Friday 28 February 2020

インカ帝国と病原菌

連日、コロナウィルス感染の拡大で大変な事になっている。中国に端を発し、韓国、イタリア、イランなど、今や全世界に拡散している。これからどうなるのだろう?株価は経済を先取りして大暴落しているし、負の循環から日増しに不安は募って行く。

思い出したのは、暫く前にベストセラーになったJ.Diamond著「銃・病原菌・鉄(Guns,Cerms,and Steel)」である。こんな時期なので、改めて病原菌の箇所「家畜がくれた死の贈り物」を読み返してみた。すると例えば、メキシコのアステカ帝国やペルーのインカ帝国が滅亡したのは、スペイン人が持ち込んだ天然痘だったという。戦いで死んだ兵士の数より遥かに多い人が、外来種の感染で死んだ事が原因だったという。これはアメリカインディアンについても同様で、コロンブスが大陸発見した時は2000万人も居た原住民が、200年後には95%も減少した。これも天然痘、インフルエンザ、チフスといった外来の病原菌だった。確かに船でやってきた数百人の兵士が、何百万人もの土着民を殺戮するなんて不可能だから、「そうだったのか!」と思えた。太平洋戦争の時の日本兵士の死因も、交戦よりマラリアなどの伝染病・飢餓が遥かに多かったと聞いた事があるし、何といっても有史以来最大の伝染病だったペスト(黒死病)で死んだのは1億人、ヨーロッパの人口も1/4が失われた。これは2度の世界大戦を遥かに凌ぐ数だった。

今まで「人類は戦争の歴史」と思っていたが、それは間違いで「人類は感染の歴史」だった訳だ。ではどうやって終息したか?一つ参考になったの1665年に起きたロンドンの大火災である。菌は熱に弱いというから、それでやっとペストが死んだようだ。勿論今回はそこまでならないに越したことはないが・・・。

Monday 24 February 2020

Tom Traubert's Blues

オーストラリアを代表する歌と言えば、何といってもワルティング・マチルダ(Waltzing Matilda)だろう。軽快なメロディーとは裏腹に、空腹から羊を食べた男が警察に追われて池に身を投じる悲しい歌である。人々が第二の国歌で歌うのは、孤独で新天地を求めた祖先を思うからだろう。歌に出て来るマチルダは野宿の毛布の名前で、何とも郷愁を誘うのである。

そのマチルダをフレーズにした歌があった。たまたま昨年、そのワルティング・マチルダをYoutubeで聞いていると、ロッド・スチュワート(Rod Stewart)が歌う別のマチルダに出会った。聞いていると本来の曲よりもっと長くて深みがあり、不思議に魅かれていった。以来オーストラリアに来ると、毎晩飲みながら聞く曲になっている。広大な大地と、そこに生きた孤独な男と重ね合わせるからだろうか?或いはロッド・スチュワートの迫力ある歌声のためか?それは分からない。

歌詞にはそのWaltzing Matildaが、「放浪の旅」の意味で使われて何度も出て来る。気になったので調べてみたら、歌は正しくは「Tom Traubert's Blues」という名前で、オーストラリアとは関係ない事も分かった。Tom Traubertとは生涯牢屋で過ごした無名の男の名前らしく、飲み仲間が彼の非情を偲んで作った歌のようだ。それでも歌詞には、「I'm tired of all these soldiers here, No one speaks English and Everything's broken(ここの兵士にうんざりで 誰も英語を話さない・・・)」とあるので、場所はオーストラリアかと思う節もあって、擦り切れて傷ついて(Wasted and wounded)で始まる歌詞は(支離滅裂な処も多いが)聞く度に何故か深く心に響くのである。原住民のアボリジニはアルコールを受け付けないらしい。ただそのしわの深さがこの曲とマッチして、私とオーストラリアを繋ぐ大事な歌になっている。
https://www.youtube.com/watch?v=NDDrak6Rnwo&t=25s


Saturday 22 February 2020

イタリア人の町

ある日、ケアンズから南に80Km程行ったイニスフェイル(Innisfail)という町にゴルフに行った。管理人のおじさんに$20を払うと、「いつでも出ていいよ」と言われた。暑いのでゴルフをしている人は皆無だから、「そりゃそうだよな!」と思った。ところがフラフラになりながら18ホールを歩いて廻り、「さー、ビールだ!」と思っていたら、何とレストランの鍵が閉まっていて誰も居ない!これには参ったが、そのいい加減さがまた田舎の倶楽部らしかった。

仕方がないので、近くのレストランに行った。西部劇の町を思わせるような木造のバルコニーの扉を開けると、そこは古めかしいパブだった。メニューがよく分からなかったので、適当に頼むと薄いステーキが出て来た。それとビールで一息ついていると、地元の若者が入って来た。平日だと言うのに昼からビールを飲んでいる。見た感じ不良っぽい顔立ちで、ちょっと英国系のオーストラリア人とは違う雰囲気が気になった。そう言えば、料理を運んだおばさんも小柄で髪が黒かった。後で分かったのだが、この町は1920年代にイタリアやギリシャから移民が入ってきたらしい。そのためイタリア料理が美味しいという。

思い出したのは、昨年訪れたカウラ(Cowra)の収容所である。カウラには戦時中、日本人捕虜の他にもイタリア人捕虜が収容されたいた。日本人捕虜は思い詰めて脱走を試みたが、イタリア人は平然と終戦を待っていたという。その中には戦後も国に帰らずにオーストラリアに定住した人もいたと聞いていたので、話が繋がった。オーストラリアの地名は、最初に移り住んだ漁師や農民の名前を受け継いでいる処が多いが、殆どがイギリス系である。イタリア系はマイナーで、今でも人口の4%程度に過ぎないが、こうして生に触れると歴史を感じるのであった。

Friday 21 February 2020

ミランダとタバ子

オーストラリアの女子学生達が帰り、代わりにやってきたのが、日本人の女子学生2人組だった。一人はミランダ・カー似の美人で良く話す子だった。私が毎日ゴルフをしていると言うと、「私もやりたいな!」、「でも靴など道具がないと難しいよ」と言うと、「スニーカーあるから大丈夫です」みたいにノリがいい。さらに「ビーチに行ったけど、人がいなくて綺麗だったよ!」と話すと、「私も行ってみたいな!」と、これまた付いてくる。ところがもう一人が問題だった。着くなり早速、バルコニーに出て煙草を吹かし始めた。私はタバコを吸う女が嫌いである。ただそんな事はおくびにも出せない。そのタバ子は鼻のかみ方も豪快で、ゴーという大きな音がした。本人は「これは親の遺伝なんです」と言っていたが、ここまで来ると興醒めを通り越して愛嬌になった。

二人はバイト先で知り合った仲だというが、どう見ても不釣り合い感じだった。あまり会話はないし、ただ一緒にいるだけの関係に思えた。ただそうは言っても、ミランダだけを連れだすとタバ子が一人になってしまう。折角二人で旅行しに来たのに、これでは元も子もない。結局あれこれ考えている内に、面倒くさくなり構わない事にした。それでも夜リビングで飲んでいると、「今日はスカイダイビングに行って来た」とか、「グレートバリアリーフの島でシュノーケリングして来た」とか、楽しそうに報告してくれたので、それはそれで良かった。

ある晩、リビングのソファーにミランダが座ってiPhoneをいじっていた。見ると目の色が違う。普段は外人みたいな薄緑色をしていたのが、黒に変っていた。別人かと思って聞くと、「日中はお洒落用のカラーコンタクトしているの」という。ハーフかと思っていたのですっかり騙された。結局、最後まで名前を聞くこともないまま別れた。

Wednesday 19 February 2020

奇妙な共同生活

宿泊は高いホテルを避け、Airbnbと称する個人の宿にした。ローケーションと価格を比べてメールすると、暫くして家主から了解の返事が来た。ホテルだと安くても$100程度は掛かるのが、これだと半分以下で済む。今回は市内の中心地に近い場所を取った。

空港からレンタカーでその宿に行くと、中から若い女の子が出て来た。「あれ!間違えたかな?」と思って一度は引き返したが、やはり住所は合っているので再度尋ねてみた。「やっぱりここはXXさんの部屋では?」と聞くと、さっきの子が「私達も借りているの」と言う。どうやら2LDKのアパートで、リビングとキッチンをシェアーする仕組みだと、その時初めて知った。女の子はオーストラリアの女子学生で名前はDina、もう一人は友達でデンマーク人のVictoriaと自己紹介した。決して美人ではないが、気の良さそうな二人で、それから奇妙な共同生活が始まった。

最初はこちらがリビングに居ると部屋に閉じこもり、こっちが部屋に入ると出て来るので、避けられているような気分になった。まあ当然かと思っていると、時間が経つとそれもそれもなくなった。部屋はクーラーがなく扇風機が廻っているだけで暑かった。夜になると裸で過ごすこともしばしばである。ある時、そのパンツ一枚で冷蔵庫に行くと、Dinaも同じような格好で出てきて鉢合わせになった。「いや失礼!(Oh! I'm sorry)」と侘びたが、先方は「いいのよ!(It's OK!)」と笑っている。これには流石驚いたが、ベランダの洗濯干しには、自身の洗濯物の横にブラジャーや女性の水着が掛かっているのは、何となく落ち着かないものである。

ただこっちは朝早くゴルフに出かけて、帰って来るとパブに飲みに行き、後は疲れて早く寝てしまう。先方は昼間は泳ぎに行って、夜は遅くまで遊んで来るから朝は遅い。そんなすれ違い生活が適度な距離感を生んで、終わってみれば何もなかった。ともあれ面白い体験だった。

Tuesday 18 February 2020

ケアンズのパブ

旅のもう一つの楽しみはビールである。ケアンズの町にはいいアイリッシュパブがあって連日通い詰めた。カウンターで「今日はどの銘柄にしようか?」とタップを見渡し、グラスに注がれるビールを眺める。頼むのは決まって1パイントである。量は結構あるが、時間を掛けると温くなってしまうので、さっと飲み切るのがコツである。特に冷えた最初の一口は堪らないものがある。ここまで来てよかった!と感動する瞬間である。

銘柄は何でも左程変わらない。何処にもあるのがVictoria Bitter(VB)とGreat Northern、さっぱりした口当たりで喉が渇いている時に飲むのにいい。じっくり味わいたい時は、瓶のSteamrailやCoopersのPale Aleが良かった。ただFurphyは味が薄いし、Pure Blondは瓶は綺麗だがアルコール度が3%とノンアルコールみたいで不味かった。オーストラリア産ではないが、やはりパブで頼むのはKilkennyになってしまう。あの繊細な泡が透明に変って行くのを待つ時間が、何とも幸せな気分にしてくれる。アイルランドのKilkennyの町には2度も足を運んだ親近感も大きい。その度に聞かされるアイルランドの悲劇と重ね合わせると、味わいも一層深くなる。

たまたま今回も現地で、1800年半ばのアイルランド飢饉を描いた「Black 47」という映画を見た。改めて酷い時代だったと思ったが、オーストラリアにもアイルランド南部の港から船に乗り移住して来た。ここのパブでは、日曜日の4時になると地元のアイリッシュ音楽家がやってきて演奏していた。一見して素人集団だが、皆いい笑顔で楽しんでいた。遥か地球の裏側まで移住した子孫が、こうして伝統を受け継いで生きている姿を見ながら、オーストラリアという国の形を感じたのである。

Monday 17 February 2020

カンガルーとゴルフ

今年も、手頃なゴルフと冷えたドラフトビールを求め夏のオーストラリアに行った。寒い日本から来ると天国に思える。今回は東京から7時間で行けるケアンズ(Cairns)を選んだ。機内からは赤道を超える辺りで、南十字星が見えた。ソロモン海峡やサンゴ海など戦時下の激戦地も近く、馴染みの地名に地理的な親近感が沸いた。

ケアンズはこの季節、湿気が多く気温も32~35度と高い。そのせいかゴルフ場はガラガラで、何時何処に行っても直ぐにスタート出来た。手引きのバギーを借りても、18ホールのグリーンフィーは20~40ドル(1600~3200円)と安い。毎日飽きもせず、終わって見れば10ラウンドも廻ったか?流石に足が重くなった。ただ自然に恵まれたオーストラリアならではの風景に出会うのが楽しい。その代表的なのがカンガルーである。ゴルフ場の木陰に生息していて、多いクラブでは400頭もいた。近付くと二本足で立つ姿が何とも可愛らしく、お腹から赤ちゃんが顔と出していた。ボールを探しに近付くと、体の大きなお父さんが警戒して立つが、子供たちは寝そべっている。ただ糞があちこちに落ちていて、これも自然に任せて掃除する訳では無いので、ちょっと気になった。それからカラフルな鳥も珍しい。ボールを探しに行くとカモメに威嚇されたり、カエルも暑いせいかボール洗浄器に入っていて、飛び出したのには驚いた。

オーストラリア人は気さくで、すれ違うと「暑いね!でも今日は未だいい方だよ」みたいな一言二言声を掛けてくれる。クラブハウスのおばさんもにサンドウィッチを頼むと、「このキャベツはウチで作ったんだよ!」と、すっかり仲良くなってしまった。終わってから冷えたビールを飲んで一日を振り返る。暑さで頭がボーっとしていたのが、次第に落ち着いてくる。スコアを数えて帰途に就くルーチンが、何とも充実した一日にしてくれる。

Sunday 16 February 2020

聖灰と聖杯

やはり古本屋で見つけたのが、帚木蓬生著「聖灰の暗号」だった。南仏を舞台にカタリ派の足跡を辿るミステリーである。東大仏文卒の氏でなければ中々書けない一冊だと感心した。物語は今は無きカタリ派の痕跡を辿って行くうちに、火炙りにあった僧侶の遺灰を見付ける。カタリ派は善悪の二元論を唱えたため、神を絶対視するカソリックから見れば異端であった。そのため中世では迫害に遭って消滅したと言われている。ただ迫害したのはカソリックだから、今でも都合の悪い過去を探ると邪魔される。

読んでいてダン・ブラウンの映画「ダインチ・コード(The Da Vinci Code)」に似ているな?と思った。あちらは聖杯でこちらは聖灰、謎解きを邪魔される所もそっくりだ。「ダインチ・コード」のクライマックスの舞台は、南仏の小さな村だった。主人公のソフィーが教会に入ると、村人が集まってきて彼女を取り囲む。彼らはシオン修道会の末裔で、キリストの聖なる血脈を代々守って来た従者であった。そこで観客はソフィーがキリストの末裔だと分かる。確かに南仏ではマグダラのマリアが祀られていて、キリストを連れて来た説があるから、強ちあってもおかしくない話である。ただキリストは神だと思っている人から見れば、それは許せない事である。

ただでさえも南仏のピレネー地方はミステリアスな場所である。岩山には多くの廃墟が残っていたり、海に突き出した一角にひしめき合うように家々が固まっている。その奇妙な光景は黙っていても歴史の郷愁を誘う。奇跡を生むルルドの泉も近くにあり、今でも多くの信者が集まっている。レンヌ・ル・シャトー(Rennes-le-Chateau)の謎も気になるし、そもそもキリストは神なのか人の子だったのか?これを切っ掛けに、その辺りを探ってみたくなってきた。

Friday 14 February 2020

日独を繋いだ潜水艦

古本屋で買った吉村昭氏の「深海の使者」はいい本だった。相変わらず氏の精力的な取材が光っていて、当時をリアルに再現していた。物語は太平洋戦争の最中、日独を行き来する潜水艦の奮闘を描いていた。3万キロの航海を、無線も無しで到達する船員の気力も沙流事ながら、周到に事を進めた両国の信頼関係に打たれた一冊だった。

本では当時を偲ばせる逸話が数多く紹介されていた。例えば、日本からドイツに行く時は、先方が不足していたゴムやコーヒー、酸素魚雷を持って行ったとか、反対に無線やジェットエンジンの技術を持ち返ったとか・・・。また軍の関係者だけでなく、当時のヨーロッパに駐在していた東大や企業の技術者、商社マンなどが登場した。昔知人のWさんが、「子供の頃にドイツに駐在していて終戦になり、イタリアの収容所で過ごした」と話していたのを思い出したが、聞いた事のある苗字に、「あの人は御子息では?」と思えてハッとした。また陸軍の大型飛行機(A26、キ77)が当時の世界飛行記録を出し、ドイツまで飛び立ったのも今から思えば大したものだった。

そんな中、日独会話を傍受した日系人の話が印象的だった。日本は敵の傍受を恐れて、在ドイツ大使館とは鹿児島弁で交信した。アメリカ軍は中々解読出来ないでいたが、陸軍に勤務していた日系人が分かってしまった。彼は日系人牧師の息子で、若い頃に故郷の鹿児島に留学していたからだった。戦後は駐留軍の通訳として東京裁判などで働いたが、同胞を売った罪悪感から最後は自害してしまう。彼がアメリカ陸軍に入った経緯も、父の若い頃の葛藤を小説にして勘当されたためだった。とても人間臭い話で心に残る件だった。