Tuesday 30 July 2013

走馬灯の南アルプス

特急あずさに乗って茅野に行った。新幹線とは違い、モノクロの揺れが心良い。車中から久々に見る南アルプスが過ぎていく。北岳、甲斐駒・・、相変わらず雄々としている。そういえば最近は山とは音沙汰なくなった。

北岳は富士山に次ぐ高い山、北岳バットレスと称する岸壁を尻目に、テントを担いで登ったものだ。行き交う人もなく、怖かった記憶が蘇る。雪の積もる夜叉神峠は18歳の時、朝日岳に行った時は20代後半、先輩のMさんが登山靴を忘れた事に気が付き、ズックで縦走した・・・。反対側の八ヶ岳もそうだった。同僚のO君と土曜日に会社が終わってから直行してキャンプした。彼は準備もなく来たので、大手町のスタイルで赤岳に登った・・・そんなことを走馬灯のように思い出した。

車中で地酒の「真澄」を飲みながら、暫し過ぎ行く景色に人生を振り返るのであった。

Monday 29 July 2013

ハンター・メイハンの棄権


ゴルフのカナダオープンで、2日目まで首位に立っていた選手が棄権して帰ってしまった。理由は奥さんの分娩に付き合うためだと聞いて驚いた。勝てば1百万ドルが入るのに・・・。選手はアメリカのハンター・メイハン、今日無事女の子が生まれたらしい。



それを聞いて思い出しのは、映画「炎のランナー」だ。オリンピック代表に選ばれ、いざ走ろうと思った矢先、出走日が休日と聞いて棄権した。信心深いキリスト教の選手だったことが原因だった。

先日も日本で代表を勤める英国人が、思春期の子供と分けれて暮らすのは大事な時期を逃す、と家族を優先して会社を辞めてしまった。同じようなことは、ある欧州企業との合弁交渉の時だった。夏から続いた交渉が長引き12月に入った。年内に決着と思って意気込んでいたのに、クリスマスが近くなると皆何気ない顔をして次々と休みを取り帰ってしまった。ハンター・メイハンだけでなく、あちらの人は、何か人生の優先順位が違う気がする。

カーリングのレッスン

軽井沢にカーリング場がオープンしたというので行って見た。素晴らしい建物で、野外は冬のスケート場も隣接していた。

試にレッスンを受けてみた。室内に入ると7-8°とヒンヤリしている。靴は片方がゴムのカバーが掛かっている。後で分かったのだが、右は滑り止めが付いているが、左はカバーを外すと滑るようになっていた。氷上を歩くのに暫く時間が掛かった。して右ひざをついて、何度かストーンを投げてみた。意外と簡単で1時間もしないうちに、嵌ってきた。

カーリングのストーンは真っ直ぐ滑らせると摩擦が大きいので、回転させる。するとストーンはややスライス、フックが掛かり曲がる(カールする)、それが語源という。ストーンは真ん中に当たると止まるが、左右に当たると大きくはじき出される。発祥はスコットランド、ということで使われているストーンはスコットランド産だった。暑い夏に面白い体験をした。

Friday 26 July 2013

夏の倉敷


厳しい暑さの中、倉敷を訪れた。何年振りだろうか、相変わらず白壁の街はしっとりしていて美しい。今回も大原美術館に足を運ぶ。ルノワール、モネ、マチス・・・大正時代によくこれだけの作品を買い集めたと感心する。そのバイヤー児島虎次郎に興味を持った。


児島虎次郎は東京美術学校を出た絵描きである。同郷の吉見で、倉敷紡績の大原孫三郎に美術品の収集を委嘱された。欧州絵画のみならず、中東ペルシャの土器、磁気など多くの美術品を集めた。48才で若死にしているので、短い間に世界を行き来し、精力的に買い求めた様子が窺える。それにしてもお金はどうやって決済してのだろう、また砂漠からどうやって日本まで送ったのだろうと、色々な疑問が沸いてきた。

冷たいざる蕎麦で涼を取り、倉敷駅に戻った。改めて駅界隈を見渡すと、大小のビルに所狭しと看板が張り付いている。汚いというかとても見難いの一語に尽きる。100年前の先人が残した景観はあんなに綺麗なのに、これは一体どうなっているのだろう?

Tuesday 23 July 2013

オラドゥールの虐殺

フランスの中部、リムーザン地方はリモージュ焼で有名なリモージュや教会の町ブルジェがある。その中に、オラドゥール・スール・グレンヌ(Oradour-sur-Glane)という小さな村がある。ただ在ったという方が正しい。

時は今から69年前の1944年6月10日、ノルマンジーに連合軍が上陸して間もない頃だった。この村でドイツ軍が住民642人を虐殺した事件が起きた。フランスのレジスタンスの捜索が切っ掛けだったらしい。凄いのは、誰も居なくなり破壊された村を戦後に保存、記憶の劣化を防いでいることだ。一度訪れたことがあったが、さっきまで走っていた車や自転車、電車のレールなど、まるでポンペイの遺跡のようにそのまま残っていた。鉄は赤ちゃびてヒト気はないが、今でも列記とした村である。

9月にここで、独仏の大統領が出席する追悼式が披かれるという。日本と比較するのは適切ではないかも知れないが、いつも過去を直視する姿勢に感心するのだ。

Monday 22 July 2013

オランド夫妻のバカンス

夏休み、バカンスの季節がやっていた。せめて1週間のお盆休みに対して、フランスでは多くの人が1か月を休む。正に高嶺の花である。おそらく誰に聞いても、最も好きな言葉は”バカンス”だろう。1年をこの季節のために生きている、そう言っても過言ではないだろう。

読んで字の如く、バカンスは空白である。どこに行くでもなく、田舎でゴロゴロするのがスタイルだ。強い日差しと低い湿度、田舎だが日本と違うのはどこでもカフェや地元のレストランが有り、都会センスが漂っている。最初の数日は仕事が気になるが、暫くすると短パンでTシャツのラフさがすっかり板についてくる。いつぞや新聞で「お宅拝見」の特集があった。有名人の夏休みの取材だったが、庭のパラソルの下で寛ぐ人々は、とても人間らしく見えた。そして煉瓦の赤と草木の緑、そして海の青さと、どこを切り取っても絵になっていた。

少し前に現閣僚の夏休みが紹介されていた。大統領のオランド夫妻はどうしているかと思いきや、コードダジュールにいた。ブレガンソン(Brégançon)という、ドゴール以来の大統領が滞在する島だった。昔監獄だったところから本人は牢獄だと語っていたが、満更でもなさそうだ。前大統領のサルコジに比べれば質素だ。流石滞在は1週間という。

Saturday 20 July 2013

ハリマオ

昭和の初め、新天地を求めて日本から海外に渡る人は多かった。その中の一人、福岡県の床屋を営んでいた家族がフィリッピンに行こうと船に乗った。ところが途中で座礁、トレンガヌ(今のマレーシア)に落ち着いた。時は帝国が派遣を争う時代、家族は排日の嵐に巻き込まれ、7歳の少女が虐殺されるという悲劇が起きた。その兄はその日から人が変わったように復讐に燃え、ゲリラの親玉になった。本名は谷豊、後のハリマオであった。

その後、太平洋戦争前夜に陸軍中野学校の武官が彼に接触、マレー半島進出の南方工作を依頼した。ハリマオは現地で来る日に向け準備し、そのお蔭で進軍がスムーズに行ったという。ハリマオは開戦の翌年マラリアで死亡したが、戦後のTVドラマ「怪傑ハリマオ」で取り上げられたので、記憶に残る処となった。

昨今の会社はどこも国際人の養成とか云ってお金を掛けている。企業戦士と書いて企業戦死と読むと云うが、昔の人は裸一貫で凄かった。

Friday 19 July 2013

ニイタカ山ノボレ

今から40年前になるか、香港から日本に戻る飛行機が異常を来した。緊急着陸したのは、台湾の台北、国交が無かった時代、乗客は搭乗員共々バスで近くの宿の連れて行かれた。今思えば、有名な北投(ペイトウ)温泉だった。当時は日本の温泉文化が残っていて、異様な光景を目にした。またその時に会った外交官が、「台湾はとても親日的で、骨を埋めてもいい」と言っていたのも耳に残っている。

                                                                 台湾は中国との複雑な歴史がある。一方経済は島国なので、全て輸出入に頼っている。特にエネルギーは油を輸入し、火力発電で電気を賄っている。原子力は魅力的だが、心配が付きまとうので手が出せない・・・日本と似ている・・・そんな話を今日聞いた。

台湾の最高峰は玉山である。標高3,952mもするので富士山よりも高い。玉山の旧名は新高山(ニイタカ山)であった。そう、真珠湾攻撃の暗号で使った「ニイタカ山ノボレ」の新高山である。当時は日本の領土だったところから、引用されたようだ。ひょんなことで、台湾を思い出した。

ベルリオーズの曲

久々にサントリーホールにクラシックを聴きに行った。東京フィルの演奏で、最初はでブラームスのバイオリン協奏曲だ。登場したのは前橋汀子さんだった。赤いドレスに身を包み、尻上がりに熱気が入るのを感じた。とても70歳とは思えない、凄い迫力だった。

2曲目はベルリオーズの幻想交響曲だ。プログラムを見ると、原題はSymphonie fantastiqueとある。直訳すれば「素晴らしい交響曲」だろう。何度か聞いたことはあったが、第2楽章を除けば分かり難い曲だ。一目ぼれした英国人女優に着想した曲らしい。彼女とは3年後に結婚したのでハッピーかと思いきや、現実はそうでもないらしかった。聴いていて、すっきりしないのはそのせいだろか?

彼はフランス人で、長くパリのモンマルトルに住んでいた。お墓もモンマルトル墓地にあり、以前訪れたことがあった。近くに親交のあったスタンダールやバルザックが眠っていた。お墓には、最初の奥さんの死後結婚した女性と3人が入っていた。それにしても、たまにはクラシックもいいものだ。

Tuesday 16 July 2013

時代は逆セクハラ

あるキャンパスを歩いていたら、女性の金切り声が聞こえた。夏の炎天下、遠くで男女が座って角を突き合わせている。何やらもめているようだった。女性は日本人、一方男性は外人である。次第に我々との距離が弛まると、女性が「I was loving you!!!」という声が耳に入った。どうやら痴話喧嘩らしい。暫くすると男は肩を竦め、二人は背中を向け別々に歩いて行った。それにしても女性の迫力は凄かった。今の時代を象徴するようなひとコマだ。

そういえば、近頃は逆セクハラが話題になっている。ハゲ・デブ・チビの肉体的中傷なら未だしも、男の沽券に係わるケースも多い。先日も「そんなこと言うと、チョッキンチョッキンするわよ!」と豪語する女傑がいた。これには流石気勢を削がれた。

平和が長く続くとユニセックス化が進むと言う。服や言葉使い、引いては結婚形態に男女の違いが無くなっていく。日本はまだまだ女性の社会進出が低いというが、それでも一昔に比べれば様変わりだ。大学では女子学生の方が成績はいいし、女性幹部が多い会社ほど伸びる時代だ。これからの若い男は大変だ。嗚呼!明治は遠くなりにけり。

Thursday 11 July 2013

島耕作

島耕作が社長を辞めて会長になると言う。シリーズの熱狂的なファンではないが、課長時代から時々愛読させてもらっている。正義感があり実直、何度か人並みの挫折を経てトップに上り詰める姿は、正にサラリーマンの鏡だ。そして何といっても女性にもてる。
                                                                   以前ある人の祝賀会で、作者の弘兼憲史さんにお目に掛かった。塩ジイ始め多くの国会議員や柳橋の芸者さんが彩りを添える、とても華やかな会だった。彼も短いスピーチをしたが、話の節々にとても粋で遊び心を持った人だと思った。

その時のお土産は、出たばかりの「常務島耕作」だった。主賓の計らいだったが、2人のお人柄が印象に残る会だった。

Wednesday 10 July 2013

北大とサッポロビール

夏の札幌に行った。さぞかし涼しいかと思いきや、あまり東京とは変わりない。ただ北大のキャンパスに入ると雰囲気は一変、豊かな緑とひんやりした空気は別世界だった。

広大な敷地に流れる風にはアロマがあった。水を贅沢に使った校内の設計も素晴らしい。トイレに入って水道の水を捻ると、とても冷たい。やはりここは北海道だ!自転車で移動する学生、ベンチで寛ぐ地元の人々、全てが絵になっている。

夕方になったのでサッポロビール園に行く。まだ陽が高いというのに、結構飲みに来ている人が多い。ウェイトレスに聞くと、夜は予約がないと入れないそうだ。そう聞くと地元の人が羨ましくなる。早速、近くの千歳工場で出来た黒ラベルを試す。例によって勝手な品評を初めている内に、気が付くと2杯が3杯・・4杯・・・と。

Tuesday 9 July 2013

ハロルド・フライの・・・

ラッシェル・ジョイス著「ハロルド・フライの予期しない巡礼(The unlikely pilgrimage of Harold Fry)」という本を読んだ。舞台は英国、定年を迎えた65歳の男が、ある時昔の同僚が癌だと知る。彼は何を思ったか、着の身着のままで病院に向かって歩き始めた。

家族には時々連絡は取るが、歩きながら妻、子供との人生を振り返る構成になっている。そして歩き続けること3か月、1000km離れた病院に着くが既に患者は息を引き取っている。実はその同僚(女性)との間に子供がいた。そしてその子は自殺した。その負いを一身に負ったのがその患者だった。

巡礼とは自己の呵責の念と向かい合う旅だった。ただ時間を掛けて読んだ割には物語の展開がなく、あまり面白くなかった。著者は女性であった。おそらく晩年のセンチメントを伝えようとしたのだろうが、ストーリーに力がなかった。

Monday 8 July 2013

アラモと長篠の戦

アメリカの景気を支えるのは南部、取り分けテキサス州の力だ。GDPだけで1兆ドル、日本の5分の1もある。テキサス州は元々はメキシコだった。それを入植したアメリカ人が力で奪い取った土地である。サミュエル・ヒューストン始め、デービー・クロケットやジェームス・ボーイが活躍した。

時は1836年、アラモの砦を巡る攻防が山だった。5000名のメキシコ正規軍に、200名足らずの入植者が対峙した。砦は激戦の末墜ちて、守備軍は全員死亡した。しかしその勇気とボラティアー精神が引き金になり、その後テキサス始めカリフォルニアなど西部の一帯がメキシコから独立した。

そのアラモの砦跡は、ニューオーリンズの町にあって今でも多くの観光客が訪れている。庭に志賀秀隆という日本人が贈った碑を見つけた。早稲田の先生だった人が、1914年に感動して寄付したらしい。彼は長篠の戦いとアラモを重ね合わせた。長篠の戦いは武田と織田・徳川の1575年の戦いだ。鳥居強右衛門という侍が、城明け渡しの仲介を武田に頼まれたが、「織田軍が直ぐ来る!」と叫んで窮地を救ったそうだ。彼は即刻殺されたが、自身の命を顧みることなく、その精神がアラモと繋がったという。1年前の旅をふと思い出した。

Sunday 7 July 2013

梅雨明けと虹

今日は36度、やっと夏らしくなってきた。暑い中、テニスクラブに行った。水分補給が大事と水筒持参だ。夕方になると西の空が怪しくなってきた。雨雲が徐々に迫ってくる。一雨来るかな?と思っていたら、ポツンポツンとお大粒の雨が降っていた。雷も聞こえたので、一目散で退避した。

するとスコールのような激しい雨になり、一瞬でコートは水浸しになった。東の空は晴れているのに凄い雨足、雨がスターダストのように光って見える。そして20分ほどして、雨が上がると虹が出た。クラブでは避難方々、暑さに参った人々がビールで盛り上がっている。そして窓越しに虹が出ると拍手喝采!正に誰もが知っている日本の梅雨明けの瞬間であった。

春夏秋冬、日本人は季節の変化に極めて敏感だ。そんなことを感じた日だった。

Friday 5 July 2013

ビクトル・ユーゴの逢引き

Le Pointというフランスの新聞がある。そのネット版に毎朝「今日は何の日」というコラムが載っている。フランスだけあって中々ウィットに富んでいて面白い。

例えば今日は、1845年7月5日にビクトル・ユーゴが逢引きの寝込みを襲われた日であった。ビクトル・ユーゴはレ・ミゼラブルを書いた大文豪である。当時は43才、幼馴染の奥さんとは疎遠なり、レオニーという愛人が出来た。彼女は25才、その日は2人が逢引きの宿にいた。ところが彼女は画家の奥さんであったところから、嫉妬に狂った亭主が警察に依頼、家捜しをした。警察が片っ端から門を叩き、ビクトル・ユーゴの宿まで来たが、彼は知らぬ振りをし頑として開けなかった。そのため事件には至らなかったが、その後不倫が発覚した。捕まったのはレオニーだった。有名人だったビクトル・ユーゴは放免された。彼女はサン・ラザールの牢獄に入り、2人の関係は終わったという。

記事で面白かったのは、ユーゴの心境をして、「いつでも準備は出来ている(toujours prêts!)」とDSKの言葉を引用していることだった。DSKは本ブログでも書いたが、ドミニク・ストラス・カーンの略称だ。前IMFの元専務理事で強姦の嫌疑で辞めた人だ。

Thursday 4 July 2013

ちあきなおみの瞬き

陽が長くなったので夕方から公園を走る。まだ7時過ぎというのに明るいのは有難い。そしてシャワーを浴びビールを用意する。TVを付けると70年代の懐メロをやっていた。誰かと思いきや、ちあきなおみの喝采が始まった。聞き慣れた歌だが、彼女は歌っている間、瞬き(まばたき)をしないのを、今日まで知らなかった。

長年見慣れたり、付き合っていても意外と知らない事は多いものだ。旧友のN君もかれこれ40年近くなる付き合いだが、昔から飲んで騒いで終わりの人だった。ところが暫く前に温泉に行った時、若い頃に好きな人がいたという話を始めた。それ自体はさして驚くことではなかったが、学生時代からおじさんのような風貌だったのでその世界とは無縁の人だと思っていた。それだけに意外だった。

その時思ったのは、「身近な人ほど知っているようで知らないものだ」ということだった。そう思うと、ヒトに奥深いものを感じたのだ。

Wednesday 3 July 2013

今でしょ!

定年を間近にした人が、気が付くと休みが沢山残っていることに気が付いた。何かの時にと取って置いた有給休暇だが、いざ使おうとすると中々消化できない。加えて、もう会社に来なくていいと言われると、だったら行ける内に行こうという気になるらしい。

似たような話で思い出すのは戦後のウィスキーである。昭和30-40年代のジョニ黒やオールドパーはとても高価だった。我が家にも棚の真ん中に飾ってあった。ある時大事なお客さんが来た。今日こそは飲むのだろうと子供心に思っていたが、父は結局封を空けなかった。その後は誰でも手が届くような飲み物になってしまった。「あの時飲んでいればどんなに喜ばれたことだろう!」と思うのである。

友人で何かにつけ「No one knows what happens tomorrow」と言う人がいる。誰も明日どうなるか分からないから、今に生きようという意味だ。夢がないようだが私も同感だ。お寿司を一人前食べる時に、昔は一番美味しいマグロを最後に取っておいたが、今では順序が反対になった。「今でしょ!」が流行語になるのも分かる気がする。

Tuesday 2 July 2013

ウィンブルドンのカネッピ

今年のウィンブルドンは波乱続きだ。男子はフェデラーとナダルが、女子はNO1からNO3シードが早々姿を消した。日本は錦織がベスト16に入れなかった。

そんな中、今日は女子の準々決勝でエストニアのカネッピ(Kanepi)とドイツのリシキ(Lisicki)の対戦があった。リシキは本命のセレナに勝って勢いがある。残念ながらカネッピは敗れてしまったが久々の表舞台だった。彼女は小国エストニアの有名人である。バルト海のエストニア船籍、タリンクのロゴを付けてPRしている。後継者も早々引退してしまったので、今では一人でテニス界を背負っている。国民の期待も大きく、こうしたビックイベントの日には、皆テニスクラブなどに集まって声援を送る。それが目に見えるようだった。

そんな彼女にある時レストランで会ったことがある。その時に限ってカメラを持ち忘れ後悔したが、とても大柄でボーイッシュな人だった。三菱の中古に乗っていたのが印象的だった。

クロアチアのEU加盟

クロアチアがEUに入ると発表された。28番目の加盟だそうだ。トルコが門を叩いている内に、いつの間にか決まってしまった。

クロアチアはユーゴスラビアが分割して出来た国だ。旧ユーゴはあまりに複雑な民族と歴史故に、中々理解に難しい地域である。コソボ・セルビア・モンテネグロ・・・バルカンの火薬庫と称して、昔から宗教対立が続いた。クロアチア人は殆どがカソリックである。そのため西側に近く、今ではドイツなど西側からの観光客が多いと言う。

ドイツ人のMさんも、夏休みにはクロアチアに行くのが年中行事になっている。ドイツから遥々バンに家族を乗せ、陸路クロアチアを目指す。指したる旧所名跡を訪ねる訳でもなく、海や湖の近くでキャンプするパターンである。地元の安い食材を仕入れ、泳いで一段落するとハンモックで昼寝する。知人も多く、察するにノスタルジーを感じるらしい。アドリア海に面した素朴な国、いつか行って見たい。