Saturday 29 June 2019

バルザックの墓参り

日本のお墓は少し物騒な感じがするが、海外のお墓巡りは好奇心が先に立つせいか、不思議と怖さがない。今までのお墓参りで一番感動したのは、フランスの作家バルザック(Balzac)である。パリのペール・ラシェーズ(Père-Lachaise)の墓地を訪れた時は、彼の生涯を思い返して身近な人になった。

著名な作家だったバルザックは、ある時ウクライナに住む夫人から読書感想の手紙を貰い、文通を続ける内に何と2000Km離れた地まで馬車で会い行くことにした。その旅で身体を壊し最後は死に至るのだが、その後2人の交際は深まり、夫人はパリにやって来て結婚した。ただ彼が死の床に就く頃には夫人に別の男が現れ、バルザックはそれを知らないまま息を引き取る。その喜劇的な生涯は正に彼の作品そのもので、人間味を感じたのであった。

その話を最初に知ったのが、中央新書の「物語ウクライナの歴史」だった。著者の黒川祐次氏は元大使で、学者にはないユニークな視点は、数ある「・・・の歴史」シリーズの中でも実に面白い本である。またその墓参りが切っ掛けで、バルザックの本を読むようになった。有名な「谷間のゆり」は濃厚過ぎるセンチメントが苦手だったが、「ゴリオ爺さん(原題:Le Père Goriot )」はいい作品だった。娘たちを上流社会に送りながら、自身は慎ましい生活を強いられる父親を描いている。カネをせびりに来る娘たちに、自身を犠牲にして惜しみない愛を注ぐ姿は、正に神父(Père)そのものであった。

Thursday 27 June 2019

東郷平八郎の墓参り

初めて訪れた多磨霊園は、実に立派な墓地だった。広大な敷地の手入れも良く、何より故人を祀るに相応しい厳粛さがあった。山本五十六司令長官のお墓の隣には、東郷平八郎元帥のお墓があった。手を合わせて、日本海海戦の勝利にお礼した。もしもあの時ロシアに敗れていたら、日本はソ連の属国になり赤化したかも知れない!その後に生まれた自身の生き方も大きく変っていたかも知れない?そんな確証を思い出した。

それは数年前に訪れたラトビアのリバウ(現在のLiepaya)であった。リバウは大西洋に面したロシアの不凍軍港で、バルチック艦隊はそこから出港した。当時はニコライ皇帝を迎え賑わった港町だったが、今では死んだようで、昔の軍施設のアパートは細々暮らす低所得者の住居になっていた。ソ連が引き揚げた町は経済が落ち込み、職の無い若者がカネをせびる姿が印象的だった。その彼らを今の日本と重ね併せたのだが、つくづくあの一戦は勝って良かった!!!

東郷さんのお墓の近くには、西園寺公望や高橋是清のお墓があった。西園寺さんは良く知らないが、高橋さんはロンドンで対ロシア戦の起債に成功した人だ。あのおカネがなかったら東郷さんの会戦もなく、あっさりロシアの軍門に下っていたかも知れない。その功績にお礼し手を合わせた。新渡戸稲造の彫刻も目に付いたが、接点がないので素通りし、小さかったが近くの上原謙こと池端家のお墓に向かった。「いつも加山さんの歌を楽しませて頂いています」と墓前に報告し、最後は小泉信三博士の墓を探した。やっとたどり着いたお墓はやはり品があって他とは違った。博士とは、子供の頃に握手した事がある。それは戦災で熔けてくっ付いた指の手だったが、氏の威厳に圧倒されて驚く処ではなかった。そんな霊園の偉人巡りだったが、やはりお墓はどこか気持ち悪く、また行こうという気はしない。

Tuesday 25 June 2019

山本五十六の墓参り

昔の映画だが、「連合艦隊司令長官 山本五十六」は味のある作品である。三船敏郎が扮する長官役は威厳があり、暫く前に演じた役所広司とは雲泥の差である。加治川下りの船頭から「お客さん、越後の方かね?」と声を掛けられるシーンから始まるが、長閑な時代の日本が何とも懐かしい。そんな山本という軍人はどんな人だったのだろ?特に今回、アメリカの博物館に行くと、東条と彼は歴史のキーマンとして必ず出て来たので、今更だが気になった。そこで一度その足跡を辿ってみることにした。

まず訪れたのは、長岡の山本五十六記念館である。今では東京から新幹線で2時間程で行ける。小さな記念館だったが、彼の遺品がいくつか展示してあった。何より子供の時から字が綺麗なのに驚いた。記念館の近くには生家が再建されていた。入ると、小さな木造の2階で勉強した様子が少し伝わって来た。海軍兵学校は2番で入ったというので秀才だった。その後もハーバード大留学やロンドン軍縮交渉に携わるなど順調に昇進し、太平洋戦争の時に海軍の司令長官になった。しかしもしあの時、司令長官が他の人だったらどうなっていたのだろう?真珠湾攻撃が無かったら、アメリカの参戦もなかったかも?本当に真珠湾攻撃と早期講和の筋書きは正しい判断だったのだろうか?特に彼は当時は欧米を知る数少ない国際派だけに、その自負心が大き過ぎた事は無かっただろうか?恐れ多くも、色々な事が頭を過った。

最後に多磨霊園のお墓を訪れた。多くの有名人が眠る墓地にあって、隣の東郷平八郎とその墓の大きさは別格だった。それにしても、開戦から1年半も経たないで戦死されたのは早過ぎた。運命の巡り合わせに思いを馳せ、暫し手を合わせた。今では昔の人になった寂しさに、聞こえてくるのは雨の音だった。

Friday 21 June 2019

アディダスの三本線

先日、テニスの公式戦に参加した時だった。係りの人から、「そのシャツは駄目です!着替えて下さい」と言われた。「何でですか?」と聞くと、「アディダスの三本線は駄目なので・・・」と訳の分からない事を言われた。その場は取り敢えず言われた通りにし、試合が終わってから確かめに行くと、服に着けるロゴは13㎠が2つまでと決まっているが、アディダスの三本線は商標登録されているので、ロゴ扱いになるという。

本当かな?と思って調べてみたら、アディダスの三本線は2014年に商標登録されたが、2016年にはEUの知的財産庁がその登録を取り消しているではないか!その後、決定を不服としたアディダスが提訴していたが、それも今週の19日に下級審が登録を無効する決定を下した。と言う事は、着ても問題ないじゃない?という事になる。日本テニス協会に照会しても、まだ返事がない。

アディダスと言えば、思い出すのはベルナール・タピである。90年代半ばにフランスの実業家のタピが買収に成功した。それはドイツ人にとってはショッキングな出来事だったが、タピ氏は一躍時の人になった。ところがその後、サッカーの八百長事件などで逮捕されたのを契機に会社の業績も悪化し、最後は会社を手放した。サンジェルマンにあった豪邸が銀行のかたになり、空き家になっていたのが象徴的だった。昨日も原宿でスニーカーを巡り販売が中止になる騒ぎがあったり、有名ブランドだけに何かと話題には尽きない。

Tuesday 18 June 2019

空母いぶきの映画

先週、ホルムズ海峡で日本のタンカーが襲撃された事件があった。アメリカはイランの仕業だというが、日本の首相とイランのトップがあっている時に日本の船を狙う事なんてするのだろうか?どう考えても不自然だ。ひょっとしてCIAが絡んでいるのではないか?そんな事が真っ先に頭を過った。時あたかも中東に1000名の増兵をしようとする矢先である。緊張の高まりは派兵の大きな後押しになる。特に今回、東海岸の軍事施設を見るにつけ、「そこで働く人達の雇用維持には戦争が不可欠」を実感した事もある。

そんな折、今上映している「空母いぶき」を観に行った。映画はフィクションだが、尖閣諸島に中国が突然攻め込んで来るというシナリオである。戦闘シーンは迫力があり、当たり前だがミサイルが発射されれば、あっという間に飛んで来るものだった。また飛行機や潜水艦の数が大きく劣ると、戦う前から勝敗が決まってしまう。そんな現実を突き付けられたようだったが、如何せん俳優が酷かった。前評判で酷評されていた佐藤浩市はやはり三流役者だったし、緊迫した事態なのに悠長に構えていて、見ていて歯痒かった。

映画では、最後は安保理事国の潜水艦が出動して仲裁するのだが、実際はアメリカに頼るしかない。法の整理も早くしないと・・・。

Sunday 16 June 2019

降伏文書は2ドル

アメリカでは、今更だが思わぬモノを目にした。シルバースプリングスの住宅地では、犬の糞を片付ける袋が路上に設置されていた。日本では飼い主が袋を持ち歩くのが常識だが、その習慣が無いのだろうか?パリでも糞専用のバキュームバイクが朝になると拾い廻る位だから、糞片付けは行政の仕事なのかも知れない。
 
またホワイトハウスの向かい側にある土産ショップを覗くと、歴代大統領の首振り人形や、トランプ大統領と金正恩の人形セットなどが置いてあった。トランプ大統領が良く被っているMake America Great Againのロゴが入った帽子もあった。ロンドンでもロイヤルファミリーのグッズが多いが、ここまで茶化す事はない。やはりアメリカは寛容で大衆的なお国柄である。


かと思えば、マッカーサー記念館では、太平洋戦争での日本の降伏文書(Instrument of Surrender)を2ドルで売っていた。あの戦艦ミズーリ号の甲板で行われた式典のコピーだが、日本政府を代表した外務大臣重光葵と、軍を代表した梅津美治郎大将が漢字でサインしていた。その下には連合軍のマッカーサー総司令官、ミニッツ提督に続き、中国代表の漢字を見るに付け、忘れていた過去を突き付けられたようだった。それにしても、自国でも見た事も無い貴重な資料が、遥か彼方の土産物屋で売られているとはどういう事なのか?

Saturday 15 June 2019

気軽なアメリカンゴルフ

東海岸を旅していると、車社会の味気なさが気になる。泊まるのは郊外のドライブインのため、夜の食事は近くのレストランまで車で行く。ただあるのはMacやSubwayなどのチェーン店が多く、昼と変わらないメニューに食欲も出ない。アルコール類を置いていない店も多いから、最後は大型スーパーに寄ってビールを買い、ホテルで飲む破目になる。オーストラリアもそうだったが、路地裏が恋しくなるとはこの事で、その点夜はヨーロッパの方が楽しい。
 
ホテル代が高いのも気になる。日本でも馴染みのホテルコンフォートは、日本なら6~7千円程度なのに1万円もする。食事代もやや高いので、購買力の為替は1ドル=70円程度かと思ってしまう。その代わりにガソリン代は安い。やはりアメリカである。1Lが80円程度だから、日本の6割程度である。

何よりゴルフが安いのが嬉しい。カート付きで18ホールを廻っても平日なら2~3千円程度である。ただ休日になると倍になるが、それでも日本に比べると安い。それもぶらっと行って、料金を払えば直ぐにスタートできる。カートの追い越しも日常的だから、9ホールは1時間程で廻れる。倶楽部もシンプルで、売店の人とスターターの2人が居るだけである。あとアルバイトがカートの片付けをしている。ロッカーもシャワーもないから、終わると駐車場で靴を履き替えて帰って行く。その気楽さが、多少スコアは悪くても、ゴルフを楽しくしてくれる。ただゴルフ場が近所の人の散歩コースになっているので、コースに犬の糞が落ちている。これには参ったが、一緒に廻ったアメリカ人は誰も意に介さない。この辺もお国柄の違いだった。

Friday 14 June 2019

大平洋戦争の戦利品

ヴァージニアの戦争博物館に行くと、日章旗や軍刀など数多くの戦利品を陳列していた。日本では殆ど見ることがないだけに、珍しく眺めた。ただ故人の形見が、遥か遠い国で見世物になっているのは哀れである。以前、テキサス州の博物館に特殊潜航艇が眠っていた時もそうだったが、「国に帰りたい!」と言われているようだった。

ノーフォークにあるマッカーサー記念館(MacArther Memorial)には、東条首相が保有していた2本の名刀があった。アイゼンハワー大統領から贈られたらしい。マッカーサーは代々軍人の家系で、父もフィリッピン総統を務めるアジア通のエリートだったようだ。ただ戦後に大統領候補になった時、日本の開戦に理解を示した事が裏目に出て候補から外れた。記念館は立派だったが、今では訪れる人も少なく、何か過去の人という感じがした。また日本に駐留した時、奥さんと一人息子を写した写真が何枚かあった。ただその息子は軍人でなく音楽家の道を選び、マッカーサーという名前も改名したという。偉大な父から逃れたかったようで、栄光には後日談がある事を知った。

大平洋戦争は、真珠湾から始まり、ミッドウェー海戦がターニングポイントになり、最後は広島の原子爆弾で幕を閉じた。そのストーリーは何処に行っても同じで、海軍兵学校のアナポリス(Anapolis)の碑にもその件が載っていた。庭には日本の酸素魚雷も置かれていて、敵国への敬意も伝わって来た。またダラス空港の航空博物館には、広島に原爆を落としたエノラゲイに並んで、月光、紫電改と言った日本の戦闘機が置かれていた。当時の最新鋭の技術を持ち帰ったようだ。日本人の知らないモノがアメリカに行くと見れる、考えて見ればそれは不思議な事である。

Wednesday 12 June 2019

ライト兄弟の実験場

美しい自然に触れたいと、ノースカロライナ州のアウターバンクス(Outer Banks)と呼ばれる砂州を見に行った。海沿いに細く連なる陸地で、バルコニー付きの家と木造の桟橋が東海岸らしい風景を繰り広げていた。

その一角にライト兄弟が世界初の飛行に成功した実験場があるというので寄ってみた。Devil Kill Hills(悪魔を殺す丘)と呼ばれる小高い丘と広大な滑走路は、今では国立公園のレンジャーが管理していた。海から吹き上げる風に乗って、その日は4回の飛行に成功、その4つの着地点に碑が建っていた。時は1903年というからまるで昨日のようだ。改めてこの100年の人類の進歩を感じた。またライト兄弟は2人とも生涯独身で空を飛ぶことに掛けた、その生き方も興味をそそった。因みにこの実験場のある街はキティーホーク(Kitty Hawk)と云った。あのジェット戦闘機の名前もここが発祥なのだろうか?

途中、英国の植民地時代の町を復元したウイリアムズバーグ(Williamsburg)とヨークタウン(Yorktown)に寄った。今でも当時の服装を着た職員が町の生活を再現していて、改めて英国人は美しい街造りをする国民性を感じた。その再建と維持に掛けるお金も桁違いで、聞くとロックフェラーなどが援助しているという。日光の江戸村とちょっと違ったのは、アメリカ人のルーツの学習場所であった。鍛冶屋、洋服屋などの店の一角で、アフリカ人奴隷の競りも再現されていて、訪れる黒人の子供たちが神妙な顔をして見ていた。ただ200年前はそんなに古いという感じがなく、日本人的にはテーマパークのようだった。

Tuesday 11 June 2019

JFKのお墓参り

昔から偉人のお墓参りを趣味にしている。会った事もない雲の上の人が、お墓に行くと等身大で身近な人になるからである。それはとても不思議な感覚で、生家と組み合わせるともっと親近感が増す。今回も、アーリントン墓地に眠るJFKこと、ケネディー元大統領のお墓参りに行った。

アーリントン墓地はメモリアルデーの前後だったので、もの凄い人でごった返していた。受付で手荷物検査を済ませ、トロリーと呼ばれるガイド付きの電動カートに分乗して移動するのだが、それも長い列を作っていた。カートがJFKのお墓に着くと、小高い丘の下にジャクリーン夫人と2人の子供の墓碑があった。子供は確か飛行機事故で亡くなったジョンだけかと思っていたが、二日間だけ生きたもう一人の息子がいたようだ。何年か前にダラスの暗殺現場を訪れた時の記憶も蘇り、その謎めいた事件が頭を過った。あの時、血に染まったシャネルのドレスを着てジョンソン大統領就任に立ち合い、富豪オナシスと再婚したジャクリーヌ夫人だったが、最後はこうしてJFKと並んで眠っていた。暫し手を合わせご冥福を祈った。少し離れた処に弟のロバートとエドワード、そしてお父さんのジョゼフので白い十字架を見つけた。ケネディー家はアーリントンでも別格な扱いだった。

先のトロリーは墓地ツアーと謳っており、神聖な場所だが列記とした観光地である事が伺える。渡された地図にはHonor,Remember,Explorerと書いてあった。「敬意を持って記憶に留め故人を探索しなさい」という意味になるのだろうか?その感覚はとてもアメリカ的であった。以前、和歌山の高野山に行った時も外人観光客が多かったが、何か深山霊場を勝手に闊歩されると汚される気分になった。それに対し、ここはもっとどんどん知って欲しい!そんなメッセージが伝わって来た。それは多民族と単一民族の違いだろうか?故人の扱いもお国柄を反映していた。

Monday 10 June 2019

ノーフォークの軍港

ワシントンDCから南に車を走らせると、スタットフォードという町に南北戦争の戦跡があるというので寄ってみた。行くと森に看板が立っているだけの元駐屯地で、ひと気もなく拍子抜けした。その日は町に泊まり、翌朝気分転換にゴルフをする事にした。アメリカのゴルフ場はいつ行っても空いていて、一人で勝手に廻れてカート付きで3000円程度と安いので気楽だ。その日も近くの倶楽部に行き、スタートしようとすると、一組前にやはり一人でラウンドしようとしている人が居た。「一緒に廻らない?」と聞くと快諾してくれ、聞くと地元の海軍に勤務している黒人だった。暫くして、物凄い音を立てたジェット戦闘機がゴルフ場の上空に飛来した。それも低空を次から次へと、どうやら訓練のようだったが、彼が、「近くにラングレー空軍基地があるからね」と教えてくれた。

その日は、もう少し南に行った世界最大の軍港「ノーフォーク(Norfolk)」を訪れた。対岸のハンプトンから、地下の海底トンネルと長い海上道路で結ばれた天然の要塞で、アメリカ海軍の艦隊司令部やNATOの本部などがある正に海軍の要所であった。軍の施設に入るには、観光客用の特別な周回バスがあると言うので乗ってみると、広大な敷地の奥に空母や巡洋艦などが停泊し、オスプレーの基地も見えた。

市内には、戦艦ウェスコンシンが停泊しているというので見に行った。太平洋戦争で硫黄島などを艦砲射撃し、今は現役を引退して誰でも乗船出来る様になっていた。以前、横須賀で戦艦三笠に乗ったが、やはり大きさが違った。初めて見る戦艦の主砲に驚き、そう云えば日本も沢山持っていたのが今では一隻も残っていない無念さも感じた。甲板では、両親も立ち会った新兵の就任式などのセレモニーが行われていた。こうして直にアメリカ軍の大きさを目にすると、日本の防衛や沖縄なんて、所詮は駒の一つに過ぎない現実に直面するのであった。

Sunday 9 June 2019

ゲティスバーグの古戦場

以前、岐阜の関ヶ原を訪れた時だった。現地の解説に、(関ヶ原は)世界3大古戦場と書いてあった。何でも3つにする日本人好みの趣向だが、残りの2つは、ナポレオンが負けたワーテルローとアメリカのゲティスバーグであった。ベルギーのワーテルローには行ったが、そう言えばゲティスバーグには行っていなかったと、以来気になっていた。そこで今回、ワシントンDCの郊外の現地に足を伸ばすことにした。

ゲティスバークは、ワシントンDCから車で2時間程の場所にあった。案内書には朝6時から開いていると書いてあり、行ってみてその訳が分かった。広大な牧草地の所々に各州が建てた慰霊碑と大砲があるだけの、無人の荒野であった。車でそこを素通りするのだが、良く保護されている様子が伝わってきた。改めて南北戦争(英語では内戦を指すCivil Warを使っていた)を見ると、戦争は3年も続いたようだが、その雌雄を決したゲティスバーグの戦いは僅か3日間であった。

早速ビジターセンターで登録を済ませ、周遊のバスツアーに参加した。ガイドの大男が、「この中に兵役に就いた人はいますか?」と聞くと、何人かが手を上げた。メモリアルデーの前後だった事もあり、彼らに乗客から一斉に拍手が上がった。バスは2時間程周遊し、北軍が陣取った高台で降りると誰かが葬送ラッパを吹き始めた。皆んな無言で直立し鎮魂する姿は慰霊地だった。南北戦争は奴隷制の是非を問うせめぎ合いで、それは労働集約的な南部と工業化で労働者を必要とする北部の経済戦争でもあった。その流れが民主党と共和党の原点になっているというから、歴史の勉強にもなった。戦いは1863年7月で、日本では幕末の嵐が吹き荒れていた頃だった。

Saturday 8 June 2019

スミソニアンは無料

ワシントンDCを歩くと、改めてアメリカという国の大きさを感じる。ホワイトハウスから数分の処には世界銀行とIMFの本部のビルが並んでいた。ドルは以前に比べれば威信が低下しているとは言え、まだまだドルに代わる決済通貨は出て来ない。世界のおカネを動かしているのは、やはりアメリカ!2つのビルを見るにつけ、それを強く実感した。

少し歩いたモールには、アメリカの歴史、航空宇宙、美術などを公開するスミソニアン博物館が立ち並んでいた。先日のトランプ大統領の予算措置で一時閉鎖が続いていたので心配していたが、行った時には再開していた。年間の予算は1000億円を超えると言うが、何とどこも入場は無料であった。とても1日では廻り切れない展示数で、世界から集めた航空機やモネ、ルノワールなどが所狭しと並んでいた。在米日本人の歴史も丁寧に綴られていたり、勿論真珠湾や東条もあった。日本の修学旅行もこんな処に行けばいいのに!と思い、ただただアメリカの懐の深さに驚くばかりだった。

その中の一つ、ナショナルギャラリーに行った時、大好きな画家コンスタブルの絵画を見付けた。以前、その代表作「サルスベリー寺院」をボストン美術館で見た事があった。その絵は子供の頃に画集で知り、何年かしてイギリスで実物の寺院を訪れ、そしてNYでその絵画に辿り着いた経緯があっただけに、その時は子供の夢が叶ったかのようだった。今回はやはり英国の田舎を描いた作品であったが、意外な発見だった。

Friday 7 June 2019

メモリアルデーに訪れ

先日、40数年ぶりにワシントンDCを訪れた。メモリアルデー(戦没将兵追悼記念日)の前後だったこともあり、ベテランと称する退役軍人が多く集まっていた。中でもハーレーダビットソンに乗り、バンダナと革ジャンに身を包んだ老齢な一団が目立った。仲間の追悼だろうか、アーリントン墓地の所々にバイクから降りて屯していた。そのファッションと生き方には独特の哲学があるらしく、生死を共にした絆を感じる。

多くのベテランが家族と共に訪れていたのは、やはりベトナム戦争記念碑だった。ベトナム戦争で犠牲になったアメリカ兵は54万人もいた。その数は、第二次大戦ですら29万人だったことを考えると大変な数であった。それも60年代だったから、そんな昔の話ではない。訪れた人々は、プレートに戦没者の名前を見つけると花を手向けたり、紙に透かし取っていた。ベトナム戦争の大前提がドミノ理論であった。ベトナムが赤化すると隣国に波及すると言われたが、結果的にそんな事は起きなかった。アジアを知るマッカーサーはそれを見抜いていたようだが、「誰も老兵には耳を貸さなかった」と言う。

もう一つの場所は朝鮮戦争の慰霊碑だ。こちらのアメリカ兵の犠牲者は14万人であった。ポンチョを着た米兵の像が何体も建っていてリアルであった。そんな場所に立つと、二度とアメリカは朝鮮と戦争はしないだろう!という確信めいた気持ちになってくる。それにしても、アメリカは国に尽くした人々を手厚く敬い称え、後世まで記憶に残そうとする。そのケアが凄い!