Tuesday 31 May 2011

Giro d`Italia

先週TVを見ていると雄大な山岳地域で自転車レースをやっていた。ツールドイタリアならぬイタリア自転車選手権”Giro d`Italia”とのことだ。私は自転車の門外漢で詳しいことは知らないが、イタリア1周3,500kmを1か月かけて競うらしい。

見ていて楽しかったのは、レースもさることながら荒々しいイタリアアルプスの姿だ。レースは北イタリアのドロミテ山脈から南下し、今回のGran Paradiso国立公園を回ってミラノがゴールだ。一つ間違えれば崖から転落の細いコースをもの凄いスピードで走る。山も綺麗だと思ったらそれもそのはず、モンブラン(イタリア語ではモンテビアンコ)、モンテローザである。そう、ここはフランスアルプスのシャモニーからトンネルを抜けた反対側なのだ。同じ山でも見上げる国が違うせいか、全く別物に見える。

Monday 30 May 2011

タリンフェスティバル

先週から今週にかけ、タリンフェスティバルと称したお祭りをやっている。

折角なので日曜の午後から見に行った。風が強くまだ13度と肌寒い中、歌、パレードなどで市内は人だかりが出来ていた。近隣諸国からの観光客も多い中、遠く韓国からも舞踏団が来ていた。


お店も沢山出ていたが、どこかで見たような品が多い(これって冬売っていた?)。ただ手作りの革製品、帽子、黒パンなどどれを取っても素朴だ。いつも不思議なのは、あまり商売っ気がないことである。のんびり、売ようが売れまいがお構いなし。ゆっくりと時間が流れていく。

Sunday 29 May 2011

エストニア語

3ヶ月前から週に1度、エストニア語を習っている。たった130万人しか話さない言語を覚えてどうする?といった損得計算もあったが、これも何かのご縁と思って始めた。ただ本格的にやる気は全くなかったので、取り敢えずタリン大学の掲示板に「先生募集!」の張り紙を出した。願わくば可愛らしい女子学生と喫茶店でお話を、と淡い期待を込めて。ところが蓋を開けてみると、それを見た大学から連絡あり、特別に国語の先生が教えてあげる、ということになってしまった。断る訳にもいかず、昔中学にいたような先生とマンツーマンの厳しい世界が始まってしまった。週1回とはいえ、1時間半の拘束が解ける頃から喉がからからになり、終わると例のPubに直行する。ストレスから解放されるせいか、ついついこの日は飲み過ぎてしまうことが多い。


そのエストニア語であるが、疑問形の語尾が上がらず極めてクールな感じの言語だ。TVを見ていても抑揚がなく暗い感じがする。昔フランス語を始めたときに、Bonjour!(おはよう)を言うときに語尾をうんと上げるようにと言われた。確かにやってみると朝が始まったような気分になったものだ。それが全くない。ぼそぼそ話すという感じだ。常に支配されてきた歴史がそうさせているのだろうか?と勘ぐってします。そういえば兄弟語のフィンランド語も抑揚が似ている。

今週もこれがあるかと思うと気が重くなる。

Saturday 28 May 2011

ジェノサイド

今週のBBCトップニュースは、元セルビア軍将軍Mladicが逮捕されたことだ。ボツニア・ヘスツェゴビナ内戦で8,000人のイスラム系を殺害した罪で手配されていたが、15年も潜伏していたらしい。容疑はジェノサイド(Genocide=集団虐殺)という。

ジェノサイドは組織的な民族・人種の抹消を指す。ナチスのユダヤ人虐殺だけかと思っていたが、ルワンダ、ウクライナなどあるらしい。戦後のソ連でも粛清と称して多くの命が奪われた。先日リトアニアの首都Vilniusで見たジェノサイド犠牲博物館は凄かった。元KGB本部(写真)の地下に戦後のドイツ協力者を収容した牢獄があり、拷問の様子が生生しい。圧巻だったのは処刑室。入り口で最後の本人確認手続きを済ませると、両脇を抱えられ部屋に連れて行かれる。入るとドアの後ろには小銃を持った執行官が待っていて直ちに射殺、補佐がバケツで血を流している間に、小さな窓から死体を1階に運び上げる、といった作業の繰り返しを、何とビデオを製作してその場で上映していた。犠牲者の声が聞こえてきそうで、流石背筋が凍りついた。


 ジェノサイドと並んで民族浄化(Ethnic cleansing)という用語があることも今回初めて知った。ひょっとしてボツニア・ヘルツェゴビナ内戦の残虐さはナチス以上だったかも知れない。モンテネグロ、セルビア、クロアチア……観光ばかり考えていたが、旧ユーゴスラビアが分離独立して出来た国々だ。きっと日本人には想像もできない民族の歴史があるのだろう。

Friday 27 May 2011

カドリオルグ宮殿

住んでいるアパートからちょっと行ったところにカドリオルグ宮殿がある。今の季節、新緑の中ジョギンングには持って来いの公園で、市民の憩いの場所になっている。近くには古い木造住宅が立ち並ぶ高級住宅地が隣接している。

元々は1700年代にロシアのピョートル大帝が奥さんのために作った宮殿である。それまでのロシアは「タタールのくびき」から解放された田舎国家だったが、このままでは駄目だと、時のピョートル大帝がスウェーデンを叩いてこの地に居を構えたのが始まりだった。世にいう大北方戦争(Great Northen War)である。先日ストックホルムの国立美術館で、敗走する「カール12世の葬送」の絵画を見ることが出来た。1つの時代の終焉を象徴した絵で、とても印象的だった。ピョートル大帝は西洋文明に憧れた最初のツァーリかのようだ。ソ連が去った後、瓦礫しか残さないと思っていたが、立派なものもあった。

ミッシュランのガイドブックによると、このカドリオルグ公園は2つ星を得ている。ヨーロッパの並み居る名所旧跡の中にあって、身びいきを差し引いても2つ星はちょっと?と思った。ただタリンで見るところは旧市街とここしかないので、それを配慮してくれたのだろう。因みに同書のバルト版は、各国に星の数を均等配分してバランスを取っている。ミシュランガイドの話をすると長くなるので、またの機会に改めて紹介したい。

Thursday 26 May 2011

タリンの町


私の住んでいるエストニアは人口130万人の小さな国です。面積も九州程度です。長らくソ連の支配下にありましたが、1991年に独立し今日に至っています。首都はタリンといって中世の趣を残すシックな街で、世界遺産にもなっています。元々は14世紀にハンザ同盟で栄えましたが、長らく歴史の外に置かれていました。それが世界に知れ渡るようになったのは、1980年のモスクワオリンピックでヨット会場になってからです。今年は独立20周年ということもあり、ヨーロッパの文化都市に指定されたり、観光客も急増しています。

2010年のヨーロッパ旅行白書によると、エストニアは前年に対し13%の観光客が増え、これはラトビア、マルタに付いて欧州第3位の伸びでした。特に宿泊地としては欧州で最も伸びた国でした。ことタリンはヨーロッパ広しといえど、これだけ中世の雰囲気を残しているところは希少です。人々は静かな中世の街で、ローソクの明かりの下、中世音楽を聴きながら、自分たちのルーツに触れるのです。

来訪者の多くは、近隣のフィンランド、スウェーデン、そしてロシア、ウクライナなど旧ソ連からです。2011年になってもこの傾向は変わらず、5/10付のBaltic course誌では第1四半期の観光客の45%がフィンランド、20%がロシアからと伝えています。因みに日本人で宿泊する人は年間7,000人程度です。余談ですが、ドイツ人・フランス人・英国人も来ますが、今彼らに人気が高いのはモンテネグロです。007の映画「 Casino Royale」の影響でしょうか?そしてオランダ人はセルビア, イタリア人はマルタが好きなようです。日本人が昨年多かった国ベスト3は、キプロス, スペイン, モンテネグロとのことです。ローマ、パリといった定番に飽きたシニアが穴場を目指したのでしょうか?

なお2011年のタリンは、BBCの「欧州冬の都市」に、旅行サイトの7つの冒険旅行地の1つにも選ばれています。

まだバルト3国に来られたことのない方は、是非一度訪れてみてください。

Wednesday 25 May 2011

Roland Garrosの開幕

今週からフレンチテニスオープンことRoland Garrosが始まった。初日から女子No.1のWozniackiと伊達の試合があったり、Nadalが伏兵にフルセットまでもつれ込む波乱があるなど早々盛り上がっている。今年の注目はやはりNadalの2連覇6回目の優勝だろう。女子は混戦模様で誰が勝つのか全く分からない。Roland Garrosの特徴はその赤土に球足が遅いことにある。そのため過去にも思わぬ選手が優勝した。過去3度も優勝したブラジルのKuertenはその最たるものだが、2005年にNadalが出て来るまで勝ったのはCosta, Ferrero, Gaudioと年替りの伏兵だった。


ところでRoland Garrosは何と言っても全てが洗練されていて美しい。5月の強い日差しに映えるマロニエの緑と赤土のアンツーカー、そこに集う芸術的なアステリートと美男美女、まさに別世界だ。

スタジアムはブーローニュの森に囲まれた高級住宅地16区のAuteuilの駅から徒歩で行ったところにある。昔の田園コロシアムに田園調布の家からラケットを持って行くような感覚のクラブだ。同区はPassyなど日本で言えば成城、自由ヶ丘といった感じの小奇麗な惣菜屋やブティック街が並ぶ住宅地で、パリ21区の中でも憧れの街だ。

定番のスポンサーも格好いい。予約チケットの決済はBNP Paribas、会場のボールボーイ、コンパニオンのユニフォームを彩っているのはLacoste(今年のカラーはライトグリーン)、選手をホテルから送り迎えするのは最新のPeugeot、日除けに配布される白帽子にはPerrier、会場の試打はAdidasといった具合に。普段着ようとは思わないLacosteもこの時だけで目立っている。容姿端麗、モデル顔負けのコンパオンが、これもLacosteの最新ファッションで華を添えているからだ。

そして招待客もドレスアップし、スタンドのもう一つの顔になっている。スポンサーの用意したテントでまずシャンパンを頂き、お揃いのハットをもらい観戦する。社交目的かと思いきや見ていると本当にテニスが好きな人が多い。はたして今年はどんなドラマが繰り広げられるのだろう。

Tuesday 24 May 2011

ノーベルの遺言書

昔、「恐怖の報酬」(原題:La Salaire de la peur)という映画があった。僅かの振動でも爆発するニトルグリセリンを運ぶトラック運転手の物語だ。運転手は無事荷物を届けるが、死の恐怖から解放された喜びからの帰り道、崖から落ちて死んでしまうというストーリーである。Alfred Nobelはこのニトルグリセリンを粘土状にして衝撃でも爆発しないダイナマイトを発明、一躍ロックフェラーと並ぶ大富豪になった。折しも第1次世界大戦前、兵器として各国から大きな引き合いがあった。


Nobelは天涯独身、孤独な事業家だった。ダイナマイト工場が世界20か国にあったため、この行き来に多くの時間を費やした、秘書も連れずに。プライベートでも唯一思いを寄せた花売り娘にも裏切られたという。そんな中、死の前年遺言書(写真)を書いた。遺言書は遺産運用は安全な有価証券で行うこと、分野毎の賞の選考機関まで細かく指定した。弁護士を通さなかったことが、解釈を巡ってその後の混乱を招いたようだ。ともあれ、それが今日のノーベル賞になっている。


ストックホルムのノーベル博物館に行ってみたが、並み居る受賞者の業績はあまりに難解過ぎて、伝わるものが少なかった。物理、化学だけでなく身近な経済、文学でもそうだった。ただスーチー女史やマンデラなどの平和賞は分かり易った。時代を経て、個人の意思がスウェーデンの国家戦略に置き換わっているのかも知れない。賞金は1人10百万クローネ(約13百万円)、基金が現在400億円とも500億円とも言われているので、何%で廻っている?・・・・など下世話なことばかり考えた。それにしても、100年以上も利子だけで賞金を賄っているのは大したものだ。


Monday 23 May 2011

スウェーデンの強さ

友人夫妻が世界1周のクルーザー「飛鳥」に乗って、ストックホルムに来るというので飛んで行った。天気も良く、青地に黄十字のスウェーデン国旗が美しく初夏のバルト海に靡いていた。ストックホルム港のベンチに座り行き交う人を見ていると、まるでPOLOのグラビアから抜け出して来たような、金髪にブレザーネクタイ姿の若い紳士が目に付いた。こんな光景はパリ、フランクフルト、況やバルト諸国ではまず見られない。福祉、高い一人当たりGDPに代表される豊かさがそこにあった。


街も洗練されていてとても美しい。それもそのはず、2回の世界大戦も中立を維持したため戦火に巻き込まれなかったからだ。ただかつての同胞である隣国フィンランドがロシアから、ノルウェーがドイツから侵攻され助けを求められた時もこれを頑なに謝絶、一方で英国からの経済関係も絶って食糧難と闘った凄い中立だった。その歴史の教訓が今日、NATOには加盟しない、ユーロも導入しない理由になっていることは間違いないだろう。


その中立を支えるのは国防である。自動車のSAAB社は、ビゲン、グリペンといった最新鋭の戦闘機を作っている。専守防衛のため爆撃機は持たない。VOLVO社も昔から軍用トラックで有名だ。ハマーショルドが国連事務総長を務めていたこともあり同国はPKOに熱心だが、これを支えているのが白く塗ったVOLVO製の装甲車だ。またBofors社の機関砲、戦時中アメリカ軍艦に積んで日本の航空機を撃ち落としたと言われている、も戦時中から活躍した 。入り組んだ地形と岸壁を切り抜いた天然の要塞基地は、バイキングよろしく今日も海軍の母港である。ただ最新鋭の兵器だからと言ってこれを輸出しないところもまた凄い。あくまで内需だけらしい。


ではどうして中立が可能になったのだろう?今回思ったのは、それは大国ロシアに接していない地理的な理由から来ているのではないかと。スイスもきっとそうかも知れない。かつての王国は小さくなったものの、それが転じて今日も輝き続けている。

Friday 20 May 2011

パリのお墓巡り

ここタリン空港からは欧州各都市への便が出ているので、旅行するのには便利である。しかも日本の国内並みの料金と安い。最近は格安チケットが出ているが、それでもParis3万円、Stockholm1万円といった感じだ。そんなこともあり、この2月久しぶりに冬のパリを訪れた。パリは昔住んでいた懐かしい街である。趣は変わらないが、やたらにアラブ系が増え、物価が東京並みになってきたことが気になった。

ところで変わっていると言われるが、私のパリでの楽しみの一つに偉人の墓巡りがある。パリには、Pere-Lachaise, Montmartre, Montparnasseの3つの大きな墓地がある。中でもPere-Lachaiseは大きく、エディットピアフ、イブモンタン、コロー、ドラクロワ、バルザック、ショパン、そして永遠のマドンナ、マリアカラスなどが眠っている。いつぞやショパンの立派なお墓を見つけた。彼はワルシャワの西50KmのZelazowa Walaという村で生まれたポーランド人だが、1849年ここパリで39歳の若さで逝った。有名なジョルジュサンドとの恋に破れたことが原因だったのだろうか。私はその前年ポーランドを旅した際にこの生家に立ち寄ったこともあったので、感慨もひとしおだった。


今回はMontmartre墓地を訪ねた。ここにはハイネ、スタンダール、ベルリオーズなどが眠っていた。スタンダールはペンネーム、本名はMarie Henri Beyleなので、お墓には(後で調べたところによると)イタリア語で「アリッゴベイレ、生きた、愛した、書いた」と刻まれたいた。帰ってから何故イタリア語だったのかも知った。「赤と黒」も読み返してみた。主人公ジュリアンソレルの掴み所のない人間性に退屈感を覚えたが、彼の幼年時代の家庭環境と複雑なフランス社会を垣間見た気がした。スタンダールの墓の近くに最近作った日本人のお墓もあった。スタンダールより立派で、見ているうちに自分も欲しくなった。

墓地は気味悪いという人でも、パリ郊外のAubers-sur-Oiseの村にあるゴッホのお墓を訪れる人は多い。ゴッホの晩年の作、「医師ガシェの肖像」「オーヴェールの教会」「カラスのいる麦畑」など当時のままの風景が残っている。人々はひと通り絵と現実を重ね合わせた後、生涯支えた弟のテオと並んで眠るゴッホのお墓をお参りして帰る。

Thursday 19 May 2011

春の訪れ

長い冬が終わり、今ヨーロッパは春たけなわである。夏から秋になるのも早いが、冬から春になるのもまた早った。1月から日照時間が毎日4-5分長くなるので、気が付くと3月には帰宅する頃が明るくなっていた。今では日の出が4時40分、日の入りが22時近い。飼っているカナリアが日の出と共に鳴き始めるので敵わない。昔住んでいたパリと比べても1時間は違う。やはりここは白夜の北欧だ。


ところで春の風物詩は何と言っても春の花だ。雪が溶け始めた4月半ばからタンポポ、菜の花のような黄色い花が咲き始める。新緑の絨毯に映えとても美しい。特に近くのKadriorg宮殿の公園は格別だ。そういえば薄緑とクリーム色の組み合わせのアパートが多いのもこのせいかも知れない。そしてイチゴ、5月に入り一斉に露店にイチゴが並ぶ。売っているのは殆どロシア人、1パック200円位で食べきれない程くれる。面白いのはこの国は何でも量り売りが原則だ。肉類だけでなく、野菜、果物、菓子パン1個まで単価が決まっていて、重さで値段を決める。ひょっとしてソ連経済の名残かもしれない。


パリでも5月1日はミュゲ(すずらん)の日で、春の風物詩だった。この日だけは子供も街でミュゲの店を出す。英国のクロッカス、オランダのチューリップ、リトアニアの林檎の花、そして日本の桜…。春は人々に元気をくれる!

Tuesday 17 May 2011

シャラポアとチェルノブイル

先週末、ローマで行われたイタリアンオープンテニス女子シングルスで、久々にシャラポアが優勝した。決勝戦の相手はオーストラリアのストーサーであったが、準決勝のボツニアッキ戦を制したのが大きかったように思う。今回は見ていてサービス、ストロークが安定していて、要所での振り抜きが良く決まった。

シャラポアは今年24歳、テニス界の妖精と称され2004年に若くしてウィンブルドンを制して一躍トップに躍り出た。両親はベラルーシ人であるが、1986年のチェルノブイル原発事故の影響で故郷を捨てロシアに避難した翌年、彼女は生まれる。だからロシア国籍である。ソ連出身の米国女子プレーヤー、ナブラチロアに見出され、父とアメリカに渡った時にはポケットに100ドルもなかった話は有名である。正に原発事故が生んだシンデレラ物語である。

一方負けはしたが、現在女子のNo1は依然デンマークのボツニアッキである。ずば抜けた才能はないが、ストロークと安定感と運動量の豊富さが武器だ。元サッカー選手のお父さんがいつも一緒についている。しかし何と言ってもそのルックスのせいか、TVの放映回数は圧倒的に多い。テニスライブは2回に1回は彼女の試合といってもいい。またトルコ航空のコマーシャルにも頻繁に登場する。テニスマッチの休憩時にファーストクラスの席でリラックスする、審判もその食事を頂いているうちに勝ってしまうというストーリーである。


ともあれテニスシーズンはこれから本格化する。今週末からパリでローランギャロスが開幕、来月のウィンブルドンへと続く。新緑、赤土、強い日差し、そして鍛えに抜かれた選手のプレーにファンには落ち着かない季節が始まる。

Monday 16 May 2011

エストニアの地ビール

エストニアの代表的なビールといえばSakuと A Le Coqがある。確かに地元ではあるが、調べてみると資本はどちらも外国のビール会社が握っている。純粋な地ビールはないことが分かり、ちょっとがっかりした。

Sakuビールは1991年Carlsberg(デンマーク)の傘下にある Baltic Beverage Holding(BBH)に買収されている。BBHは登記上はノルウェーの会社であるが、ラトビア、リトアニア、ロシア、ウクライナ、カザフスタンなどのバルトと旧ソ連のビール会社を束ねた大きな会社だ。エストニアは昔殆どの人がロシアの農奴だった。その農奴制が開放された1820年、産業育成を願って地元のドイツ人が起こしたのがこのSakuビールだった。それを思うと何か時代の変遷を感じる。因みにBBHはリトアニアでUtenosとかSuyturysの名前で出している。先日、リトアニア旅行をした際にこのSuyturysを飲んでみた。飲み易くチェコビールに似ていた。同国はポーランドと関係が深かったので、味も東欧的なのかも知れない。また同グループにロシア産のBaltikaというビールがあるが、2Lで200円程度と極めて安い。不味いかと思うとそうでもなく、節約したい時には助かる。
もうひとつのA Le Coqであるが、これも1997年にフィンランドの大手飲料メーカーOLVIが買収した。Sakuに比べるとまだ旨いし、何と言っても瓶が美しい。こちらも各国に兄弟ビールがあり、先のリトアニアではRagutis, ラトビアではCesa、ベラルーシではLidshoeという。因みにエストニアの醸造所はエストニア第2の学園都市Turtuというところにある。同市はスウェーデン統治下の1632年、エストニアで最初に出来た大学町である。タリンから車で200Km、次回行った時に試飲に拠ってみようと思っている。

原産地と資本、ヨーロッパの関係は複雑でそれ自体が国の歴史なのかも知れない。そういえば食品だけでなく、ここはやたらに北欧資本が多い。そんなことを尻目に今日もグラスを傾ける私なのでした。

Saturday 14 May 2011

Pubの話

私はビールが大好きだ。毎日夕方から馴染みのPubに出かける。場所はタリン市のオールドタウンの一角、14世紀の石畳に囲まれた古い館である。古めかしい2重ドアを開けると、ポールマッカートニー似の可愛らしいウェイトレスが、「アイー!」と笑みを投げかけてくれる。これで1日の疲れが吹っ飛ぶ。

毎日通うようになると馴染みも出来てくる。スウェーデンの老夫婦、地元ヒューマー島出身T氏、スイスのベルンか来て10年以上ここに住み着いているR氏など、まず彼らの近くに席を取る。そして地ビールMunchenから始める、というのは19時までならハッピーアワーで安いからだ。値段にして€1.9(200円ちょい)である。このPubの特徴は豊富なビールの種類である。大方の店ではSakuと a Le Coqという地元の銘柄しか置いていない。しかもこれはどちらもあまり美味しくない。ところがここのPubは、エストニアのシーラマエ というところのMunchen,  英国のエイルOld Speckled HenとAbbot、南ドイツの白(ワイツ)ビール Paulanerなど国際的な銘柄を揃えている。Munchenは最初名前と味からドイツのビールかと思ったが、地元と知って驚いた。甘いコクがある割には透明感がある。度数も5.5%と高い。

シーラマエという町は、エストにア東部でロシア国境に近いところにある。このため昔から何度か歴史の舞台になった地域である。有名なのはナルバの戦い、1700年に当時西に進出を試みたロシアのピョ-トル大帝をスウェーデンのカール12世が破った一戦である。スウェーデンは昔強かった。この話しを先の老夫婦にするととても喜ぶ。

これから、このブログで続きを書いていきたい。