Sunday 30 September 2018

追われるユダヤ人

ユダヤ人はどうして追われたのか?短い旅では到底分かりようがない。ただ一つ思ったのは、ポーランドやチェコが併合されると、ドイツからの移民を受け入れたことだ。それは日本の満州や、中世のドイツ騎士団などと同じ現象であった。そうなると、住む家も要るから誰かが出て行かなくてはならない、それがユダヤ人だったのだろう。始めはゲットーと呼ばれる特定地域に追いやり、それが一杯になると郊外の強制収容所に移し、それが維持できなくなると、最終的な解決に至った・・・、そう考えると分かり易い。だから最初から絶滅を前提としていたというのも、ちょっと信じがたい気がした。

あれから80年、世界に散らばるユダヤ人は14百万人と云われる。最近ではイスラエルに住むユダヤ人がその半分を超えて来たと云う。つまり今まではアメリカのウォール街や世界の多国籍企業を担っていた人達が減ってきて、ユダヤ国家に住むユダヤ人が増えているのである。昨今のトランプ大統領のアメリカファーストに代表されるナショナリズムの台頭は、そうした流れを汲んでいると云う。確かにいくら働いても、一向に国が豊かにならないのは、無国籍の金融資本に吸い上げられているからかも知れない。ユダヤ人はこれからどこに向かうのか?そんな目で見るとニュースも面白いというものだ。

余談だが、ユダヤ人は甲殻類を食べないと云う。だからお寿司屋さんに連れて行っても、エビやカニを頼んではいけないと、何かの本に書いてあった。また豚や馬も駄目だから、トンカツや馬刺しも食べない事になる。この辺を気を付けながら、その迫害の歴史、それに纏わる神秘な謎の数々をいつか生に聞いてみたい。

Saturday 29 September 2018

ニコライ皇帝の時代

暫く間に、吉村昭著「ニコライ遭難」を読んだ。相変わらずの綿密な取材で、読み応えのある本であった。粗筋は、ニコライ皇太子が明治初頭に来日して、大津で巡査に殺傷された事件の話である。ただ帰港した当時の長崎の街並みや市民の生活振りが、とても丁寧に紹介れていて、そっちの方がむしろ興味深かった。皇太子は行く先々で日本人から歓迎され、店で土産物を買ったり寺などにチップを置いて行った。それから10年後、日露戦争が起き両国は相対することになるのだが、改めてその頃っていい時代だったな!そう思えたのであった。

ロシアは日露戦争の敗戦を契機に内乱が始まり、それがロシア革命へと繋がって行った。ロマノフ王朝も、1918年に家族と共にとある地下室で銃殺され終わってしまった。それから社会主義の時代が始るのだが、今回こうして中欧を旅すると、改めてその無毛さを感じるのである。あれは一体何だったか?日本でもマル経と称する一大勢力が輸入されたり、とても他人事とは思えない。そして思ったのは、ロシア革命なんてない方が良かった!ニコライ皇帝の時代が続いた方がよっぽど良かった!という歴史のタラレバである。

もう一冊、これは旅の途中で読んだアンリ・トロワイヤ著の「イヴァン雷帝」である。「女帝エカテリーナ」「大帝ピュートル」の三部作の一つだが、工藤康子さんの訳が素晴らしく、スラスラと楽しめる名著であった。イヴァン雷帝はロシアの生んだ元祖独裁者であるが、その後のスターリンから今のエリティンに至るまで、ロシアの国ってあまり変わっていない!?と気が付くのであった。当時イヴァン雷帝が対峙したのはロシア貴族だったが、それは今のロシアマフィアである。正に禍福は糾える縄の如しで、600年経っても国民性は変わらない。ロシア革命がなければ、スターリン時代に40百万人も粛清されずに済んだり、挙句は東西冷戦もなかったかも知れない。況やチェコやハンガリーの人が、もっと伸び伸び育ったかも知れない・・・、そんな事を思うのであった。

Wednesday 26 September 2018

普墺戦争の町で

プラハから、ポーランドのオフスカ要塞に行く途中、Trutnovという町を通った。国境付近の名もない町だったが、古戦場の看板が出ていた。折角なので町に寄ると、田舎町にしては立派過ぎる広場があった。どうやらこの町の郊外で、1866年6月27日に会戦があったことが分かった。ただ誰と誰でどっちが勝った?そんな疑問を、子供連れて遊びに来ていた男に聞いてみた。すると彼は、「それはプロイセンとハプスブルグの戦いで、ハプスブルグが勝ったんだ!」と教えてくれた。

どちらの名前も今にはないから、益々分からなくなった。そこで帰国して早速調べると、それはプロイセンとオーストリアの普墺戦争であった。所謂ドイツが統一される過程で、オーストリアのハプスブルグ家と、プロイセンに点在したそれ以外のドイツ君主との戦いであった。結局戦いは2カ月続き、プロイセン側が勝った。訪れたTrutnovの戦いは、ハプスブルグが勝った一戦だったようだが、勝ったオーストリア軍の犠牲者は5千人と、破れたプロイセンの3倍にもなった。

町の広場はその時の彫刻で飾られ、とても3千人の町とは思えない重厚感があった。人も、週末だというのに、さっきの親子と数える程のヒッソリ感で、まるで1866年から時間が止まっているかのようであった。唯一、ピアノのオブジェがあった。これも何かと思って調べたら、チェコのPETROFという名器の産地だという事も分かった。ともあれ、プロイセンとは何か、ドイツはどうやって統一されたのか、ハプスブルグの終焉はどんな感じなど、日頃余り話題にならない歴史のエポックに出会えたのであった。

Monday 24 September 2018

プラハの春50年

今年は、プラハの春から50周年という。1968年にソ連が軍事介入した事件である。市内にもあちらこちらに、当時のパネルや軍用車が展示されていて、観光客が足を止めて見ていた。「ある朝起きると戦車の騒々しい音がして、人が撃たれ・・・」、そんな市民目線で当時を振り返り、50年前の場所で撮った写真の比較が生々しかった。ただ次第に事件を知る人も少なくなり、風化を危惧する年配者が多いらしい。確かにソ連も解体され、自由で豊かになると、遠い過去になった事を感る。

それでも、市内にある共産主義博物館を訪れる観光客は多い。結構中国人も多く、彼らがどう思って見ているのだろうか?、そんな事を考えながら、改めて東西の壁、ワルシャワ条約機構の時代が伝わってきた。ハンガリーのブタペストでも、恐怖の館という秘密警察のスポットは結構混んでいた。館内を見て廻っていると、ナチ政権下の矢十字党、ソ連時代のファシズム、共産主義の暗い過去が蘇ってくる。その地下は牢屋と拷問室が残されていたが、昔行ったリトアニアのKGB博物館では、処刑シーンがビデオで再現されていた。今回はそこまで行かないが、社会主義って恐ろしい!、改めてそんな気持ちになる。

ただ未だに、その時代の名残はある気がする。例えば昔から続く個人商店が見当たらない、特にレストランやキャフェは比較的新しく、所謂一歩入った裏路地の風景がないこと。また生活品を売る市場も、フランスなら毎朝農家が持参する移動式だが、旧共産圏は固定式である。元々は配給制の集積場所だったから、活気も違うし、年配の売子に笑顔とサービス精神がないのも共通している。また車を取り締まる警察官、駐車場の管理人も心持ち怖い気がする。尤もまだロシアを旅した事がないので、悪口ばかり言っていると、後で後悔する知れないが・・・。

Saturday 22 September 2018

ハンガリーの結婚式

旅はいつも気ままにするに限る。出発前に大雑把な行程を考え、現地に着くとガソリンスタンドで地図を買い、それを頼りに走る。GPSだとそのつかみが取れないから、利用は最小限にしている。今までの経験から、大体日本で考えていた通り行っている。だから、良く人から「泊まる処は予約しているの?」と聞かれるが、いつも行き当たりバッタリである。ホテルを予約するのは良し悪しで、見知らぬ町に時間通り着くのは至難の業だからである。かえってそれに縛られる事を考えると、まず予約はしない方がいい。

宿探しは、いつも夕方の5時位から始める。不思議と2~3つ程当ると空いている宿が出てくる。今まで泊まれなかった事は皆無である。しかし今回、ハンガリーのブタペストの町で珍しく苦労した。その日は週末だったころもあり、どこも一杯だった。市内で暑い中、6軒を回った処で「これは駄目だな!」と諦め、郊外に出ることにした。15Km程走った辺鄙な処にホテルを見つけ、神様に祈る気持ちで尋ねると、やっと空いている事が分かった。しかし今度は、食事を取ろうと思うと周囲にレストランがない。ホテルが教えてくれた唯一の店も閉まっていて、結局またブタペストの市内まで15Kmの道を逆戻りする事になった。やっと夕食にあり付いたのは、ホテル探しを初めて5時間も経った頃で、疲れた一日になった。

またチェコの田舎でも、土曜日だったか、どこに行っても結婚式の招待客でごった返していた時があった。部屋は空いていたのだが、以前ルーマニアで結婚式と同じホテルに泊まったら、明け方まで続くダンスパーの騒音に一睡も出来なかった苦い経験があるので、中々決め難かった。これも探す事3時間、結局そこから20km程の都市に移り、ここならと思った先きも結婚式のパーティーを準備していた。流石「もはやこれまで!」と観念して泊まったが、後で聞くと、チェコでは結婚式は土曜日と決まっているそうだった。気ままな旅には苦労が付き物だ。

Thursday 20 September 2018

テレジンのセルビア人

第一次大戦の引き金になったのが、サラエボの銃声である。ボツニアを訪問していたオーストリア皇太子夫妻が、パレードの最中に狙撃された事件である。昨年その現場を訪れてから,その感慨はまだ冷めやらない。撃ったのは20歳のセルビア人、ガヴリロ・プリンツィプ(Gavrilo Princip)であった。彼は昼食中であったが、突然皇太子の車が差し掛かり、犯行に及んだという。その前にやはり爆弾が破裂し、その負傷者を皇太子が見舞う予定外の経路を取ったことが、運命の出会いになった。

実は今回の旅で、プラハ郊外のテレジン(Terezin)収容所を訪れた時、偶然彼の写真を発見した。その収容所は、中世の要塞をユダヤ人の強制収容所として使ったものであった。大きく2つに分かれていて、一つは城塞の中を町にしたゲットーである。もう一つは、関係者家族の宿舎、牢獄、処刑場などである。都市のユダヤ人は一度ここに収容され、その後アウシュビッツなどの絶滅収容所に移された。その数は、常時7千人程が住み、延べでは16万人にもなった。尤も戦後生き残ったのは1万人程で、殆どの人が亡くなった。中でも、尋問などによって犠牲になった人が7千人もいて、その中には終戦直前の1945年5月の50名も含まれていた。その現場の壁の前に立つと、何とも居た堪れない気持ちになってきた。

サラエボの犯人プリンシップがそこに居たのは、そんな時代のずっと前である。当時は刑務所として使われていたようだったが、彼はそこで病死したという。23歳だった。てっきり処刑されたかと思っていたが、これは意外だった。随分と遠くまで運ばれたのだった。また驚いた事に、テレジン収容所跡地には、僅かだが未だに人が住んでいた。喫茶店や小さなスーパーが、遺品や当時のパネルを紹介した博物館に隣接していた。「そんな処に住んで、御霊に邪魔されないのだろうか?」、その辺の感覚はちょっと理解出来なかった。

Tuesday 18 September 2018

ポーランドの運転マナー

今回のレンタカーはチェコのスコダであった。昔のスコダを想像して、最初は「えっ!」と躊躇したが、乗ってみると全く問題なかった。マニュアル車だったこともあり、一度給油すると1000kmは走った。中欧の道路も、運転マナーがいいのに感心した。中には猛スピードで追い越す車もあるが、大方の運転手は大人しい。事故も一度も見なかったし、罵声もなかった。昨年廻ったバルカン半島の国々では怖い思いもしたので、これはお国柄だろうか。しかし大きなトラックと並走する時はやはり緊張する。特にポーランドの運転手は、体型も一回り大きいから威圧感がある。

そんな先入観があったが、ある日トラックの運転手達が集まるモーテルに泊まった事があった。夕方4時頃だったか、既に一階の食堂では団らんが始まっていた。何組かの集団が、ビール片手に話していた。孤独な仕事から解放されたような感じで、皆いい顔で飲んでいた。そんな姿を見ていると、あの巨大なトラックに少し人間味を感じたのであった。

その日はポークソテーを頼んだ。山盛りのポテトと一緒に出て来たポークだったが、大粒の胡椒がそれも半端でない量掛かっていた。肉を食べているより、胡椒を咬んでいる感じである。「きっとこれは運転手の飯場メシに違いない!」、確かにビールに良く合うし、意外と美味かった。

Monday 17 September 2018

旧共産圏のゴルフ場

毎日運転ばかりしていると肩が凝る。そんな運動不足の解消にはゴルフが一番である。ぶらっと行って一人で、それも半日程あれば1ラウンド廻れるから、とても効率的である。今回も旅の途中、ポーランドとチェコで2ラウンドした。「社会主義(共産圏)の国にゴルフ場なんてあるの?」、そう聞く人もいるがとんでもない。ゴルフコースは、ポーランドが37、チェコに至っては101もある。町の近くでGPSを手繰ると沢山出て来る。手当たり次第に行ってみると、中には道が途中で無くなりクローズしていたり、プライベートクラブだったりするので、当たり外れはあるけれど・・・。

どこも受付は若い女性でとても美人である。床屋の90%が女性の国なので、ここも何か男女の棲み分けがある気がした。大体どこも空いているから、行くと直ぐにスタートできる。料金は1万円弱、決して安くはないが、貸クラブとカート代、好きなだけ練習できるボール代が混みでまあ許せる。コースは荒れていて沼地やラフが多く、ボールは良く無くなる。次のホールへの案内板も見難い。そんな時は日本のゴルフ場が天国に思えてくる。

ポーランドのワルシャワ郊外で廻った時、多くのアジア人がプレーしていた。中国でも韓国でもない、聞くとベトナム人とイラク人だという。特にポーランドとベトナムは、社会主義の時代に若い人の交換プログラムがあったので、その時に移住した人なのだろうか?、流石にそれは聞けなかったが、今では5万人ものベトナム人が住んでいる。他のヨーロッパでは見られない光景であった。昔のユダヤ人もそうだが、他民族が住み易いお国柄なのかも知れない。ともあれ、白樺に囲まれた広いコースで18ホール廻ると、とてもリフレッシュ出来た。

Sunday 16 September 2018

メンデルの法則

チェコでも偉人の足跡を辿った。まずプラハに眠るドボルザーク(Dvořák )とスメタナ(Smetana)のお墓である。市内から少し離れた小高い山の上の教会内にあるというので、朝早く登ってみた。行くと既に多くの中国人観光客が来ていた。考えることは万国共通で、あのモルダウやわが祖国の一節に触れたい気持ちは同じようだ。墓地の入り口に立派な案内板が掛かっていたので、程なく場所に辿り着いた。どちらも立派なお墓だった。暫し手を合わせると、不思議と身近な存在になるというものだった。そう言えば、スメタナは先妻に先立たれたので2度結婚した。その両方の家系図が、写真入りで博物館に飾ってあった。先祖に恵まれると、末代までその名誉に預かれる国民性を感じた。

もう一人は、「メンデルの法則」のメンデル博士(Johann Mendel)である。彼は、プラハから車で2時間程の都市ブルノの司祭で、そこで長年あのエンドウ豆で実験を繰り返した。実家がオーストリアの農家だったので、庭弄りは得意だったのかも知れない。発見したのが優性の法則だが、ブルノ博物館の解説の殆どはチンプンカンプンだった。ただ唯一、「優性を持つ種を掛け合わせると、孫の世代に3:1で優性の種が残る」事は分かった。

思い出したのは、昔飼っていた我が家のラブラドールである。我が家は黒のラブ(雄)と、近所のラブ(雌)は黄、これを掛け合わせたら8匹の子犬が生まれた。その内訳は、黄が6匹、黒が2匹で、正にメンデルの法則を地で行っていた!。尤も、雌が優性で我が家の雄は劣性だった訳だが・・・。

Saturday 15 September 2018

コペルニクスの生家

ポーランドの北西部の町トルン(Trun)に、コペルニクス(Nicolaus Copernicus)の生家があると言うの寄ってみた。昔はプロイセン王国として栄えた美しい町で、今では世界遺産になっていた。例によってカラフルな街並みで、中央の広場には彼の銅像が建っていた。その生家は広場からちょっと入った所にあり、木造の階段や当時の生活品が残されていて、とても500年以上前のものとは思えなかった。

コペルニクスは司祭であり、その町の市長でもあった。「公の立場でありながら、よく地動説を唱えられたな?」と思うが、どうやらその影響に配慮して、生前の公表は控えめに留めていたようだ。だから最近、日本で「君たちはどう生きるか」の復古版が出ていて、「主人公のコペル君は時代に立ち向かう勇気ある人」、と紹介されているのは、大きな間違いだと分かった。また彼は経済学者でもあったようだ。例の「悪貨は良貨を駆逐する」のグレシャムの法則の発見者だそうだ。お金に関心があったのは、町が栄えていたからだろう。プロイセンはハンザ同盟の町だったから、バルト海貿易で潤った!立派な中世の建物の一角でビールを飲みながら、そんな思いに馳せた。

ガイドブックには、ショパンがこの町を訪れ、ジンジャーブレッドを好んだと書いてあった。確かにお菓子屋が沢山あり、それも立派な店構えで、昔から延々と栄えている雰囲気だった。折角なので一つ買って食べてみた。どちらかというと、柔らかいクッキーという感じだった。その晩はyoutubeでショパンを聴き、すっかりポーランドの中世に浸ったのであった。

Friday 14 September 2018

トブリンカの風

第二次大戦で犠牲になったユダヤ人は6百万人と言われている。日本人が兵士を含め4百万人だった事を考えると大変な数字である。でもいつ、どこで、どうやって・・・一度どうしても知りたかった。俗に言う欧州の主要な収容所は24か所あった。しかし調べる内に、それらは抑留、強制労働、絶滅の3つに分かれている事が分かった。場所も、抑留はドイツなど現地、絶滅はポーランド、強制労働はその両方で行われていた。何故ポーランドだったのか、一つはユダヤ人の数が多かった為であり、もう一つは隠ぺいであった。特に旧ソ連の国境付近に多いのは、行ってみると寂しい土地であった。そんな事で、今回はチェコのテレジン(Terezin)、ポーランドのグロス・ローゼン(Gross-Rosen)、スツットホフ(Stutthof)、トレブリンカ(Treblinka)、マイダネク(Majdanek)の5か所を訪れた。有名なアウシュビッツは過去に行ったし、今映画でやっているソビボルは遠いので避けた。



 

どこも辿り着くのが大変であった。GPSがあるので近くまで行けるのだが、広大な敷地とは裏腹に入り口はとても小さいし、グロス・ローゼンなどはサブキャンプが100以上もあったので、辿り着くと何もない野原や工場跡地だったりした。着くとまず駐車場に車を置き、徒歩で敷地を廻った。どこも黒い監視塔と鉄条網が不気味で、バラックに展示されている過酷なパネルを見ると段々気分が悪くなってくる。他の人も同じで、誰もが下を向いて無言で歩いていた。現存する焼却炉はとても怖くて一人では見る気になれないし、時折耳にする風が人の声に聞こえて来たりした。そんな時、トレブリンカだっただろうか、イスラエルから来た高校生の一行に出会った。彼らの明るい声がせめてもの救いになった。




収容所を実際に管理運営したのは、選ばれた囚人だった。どこもドイツ兵1人に対し10名と多かった。戦後その裁判が始まり、仲間を抑圧した罪で報復が成された。その様子をフィルムで見ていると、被害者が加害者になり、また被害者に戻る運命を感じた。またホロコーストは、周到は準備の下で進められた事に改めて感心した。大量の人間を秘密裡に処理するのはやはり大変な事だが、それをあえて時間を掛けて実行した。戦争が終わり、ポーランドに居た3百万人のユダヤ人は3千人になった。チェコやハンガリーでもそうだったが、使われていないシナゴーグがそれを物語っていた。もう収容所巡りは十分だ!そんな気持ちにさせられた旅だった。

Thursday 13 September 2018

V2ロケットを追って

バルト海の都市、グダニスクに向かう途中、やはりハンザ同盟の都市だったポツナン(Poznan)に立ち寄った。カラフルな中世の建物はとても美しく、改めてポーランドって凄い!そんな気分になった。町の解説を見ていると、その町の出身者に、あのロケットの生みの親、フォン・ブラウン博士がいた。「あれ?彼ってドイツ人じゃなかったの?」と思って調べると、昔はドイツのプロイセン領である事が分かった。彼はその貴族の末裔で、どうやら、第一次大戦後にポーランドに移ったようだ。
 

そのフォン・ブラウン博士だが、戦時中はV2と呼ばれるロケット爆弾の製造に携わった。V2はそれまでのV1に比べ、時速5700Kmと10倍のスピードが出たが、費用も10倍掛かった。彼を含めた技術者は終戦末期にアメリカに亡命し、アメリカの宇宙計画の中枢として活躍した話は有名である。ドイツ在住の作家、熊谷徹氏の「ドイツの生んだ世界の技術」にも出ていた。

V2の開発と発射実験は当初、バルト海の町ぺーネミュンデで行われていたが、1943年に爆撃されてから内陸部のブリズナ(Blizna)に移された。今のポーランドの南、ウクライナ国境に近い森である。今回も例のGPSに頼り、頑張って行ってみた。誰も居ない道を走り、夕方にV2ロケットが立つ実験場跡に辿り着いた時はホッとした。館内では当時の発射実験のフィルムが公開されており、何度も打ち上げ失敗を繰り返す映像がリアルであった。しかしその場所は、遠くからでも住民に目撃されない過疎地で、かと言って作業に携わる労働力が必要で、そうなるとやはり収容所の近くになる。アウシュビッツのあるクラコフの町はそこから200kmだし、その一帯には多くの収容所が点在しているのであった。

Wednesday 12 September 2018

狼の砦を訪れて

鷲の巣の次は、「狼の砦」ことヴォルフツシャンツェ(Wolfschanze)である。1941年に東部戦線の前線司令部として完成した一大拠点である。現在はポーランドの東北部、ソ連国境まで80kmの地点にある。広大な森は千代田区並みの広さで、近くに飛行場と湖がある。車で辿り着くのも大変で、GPSで言われるままに通った道は、殆ど一車線の山道でとても難儀した。

昼過ぎに着くと、既に多くの観光客が居た。中には学習の子供の一行もいた。チケットを買って森に入ると、壊されたコンクリーのブンカーが点在していた。渡された地図と照らし合わせると、ヒットラー始めゲーリング、ボルマンなどの専用ブンカー、喫茶、カジノ、ホテル、タイプなどもあった。特にヒットラー用は壁の厚さが8mと際立っていた。それらは、1945年1月にソ連軍が来る2日前に破壊されたと言う。出来ればそのまま残して欲しかった!そんな気分になった。

ここで有名なのは、シュタウフェンベルグ大佐によるヒットラー暗殺未遂事件であった。ワルキューレ作戦と称し、トム・クルーズ主演の映画にもなっているので、一部始終は今でも克明に再現されている。ただ計画は失敗した。その報復で関係者5000名が処刑されたが、皮肉にもそれが軍の弱体化にも繋がった。事件の建物は壊されていたが、その場所に碑が残されていた。戦後、彼の息子などが追悼式に訪れたパネルも近くにあった。ヒットラーはここに900日も滞在したという!改めて、戦争は緻密に遂行された事に感心した。

Tuesday 11 September 2018

オスフカの地下要塞

1942年末期、ドイツはソ連のスターリングラードでの劣勢を強いられていた。そんな頃、Eagle Nestが考えたのは、巨大な地下要塞であった。ポーランドの西に連なるオウル(Owl)山脈の地下に、鉄道、戦車などを格納する全長30kmの通路である。その名もRiese(Giant)計画と称し、設計は建設相のシュペア(Speer)が担当した。作業は近くのグロス・ローゼン収容所から2万人が従事した。しかし工事はその後のソ連軍の進撃で放棄された。地下要塞が何の為に作られたのか?未だにそれは謎とされているが、化学兵器、ロケット、原子力発電などの格納と言われている。

そのオスフカ(Osówka)と呼ばれる地下壕が、チェコ国境から少し入った所にあると言うので行ってみた。場所はド田舎だが、今ではGPSがあるので容易に行ける・・・そう思っていたが、途中でそのGPSも機能しなくなり道に迷った。気が付くと同じような車が立ち往生していた。結局誰かが先導して何とか辿り着くことが出来たが、行くと結構多くの訪問者がいた。1時間のツアーに参加し坑道内を歩いた。夏だと言うのに中は肌寒く、置き去りにされた工具を見ると、70年前の時間が止まったような感じだった。ツアーはポーランド人向けだったので、言葉が分からず残念だったが。

思い出したのは、何年か前に行った松代の大本営跡である。太平洋戦争末期に、皇族始め、軍の中枢機能を移転させるために作った地下要塞である。どちらも今となってみれば狂気としか見えないが、洋の東西を問わず、戦争を継続する前提だと、この発想が生まれるようだ。松代も営業努力すれば、もっと観光客を集められる。

Sunday 9 September 2018

ダッハシュタインに登って

ザウツブルグから東に向かう山岳ルート、ザルツカンマーグット(Salzkammergut)は夏の人気コースである。切り立った岩山と湖のコントラストがとても美しい。取り分け小さな湖畔の村、ハルシュタット(Hallstatt)は目玉である。人口1千人の小さな村は観光客で溢れ返っていた。中でも中国人の旅行者が目立ち、宿探しに入ったホテルでは、中国人経営者が出て来たのにはビックリした。嘗ては村への入り口は、山に掘ったトンネルだけだった秘境だった。村民の遺骨が眠る礼拝堂は、村で死んだ700体の命日、職業など細かく管理しているという。

圧巻だったのは、背後に連なるダッハシュタイン(Dachstein)山脈である。ミシュランガイドの3つ星、そして世界遺産である。ハルシュタットから車で2時間程行走ると、ロープ-ウェーの登り口に着く。山頂が寒いのか、皆防寒の登山服を着て待っていた。流石、ここまで来ると中国人はいなかった。2700mの展望台に登ると険しい岩山と氷河が連なり、かなりヒンヤリしていた。ロープ-ウェーも2階建てになっていて、手すりだけの屋上は迫力満点であった。多くの登山客は、氷河を散策して夕方戻るようだ。

オーストリアはウィーンやグラーツの都市も廻ったが、こうした自然に接するのが面白い。

Saturday 8 September 2018

ヒットラーの鷲の巣

ザルツブルグから車で1時間程で、ヒットラーの山荘があったベルヒテスガーデン(Berchtesgaden)に行ける。標高1800mの山頂の建物は、「鷲の巣(Eagle's Nest)」と呼ばれ、多くの観光客のスポットになっている。麓に車を置き、専用のバスが上まで運んでくれる。圧巻なのはバス停から山頂に登るエレベーターである。昔使っていたものが今でも稼働しており、黄金の室内は当時の面影を残している。建物は米軍の空襲で無くなったため、現在の建物は戦後に再建されたものである。それにも拘わらず、山頂に立つと、誰もがヒットラーとその時代の気分になる。

一帯は1930年代に政権を取ったナチが買収した。博物館のビデオでは、強制的に立ち退かされた村民が、戦後当時の不満を語っていた。その開発は、ヒットラー用だけでなく、ボルマンやゲーリングなどナチ幹部の別荘や軍の施設など大掛りだった。山頂までの道路はその時に作られたものだった。日本で言えば、上高地一帯を買収し、穂高に迎賓館を建てた感覚である。

外交の舞台になった場所でも有名で、英国のチェンバレン、イタリアのムッソリーニ、日本の大島大使も記録によれば3度訪れていた。最後は1944年5月というから、ノルマンジー上陸やサンパン上陸が始まろうとしていた頃だ。戦局の不利を悟りながら、お互い何を話したのだろうか?そんな事を考えながら、眼下に広がるのドイツアルプスを見ていると、その壮大さと美しさに、いつの間にか圧倒されてしまった。場所はオーストリアとスイスの国境に、まるで盲腸の様に突き出たドイツ領である。実は20年以上前にも訪れたので、今回は2度目であった。

Friday 7 September 2018

ピルスナーのビール

チェコと言えばビール、それもピルスナーは世界一の味である。どれを飲んでもホップの味がして、それでいてスッキリしたのど越しである。今回は有名なPilsnerはじめ、Budweiser,Svijany,Krusoviceの4つの醸造所を訪れた。どこも麦芽のいい香りが工場を包んでいた。それにしても、あの透き通ったような水はどこから来るのだろう?兼ねがねそんな疑問を持っていた。しかしBudweiserの工場を見学した時、係りの人が、「200mの地下水を汲み上げているのです」との説明を聞いて納得した。川の水を使っているのかと思っていたが、自然に濾過され純度が高い水がその秘密だった。

毎日200~300km、それも狭い一般道を走るので結構緊張するドライブだった。夕方その疲れを癒す冷たいビールは格別だ。それも行く先々で次々と違った銘柄が出て来るから飽きない。日本は4大ビール会社だが、チェコは5大メーカーに加え、中小が70社もあるからだ。有名なのはPilsner Urquellだが、その土地の知らない銘柄に出会うと嬉しいものがある。

「これってどこの醸造所かな?」と思って調べてみると、意外と近くにあったりする。すると翌日車を走らせて現地まで行ってみたり、気ままな旅であった。またどこまでも続く麦畑の中に、ある時ホップの畑を見つけた事があった。近付いて車を止め、身近にホップの緑のトンネルを見た時は正に感動ものだった。

Thursday 6 September 2018

007の温泉

ガイドブックを見ると、チェコやハンガリーには温泉があり、プールのような処でチェスをしている写真が載っている。だったら一度は試してみようか!と、チェコの温泉町カリロヴィ・ヴァリ(Karilovy Vary)という保養地に立ち寄った。あの007の映画、カジノロワイヤルの撮影地である。昨年モンテネグロを訪れて、ここかと思った場所が外れただけに、失地回復の感があった。

薄暗い廊下で待っていると、係りの人が「XX番室に入って」と言う。通された部屋はバスタブがある個室で、暫くして白い作業服を着た女性が入ってきた。「水着が要るの?」と聞くと、「そのままでいい!」と言われ、真っ裸で浴槽に入れられた。38度の湯に泡が下から出て来る中約20分、又さっきの女性が入ってきて、今度は「ベットに横たわって」と白いシーツを巻き付けて出て行った。そして又20分すると、同じ人が入ってきて、「これで終わり」だった。

部屋はとても清潔で気持ち良かったものの、何か冷たく管理されているようで、日本の温泉の方がよっぽどリラックス出来ると思った。昔読んだ原翔氏の「バルト紀行」で、サウナから出るとホースで水を掛けられるシーンがある。部屋は薄暗いこともあり、氏はソ連時代の収容所を連想したという。今回はそこまで行かないが、大きな銅製の蛇口や怖そうな係りの女性を見ていると、何かその名残を感じてしまう。料金は2千円、終わってからのビールは美味かったが・・・。

Wednesday 5 September 2018

プラハの床屋

旅はチェコのプラハから始まった。旅はまず身だしなみから、そう思いホテル近くの床屋に入った。朝8時過ぎだと言うのに、もうお客さんが来ていた。待つ事10分、順番が廻ってきた。気の良さそうなおばさんで、仕事をしている時にしばしば携帯電話で良く話してる。どうやら子供からの電話のようで、鏡の周りは家族の写真が一杯貼ってあった。

言葉は勿論通じない、でもどんな仕上がりになるのだろう?普通ならそんな心配をする。しかし何度か現地の床屋に行っている内に、何を言っても無駄だと分かってきた。男ならどこでも短く刈るのが普通だからである。それは頭が小さいせいか、将又寒い冬に帽子を被らなくてはならないせいか、よく分からないが、兎に角誰も決まった髪型になる。ふと思ったのは日本の床屋である。どちらかと言うと髪をふんわり多く見せようと髪を残そうとする。日本人の頭デッカチの体型もあろうが、それはチョンマゲ時代の名残ではないか?とふと思えて来た。

チョッキンチョッキンと刈る事20分、あっという間に終わり、料金は1千円だった。案の定、スポーツ刈りみたいになった。帰ろうとすると、「これ見て!」とある本を渡された。それは何と日本語の本で、以前ここに来た日本人が出版した「世界の理髪店」という本だった。本の中でその店も紹介されていた。チェコの理髪師の9割は女性らしく、家族的な雰囲気だという。

Tuesday 4 September 2018

中欧の旅

今年の夏も又、チェコ、ポーランド、ハンガリーなどの中欧を廻った。昔は東欧と呼ばれていた場所だが、ソ連が解体してからそう呼ばれている。走る事6200Km,昨年と一昨年のバルカン半島を含めると13千Kmになった。これで戦後のソ連の社会主義圏を大方踏破し、何か仕事を成し遂げたような安ど感がある。

その中欧は、どこも取っても華やかさとは無縁な地味な場所である。それはロシアと西洋に挟まれた因縁か、将又戦後長く続いたソ連の社会主義の影響か、良く分からないが、旅をしていてもワクワク感は出て来ない。例えば町は一見とても綺麗だが、ベルリンの壁崩壊後の30年で復興した建物である。だから何処となくガランとしている。それは人が住んでいないからで、昔から続く店もないから、観光客が居なくなると町はひっそりとしてしまう。もう一つは地形である。この一帯は山も海もない平地がどこまでも続いている。ドライブしていても、農地の風景は殆どどこも同じでつまらない。バルカン半島が起伏に富んで楽しかった事を思うと、雲泥の差である。

しかしそんな事は行く前から分かっていた。それでもどうして行きたかったのか?以前人から「どこに行くのですか?」と聞かれると、よく「収容所巡りです!」と応えていた。すると殆ど人は「・・・・・」と黙ってしまう。だから最近では「第二次大戦の戦跡巡りです」と言うようにしている。確かに収容所は気味が悪い場所である。今回も4つの収容所を訪れたが、自分でも二度と行きたいとは思わない。それでもいつかあのユダヤ人が6百万人も犠牲になった場所を目で確かめたかった。行ってみると確かにそれらはソ連国境近くに点在していて、正にそこは西洋の地の果てであった。これから暫くはその中欧旅日誌を綴ってみたい。