Tuesday 31 December 2019

ザコバネのスープ

テレビを点けると、高島ちさ子の「麗しのポーランド音楽旅」をやっていた。ポーランドの京都と呼ばれるクラクフと山岳リゾートのザコバネを訪れ、ヴァイオリンを披露していた。昨年の夏に旅した事もあり、懐かしく見入ってしまった。

ポーランドというと、広大な野原が続く平坦な土地をイメージするが、南部のこの辺は山岳地帯である。山を越えるとスロバキアに入り、更に行くとハンガリーのブタペストに辿り着く。特にザコバネは標高2000mもあるので、夏でも肌寒い。山越えの途中、暖を求めて飲んだスープがとても美味しかった。お金を払おうとするとユーロ建てだった。知らない内にポーランドからスロバキアに入っていたと、その時初めて気が付いた。

クラクフは大戦の被害に遭わなかったため、ワルシャワと違って落ち着いた雰囲気がある。市街から車で2時間程行くと、アウシュビッツ収容所がある。20年ほど前に行ったので、今回は行かなかった。代わりに「シンドラーのリスト」の工場が現存しているというので寄ってみた。ただ観光客の長蛇の列で、中に入る事は諦めた。土産物屋では、ユダヤ人の木彫り人形を買った。昔は大きなゲットーがあった名残なのだろうか?と思った。戦後はユダヤ人に代わり、ベトナム人がやってきた。社会主義圏の交換プログラムでやってきた学生が移民になり、今では5万人位いるらしい。ただ安い労働力のイメージなのか、好感度はロシア人と並んで余り良くないと聞く。代わりにいいのがイタリア人、フランス人と日本人らしい。

Sunday 29 December 2019

マックの秘密

知り合いが「俺は食べないから」と、くれるマックのタダ券(株主優待券)がある。その券を持って、ここ数年は週に一度はマックに通っている。我ながらよく飽きないと感心するが、暫くすると「また食べてもいい」と思えてくるから不思議である。最近はグランクラブハウスに凝っている。肉の質がいいのと、焼いたパンとレタス、ベーコンが美味しい。

そのマックだが、創業を描いた「ハンバーガー帝国の秘密(本題:The Founder)」は面白い映画だった。創業者のマクドナルド兄弟は、それまで皿で出していたハンバーガーを、今のテイクアウト方式にして成功した。ただは全米に広めたのはレイ・クロックという男だった。元々はミキサー売りだった彼は、そのモデルに心酔し、フランチャイズ化で大きくすることに成功した。ただ最後は、創業者やパートナーの奥さんまでも乗っ取ってしまう後味の悪さもあった。今や世界で4万店近い店舗を持ち、売り上げは2兆円、利益は5000億円のマックだが、そんな冷血な逸話があったとは知らなかった。

映画の最後では、「マックは食品会社ではなく不動産会社である」と言っていた。人の集まる一等地を買い、フランチャイズ契約をして賃料で稼ぐのが今のビジネスモデルである。人がそこに行くのは、ハンバーガーを食べに行くというより、広くて清潔な場所で寛ぐことが出来て、おまけに子供も遊べるスペースがあるし、車も停められるからだ。言われてみれば、確かに場所貸業なのかも知れない。

Friday 27 December 2019

冬の伊豆旅行

伊豆に、犬も泊まれるホテルがあると言うので行ってみた。ゴールデンレトリバー2匹を荷台に積んで、東京から走る事3時間、着いた先は高台に建つ小奇麗な宿だった。部屋も清潔で、とても犬が泊まる宿とは思えなかった。ドックランも付いていて、有難い限りであった。今や犬を飼う家庭は、全体の20%の上るというから、このホテルもそんなニーズを掴んでいるのだろう。

20%というと、5軒に1軒の割合で犬を飼っている計算になる。因みに近所を見ると、両隣とお向かいには皆犬がいる。3年前は12%だったというから、ここにきて急速に増えている事が伺える。それは高齢化との関係だろうか?子供も出て行き、夫婦2人きりになると寂しくなる。そんな時に癒してくれるのがペットである。隣が飼っているのを見れば、「だったらウチも!」と考える波及効果もあるかも知れない。

久々の伊豆はやはり魚が美味しかった。ドライブインのアジ定食は活き作りだし、宿で出たのは高級なノドグロの煮つけだった。ちょっと車を走らせただけで、太陽の光も強いし、何より海の青さが美しい。若い頃、スキューバダイビングに凝っていた時期があった。伊東の先の海洋公園は、更衣室から直接海に入れる施設があったので、良く通った。特にこの冬の季節は、水の透明度が高いので訪れるダイバーが多い。外は寒いが水の中は意外と温かい。岩伝いにダイブすると、魚に出会う頻度も高かった。一日潜って帰途に就くと、充実した満足感があった。そんな日々を思い出したりした。

Sunday 22 December 2019

ゴルゴ13の由来

読売新聞の「先生のコトバ」というコラムがある。今週は齋藤隆夫さんだった。あのゴルゴ13の漫画家である。御年83歳というが、シリーズも健在だし、写真でみるお姿はお元気そうである。コラムでは、大阪の中学校で担任だった先生を偲んでいた。試験の答案を白紙で出したら、「せめて名前を書きなさい」と言われたそうだ。そのゴルゴ13のデューク東郷の「東郷」は、その先生の名前から取ったという。余程心酔していた事が伺えた。

子供の頃の先生は大きな存在である。自身も転校生として7人の担任と出会ったが、全て女の先生だった。小学6年の時だったか、Fという女にしては毛が薄い先生が担任になった。F先生は授業が終わると、良く煙草を吸っているのを見た。女が煙草を吸うのは、子供心ながら生理的に受け入る事が出来ないでショックだった。そのため、クラスで一切拒絶の心理ボイコットになってしまい、成績は落ち込んでしまった。今から考えても、あの時ほど嫌な1年はなかった。そんな事だから、逆にいい先生に付けば、斎藤さんのように人生の師範になっていく事が良く分かる。

読んでいて、有名大学を出て一流企業に勤める事が必ずしも全てではないと、改めて思った。勿論、齊藤隆夫さんみたいな天才漫画家は稀だろうが、ゴルゴ13は未だに世界を股に掛けて活躍する、何年経っても歳を取らない現役である。そんな夢を追い続ける芸術家が羨ましい。”子供の頃の出会って結構大きいんだ!”と改めて感じた記事だった。

Saturday 21 December 2019

チャウシスクの最後

今月はルーマニア革命30周年だという。今から30年前の1989年12月25日に、大統領チャウシスク夫妻が処刑された。一時はヘリで逃亡を図ったが、捕まって裁判に掛けられ即刻銃殺された。その光景は今でも映像で公開されているから生々しい。サダム・フセインの時もそうだったが、独裁者の末路はあっけないものだ。

革命の引き金になったのは、ソ連の崩壊と国内の食料不足だった。西側からの債務返済を優先するあまり、日常の食料まで外貨獲得の対象にしてしまった。そのツケが国民の我慢を超えた訳だが、そんな時に作ったのが「国民の館」という巨大な大統領府だった。3年前にブカレストを訪れた時に、その建物に寄ってみた。ただでさえも街並みは、旧社会主義国特有の寒々しいビルがとても気味悪い。多分装飾を施していないためだろうが、その「国民の館」も例外ではなかった。当時はアメリカのペンタゴンに次ぐ世界で2番目の規模を誇り、建設費も現在のお金に換算すると4000億円以上もしたという。そもそもチャウシスクが建設の着想を得たのが、北朝鮮のピョンヤンにある労働党本部訪問だった。当時両国の関係は近かったので、その処刑が今でも金一家のトラウマになっている話は有名である。

ビルには3000の部屋があり、多くの観光客が訪れていた。大理石で出来た壁と床は、歩くと天井に木魂する仕組みになっていた。独裁者がそこで手を叩くと、反響で訪問者を威圧する効果もあったとガイドが話していた。今から思えば馬鹿げたとしか思えないが、その空虚さが何とも言えないルーマニアのイメージと重なっている。ひょんな事で、暑い中車を走らせた日々を思い出した。

Tuesday 17 December 2019

反日種族主義の本

今ベストセラーになっている、李栄薫氏の「反日種族主義」を読んでみた。改めて韓国人は情緒的で、フィクションをいつの間にか歴史にしてしまう国民性だと思った。例の慰安婦の問題も、本では実際のデータで分かり易く解説していた。読んでいると、そこから朝鮮女性の暗い歴史が浮かび上がってくる。日本も貧しい時代に東北で娘を売り飛ばす話を聞いた事があったが、朝鮮はもっと格差が激しかっただけに悲惨だった。戦時中の出来事もその大きな流れを汲んだ事が良く分かるし、寧ろ待遇は改善したようだ。そもそも慰安婦問題は、80年代まで吉田清治という男が本を出すまで話題にすら上らなかったから不思議だ。勿論今ではそれが嘘だったと分かり、その吉田なる人物も、実は朝鮮人の成りすましたと言われている。兎角、過去を都合良く書き換えてしまう典型的な例である。

先日金正恩が白馬に乗って登った白頭山もそうだ。今では朝鮮民族の霊山になっていると言うが、本では19世紀までは普通の山だったそうだ。何やら抗日のスローガンが書いた木片が見つかり、聖地化したらしい。竹島問題も似たような話だ。本では、韓国が独島と呼ぶ島は昔の于山(うざん)島という名前の島だったそうだ。多くの地図でそれを検証しているが、その于山島は時代と共に場所が移っていた。どうやら島が動いたらしい。

知らなかったが、元朝鮮総督だった国立中央博物館も解体したという。韓国建国の国会が開催されたり、朝鮮戦争の時の人民軍庁舎だった歴史の舞台を、1993年に金泳三大統領が壊してしまった。そう言えば最近、日本原産の木を抜いた話があったが、全くどうかしているとしか思えない。過去を消し去って行くと、自身のアイデンティティまでも失ってしまう。情緒的に成らざるを得ないのは、その為かも知れない。それにしても著者の勇気も沙流事ながら、まだ韓国にも理性のある人がいる。

Friday 13 December 2019

COP25あれこれ

現在、COP25がスペインのマドリッドで披かれている。スウェーデンの少女が時の人になり、注目されている。タイム誌の表紙も飾るそうだが、トランプ氏などはツイッターで「Chill!(頭を冷やせ)」と冷ややかだ。

COPはエンドレスの国際会議である。出席しているメンバーは、国際機関、政府機関を始め、シンクタンク、大学、NGOなど多彩である。多くはその道のエキスパートとして、温暖化マフィアと呼ばるプロである。言わば、永年に渡り、温暖化問題で食べている人達である。グレタさんのような人達も、ある意味では批判を職業として生活しているグループである。会議は永遠に続くから、国や研究機関の予算も終わる事はない。一度その道のエキスパートになると、余人をもって代え難いので、就業も安定している。元より「温暖化対策など止めてしまえ!」などと言う人は皆無である。おそらく人類が原始的な生活に回帰しない限り、温度はドンドン上がり続けるだろう。地球人にとっては大変な事だが、温暖化マフィアに取っては好都合である。

日本からは小泉環境大臣が出席し、スピーチの一部が報道されていた。全部を聞いた訳ではないが、「私もこれから子供を持つ者として・・・」の発言にはがっかりした。先の国連で行ったセクシー発言もそうだったが、抽象的で聴衆のニーズに応える内容ではなかった。出席者が聴きたいのは、その具体的な対策である。恐らく省内では「日本は原発が停止し、石炭に依存せざるを得ないが、日本のCO2排出に伴う石炭効率は世界一である。今や石炭はクリーンだ!」位なペーパーは用意していただろう。どうしてそれを前面に出さなかったのだろう?と不思議だった。ヒトは思い込みが激しいと、空回りするものだ。進次郎氏が稚拙に見えるのは、そんな人柄が災いしている気がしてならない。

Tuesday 10 December 2019

中村医師の死

アフガニスタンの復興に従事してきた中村医師が銃撃され亡くなった。昨日棺が福岡に帰って来て、多くの人が悲しみに暮れていた。

中村医師の事は余り知らなかったが、ニュースで伝えられる数々の言葉は苦労した人だけに心を打つ。例えば、「私の願いは2つだけ、一つは一日三回ご飯を食べられる、もう一つは家族が一緒に住める国にする事」は、現地の厳しい現実が伝わって来た。アフガニスタンはソ連に侵攻され、出て行ったかと思うと今度はタリバンが支配した国である。「何でも壊してしまうから・・・」と嘆いていた姿も印象的だった。水路が完成すると、「これで生きて行かれる」と現地の人の言葉を引用していた。また10歳で早世した息子さんについて、「何歳で死のうが人はいつか誰でも死を迎える。その時まで懸命に生きるだけ」みたいな話も聞いた事がある。特に医師として、その胸中は如何なものだったかと思ったが、人としての生き方を諭されるようだった。

過酷な海外の地で働く人は多い。さだまさしの「風に立つライオン」の舞台になったケニアでも、長崎大学の医師が地域診療に励んでいた。彼も最後は地雷に倒れてしまった。イラクでは、ラグビーで有名だった外交官の奥大使も倒れた。こうして平和で何不自由ない日本にいると、何か後ろめたい気持ちになって来る。

Sunday 8 December 2019

パラリンピックの起源

とある飲み会の席で、パラリンピックの話が出た。薀蓄好きなKさんが、「その起源って知っている?それはノルマンディー空挺団員の更生だったんだ!」という。ノルマンディー上陸作戦は、1944年6月6日に行われた連合軍の侵攻で、130万人の兵士が参加した史上最大の作戦である。戦跡巡りのオタクとして、舞台になったビーチや橋、村、果ては映画の撮影地まで何度も足を伸ばした事もあり、それは聞き捨てならぬ情報だった。

K氏が言うには、パラシュートで降下した兵士に負傷者が多く、そのリハビリを兼ねて始めたのがパラリンピックの起源だと言う。今まで、中東で地雷を踏んで手足を失った兵士のリハビリが始まりと聞いていたので、早速調べてみた。すると正しくは、イギリスのストーク・マンデビル(Stoke Mandeville)病院が、傷痍軍人の為に1960年のオリンピックに合わせて始めたの起源だと分かった。ただその病院とノルマンディーの落下傘兵との因果関係は分からなかった。

ノルマンディー上陸の前夜、闇に向かってダイブした空挺師団101と82の兵士は全部で13200人いた。その内、死傷・行方不明者は全体の2割に上る被害を負った。ただ負傷者は900名と全体の7%に過ぎなかった。ひょっとして、その中の何人かがストーク・マンデビル病院に入った可能性はある。特にそこが脊髄センターにもなっているから猶更だ。門外の人に取ってはどうでもいい事かも知れないが、ひょんな事でパラリンピックが身近になった話だった。

Friday 6 December 2019

バインコーチの本

暫く前まで、大阪なおみのコーチを務めたのが、サーシャ・バイン(Sascha Bajin)氏だった。彼女が落ち込んでいるのを見て、跪いて「君なら出来るよ!」と優しく励ます姿は、当時話題になった。その後、大阪なおみは全米と全豪に優勝し、若くしてランキングのトップに登り詰める事になった。

そんなバイン氏が書いた「心を強くする(Strengthen Your Mind)」は中々面白い本だった。内容は、ルーティンを作る、ストレスに慣れる、怒りは吐き出すとか、良く言われている事ばかりだ。ただ読んでいて妙な説得力があり快い。多分それは、彼が何でもポジティブに捉えよる性格から来ている気がする。前向きの言葉は、何より選手を明るくする。それから、上から目線でなく、選手に考えさせ、自ら答えを導き出させる、寄り添い型の指導もいい。テニスをやった人なら誰でも体験する事だが、他人のアドヴァイスは殆ど耳に入らない。「引きを早く!」「溜めを作って!」などと言われても、大体カチンと来るものだ。心の中では、「そんな事は分かっている!出来ないから困っているんだろ!」と言っている。彼は「何で出来ないのだろう?」と選手に問い掛け、選手が答えに辿り着くまで待つと言う。

何気ない選手の一言に感動するのも、彼の特徴だ。例えば。大阪なおみが次の対戦相手がセレナだった時に大喜びしたとか、以前コーチに付いていたセレナが、酒は強固な意思で止められると言ったとか、本人でも気付かない精神的な強さを見出す能力を持っている。自分でも知らない一面を発掘してもらい、褒められば誰でも嬉しくなるものだ。こんな人が身近にいればヒトは必ず伸びる、そんな思いになる。

Wednesday 4 December 2019

Pinalの絵画

記憶はモノにリンクすると言っても、その人が死んでしまうとゴミにもなり兼ねない。先日も、亡くなった親の遺品を処分しようと、忙しそうにしていた人がいた。大事に取って置いても、行く行くは捨てられてしまうかと思うと、所詮は記憶もその人と一緒に無くなるのかも知れない。

火事に遭って、消失した中に沢山のオベリスクがあった。オベリスクは古代エジプトの記念碑である。有名なのは、ナポレオンがエジプト遠征で持ち帰り、パリのコンコルド広場に建っている碑である。空に向かて聳える石柱は、神秘的なバランスが何とも美しい。そのオベリスクのミニチュア版は20~30cmの高さで、暖炉の上などに飾ると部屋が引き立つ。多くはイタリア産の大理石で出来ていて、骨董品屋を探すと時々見つける事が出来る。対になっている価格は、昔なら2~4万円ぐらいだっただろうか?ある時、Les Echosにフランス人のコレクターの話が出ていたのを見て、自分も収集してみる気になった。あちこちの骨董品屋を廻り、20本近く集めたか?中にはギリシャ文字が刻まれた高価な物もあった。それらも全部焼失してしまったが、その後も懲りずに蚤の市を訪れては収集を続けた。火事が無ければ、有数のコレクターになっていたかも知れない。

それから絵画もあった。好きだったのはフラン・バロ(Fran BARO)だった。巨匠ではないが、パリの風景を写実的に描く画家で好きだった。それも全部焼けてしまった。ただ唯一残った絵があった。フェルナンド・ピナール(Fernand PINAL)の風景画であった。手荷物で持ち帰った事が幸いした。100年ほど前の油絵で、シャンパーニュ地方だろうか?白く咲き誇る花が春の訪れを感じさせている。あれから30年近い月日が流れた。書斎の壁に掛かっている絵を見ると、お互いに生き延びた実感が沸いてくる。