Saturday 31 December 2011

休刊のお知らせ

いつも「Pubの話」を読んで頂き、有難うございます。

調子に乗ってビールを飲み過ぎたこともあり、暫くは休肝ならぬ休刊することにしました。

改めて、今までのご愛顧にお礼申し上げます。

Friday 30 December 2011

縦笛の音色

アイルランドに行った時、クロンマックノイズ(Clonmacnoise)というカソリックの聖地を訪れた。6世紀から信仰で栄えたが、バイキングやイングランドの略奪で16世紀には廃墟になった村である。今では、ハイクロスと呼ばれる十字架の石碑だけが当時の面影を残していた。不便な所だが、日本語のパンフレットがあったのには驚いた。

その夜、近くのアスロン(Athlone)という小さな町に泊まった。例によってパブに入ると、片隅でアイルランド民謡を奏でていた。縦笛とアコーディオンだけの至って質素な音色だったが、地元の人は静かに聴き入っていた。それはまるで迫害を受けた故人を偲ぶかのようで、何とも言えない厳粛な雰囲気だった。

今年は随分と飲み歩いたが、やはりアイリッシュパブの居心地はいい。中でもこの晩のことがとても印象に残っている。

Thursday 29 December 2011

シャンパンの泡

人はお目出度い時にシャンパンを飲む。上品な口当たりと、栓を開けた時の音が縁起いい。ある人が、その秘密はバブル(泡)にあると云っていた。シャンパンのバブルは最初は小さく生まれ、段々と上に上がって行くに連れて大きくなる、まるで希望ようだ、という事らしい。バブルは次から次へと湧いて来て最後は弾ける、これも人生に似ている。

このシャンパン、フランスのシャンパーニュ地方の発泡酒だけを指す名称である。パリから車で1時間程の町ランス(Reims)には、モエ・エ・シャンドン(Moët & Chandon)など多くのシャンパン酒蔵がある。行くと、美しいコンパニオンが案内してくれる。

シャンパンとはいかなかったが、今年は良くビールを飲んだ。行き付けのパブでは、地元ビールが7時までのハッピーアワーだと、1パイントがたったの170円で飲める。客の回転がいいせいか、いつ行ってもとても新鮮で、シャンパンの様なバブルが勢い良く湧いている。これを3杯飲むといい気持になる。

Wednesday 28 December 2011

白鳥と過ごす世界

タリンは港町なのでカモメが多い。アパートの屋上にも良く飛来するし、朝の歩道では鳩と共に餌を漁って歩いている。鳥が人間を恐れない光景は、いつ見てものんびりするものがある。

もう暫くすると白鳥もやって来る。どこから来るのか分からないが、流氷と共にやってくる。港近くの海岸線には、白鳥が集まるスポットがあり多くの観光客で賑わう。人を全く恐れないどころか、餌をやると追いかけてくるので、いつぞや小さな子供が泣いていたこともあった。野生の白鳥と暫く一緒にいると、不思議な気持になってくる。白鳥と少年を描いた「ニルスの不思議な旅」も、こうした世界から生まれたと想像する。

カモも年中いる。ただ私はカモを見ると、「美味しそうだな」と思う悪い癖がある。オレンジソースで煮込んだ鴨料理(コンフィ)を思い出してしまうのである。

Tuesday 27 December 2011

ワイルドギース

ややオタクっぽくなるが、昔「ワイルドギース(Wild Geese)」という映画があった。イギリス政府が傭兵を雇ってアフリカの指導者を救出するというストーリーで、主役のリチャード・バートンが格好良かった。

先般アイルランドを旅行した時、「ボイン河の戦い」の古戦場を訪れた。1690年にアイルランドを舞台にした戦いで、イングランドのプロテスタントとカソリックの主導権争いであった。結果はプロテスタントのウィリアムス3世軍が勝ったが、この時に傭兵とした参加したのが地元のアイルランド人2万人であった。アイルランド人はカソリックのため、この時は敗者に廻ったが、彼らをワイルドギースと呼んでいた。

以来ワイルドギースという名称は、フランス、スペイン、イタリアなどのカソリック国で活躍したアイルランド人の傭兵を指したそうだ。映画「ダイハード」のジョン・マクレーン(John McClane)、「インディ・ジョーンズ」のハリソン・フォード(Harrison Ford)、古くは西部劇のジョン・ウェン(John Weyne)もアイルランド系だ。未だに勇ましい人が多いのはそのせいだろうか。

Monday 26 December 2011

キューリジュースの秘密

市場やスーパーの食料コーナーに行くと、キュウリの塩漬けが樽に入って売っている。所謂ピクルスである。こちらの人は、大きなキュウリをランチ代わりにバクバク食べる。いつぞや美女がかじっているのを見て、興醒めしたことがある。

ところでこのキューリの塩漬けを、ジュースにして飲む慣わしがあるという。決して美味しいとは思えないが、実はソ連時代の抵抗の一つだったらしい。いつぞやこのブログで紹介した歌の祭典は、国民の心を一つにする重要なイベントだった。ソ連の支配下、歌は唯一の自己表現として独立を勝ち取る力になった。このジュースも当時、飲む人が飲むと静かなファイトが沸いてくるものだったらしい。正に知る人ぞ知る魔法のジュースだった。

この国の人々は寡黙だ。男同志が怒鳴り合い、女が奇声を上げる光景は殆ど見たことがない。あまり静かなので、時としてひんやりした寒さすら感じる。まだまだ国民性を分かるには時間が掛かるが、ピクルスの酸っぱさにその秘密があるのかも知れない。

Saturday 24 December 2011

雨のクリスマス

今年の冬は中々雪が降らない。バルト地方だけでなくヨーロッパ全体がそんな感じだ。今週になってスイスアルプスの方は大雪が降ったらしいが、ここは相変わらず雨ばかり降っている。でも人々はさして気にしていない様子だ。日本のように季節を冠した挨拶の習慣もない。

今日はクリスマスイブ、と言ってもお店は開いているし教会の鐘の音も聞こえて来ないのでムードがない。ここの国の人はあまり教会に行く習慣がないようだし、国の3分の1を占めるロシア人のクリスマスは1月のためかも知れない。今頃、クリスマスツリーを買って帰る人も多い。

そうは言ってもこの季節、多くの人は国に帰る。昔パブで働いていた女子学生も、留学先のイギリスから久々に戻って来たし、飲み仲間のMさんは、国に帰る前にと先日自慢の料理を振る舞ってくれた。Mさんはスイス人、仲間のRさんと呼ばれて行くと、レンズ豆のスープとグリーペッパーを使った牛肉のソティーは美味だった。今頃は自宅で寛いでいるのだろう。

Friday 23 December 2011

3.11の記憶

今年もあと残すところ1週間になってきた。今年の最大の出来事は、何と言っても3月の大震災だった。

3.11の朝、いつものように起きてBBCを点けると緊急ニュースが流れている。聞くと日本のようで、慌ててCNNに切り替えた。そうすると、津波が田畑を浸食している映像が飛び込んで来た。飛行機から生中継されている映像で、家、自動車、人々が次から次へと濁流に呑み込まれていく。余りの出来事に、何が起きたのか分からないで傍観している人も映っている。「逃げなきゃ駄目だよ!」と思っても、ただ声が空を切るだけで何も出来ない。1時間程続いただろうか、暫く放心状態になった。後で知ったが、この映像は日本では放映されなかったらしい。

その後、多くの人からお見舞い、激励のメッセージをもらった。先日もアイルランドの片田舎で、ホテルを経営しているパキスタン人からお悔やみを言われた。遅くなりましたが、亡くなられた方々のご冥福と、家や家族を失った方々へのお見舞いを申し上げます。

Thursday 22 December 2011

ギネスの9000年リース

林景一著「アイルランド・・・」の中に、”ギネスはそこで飲むのが一番美味しい”と書いてあったのがずっと気になっていた。ビールは何と言っても作りたてに勝るものはない。札幌のサッポロビール、生麦のキリンビール、そして今回は旅の終わりに、ダブリンのギネス工場でギネスビールを飲むことにした。

市の中心に位置するギネス本社、車を降りるとチョコレートの匂いがして来た。一遍の薀蓄が終わり、最上階の展望ルームに辿り着くと、ダブリンの町が眼下に広がる素晴らしいパノラマだった。遥か彼方には、夕陽を浴びたウィックロー山に雲が流れている。そして注がれた一杯のギネスビール、クリーミーな透明感がありこれぞ至福の時であった。各国から来た人達、特に若い男女が出来立てのギネスと共に、忘れえない時を過ごしていた風景が印象的だった。

ギネスの成功はその製造方法も然る事ながら、何と言っても創始者のアーサーギネスが9000年リースを結んだことである。ダブリン市の中心に位置するこのセントジェームズゲート(St.James`s Gate)を、1759年に45ポンド/年で9000年間借り上げた。土地には、ウィックロー山から流れ出る豊富な水の水利権も付いていた。こういうのを先見性というのだろう。

Wednesday 21 December 2011

個人商店のない町

この国では身分証明書の事を、IDと云わずドキュメンツと呼ぶ。空港の入出国や銀行の窓口などで「ドキュメンツ!」と云われると、旧ソ連時代のKGBに催促されているような怖い響きがある。独立して20年経つが、こうした過去の面影がまだ多く残っている。

例えばお店である。普通、どこでもあるような八百屋、魚屋、パン屋、洋服、靴屋がこの国には殆どない。最初は気が付かないだけかと思っていたが、どこを探してもそうした個人商店がない。あるのは、市場か独立後に外資が披いた大型ショッピングモールだけである。社会主義は配給制なので、当然と云えば当然だが、これが味気のない街並みを作っている。もう一つは人の笑顔である。社会主義ではなるべく売らずに在庫を持った方が良かったので、サービス精神などといったものは当然なかった。未だに40歳以上のおばさんは、怖い顔で「次、何欲しいの?」といった命令調が絶えないのはそのためだ。

思えば学生時代、マルクス経済学を履修させられた。難解な学問に反して、終わってみればその実態はかくの如き非人間的な世界だった。歴史のイフではないが、もしもマルクスとソ連が生まれていなかったら、という思いに馳せるのである。

Friday 16 December 2011

アイスランドのサバ

パブでアイスランドから来た男と隣り合わた。アイスランド人と話すのは初めてだと云うと、男も日本人は始めてだという。聞くと人口は38万人しかいないという。「日本人は鯨を食べるだろ、俺たちも食べるんだ。日本にも輸出しているよ」と言われた。ただ最近は鯨を食べないので、あまり親近感が湧かない。

アイスランドは、近頃ノルウェーと”サバ戦争”をやっている。サバは元々ノルウェーが漁場だったが、海が温かくなったせいで北のアイスランドに行ってしまったからだ。その話に切り替え「今年はラッキーだね」と言うと、「そうなんだよ!」と喜んでいた。

余談だが、サバと聞くと、挨拶代わりにサバ!(Ça va?(仏語で”元気?”の意味)と言っていた小料理屋の女将のことを思い出す。大分歳を取られたが、元気にしているだろうか。

Wednesday 14 December 2011

サンタなんて居ない

クリスマスが近づいて来た。街にはイルミネーションが施され、ムードが出て来た。パブで飲んでいると、「いつ国(田舎)に帰る?」といった話題で持ちきりだ。

クリスマスは家族団らんで過ごす、何とも幸せなイメージがある。暖炉の前にクリスマスツリーとプレゼントの山、クリスマスソングと美味しい食事、静寂、そしてサンタクロース・・・・。

ただ家族のない人もいる。そういった人達のために、今月から”サンタなんて居ない”(There Is No Santa)ビールが、期間限定で発売された。スコットランド産のビールで、悲哀を込めている訳でもないだろうが、ジンジャーの苦い味がする。一度飲めば十分だ。クリスマスはパブも閉まってしまう。独り者には、1年で一番寂しい時期だ。

Tuesday 13 December 2011

マルタと日本海軍

シシリーから高速フェリーで2時間半、マルタに渡った。どちらも島国だが、マルタは英国領だったので英語が通じ、車は左通行だった。そのくせ、どこか街並みはギリシャ的というかアラブの匂いがした。

マルタ島の歴史を紐解くと、古くはカルタゴの一部だった。どこかと思いきや今のチュ二ジアで、ここからアフリカは目と鼻の先であった。それからアラブが来た、気のせいか睫毛が太く太ったアラブ系の女性が目に付く。その後は十字軍、ナポレオン、英国と続き、今日の西洋国になった。世界遺産の首都バレッタ(Valletta)は、十字軍の末裔、マルタ騎士団がオスマントルコから国を守った要塞として、こうした歴史の礎を象徴していた。

土産物屋には、マルタ騎士団の人形に並んでサムライを売っていた。話を聞くと、第1次大戦の際に日本海軍が駐留して、多くのUボートを撃沈したという。後でYtubeの画像を見てみると、当時の映像が残っていた。マルタの酒場ではシューターと呼ぶ一気飲みのメニューが豊富で、グランマルニエーにベイリーズを入れ口当たりがいい。遥々マルタまで来て戦った、当時の日本海軍に思いを巡らせた夜だった。

ラトビアの取り付け騒ぎ

呑気に旅行から帰ってきたら、今日隣国ラトビアで取り付け騒ぎがあった。噂の根源は、「エストニアのスウェーデン系銀行、Swedbankが清算される」であった。Swedbankはエストニアでは最大手だが、リーマンショックの後遺症がまた残っている銀行である。朝から銀行の前には、預金引き出しの列が出来たという。

ラトビア経済は、このブログでも何度か紹介させてもらっているが、2008年に国内第2の銀行パレックス銀行(Parex Bank)が破綻してから、急速に悪化している。そして先月、追い打ちを掛けるように、国内10位のラトビア銀行(Latvijas Krajbanka)が国有化されたばかりで、人々の不安が募っていた矢先だった。

幸い今のところ大事には至らなかったし、他国への波及もなかった。ただ1日で国中の預金の1.5%が引き出されたと云うから、やはり只事ではなかった。経済はドミノ現象が怖い、サブプライムの経験はその最たるものだ。折しもユーロ危機の最中、ドキッとする事件だった。

Sunday 11 December 2011

シシリーのバーにて

地中海に浮かぶシシリー島は、ローマ、ギリシャ、アラブ、そしてアフリカの間に位置している。そのため、古代から多くの外敵が船でやって来た。人々の顔は、そうした長年の混じり合った歴史を物語っている。

コルレオーネ村のような内陸は、やはりローマ時代の名残か西洋的な顔立ちの人が多い。皆、彫りが深く立派だ。田舎でもジャケットとネクタイ姿の老人が多く、イタリアだけあっていい靴を履いている。外で屯うのは男達で、女はあまり見ない。パレルモ(Palermo)などの都市に入ると、白い装束に帽子姿のアラブ人を見る。スラム化した凄い場所に住んでいる。カターニア(Catania)の田舎街道には、昼間から黒人娼婦が立っていたのには驚いた。

パレルモのバーで飲んでいると、地元の人が入れ替わりエスプレッソのコーヒーを飲みにくる。バーの主人と男同士頬すりを交わし、二言三言話しては帰って行く。子供もお菓子を買いに来るが、これも主人が抱擁を交わす。アルコールを飲む人はあまり見ない。言葉は分からないが、皆良くおしゃべりする。シシリーの人は古風で、熱く濃いものを感じる。
 




シシリーの要塞町

シシリー島をドライブすると、海に向かって切り立つ岩山がとてもダイナミックである。山頂には身を寄せ合うように、家々が建っている。白い街と地中海の青のコントラストが何とも美しい。

高台にある古代の要塞町、エリス(Erice)やエンナ(Enna)に立ち寄った。海抜1000mはあろうか、外敵から守るとはいえ、よくもこんな不便な場所に町を作ったと感心する。町に入ると至る所に井戸があり、今でも人々が生活しているから驚く。さり気なく建つ教会は、どこも古びた町から想像できないほど立派だった。 

名もない漁村で食べた、イカスミのリゾットが美味しかった。普通のイカかと思いきや、セピアと呼ぶフグに似たイカだった。すっきり味の地ワインとの相性も最高だ。市場で見るヒラメ、マグロ、タコ等どれもとても新鮮だ。バルト海から見ると、やはり地中海は夢のようだ。

Friday 9 December 2011

シシリーのカタコンブ

コルレオーネ村に行く途中、陽が暮れたのでブルジオという名もない村に泊まることにした。「ホテル、オテル、ホステリエー……」知っている限り言葉を並べても全く通じない。暗い中、黒いコートを着て屯う年配の男たちの視線が一斉に注がれる。やっと1人の男が「タバコ屋に行け」と云うので、入るとその2階が宿だった。

レストランは1軒だけあった。お腹が空いていたので、大きなピザと豚肉のマッシュルーム添い、そして地元のワイン1本を頼む。田舎でも流石イタリアは美味しい。全部で2000円ちょっとと懐も有難い。珍客にと村の宣伝ビデオを流してくれた。村に住む教会の鐘を作る職人や、昇天祭の祭りだった。血を流すキリストを担いで若い男が町を練り歩く光景は、日本の神輿とそっくりだった。


翌朝、タバコ屋の主人が言葉が話せる弟を連れてきた。数年前に父親が死んだので、この土地に戻ってオリーブ畑をやっていると云う。序に村の教会に面白いものがあるというので連れて行ってくれた。行くとカタコンブで、何と骸骨が衣装を施し安置されていた。司祭、夫婦、恋人、子供、色々な骸骨がいる。何故かあまり気味悪くない。帰り際、畑の小屋に立ち寄り、樽から出したオリーブ油を土産にくれた。「10月に早めに収穫するので、エキストラバージンだ」と云われた。

コルレオーネ村を訪ねて

イタリア経済を難しくしているのはアングラマネー、それを仕切るマフィアの存在と言われている。アンドレオッティやベルスコー二など、歴代の首相もマフィアとの関係が取り沙汰されたように根は深い。

イタリアマフィアと云えばシシリー島、今週はシシリーを旅している。折角なので、ゴッドファーザーで有名になったコルレオーネ村(Corleone)を訪ねてみた。ゴッドファーザーこと、ドン・コルレオーネはこの村の出身という。

コルレオーネ村は、シシリー島の丁度真ん中に位置する人口1万人の村である。シシリー島の古代からある町は、海沿いの岩山の上に建っている。それに対しこの地域は、周囲を山に囲まれた不便な場所にあった。見渡しても、オリーブ畑と荒れ果てた岩山しかない。村に入るとちょうど昼時、男たちが立ち話している。彫りの深い顔立ちに黒っぽいコートとハンチング帽、映画の世界がそこにあった。勇気を出してバーに入り、コーヒーを頼む。一斉に視線が注がれ、笑顔で返すが居心地はあまり良くない。まさか「マフィアはどこにいますか?」と聞く訳にも行かない。そそくさと村を出ると、何故かほっとした。

Tuesday 6 December 2011

オベリスク

空に向かって建つ一番醜いものが電信柱だとすると、一番美しいのはオベリスクである。

オベリスクは古代エジプトの宮殿に建つ記念碑である。有名なのは、パリのコンコルド広場にあるオベリスクで、ナポレオンがエジプト遠征の際に持ち帰った戦利品である。ルーブル美術館からこのオベリスクを経て、凱旋門まで一直線に伸びた風景に良く溶け込んでいる。いつぞや、エイズキャンペーンの日に、このオベリスクがピンクの帽子で覆われたことがあった。斬新な芸術性に度肝を抜かれた。

ところでオベリスクには、居間に置く20-50㎝の装飾品がある。材質はイタリア製のマーブル石が多く、中には本物に肖ってエジプト文字を施したものもある。暖炉の上などに、シンメトリーを意識して対で置くと引き立つ。殆どがセミアンチックなので、中々手に入れるのが難しい。いつぞやコレクションし始めたことがあったが、狭い日本の家にはやはり合わないので止めた。おまけに先日の地震で棚から落ちて壊れてしまった。本物を遠くから見ているのに限る。

Friday 2 December 2011

クリスマスの準備

クリスマスツリーが旧市街に立てられた。今年は強風によって2回倒れるハプニングがあった。フィンランドでもやはり倒れたという。そのせいか今年は幾分低いツリーになったが、周りには小店もオープンし雰囲気が出てきた。お馴染みの毛皮ベスト、北欧風の帽子屋やセーター、アクセサリー、キャンドルなどを売っている。ホットワインの呼び込みも賑やかだ。


この国の宗教は一応プロテスタントである。そのため教会はゴチック風だが、あまり鐘の音は聞こえて来ない。クリスマスも教会に行くより家で寛ぐ人が多い。宗教色が薄いのは、長年の歴史と関係あるかも知れない。400年続いたロシア時代はロシア正教と、昔から住んでいたドイツ人荘園主のプロテスタントが共存した。ただエストニア人は殆どが農民(農奴)だったため、教会に通う習慣が無かったようだ。これは半分私の想像もあるが、いつか確かめてみたいと思っている。

ともあれ早いもので、もう師走だ。

快適な都市とは


先日、生活の質で選んだ世界の都市ランキングが発表された。1位はウィーン、2位はチューリッヒで、ベスト10の内8つは欧州の都市だった。快適な空間には共通性があるように思う。

 1つは静けさだ。ヨーロッパの駅は、電車が音もなくホームに入っては出ていく。車内放送もなく、それでいて全く問題なく回っている。日本、特に東京の騒音はひどい。毎日通勤しているというのに、「次の駅は☓☓です」と煩いし、繰り返される人工音のベルも不快だ。お店もそうだ。最たるのが家電ショップで、30秒毎に繰り返すテーマソングには頭が痛くなる。皆、殆ど慣れっこになって麻痺しているのだろうか。


 
もう1つは電信柱である。日本の町がごちゃごちゃした感じがするのは、この醜い電柱と電線のせいだ。昔このことを電力会社の人に話すと、「それは美的感覚の問題でしょう」と馬鹿な事を言っていた。丸の内の店がどうして綺麗に見えるのか、考えてみれば直ぐ分かることだ。暫し足を止め、電線がない風景を想像すると、町がもっと身近になるはずだ。勿論ヨーロッパの都市は殆どが地中化されている。簡単なことなのに、中々実現できないのは不思議で仕方ない。