Sunday 28 August 2016

フラン・バロの絵画

銀座の画廊には縁がなかったが、パリで良く通ったギャルリーがあった。それはオルセー美術館に近いベルヌイユ通りにあり、いつも立派な主人が店にいた。置いてあったのは比較的新しい作品で、写実的な作品が多かった。

元来英国のコンスタブルが好きであったが、その自然を忠実に描いたスタイルにピッタシだったのが、フラン・バロ(Fran Baro)であった。優しい筆のタッチに魅かれ、何度か通う内に2点を買い求めた。どちらもセーヌ河をバックにした絵で、ロワイヤル橋とシテ島を描いたものだった。

残念ながらどちらも火事で消失してしまったが、何年かしてサント・ノーレ通りの「マルモ」という画廊で彼の作品を見つけた。決して有名な画家ではなかったが、既に値段はソコソコになっていた。その時は懐かしくて手が出そうになったが、もう買う意欲がなかった。


Saturday 27 August 2016

銀座の画廊


最近でこそ行かなくなったが、銀座はサラリーマンにとって憧れの場所だ。仕事帰りにひょっと馴染みの画廊に寄って主人と他愛もない話をする。そして寿司屋の暖簾を潜り、最後は行き付けのクラブに顔を出して帰る。勿論外には黒塗りの車が待っているので、家までスッと帰れる・・・。そんな晩年を夢見ていた時もあったが、遂にその時も訪れないまま終わってしまった。

その銀座画廊だが、今週吉井長三さんが亡くなった。吉井さんは日本にいち早くルオーやカトランを紹介し、中川一政や梅原龍三郎、実篤などの作品を手掛けていた。吉井さんは単なる画商でなく、山梨の清春白樺美術館やパリにも店を出すなど精力的な人だった。何度かお目に掛かったが、人間味溢れる印象がある。画廊は絵描きと収集家を繋ぐサロンである。一度売った絵画は展覧会があると借用する。そんな人との関係を大事にしていたのだろう。

思えば戦後の高度成長期に、誰もが文化の息吹に飢えていた。働けドンドンでも、どこかに心のバランスを取りたかった。その世界、取り分け優れた美を提供したのが銀座の画廊だった気がする。何か一時代が終わったような気がした。

Thursday 25 August 2016

ベオグラードの空爆跡


ロシアがシリアを空爆し、新聞に犠牲になった子供の悲惨な写真が載っていた。ただ爆撃を受けた経験がないので、実感として中々伝わって来ない。

先日セルビアの首都ベオグラードに行った際に、NATOの空爆跡を訪れた。1999年にコソボ紛争を巡りNATOが破壊したビルであった。太平洋戦争が一昨日ならこちらは昨日の世界である。空爆された建物は現存されており、その凄まじさに暫し立ち止った。国会前には犠牲者の写真もあった。

1999年と言えば、日本ではバブルが弾け別の意味で戦争状態だった。コソボ紛争なんて対岸の火事だったのかも知れない。ただ昨日も北朝鮮がミサイルを発射したように、段々と現実となる世界に生きている。

Wednesday 24 August 2016

Arizona man

My colleague recently started exercise every weekend. It was a good news as he had been doing nothing except watching TV at home. So I advised him to look for a carrot of motivation in order to continue for long time. It is for example a winning by games, sharing times with young women at gym, etc.

According to the US news, Arizona man succeeded to reduce his 300-pound weight by walking to Walmart. His hobby was eating so that he used to go there for buying his dairy meals. It was 1 mile distance and he went 3 times so would be 6 miles a day. It was just to "kill two birds with one stone"

Body building business is very active in Tokyo and we can see actor who lost his weight in a short time. But it costs a lot and has a rebound risk if he stopped his investment. I don't like such an artificial method. Most important thing is to enjoy oneself in the process.

Sunday 21 August 2016

18区の黄金の滴

ゾラの「居酒屋」の舞台は、パリ18区のグテ・ドール街(Quartier de la Goutte d'Or)である。街の名前は”黄金の滴”・・・僅かなお金を分け合う意味だったのだろうか?近くには北駅やサクレクール寺院、そして蚤の市で有名なクリ二アンクールがある。パリに行くと必ず訪れる骨董市であるが、先日とある在日のフランス人と話していたら、「そんな危ない場所は絶対に行かない!」と言われた。確かに今では半分アラブ街だから、地元の人は寄り付かない気持ちも分かる。

何年か前だったか、ユーロが160円だった時があった。それも正月休みでホテル代は暴騰し、中々1万円以内で見付けるのに難儀した。その時泊まったのが、この地区だった。狭くてこれ以下ない黴臭い部屋で、こんな場所があったのかと改めて思った。でもこうしてゾラに触れると、その時の体験が蘇った。本当に何が災いするのか分からない。

フランスはどこのホテルに泊まろうが、シーツだけは清潔だ。それは、主人公の洗濯女が今でも頑張っているのかも知れない。小説では結婚祝いの日、バンドーム広場に出かけた。アウシュテルリッツの戦いで、ナポレオンが勝利し大砲を溶かした塔である。今では登れないが、当時は登れたようだ。

Saturday 20 August 2016

ゾラの居酒屋

エミール・ゾラの「居酒屋(原題:L'Assommoir)」を読み直してみた。最近、元知事の石原さんがバルザックを良く引用するが、歳を取って来ると、この深い人間味が快いのかも知れない。

舞台は1876年のパリ、だから登場人物の中には子供をクリミア戦争で失った老人も出て来る。ストーリーは再婚した洗濯女の半生だ。主人は最初気丈だったが、屋根から落ちてから居酒屋に入り浸るようになる。それを奥さんが毎日飲み代を渡し支えるが、そのどん底の生活風景が何ともパリらしくコミカルである。昔読んだ、G・オーウェルの「パリ・ロンドン放浪記(原題:Down and Out in Paris and London)は少し前のパリだが、これも同じであった。日本なら悲劇になるのに、どうしてパリだと喜劇になるのだろう?

フランス人はペチャクチャと良く話す人種だ。同じことを、縦にしたり横にしたりして何度でも繰り返す。単刀直入の日本語とはやはり何かが違う。小説の中でも、誰もが勝手にしゃべり適度に聞き流している。住民の喧騒が聞こえてくるようだった。

Thursday 18 August 2016

ナチの黄金列車


今週からポーランドでナチの金塊発掘が始まった。場所はチェコ国境近くの町オルブレッシュ(Walbrzych)である。ソ連が押し寄せる終戦末期、ナチの金塊を積んだ列車が姿を消した。昨年8月にニュースになってからレーダーで探索したが、中々形跡は見つからなかった。それにも拘わらず、遂に関係者の熱意で掘削が始まったようだ。見つかればその価値は300億円とも云われている。


今まで、戦争中の金塊の話は小説で楽しませてもらった。A・マクリーンの「北海の墓場(原題:Bear Island)」はノルウェー沖の島に、やはりナチの金塊を回収に行く話である。また日本では、マッカーサーの金塊を巡る新田次郎の小説「日輪の遺産」があった。所謂山下財宝だが、本当はどうなのか未だに興味が尽きない。

今回は早ければ10日程度で結果が分かるという。果たしで列車は眠っているのだろうか?

Wednesday 17 August 2016

神宮のテニス倶楽部


久々に神宮外苑でテニスをした。お盆のこの時期、コートはガラガラだが、並木道は上京した人で混んでいた。神宮はテニスの聖地である。相変わらず上下白の伝統が続いているが、華麗なテニスも本質は下剋上と排他性のスポーツである。上手い者が偉く、下手が小さくなる習性を持っている。その最たる世界が神宮である。

昔は、神和住や佐藤直子のお父さんが長老で仕切っていた。それを支えたのが大学体育会のOBだ。クラブハウスに面した4面はいつも空けておく暗黙のルールがあった。困ったのは、各コートが学閥と社閥で固められていたことだった。XXコートは松下電器、△△コートは医科歯科・・・といった具合に自然と決まっていた。初めは気が付かないが、暫くして自分だけが部外者だと知ると、無所属派は一番奥のボードに追いやられた。

一方で今でもそうだが、当時からクラブハウスはサロンの雰囲気があった。テニスはやらないけど、社交場として使う人も多かった。代表的だったのは亡くなった中川昭一氏である。若い頃から女性を含むも多くの取り巻きに囲まれ、人の輪が絶えなかった。ただ亡くなる1年前には酒を飲んでいたという。いつの間にかサロンがバーになってしまった・・・。

そんな外苑コートもオリンピックで移設するらしい。そういえば隣の秩父宮ラグビー場も建て替えられるのでガランとしていた。人々は歳を取り、風景も変わろうとしている。

Tuesday 16 August 2016

若きトランプ氏

アメリカの大統領選挙が佳境に入って来た。やっぱりヒラリーかと思っても、やはり気になる。そう言えば、昔買ったトランプの本があったと思い探してみたら出て来た。若き彼が41歳の時に出した「トランプ自伝(原題:The Art Of The Deal)」である。

中身は不動産買収日記である。父も不動産業者だった家庭で育ち、20代から30歳にかけて成功を勝ち得た。読む限り至って普通の不動産屋であり、自身の勘を頼りにするタイプだった。又見知らぬ世界にコネなしで切り込む姿は、とてもアメリカ的である。一方で大胆な仕掛けとは裏腹に、物事には慎重でかつセンチメンタルであり、所謂人の心も分かる人である。人はそう簡単には変わらないというが、そんな彼の人柄に魅かれてここまで来たのだろう。

彼が絶頂期の80年代半ばだったか、昔勤めていた会社にある女子社員が入って来た。4月に入社し、5月の連休に1週間休みと取りたいという。ビックリして聞くと、「家族でトランプ夫妻に呼ばれていまして・・・」というではないか。そう言えば有名な会社のお嬢さんであった。以来、トランプ氏は何故か少し身近な気分がある。

Sunday 14 August 2016

純血は弱し

連日のオリンピック観戦で少々疲れ気味だ。それにしても今日現在でメダルを24個も取っているから凄い。そんな話を仲間としていたら、誰かが「それは血が混じって来たからだよ!」と言い出した。確かにラグビーや柔道のベイカー、陸上のケンブリッジなど、今まで考えられなかった選手が活躍している。

純血は弱いと昔から言われて来た。皇族や企業も同じである。強くなるには外の血を入れなくてはならない。すると彼は「日本人のミトコンドリアは欧州人の2倍もあるよ!」と言う。島国と言えど、そこに辿り着いた人種の混血振りは大変なものらしい。そう言えば、日本人の顔を見ると台湾系、インドネシア系など特徴がある。きっとどこからか流れ着いたのかも。昨日まで鎖国をしていた国が開国後に間もなく大国ロシアを破ったのも、決して偶然でなかった気もしてきた。

横で聞いていたHさんが我慢できなくなり、「実は私はその関係の翻訳を出してベストセラーになりまして・・・」と口を挟んできた。有史以前に文化があったのに、彗星がぶつかって消滅した・・・!?お盆のこの季節、静かな都会で浮世離れの話に華が咲く。

Wednesday 10 August 2016

No Kosovo !


When I got a rent-a-car at Sofia airport in Bulgaria, I received a green card which allowed me to pass other countries. A staff told me that you couldn't cross the border without this paper. I filled the proposed country to visit, Greek, Romania, Serbia, Kosovo..., then a staff shouted with big voice that " No Kosovo !"

She continued " No Moldova, No Ukraine..." Kosovo locates on the way to Beograde in Serbia from Macedonia that I was anticipating to drive but I gave up. I have very few knowledge for ex-Yugoslavia issue so that I don't know why. Is it a dangerous area even now with bad security? It looks Kosovo is still isolated internationaly.

Rio Olympic 2016 has begun. Japanese favorite women for Judo, Misato Nakamura, lost yesterday to the player Majlinda Kelmendi who was the first Gold medalist for Kosovo Olympic history. It was unluckily matter for me but want to say congratulation to her. This news changed my impresson to Kosovo a little.

Monday 8 August 2016

山のルーティーン

長旅で疲れたが、疲れを癒すのはやはり体を動かす事だ。そう思ってテニスコートに向かう。ただ、ゴルフとテニスのやり過ぎで、2か月前からテニスエルボーになってしまい痛くて仕方ない。だったらばと、ここはボール遊びを休み、昔鳴らした山を始めた。

そうは言ってもいきなりアルプスなんて無理だ。足慣らしに近場の1000~2000m級を試す。一たび山に入れば人気は疎らで、緊張が走る。単独登山は足でも滑らせば終わりだ。負傷しても誰も助けてくれないし、運が悪いと命に拘わる。

ところが近場と思った山は、正に灯台下暗しの世界があった。ちょっと頑張れば、別世界が待っていた。大体1時間余歩き、30分休んで下山する3時間コースである。これだと適度な疲労感と達成感の両方が手に入る。夏のこの季節、頂きの風は快く、空気も透き通っていて、遠くの景色が近く見える。家を10時に経って15時に戻りビールを飲む。この適度なルーティーンがいい。


Friday 5 August 2016

バルカン半島の人と自然

改めてバルカン半島の旅を振り返ると、血なま臭い場所ばかり廻った気がする。しかし決してそんな物騒な処ばかりではなかった。人々は至って素朴で親切だった。多くの人々に道を教えてもらい助けて貰った。ベオグラードの街で二コラ・テスラ博物館の場所が中々分からないで困っていると、一緒に車に同乗して届けてくれた学生や、ソフィアの軍事博物館へもある人が車で引率してくれた。中には駐車代まで払ってくれた人もいた。「GPSはないの?」と聞かれると、「僕のGPSはこれ!」と言ってガソリンスタンドで買ったバルカンマップを出して、一様に驚かれた。


そして豊かな自然、取り分けこの季節はヒマワリ畑が綺麗だった。そんな景色を楽しみながら、行く先々でご当地ビールとワインで乾き切った喉を潤した。小さな国がひしめき合っている、それでいて文化が異なるこの地域ならではのバリエーションは楽しかった。特に西側にはない素朴さが良かった。

田舎では馬車が日常の交通手段として生きているし、また野犬も多かった。野犬はヒトのいる処にゴロゴロ、寝そべって誰かが恵んでくれるのを待っている。きっと古代からそのスタイルは変わらないのだろう、もはや風景の一部になっていた。犬と一緒にしては失礼かも知れないが、大国の間に生き続けたバルカンの人々にも、それに近い強かさを感じた。ともあれ、人の心、豊かな自然、そして手付かずの中世に触れた旅になった。

Thursday 4 August 2016

プロヴィディフの要塞

プロヴィディフ(Plovdiv)の町はギリシャ時代から始まったため、その古さから旧市街は高台に隔離されていた。郊外にビザンチ時代の要塞跡と僧院があるので行ってみた。要塞と言っても、岩山の高台に構えた石落としの砦だ。細い一本道が眼下に見落とせ、敵が通るのが良く見る。そこから数キロ奥まった処に僧院があった。リラ僧院と同じで、寄宿用のアパート形式である。今までビザンチやオスマンは侵略者のイメージがあった。ただここからトルコ国境までは150Km程と目と鼻の先である。トルコ領でも決して不思議でない。悪いのは外的だ・・・現場に立つと、そんな気持ちになってきた。

市内に戻る途中、空軍博物館の看板が目に入ったので寄ってみた。空港の一角にロシア製の古いジェット機が陳列されていた。係の人が「ソフィアに行けば軍事博物館があるよ!」と言われ、その後訪れた。何故か、どちらも地球の歩き方やミシュランに載っていない。軍事の方も立派な施設で、野外にはロケット、戦車(これもロシア製)が並んでいた。建物の展示は素晴らしく、正にブルガリアの歴史館であった。ローマ、ビザンチン、ロシアの大国に蹂躙されたとはいえ、戦っていたのはブルガリア人だった。そんな当たり前のことが伝わってきた。

プロヴィディフからコプリフシティア(Koprivshititsa)という山岳地帯の美しい村に向かった。そこからソフィアまで1時間、帰りの飛行機に間に合う場所だ。途中、城壁が残るヒサヤ(Hisarja)という町を通った。何のことはない処だったが、平日の昼だと言うのに、緑の公園に隣接したテラスで多くの人が歓談していた。それもビールを飲んでいる。改めて目に見えない豊かさを感じてしまった。

Wednesday 3 August 2016

シプカ峠の戦い

旅も後半になり、最初飛ばした疲れが出て来た。そこでプロヴディフ(Plovdiv)という町で2泊することにした。大きいが、ローマ時代のコロシアム跡が残っている古い町だった。

途中、山岳ルートを通ると、山の上に大きな塔が見えて来た。近付くと急勾配の丘の上に巨大なモニュメントが建っており、その中に入れるようになっていた。偶然だったが、それは1877年の露土戦争のシプカ峠(Battle of Shipka)の戦勝記念碑であった。クリミア戦争に負けたロシアは、20年後に再度南下してオスマン帝国に挑んだ。そして遂にこの峠でオスマンを破った。両軍14万人が戦い、結果的にバルカン諸国がオスマン帝国から解放され、そしてロシアの支配下に入った一戦だった。

塔の上からパノラマが開け、オスマン軍がよじ登って来る光景が彷彿とした。それはあたかも、映画で見た203高地そのものであった。館内では当時の様子が詳しく描かれており、暫し見入ってしまった。1877年と言えば、アメリカではカスター将軍の第七騎兵隊が全滅し、日本では西南戦争、またパリではゾラの「居酒屋」に出て来る洗濯女がブリキ屋と再婚しようとしていた頃だった。耳を澄ますと兵士の怒号が聞こえてきそうだった。

Tuesday 2 August 2016

タルノボの風


トランシルバニア地方の山から下り、首都のブカレストに入った。中心に近づくと白い建物群は、何か無機質で気持ちが悪かった。チャウシスク時代の独裁国家、共産主義、そんな負のイメージが募るのだろうか、ビルの唐草模様が骨に見えてくる。その中で一際大きな建物が国民の館と称する迎賓館である。ギネスブックによるとペンタゴンに次ぐ行政建築の大きさらしいが、その巨大さと豪華さに絶句した。ツアーがあるというので参加すると、2時間も連れ廻された。ガイドによると、チャウシスクがモデルにした体制の一つが北朝鮮だったという。片や革命で銃殺され、片や依然と体制を維持している・・・。

そのブカレストから南に1時間程走るとドナウ川に出た。ドイツの黒い森から延々2800Km、ここルーマニアとブルガリア国境である。茶色っぽく川幅は2~300mはあろうか、とても泳いで渡れる距離ではない。橋を渡るとそこはブルガリアだった。

その日はダルノボ(Tarnovo)という町に泊まった。ホテルの主人が12世の首都だったと教えてくれた。美しい高台のテラスで、乾いたハンバーグに甘いブルガリアワインを頼んだ。眼下には蛇行した川と家々が拡がり、対岸に廃墟も見える。夏の風がとても快かった。暫し時間が止まり、そこに居る事が不思議だった。

Monday 1 August 2016

ドラキュラの観光地


ルーマニアの最大の観光地は、ドラキュラ伯爵のブラン城(Castle Bran)である。市内から30Kmも離れているのに、行くと多くの土産物屋が立ち並び観光客で大混雑していた。チケットの列で待つ事30分、やっと城に入れたが、狭い階段は渋滞し疲れた。

そのドラキュラは、15世紀の地元王ヴァラド・ドラキュラ(Bald Dracula3世をモデルにしている。時代はハプスブルグ家とオスマンが、かのトランシルバニア地方の覇権を争っていた頃である。父の仇を取った3世は、攻め入るオスマン兵士を捕まえては串刺しにした。その方法だが、まず捕虜を床に寝かせ、両手足を持って肛門から串を入れるのだが、心臓と肝臓の急所は避け半殺し状態のまま立てた。その数は22000人、押し寄せるオスマン軍は、その悍ましい光景に恐れをなし引き返したという。

ドラキュラの名前は、その後アイルランドの作家が例の吸血鬼の本を書いたことで、今のイメージが出来上がった。最近ではマイケル・ジャクソンのスリラーもあるが、その残虐さと不気味さが売りになり、ドラキュラランドのテーマパークまで計画されているという。そう云えば、スコットランドのネッシーもそうだっだが、不思議と人は嘘だと分かっていても、一度出来た世界に憧れる何かがある。