Monday 30 August 2021

陸奥爆沈の犯人探し

何年か前に、吉村昭の「陸奥爆沈」に魅せられて、戦艦陸奥が沈んだ瀬戸内海の現場を見に行った事がある。岩国から周防大島に渡ると、柱島が目の前に拡がる所に記念館が建っていた。意外と狭い海峡の島々に、遺体や船の遺物が流れ着いた描写と重ね合わせ、当時の様子を思い浮かべた。爆発の犯人探しを進める内に、死体が発見されなかった1人の水兵にたどり着く。昇進が遅れた遺恨が原因だったのか?海軍の調査は終わったが、吉村氏は戦後時間も経っているにも拘らず、その実家まで行き謎を追っていたのが凄かった。

その時は周防大島から四国に渡り、紫電改が海から引き上げられ現存していると言うので併せて見に行った。場所は宇和島の南の愛南町という辺鄙な町だった。暫く前にやはり吉村昭氏の「海の鼠」という短編を読んでいたら、舞台は近くの日振島という島だった。大量発生した鼠と格闘する話で、最初は鼠カゴから始まり、パチンコ罠、黄燐剤、酢酸ナトリウム、最後は天敵の蛇まで繰り出し駆除を試みるが効果はなかった。ただある時少し減ってきたかな?と思って海を見ると、何と鼠の集団が食料を求め海を泳いで隣の島に渡っていたのであった。

鼠も去る事ながら、どこまでも追い続ける刑事みたいな氏の執念を又感じたし、こんな所に住んでいる日本人の知られざる姿に接したのである。

Sunday 29 August 2021

ノルマンジー上陸のロケ地

今まで何度訪れたか、ノルマンジーは史上最大の作戦の舞台として歴史を彷彿させてくれるお気に入りの場所である。激戦となったオマハを初めて、橋桁の残骸が残るアロマンシュの入江、フランスコマンドが急襲したウィストレーハムの港、英国コマンドがグライダーで突っ込んだペガサス橋など、当時のまま残っているからマニアにはたまらない。加えて記念館も多く、ドイツ軍の砲台トーチカ跡を見ながら、想像力を更に掻き立ててくれる。

その為、映画「史上最大の作戦」の多くはその現場を使って撮影された。ところが最大の見せ場であるオマハビーチの上陸シーンは、レ島で撮影されたと聞いて見に行った事がある。レ島はボルドーの北に位置するラ・ロッシェルから地続きで渡る事が出来る。夏のこの季節は避暑と名物の牡蠣を求めてごった返しているが、普段は正に映画に出てくる長い白浜が続く静かな島である。その時は上空から撮ったシーンと重ね合わせた後、ラ・ロッシェルの方がユグノー派を包囲した場所として有名なので、町に引き返した記憶がある。

フランスの島は歴史がギュッと凝縮されていて、自然も手付かずだから本当に美しい。ブリュターニュ地方のカルナックは古代の列石で埋め尽くされていて、英国のストーンヘンジの比ではないのに驚く。ナポレオンの生地コルシカ島にもモアイのような立像遺跡が残っていたり、そう言えば有名なモン・サン・ミシェルも島である。またいつかビスケー湾の小島巡りをしてみたいと思っている。

Monday 23 August 2021

レマゲン鉄橋のロケ地

暫く前にドイツで大洪水が起きた。普段は小綺麗な村落が水に浸り、土砂に埋もれている光景は痛々しかった。ただライン川は昔から良く氾濫していた。原因は温暖化や異常気象かも知れないが、宅地開発が進み本来水を吸収したはずの森が無くなってしまった事が大きかった。そう昔から現地では言われていた。特にドイツの川は京都の鴨川のように、あまり人の手が加えられていない。自然を生かして美しい分、災害には弱いのかも知れない。

ヨーロッパの川は、川幅も広いし水の量が多く流れも速い。間違って落ちようものなら命は助からない。レ・ミゼラブルのジェベール警部がセーヌ河に飛び込んで命を絶つシーンがそれを象徴している。また川が国境になっているケースも多い。旅をしているとルーマニアからブルガリアに渡るのがドナウ川だったり、ドイツからポーランドはオーデル川だったり、それが良く分かる。橋を渡った処に国境検問所が建っているので、酷い時には橋から渋滞が始まっている。という訳で、川に架かる橋を落とせば敵の侵入を容易に防げるのであった。 

第二次大戦も佳境に入った頃、退却を続けたドイツ軍はライン川の橋を次々と破壊して行った。最後に残った4つの橋の一つが、首都ボンの南にあるルーデンドルフ橋であった。幸い破壊に失敗し、連合軍が確保に成功する話は映画「レマゲン鉄橋(The Bridge at Remagen)」で紹介された。ナポレオンソロのロバート・ヴォーンがドイツ側の将校で登場していた。20年ほど前に見に行った事があるが、川幅が100m以上はあっただろうか、とても泳いで渡る距離ではなかった。現在は橋台のみが残って当時を彷彿させてくれたが、映画に出て来る立派な鉄橋は一体どこで撮影したのだろうかと兼ねがね思っていた。最近調べてみたら、何とチェコのプラハ郊外のDavleだと分かった。ロケ地巡りを趣味としている者にとって、「いつか行きたい場所」なっている。

Saturday 21 August 2021

二本松の戦い

仔犬を引き取りにまた福島に行った。これで春から3回目の磐城旅行である。そんな事もあり、今まで殆ど知らなかった戊辰戦争も大分身近になってきた。今回は会津への進撃の前哨戦になった白河、二本松を訪れてみた。特に二本松藩の戦いはあっさり半日で終わってしまったので、会津が動揺したと何かに書いてあった事もあり是非行ってみたかった。ところが行ってみると山間に佇む静かな町には、小高い山の上に城壁跡が残る以外、何も観光スポットがなかった。戊辰戦争の死者数は1万人当たり50人と、会津藩の150人に次ぐ大きな犠牲者を出した割にはその痕跡もなかった。

戊辰戦争は板垣退助率いる新政府軍が最新の武器で破竹の進撃を続け、当初は抵抗を試みた奥羽越列藩同盟も徐々に道を開けるようになった。その中で最後まで戦いに抜いたのが二本松藩だった。結局老以下全員が討ち死にしたが、渡部由輝の「数学者が見た二本松戦争」によると、それは日本の藩で唯一だったという。初めは図書館で借りて読んだが、中々面白い本だったのでアマゾンで取り寄せようとしたところプレミアムが付いて5000円もしたので諦めた。やはりその道の人の目の付け所が違うなと思った。降参した藩士が翌日から最前線に送られ、昨日までの同志と対峙する当時の様子が何とも生々しく、行くも地獄、帰るも地獄の厳しさが伝わってきた。 

それにしても、鳥羽伏見の戦いで新政府軍と旧幕府軍の決着は付いていたのに、どうして戊辰戦争が始まったのだろうか?色々書物を読むうちに、それは長州の怨念のように思えてきた。長州藩は禁門の変で処分を受けたのにも拘わらず、第二次長州征伐で更なる追い打ちを掛けた会津が許せなかったのではないだろうか。そう言えば、新政府軍の東征大総督だった有栖川宮熾仁親王も、許嫁の和宮を徳川に取られた恨みが討伐の大きな動機になった。歴史は個人の思惑、私情を追うと分かり易い。

Friday 13 August 2021

敵討ちと仇討ち

幕末史を読み漁ると心に残る話に出合った。それは佐高信の「西郷隆盛伝説」に出て来る相楽総三という元水戸藩士の話である。江戸で土佐藩の板垣退助に保護され相楽は、赤報隊と呼ばれる攪乱隊の隊長となり江戸の放火で活躍した。ただ次第に独断行為が目立つようになり、偽官軍と呼ばれるに至っては、仲間に捕らえられ処刑されてしまった。それから数十年後、孫が仏壇から祖父の髷を発見し、その真相を探るべく、当時を知る板垣退助や大山巌に面会を申し込むのだがいずれも謝絶された。殺害した男(香川敬三)も伯爵にまで上り詰めた大物で、結局無念を晴らせずに終わるのであった。元水戸藩が災いしたのか?将又汚れ役の宿命だったのか?それは分からないが、名誉回復を願う孫の心境が切なかった。

これがもしも江戸時代だったら、孫の敵討ちとなる処であった。しかし本物の敵討ちとは、宣言すると藩から支度金を貰い、生涯仇に出合って本望を遂げるまで放浪を続けるという、人生を賭けた一大仕事だった。吉村昭の小説「敵討」を読んで、初めてその仕組みを知った。 

ただ時代が明治に変わると仇討ちは犯罪になってしまった。江戸時代に父が殺された息子が、犯人を探し当てた時は明治に変わっていた。殺人と知りながら本懐を遂げる小説は、臼井六郎をモデルにしたやはり吉村昭の「最後の仇討」である。忠臣蔵ではないが、どちらも永年の恨みを晴らす件は、何故か痛快である。

Thursday 12 August 2021

弥太郎の生家

中岡慎太郎を輩出した安芸郡にはもう一つ、三菱の祖岩崎弥太郎の記念館もあった。最近出来たのだろうか、CGで彼の生い立ちが分かり易く紹介されていた。父の急変で江戸から徒歩で13日走り詰め投獄された逸話や、倒幕の武器調達で財を成した話など興味深かった。成功の秘訣は創業時に親子兄弟4代の社長が続いた事だと分かった。慶應義塾や東京帝大の卒業生を積極的に採用したのも画期的だった。

十分予習をした後は近くの生家を訪れた。武家屋敷から離れた田んぼの先に、小綺麗な旧家が残されていた。係の人の話だと、弥太郎の家は地下浪人(元郷士)と身分が低かったので、玄関がなく直接居間に上がる作りだという。確かに質素だがそれにしても良く手入れが行き届いていて、三菱グループの聖地保存の努力の跡が伺えた。帰り際、やはり係の人が特別にと奥の部屋を見せてくれた。そこは弥太郎、彼の継いだ弥之助、久弥も生まれた場所で、三菱関係の人が来ると、座敷を撫でて後利益に預かるスポットらしい。 

弥太郎が生まれたのは1835年、龍馬もこの頃に生まれているので二人は殆ど同世代である。方や31歳の若さで幕末の露と消えたかと思うと、三菱は今や4000社を超え従業員も87万人を抱える大企業集団である。どちらも名を馳せようとした訳ではないだろうが、幕末の動乱が二人を数奇な運命に導いた。それにしても、こんな片田舎からどこからあのエネルギーが出て来たのか?想像すら出来ないのであった。

Monday 9 August 2021

龍馬の謎を追って

会津の次は土佐へ、幕末の謎に迫ろうと真夏の高知に飛んだ。今では一時間で行けるから、四国も近くなったものである。空港の名前から始まり、ホテル、レストラン、記念館など何処に行っても龍馬一色で、正に観光の目玉になっていた。

桂浜の記念館に行くと、龍馬が生涯に駆け抜けた距離は46千キロと紹介されていた。19歳で江戸に出て31歳で短い生涯を閉じるまで、その活動期間を12年とすると年間3800㎞、毎年東京と大阪を3往復していた事になる。自動車もない時代に改めてその行動力には驚かされるが、一体そのカネは何処から出たのか?彼のバックは誰だったのか?その方が気になった。そもそも一介の下級武士の家に生まれ脱藩までした田舎青年が、薩長の橋渡しや薩土盟約を仲介するなど、これも本来ではありえない事である。そして色々書物を読むうちに、辿り着いたのは駐日英国公使パークスやトーマス・グラバーであった。龍馬は英国のエージェントと捉えると色々筋が通ってきた。土佐に戻った時1000丁の銃を土産に持って帰ったのも、その筋から出たのだろう。そう言えばフランスは幕府側に付いて函館で戦っていたし、明治維新は英仏の代理戦争だったのかも知れない。 

もう一つ、龍馬は京都の近江屋で暗殺され31歳の短い生涯を閉じた。一体誰が何の理由で殺したのか、未だにそれは謎という。新選組や京都見回り組などの説が有力で、一緒に死んだ中岡慎太郎の生家と記念館でもそれらしき描写で綴られていた。しかし作家加治將一は、切ったのは中岡慎太郎ではないか?と推察している。駆け付けた谷干城も中岡も同じ土佐、何か土佐の中で解決を迫られた訳があったのではないか?と。記念館には中岡が三条実美に充てた手紙が残されており、二人の関係の深さが伝わってきた。という事は、龍馬は朝廷にとって都合が悪い存在だったのかも知れない、そう考えると辻褄が合って来る。流石に記念館の人に「切ったのは中岡ですか?」とは聞けなかったが、手付かずの自然が残る安芸の山奥から当時の様子が伝わって来たのである。