ぞや食べた南アルプスのイノシシ鍋は悪くなかったので、責てそんな料理店が出て来れば、少しは親近感も増すというものだ。

ただいい事もある。我が家の柿木は樹齢60年を超えているが、今まで一度も食べた事がなかった。元々あまり好きではなかった事に加え、何か気持ち悪いというか、先にカラスや野鳥が突っいて食べてしまう残飯のイメージがあった。ところが最近になって、近所の人が、「それって禅寺丸柿だよ!」と教えてくれた。何やら甘柿の一種で中国から由来したらしい。騙されたと思って木に登り捥いでみると、確かに甘くて美味しかった。

Friday 2 November 2018

狂言切腹って?

アマゾンのプライム会員になって久しいが、動画がタダで見れる事を最近まで知らなかった。それが分かってから、多くの映画を見始めた。洋画もいいが、最近では日本映画、特に侍ものに凝っている。取り分け、「一命」と「壬生義士伝」の時代劇は良かった。

どちらも浪人の話だが、江戸末期に生活に窮乏する侍の一家が元になっている。「一命」では狂言切腹と云う言葉を知った。大名から切腹を盾にカネを脅し取る事らしいが、それを知った大名の方でも、竹光を渡すなど凄い時代だった。「壬生義士伝」は、やはり脱藩した浪人が新鮮組に入り生計を立てる話である。新田次郎原作だけあって、明治から回顧した構成は厚みがあったし、中井貴一の演技も良かった。方や彦根藩、方や盛岡藩が舞台になっており、どちらも武家社会が終わりに近いた頃、改めて維新は成るべくしてなった様子が伝わってくる。

盛岡藩を去った浪士が、最後は函館に向かうシーンがある。あの戊辰戦争の函館決戦だが、昔読んだ佐藤賢一著「ラ・ミッション(軍事顧問ブリュネ)」はそんな浪士に共感したフランス将校の話であった。トム・クルーズ主演の映画「ラストサムライ」のモデルで、その頃になると随分と外人も入っていたようだ。この秋の夜長は、当分日本映画を楽しめそうだ。

Wednesday 31 October 2018

恩を仇で返す韓国

代表質問の国会中継を見ていると、維新の党の代表の時、突然「先ほど韓国で徴用工の判決が最高裁で出た事をご存知ですか?」と切り出した。予想しなかった展開に、流石に安倍さんも顔色が変わり、「それは1965年の日韓請求権協定で解決済み、常識では考えられない!」と反応した。外務大臣の河野さんも早速駐日大使を呼んだそうだが、それにしても今回ばかりは激しい憤りを感じる。

その、対日請求権資金を使ったのが、1973年に出来た浦項総合製鉄(現在のPOSCO)であった。確か5億ドルの1/4程度だったか、80年代の韓国の大きな成長の原動力になった。その出来て間もない浦項を、70年代後半に訪れた事があった。それはソウルに勤務していた友人を訪ねたプライベートな旅だった。当時は「韓国に行ってきます」と云うと、会社の人からニアニアされた時代であった。どうして浦項に寄ったか、今では良く覚えていないが、日韓を象徴する事業だったから、見てみたい気持ちがあったのかも知れない。前日その浦項の町に泊まり、翌朝ぶらっと製鉄所を訪れた。寒い日だった。受付で「日本から来た者だが、工場を見たい」と頼むと、何と丁寧に対応してくれた記憶がある。今から考えると、一介の旅行者に信じられない事だった。ところが雑談になった頃、「昨日の晩は何処に泊まったの?」と聞かれた。それはどういう意味だが直ぐに分かったが、会社の会議室で一同からニアニアされたのは予想外だった。

その浦項に代表する韓国鉄鋼業は、その後日本を凌駕する発展を遂げた。当時は母屋を取られたような気分だったが、後でそれは新日鉄の技術を不正取得した為だと判明した。助けたと思っていたら、恩を仇で返された事件だった。そしてまた今回の事、つくづく韓国と云う国は、日本に寄生して集りとゆすりを繰り返しながら生きている、改めてそう思った日だった。

Tuesday 30 October 2018

セレナの挑発

この土曜日、NZとオーストラリアのラグビー戦があった。日本でこんな好カード見れるなんて夢のようだった。パス回しのスピードといい、当りの激しさといい、流石に一流のレベルは違った。

試合の後半、リードを許したオーストラリアの選手が退場する場面があった。NZの選手に挑発されたオーストラリアの選手が手を出した。そのペナルティーであった。解説者によると、最初に仕掛けたのも悪いが、ラグビーではそれに応えた方がもっと悪いと言っていた。確かに戦いでは、敵に先に撃たせることから始まるから、理にかなっているかも知れない。それにしても、まず挑発に乗らない事が大事だ。

思い出したのは、全米テニスの女子決勝、セレナ・ウイリアムズと大坂なおみの一戦だ。中盤、劣勢に立ったセレナは、コーチングを受けたとして警告を受けた。その次にラケットを壊した事でポイントを、最後は主審への暴言でゲームを失うペナルティーを受けた。そして、その後に始まった狂ったような抗議で、自分を失ってしまった。見ていてとても見苦しく、不快な気分になった。偉かったのはポルトガル人の主審である。あれだけ言われれば、審判と言え、どこかで切れてもおかしくなかった。そんな心配を他所に、彼は頑として仕事を熟したのであった。とても自分には出来る技ではない、そんな思いで見ていた。

Sunday 28 October 2018

戦場のジャーナリスト

ジャーナリストの安田純平さんが救出された。3年振りというが、良かったという反面、その責任を責める気持ちも大きい。トルコのエルドアン首相に安倍さんが謝意を示していたから、きっとおカネを払ったに違いない、そう思うと複雑な気分になってくる。

戦場のジャーナリストの走りと云えば、何と言ってもヘミングウェーである。スペイン内戦にも兵士として参加したり、第2次大戦ではイタリア戦線からノルマンジーに上陸、激戦地だったオマハビーチを取材した。2カ月後の着いたパリでは、バンドーム広場のリッツホテルに立ち寄り一杯飲んだが、その縁でバーは今では彼の名前を冠している。ただ彼は正規の従軍記者だった。もう一人、「キリング・フィールド(Killing Field)」の作者シドニー・シェーンベルグである。カンボジアの内戦を取材し、ピューリッツァー賞を取った戦場ジャーナリストである。カンボジア人記者の逃走劇はスリルがあって、何度も見た映画だったが、そのシドニーもNYタイムスの記者であった。

安田さんとヘミングウェーやシドニーを比べるまでもないが、その伝え方も随分と違う。方や見た世界を切り売りするらしいが、一方はそれを編集している。我々も現実の生の姿を知りたいという欲望はある一方で、それを少し加工して、ロマンスや勇敢な兵士物語を織り込んでくれた方が面白い、という心理がある。ドキュメント映画は一度見ると飽きるが、ノンフィクション映画は何度見ても飽きないのと同じである。行くのは勝手だが、やはり責任は自身で取って欲しかったし、生の姿を伝えることが本当にニーズにマッチしていたのか?知りたくない感情もある事も事実である。況や、政府がそんな彼らに関与したのだったら如何なものかと思ってしまう。

Thursday 25 October 2018

長銀破綻20年

久々に日経新聞を見ていたら、セゾン銀行の安斎氏が、長銀破綻から20年を振り返る記事が目に留まった。その中で、当時日銀にサマーズ長官から、極秘資料を出すように言われた件があった。改めてあの事件の真相は何だったのか?オーバープレゼンスになった日本の銀行が、やはりウオール街の標的になった、そんな事を再認識した。破綻した長銀がアメリカのリップルウッドに売却されたのは、それを象徴していた。

ただ、今でも悔やまれるのはその後の破綻処理である。金融再生法を適用し、一時国有化された長銀だったが、東証の整理ポストで更生を目指す道もあった。その後の西武鉄道などが選択した方法だった。そうすれば株主は損を計上しないで済んだ。当時の長銀の時価総額は5兆円を超えていたから、その社会的な影響も大きく、その後に追随した日債銀なども考えると、大きな国民財産が保全された事になった。しかし結果は倒産扱いになり、上場は廃止され、株価はゼロで確定した。それを選択したのは、当時の自民党の石原伸晃氏であった。彼はまだ議員になって左程時間が経っていなかった頃だったが、金融再生委員会では中心的な存在だった。今から思えば若気の至りであった。それは、リーマンブラザーズへの公的資金注入を拒否したアメリカ政府と同じ間違いであった。ちょっとした政治家の選択で人の人生も大きく変わる、特に経済や金融を熟知していない政治家に任せる事程怖いものはない、その事を実感した。

その伸晃氏だが、最近フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受章したようだ。お目出たい話にケチを付ける気は毛頭ないが、あれから20年、未だにデフレから抜け出せない。あの時の判断をどう思っているのだろうか?

Monday 22 October 2018

旭日旗を掲げよ!

先日、韓国政府から「国際観艦式では旭日旗を自粛するよう」に言われ、それを受けた日本政府は、自衛艦の派遣を見送った。防衛大臣は「日韓の未来志向・・・」とか「国際法で決まっているから・・・」とか弁明していたが、多くの問題を象徴していたので、とても不快な気分になった。

まず、これはケンカである。殴られたら殴り返す、その気合が大事だ。今の政治家には、そのセンスと初期動作が欠けている。慰安婦もそうだが、毅然として聞き流せばいい。戦後に生まれた者にとって、過去の戦争は他人事である。だから正直に、「そんな事は先人が行ったことで、俺達には関係ない」と構えればいい。そもそも、今の韓国を作ったのは、明治に日本が併合したからである。もしもあの時に日本が統治しなければ、中国かロシアの属国で終わっていたはずだ。近代化はもとより、国として独立も無かったかも知れない。今のウラジヲストックを見ていると、ソウルが第二のウラジヲストックになった姿が浮かんでくる。感謝されこそあれ、被害者意識なんてとんでもない話である。

マスコミが伝える韓国の姿と、実際に会う韓国人とは随分違う。海外を旅行していると、「日本人ではないが、中国人か韓国人どっちかな?」と思う時がよくある。この夏も中欧の田舎でよく遭遇した。思い切って「どこから来たの?」と聞いてみると、「韓国」と答える人は、決まって自信なさそうに目を伏せる。何か罰が悪そうな感じがする。それは日本の旅先で会う若者も同じである。1対1で対峙してみると、お互い普段は気が付かない両者の関係に初めて気が付く。そんな気合を持って、旭日旗を掲げて参加して欲しかった。

Saturday 20 October 2018

サウジアラビア人の殺害

トルコのサウジアラビア領事館で、アメリカ在住のジャーナリストが殺害された。そのニュースで連日賑わっている。殺された男は、生きたまま解体されたとか、iPhone腕時計に音声が残っていたとか、生々しい様子が伝わって来る。それにしても、暗殺団と称する一団は、どうして白昼堂々と専用ジェットで入り、在外公館で殺害するという愚行に出たのだろう?プロにしては脇が甘かった、そんな印象を受けた。

思い出したのは、1997年に起きたダイアナ妃の事故である。夫のチャールズ皇太子と別れ、アラブの富豪と関係を持った矢先だった。身籠れば、英国ロイヤルファミリーとイスラムの接点が生まれる、そんな懸念は誰しも感じていた。事件は、パリのバンドーム広場に建つリッツホテルを出た直後だった。車はセーヌ河沿いの道路を西に進み、アルマ橋のトンネルの柱にぶつかった。入り口から数えて13番目だったので、プロのメッセージと受け取った人は多かった。ただ事件は結局事故扱いになり、他殺説は否認された。

しかしM16や007のお国柄だから、そのまま信じた人は少なかったのではないだろうか?車に同乗していたのは、当時付き合っていたエジプト人の富豪Dori Fayedであった。その彼の従兄が、サウジアラビア人の富豪Adan Khashoggiであった。こちらも実業家だが、今回の被害者と同じ名前であった。たまたまそうなのか?血縁があるのか、それはよく分からないが、何か2つの事件に因縁を感じる。

Thursday 18 October 2018

フェアーな愛

ジェフリー・アーチャーの短編集に、「All's Fair in Love and War(恋と戦は道を選ばず)」がある。あらすじは、莫大な財産を相続した男と、彼に嫁いだ女性の話である。2人の関係は次第に疎遠になる中、男は出征する。残された妻はある男と知り合い子供を身籠る。その事を戦地の夫に何度か手紙を出して告解し、離婚を申し出るが、夫からは返事が来ない。そうこうしている内に、夫は戦死し、晴れて彼女は再婚し、夫の財産も正式に相続するという話である。結果良ければ全て良し、フェアーな愛であった。

読んでいて、昔読んだ「Summer of '42」を思い出した。やはり出征した夫を待つ若い女性の話である。こちらはアメリカが舞台だが、その若くて美しい女性に、近所の思春期の青年が恋をする。こちらも結局夫が戦死してしまうが、それを知った青年は彼女に迫る。ただ気が付くと彼女は引っ越し去って行く。若い頃読んだので、痛く感動した記憶があり、失恋したような切ない気持ちになった。

百田尚樹氏のベストセラー「永遠のゼロ」も、夫人は戦死した戦友の奥さんだった。孫が最後にその事を知るオチが、物語を骨太にしていた。ただでさえも、些細な事で結ばれたり分かれたりする男女の縁、それが戦争が間に入ると、運命的になっていく。現実だと深刻だが、小説になると深い味わいに変る。

Tuesday 16 October 2018

007のグルジア訛り

先日、テレビでグルジアの世界遺産を放映していた。2000mの高地に、外敵から身を守るために作られた9世紀の塔群であった。耳にした事のないスヴァン人という人種は、今でも自給自足の生活を続けていて興味深かった。

そのグルジアは、以前タリンで披かれた旅行博のブースに寄って以来、未知の魅惑に取り付かれている。旧ソ連で唯一のキリスト教国、世界最古のワインの国、黒海とカスピ海を繋ぐコーカサス山脈・・・、そして何よりあのスターリンの出身地である。マイナーな人種の彼がどうやってロシアのトップに登り詰めたのか?後に自身の過去を知る人を多く殺害したのは何故か?なぜ誕生日が2つあるのか?そんな謎めいた思いで飲むグリジアワインの味もまた格別だ。タリンでも一番安いワインはグルジア産だったので、雪に閉ざされた中で良く飲んだ。ドロドロとして甘く、日本の葡萄酒に似ていた。決して美味しい訳ではなかったが、想像力を掻き立てるには十分だった。

先日、カタール航空でドーハからプラハに飛んだ時、眼下にはトルコの砂漠の先にコーカサツ山脈が連なっていた。「スターリン、赤い皇帝と廷臣たち」という本に、「グルジアは、地理的にサント・ペテルスブルグよりバグダットの方が近く、風土はシベリアよりシチリアに近い」と書いてあった。そう言えば、007の映画「ゴールデンアイ(Goldeneye)」の主役の女性も、ジェームス・ボンドから「グルジア訛りがあるね!」と言われた。彼女はソ連の基地を襲うのだが、きっと犯人はグルジア人を想定したのだろう。実はコーカサツの山を越えると、気分は中近東なのかも知れない。そう考えると、込み入った歴史が分かり易くなる。

Sunday 14 October 2018

ゴッホの足跡を追って

そのオーベール・シュール・オワーズ(Aubers-sur-Oise)は、オワーズ河に沿ったパリ郊外の農村である。ビンセント・ヴァン・ゴッホ(Vincent an Gogh)が生涯を終えた場所もあり、彼は亡くなる前の2カ月をそこで過ごした。随分前に訪れ、とても120年程前とは思えない程、当時の風景が残っているのに驚いた。

ゴッホはそこで多くの作品を残した。有名な「ガシュ博士」や「オーベール教会」「カラスのいる麦畑」等々、誰もが一度は見た事のある傑作である。今でも当時と変わらぬ風景が沢山残っていて、その前に置かれた絵画と見比べる事が出来る。まるでタイムスリップしたよう気分になり、何気ない風景がゴッホの目で見えてくる。そして最後は村にある彼のお墓である。画商として彼を支えた弟のテオのお墓と隣り合わせで、二人の生涯と重ね合わせるのであった。

そんなゴッホの足跡を追った事もあった。彼はオランダ人だったから、それはアムステルダムから始まり、ベルギー、フランスなどを廻った。勿論全部は無理だったが、初期の作品が多く飾っているアムステルダムの美術館、30代の頃に伝道師を目指して住んでいたベルギーの片田舎の家、ゴーギャンと不仲になり、耳を切断して入院したアルルのサンレミ病院等々、今でも現存している建物が多いから、さして難しい事ではなかった。彼は37歳の短い人生で、1000点以上の作品を残したので、旅も充実したものになった。

Friday 12 October 2018

ジェフリー・アーチャーの短編集

暫く前に丸善に行ったら、ジェフリー・アーチャーの最新本があった。あの数年続いたクリフトン年代記の後に何が出るのだろう?と思っていたが、それは短編集であった。しかも発売されてもう半年以上経っていたから、必ずしも新しくなかった。タイトルは「Tell Tale」で、”密告”と訳すのだろうか?、ともあれ早速読んでみた。

最初の告解(Confession)という短編は、ナチ政権下のフランスを舞台にしていた。銀行家、病院経営者、市長、大学の学長の4人が主役である。あらすじは、ある時ドイツ将校の乗った列車がレジスタンスによって爆破され、当時の慣行で4人が報復の対象になった。彼らは死を覚悟すると、司祭に告白を始め、遺書も残した。話を始めると、4人のエリートは過去に患者の殺人、ユダヤ人の密告、同僚の交通事故などを犯していたという。華麗な人生の裏には、いろいろ影の部分があるものだった。ただ最後にオチがあって、事故では犠牲者が出なかったため、本人達の懺悔は徒労に終わってしまう・・・、そんなウィットがとてもアーチャーらしかった。

それにしても、人は死に直面すると、自身の罪の意識に苛まれるようだ。生きている時も大変だが、その後の天国という住処に入りたいからだ。次の作品は、「オーベール・シュール・オワーズの風景(View of Auvers-sur-Oise)」であるから、あのゴッホやコローの印象派が活躍した舞台である。英国的な品の良さと、フランスの柔らかな景色が相まって、今からワクワクしている。

Wednesday 10 October 2018

同期の時代

先日、中途で入った会社仲間から、名前を呼び捨てにされた。さして親しくも無い奴だったので、「馴れ馴れしいね!」というと、「同期だから・・・」と釈明された。たまたま同じ時期に採用されただけなのに、何を勘違いしているのだろう?それ以来、その男は悪びれたように、さん付けで呼ぶようになった。

確かに、昔は大学を出て会社に入ると、XX年組と呼ばれる同期がいた。同じラインでスタートし、途中で出世に差が付いても、最後まで仲間である特別な関係である。考えてみれば終身雇用の成せる業だったが、同期なんて会社言葉があるのは、日本だけだと後で分かった。通年採用で転職が普通なら、確かにそうかも知れない。その言葉のルーツは、勿論あの海軍の兵学校である。この春に江田島の海軍兵学校を訪れ、改めて日本という国の成り立ちを実感した。

江田島の兵学校は1888年の開設というから、明治維新からたったの20年しか経っていない頃だった。当時の日本を囲む国際情勢がどんなにひっ迫していたか、富国強兵がどんなに急務だったか、現場に立つとよく分かる。行くと今でも立派な校舎が残っていて、海上自衛隊が管理していた。英国から高価な建築資材を輸入し、全国から優秀な集め、国を挙げて優秀な士官を育てた。今こうして日本国民が独立を守って平和に暮らしているのも、そんな先人が努力してくれたお蔭だ!、訪れた人なら誰でもそんな気持ちになってくる。卒業した同期の仲間は、仮に戦死しても家族の面倒を見ることが、暗黙の習わしだったという。一つの塊でないと生きて行けない、そんな時代だった。

Tuesday 9 October 2018

経団連の就職ルール

経団連が、就職協定の廃止に踏み切った。当たり前というか、今まで続いていた事が不思議である。外資やベンチャーなど、経団連に加盟していない処は対象外だったり、そもそも留学生にこの縛りは意味がないから形骸化していた。

ニュースを見ていて面白かったのは、学生や大学の反応であった。それを歓迎する人もいれば、就活が混乱するので心配する人も多かった。”時代の変化に対応するには柔軟で斬新な思考”とか、口では言っても、いざ自身の事になると保守的になってしまう人が多いものだ。これをチャンスと捉える人は企業も欲しがる人材だろうし、逆に不安がっている人は駄目かも知れない。気軽にテレビのインタビューに応じて、文句ばかり言っている学生を見ていると、「会社は見ているよ!もう既に面接が始まっているんだよ!」と、思いず言いたくなってしまった。

ところで、その経団連の会長に就任した中西氏だが、流暢な英語を話す国際人である。ある国際会議でお目に掛かったが、単に英語が上手いばかりでなく、お人柄もスマートな方だった。久々に日本の顔として恥ずかしくない人が出て来た、そんな印象である。これからも、古い体質をどんどん改革していって頂きたい。

Sunday 7 October 2018

軽井沢の気圧

昔、スキューバーダイビングに凝っていた時期があった。教習所でNAUIのライセンスを取り、週末ともならば伊豆に潜りに行った。これから寒くなるこの季節、海水の透明度が増し、視界も拓けて来る。いつも指導員が何人かの生徒を連れて行く。船や岸壁からダイブするのだが、10m程潜ると段々気圧が高くなり、私の場合、左の耳の抜けが遅い事が分かった。ただ団体行動だから、遅れる訳に行かない。無理して着いて行こうとすると、頭が割れるように痛く、辛い思いをした。結局そんな事もあって、いつの間にかご無沙汰している。

気圧の変化は体調に異常を来たす。雨が降り空が曇っている時(=低気圧)は、憂鬱な気分になり、眠たく、けだるく、場合によっては頭が重たくなる。一方晴天に恵まれた日(=高気圧)は、清々しく気分も爽快だ。そう言えば、冬の長い東北、北海道の人は無口だが、九州四国の人は明るく饒舌の人が多い。自然現象は人の性格まで変えてしまうから恐ろしい。

気圧と言えば、先日ある人が、「軽井沢の気圧は胎内の気圧と同じなのです。だから体にとてもいいのです!」と言っていた。軽井沢は大体標高差が1000m程度である。リラックス出来るのは、適度な低気圧が、赤ん坊時代の記憶を呼び戻すのかも知れない。これから紅葉の季節である。人気も少なく、静かに過ごすには一年で一番いい季節だ。快適なのには、それなりの訳があるようだ。

Thursday 4 October 2018

Catch Me

先日、長らく逃走を続けた男が逮捕された。大阪の留置場を脱走し、48日振りに山口の道の駅で御用になった。見つけたのは、万引きを監視していた女性警備員というから、警察の面目は丸つぶれというものだ。それにしても、どこか軒下に潜伏していたかと思ったら、堂々と自転車旅行を装っていた。どこで身なりを整えたのか?どうやって監視網を潜り抜けたのか?それにしても大したものだった。

思い出したのは、昔見た映画、「Catch Me If You Can(捕まえられる、ならやってみな!)」である。レオナルド・ディカプリオが逃走犯、追うFBIはトム・ハンクスが演じる現代喜劇である。ディカプリオは医者、弁護士、パイロットなどに化け、堂々と逃走を続ける。見ていて、制服を着ると人は簡単に騙されてしまう事が分かる。尤も誰でも出来るかと云えば、ディカプリオみたいな格好いい人だから、成せる業であるが。

ところで、その映画は実話に基づいたものという。フランクという21歳の男で、天才的な詐欺師だったようだ。その能力を買われ、刑期が終わるとFBIに雇われて、防犯コンサルタントとして活躍したというからアメリカらしかった。今回の犯人も、そうした才能があるなら、上手く生かして社会に貢献するように仕向けたらいい。馬鹿と鋏は使いようである。

Wednesday 3 October 2018

骨董品オークション

先日テレビを観ていたら、イギリスの骨董屋が出ていた。海外の町を散歩する番組だったか、自身も骨董品が好きなので、つい懐かしく見てしまった。ロンドンに行くとポートベロー(Portobello)、パリではクリニアンクール(Clignancourt)には必ず寄る。骨董品には歴史的な価値のあるアンティークと、それ以外のガラクタに大きく分けられるが、その中間があれば適度な値ごろ感でいい。思えば、絵画、書斎のデコレーション、オベリスクなど、随分投資したものである。骨董品はいつまで見ても飽きないし、知らない過去の時間と共存する深みがある。

その品々だが、人が亡くなると遺族が業者に頼んでお金に換えて貰う。その番組でも、店主が取りに行くと、「白骨体もあったよ!」と本当かどうか分からないが語っていたが、兎に角ありとあらゆる遺品を丸ごとオークションに掛ける。パリでも、オペラ座近くにのHôtel Drouotというオークション会場がある。家具や絵画、服などカテゴリー別に陳列され、時間が来ると競りが始まる。競りは毎日やっていて誰でも参加できる。時間のある時にぶらっと下見し、お目当てのモノがあれば懐と相談しながら競りに参加して手に入れる。特に遺品となると点数が多いので、物凄いスピードで進む。もたもたしていると、あっという間に次に行ってしまうから、思い切りも大事だ。競りで運よく落とすことが出来ると、その場で直ぐにチェックを払い、モノを受け取れる。仕組みが分かると、買い物感覚で使える。

それにしても不思議なのは、骨董品屋の主人である。いつも暇そうに椅子に座っていて、中には居眠りしている人もいる。これでどうやって生計を立てているのだろう?余計な心配をするが、永年年代物に囲まれた生活をしていると、本人も骨董化するのかも知れない。

Sunday 30 September 2018

追われるユダヤ人

ユダヤ人はどうして追われたのか?短い旅では到底分かりようがない。ただ一つ思ったのは、ポーランドやチェコが併合されると、ドイツからの移民を受け入れたことだ。それは日本の満州や、中世のドイツ騎士団などと同じ現象であった。そうなると、住む家も要るから誰かが出て行かなくてはならない、それがユダヤ人だったのだろう。始めはゲットーと呼ばれる特定地域に追いやり、それが一杯になると郊外の強制収容所に移し、それが維持できなくなると、最終的な解決に至った・・・、そう考えると分かり易い。だから最初から絶滅を前提としていたというのも、ちょっと信じがたい気がした。

あれから80年、世界に散らばるユダヤ人は14百万人と云われる。最近ではイスラエルに住むユダヤ人がその半分を超えて来たと云う。つまり今まではアメリカのウォール街や世界の多国籍企業を担っていた人達が減ってきて、ユダヤ国家に住むユダヤ人が増えているのである。昨今のトランプ大統領のアメリカファーストに代表されるナショナリズムの台頭は、そうした流れを汲んでいると云う。確かにいくら働いても、一向に国が豊かにならないのは、無国籍の金融資本に吸い上げられているからかも知れない。ユダヤ人はこれからどこに向かうのか?そんな目で見るとニュースも面白いというものだ。

余談だが、ユダヤ人は甲殻類を食べないと云う。だからお寿司屋さんに連れて行っても、エビやカニを頼んではいけないと、何かの本に書いてあった。また豚や馬も駄目だから、トンカツや馬刺しも食べない事になる。この辺を気を付けながら、その迫害の歴史、それに纏わる神秘な謎の数々をいつか生に聞いてみたい。

Saturday 29 September 2018

ニコライ皇帝の時代

暫く間に、吉村昭著「ニコライ遭難」を読んだ。相変わらずの綿密な取材で、読み応えのある本であった。粗筋は、ニコライ皇太子が明治初頭に来日して、大津で巡査に殺傷された事件の話である。ただ帰港した当時の長崎の街並みや市民の生活振りが、とても丁寧に紹介れていて、そっちの方がむしろ興味深かった。皇太子は行く先々で日本人から歓迎され、店で土産物を買ったり寺などにチップを置いて行った。それから10年後、日露戦争が起き両国は相対することになるのだが、改めてその頃っていい時代だったな!そう思えたのであった。

ロシアは日露戦争の敗戦を契機に内乱が始まり、それがロシア革命へと繋がって行った。ロマノフ王朝も、1918年に家族と共にとある地下室で銃殺され終わってしまった。それから社会主義の時代が始るのだが、今回こうして中欧を旅すると、改めてその無毛さを感じるのである。あれは一体何だったか?日本でもマル経と称する一大勢力が輸入されたり、とても他人事とは思えない。そして思ったのは、ロシア革命なんてない方が良かった!ニコライ皇帝の時代が続いた方がよっぽど良かった!という歴史のタラレバである。

もう一冊、これは旅の途中で読んだアンリ・トロワイヤ著の「イヴァン雷帝」である。「女帝エカテリーナ」「大帝ピュートル」の三部作の一つだが、工藤康子さんの訳が素晴らしく、スラスラと楽しめる名著であった。イヴァン雷帝はロシアの生んだ元祖独裁者であるが、その後のスターリンから今のエリティンに至るまで、ロシアの国ってあまり変わっていない!?と気が付くのであった。当時イヴァン雷帝が対峙したのはロシア貴族だったが、それは今のロシアマフィアである。正に禍福は糾える縄の如しで、600年経っても国民性は変わらない。ロシア革命がなければ、スターリン時代に40百万人も粛清されずに済んだり、挙句は東西冷戦もなかったかも知れない。況やチェコやハンガリーの人が、もっと伸び伸び育ったかも知れない・・・、そんな事を思うのであった。

Wednesday 26 September 2018

普墺戦争の町で

プラハから、ポーランドのオフスカ要塞に行く途中、Trutnovという町を通った。国境付近の名もない町だったが、古戦場の看板が出ていた。折角なので町に寄ると、田舎町にしては立派過ぎる広場があった。どうやらこの町の郊外で、1866年6月27日に会戦があったことが分かった。ただ誰と誰でどっちが勝った?そんな疑問を、子供連れて遊びに来ていた男に聞いてみた。すると彼は、「それはプロイセンとハプスブルグの戦いで、ハプスブルグが勝ったんだ!」と教えてくれた。

どちらの名前も今にはないから、益々分からなくなった。そこで帰国して早速調べると、それはプロイセンとオーストリアの普墺戦争であった。所謂ドイツが統一される過程で、オーストリアのハプスブルグ家と、プロイセンに点在したそれ以外のドイツ君主との戦いであった。結局戦いは2カ月続き、プロイセン側が勝った。訪れたTrutnovの戦いは、ハプスブルグが勝った一戦だったようだが、勝ったオーストリア軍の犠牲者は5千人と、破れたプロイセンの3倍にもなった。

町の広場はその時の彫刻で飾られ、とても3千人の町とは思えない重厚感があった。人も、週末だというのに、さっきの親子と数える程のヒッソリ感で、まるで1866年から時間が止まっているかのようであった。唯一、ピアノのオブジェがあった。これも何かと思って調べたら、チェコのPETROFという名器の産地だという事も分かった。ともあれ、プロイセンとは何か、ドイツはどうやって統一されたのか、ハプスブルグの終焉はどんな感じなど、日頃余り話題にならない歴史のエポックに出会えたのであった。

Monday 24 September 2018

プラハの春50年

今年は、プラハの春から50周年という。1968年にソ連が軍事介入した事件である。市内にもあちらこちらに、当時のパネルや軍用車が展示されていて、観光客が足を止めて見ていた。「ある朝起きると戦車の騒々しい音がして、人が撃たれ・・・」、そんな市民目線で当時を振り返り、50年前の場所で撮った写真の比較が生々しかった。ただ次第に事件を知る人も少なくなり、風化を危惧する年配者が多いらしい。確かにソ連も解体され、自由で豊かになると、遠い過去になった事を感る。

それでも、市内にある共産主義博物館を訪れる観光客は多い。結構中国人も多く、彼らがどう思って見ているのだろうか?、そんな事を考えながら、改めて東西の壁、ワルシャワ条約機構の時代が伝わってきた。ハンガリーのブタペストでも、恐怖の館という秘密警察のスポットは結構混んでいた。館内を見て廻っていると、ナチ政権下の矢十字党、ソ連時代のファシズム、共産主義の暗い過去が蘇ってくる。その地下は牢屋と拷問室が残されていたが、昔行ったリトアニアのKGB博物館では、処刑シーンがビデオで再現されていた。今回はそこまで行かないが、社会主義って恐ろしい!、改めてそんな気持ちになる。

ただ未だに、その時代の名残はある気がする。例えば昔から続く個人商店が見当たらない、特にレストランやキャフェは比較的新しく、所謂一歩入った裏路地の風景がないこと。また生活品を売る市場も、フランスなら毎朝農家が持参する移動式だが、旧共産圏は固定式である。元々は配給制の集積場所だったから、活気も違うし、年配の売子に笑顔とサービス精神がないのも共通している。また車を取り締まる警察官、駐車場の管理人も心持ち怖い気がする。尤もまだロシアを旅した事がないので、悪口ばかり言っていると、後で後悔する知れないが・・・。

Saturday 22 September 2018

ハンガリーの結婚式

旅はいつも気ままにするに限る。出発前に大雑把な行程を考え、現地に着くとガソリンスタンドで地図を買い、それを頼りに走る。GPSだとそのつかみが取れないから、利用は最小限にしている。今までの経験から、大体日本で考えていた通り行っている。だから、良く人から「泊まる処は予約しているの?」と聞かれるが、いつも行き当たりバッタリである。ホテルを予約するのは良し悪しで、見知らぬ町に時間通り着くのは至難の業だからである。かえってそれに縛られる事を考えると、まず予約はしない方がいい。

宿探しは、いつも夕方の5時位から始める。不思議と2~3つ程当ると空いている宿が出てくる。今まで泊まれなかった事は皆無である。しかし今回、ハンガリーのブタペストの町で珍しく苦労した。その日は週末だったころもあり、どこも一杯だった。市内で暑い中、6軒を回った処で「これは駄目だな!」と諦め、郊外に出ることにした。15Km程走った辺鄙な処にホテルを見つけ、神様に祈る気持ちで尋ねると、やっと空いている事が分かった。しかし今度は、食事を取ろうと思うと周囲にレストランがない。ホテルが教えてくれた唯一の店も閉まっていて、結局またブタペストの市内まで15Kmの道を逆戻りする事になった。やっと夕食にあり付いたのは、ホテル探しを初めて5時間も経った頃で、疲れた一日になった。

またチェコの田舎でも、土曜日だったか、どこに行っても結婚式の招待客でごった返していた時があった。部屋は空いていたのだが、以前ルーマニアで結婚式と同じホテルに泊まったら、明け方まで続くダンスパーの騒音に一睡も出来なかった苦い経験があるので、中々決め難かった。これも探す事3時間、結局そこから20km程の都市に移り、ここならと思った先きも結婚式のパーティーを準備していた。流石「もはやこれまで!」と観念して泊まったが、後で聞くと、チェコでは結婚式は土曜日と決まっているそうだった。気ままな旅には苦労が付き物だ。

Thursday 20 September 2018

テレジンのセルビア人

第一次大戦の引き金になったのが、サラエボの銃声である。ボツニアを訪問していたオーストリア皇太子夫妻が、パレードの最中に狙撃された事件である。昨年その現場を訪れてから,その感慨はまだ冷めやらない。撃ったのは20歳のセルビア人、ガヴリロ・プリンツィプ(Gavrilo Princip)であった。彼は昼食中であったが、突然皇太子の車が差し掛かり、犯行に及んだという。その前にやはり爆弾が破裂し、その負傷者を皇太子が見舞う予定外の経路を取ったことが、運命の出会いになった。

実は今回の旅で、プラハ郊外のテレジン(Terezin)収容所を訪れた時、偶然彼の写真を発見した。その収容所は、中世の要塞をユダヤ人の強制収容所として使ったものであった。大きく2つに分かれていて、一つは城塞の中を町にしたゲットーである。もう一つは、関係者家族の宿舎、牢獄、処刑場などである。都市のユダヤ人は一度ここに収容され、その後アウシュビッツなどの絶滅収容所に移された。その数は、常時7千人程が住み、延べでは16万人にもなった。尤も戦後生き残ったのは1万人程で、殆どの人が亡くなった。中でも、尋問などによって犠牲になった人が7千人もいて、その中には終戦直前の1945年5月の50名も含まれていた。その現場の壁の前に立つと、何とも居た堪れない気持ちになってきた。

サラエボの犯人プリンシップがそこに居たのは、そんな時代のずっと前である。当時は刑務所として使われていたようだったが、彼はそこで病死したという。23歳だった。てっきり処刑されたかと思っていたが、これは意外だった。随分と遠くまで運ばれたのだった。また驚いた事に、テレジン収容所跡地には、僅かだが未だに人が住んでいた。喫茶店や小さなスーパーが、遺品や当時のパネルを紹介した博物館に隣接していた。「そんな処に住んで、御霊に邪魔されないのだろうか?」、その辺の感覚はちょっと理解出来なかった。

Tuesday 18 September 2018

ポーランドの運転マナー

今回のレンタカーはチェコのスコダであった。昔のスコダを想像して、最初は「えっ!」と躊躇したが、乗ってみると全く問題なかった。マニュアル車だったこともあり、一度給油すると1000kmは走った。中欧の道路も、運転マナーがいいのに感心した。中には猛スピードで追い越す車もあるが、大方の運転手は大人しい。事故も一度も見なかったし、罵声もなかった。昨年廻ったバルカン半島の国々では怖い思いもしたので、これはお国柄だろうか。しかし大きなトラックと並走する時はやはり緊張する。特にポーランドの運転手は、体型も一回り大きいから威圧感がある。

そんな先入観があったが、ある日トラックの運転手達が集まるモーテルに泊まった事があった。夕方4時頃だったか、既に一階の食堂では団らんが始まっていた。何組かの集団が、ビール片手に話していた。孤独な仕事から解放されたような感じで、皆いい顔で飲んでいた。そんな姿を見ていると、あの巨大なトラックに少し人間味を感じたのであった。

その日はポークソテーを頼んだ。山盛りのポテトと一緒に出て来たポークだったが、大粒の胡椒がそれも半端でない量掛かっていた。肉を食べているより、胡椒を咬んでいる感じである。「きっとこれは運転手の飯場メシに違いない!」、確かにビールに良く合うし、意外と美味かった。