会津の次は土佐へ、幕末の謎に迫ろうと真夏の高知に飛んだ。今では一時間で行けるから、四国も近くなったものである。空港の名前から始まり、ホテル、レストラン、記念館など何処に行っても龍馬一色で、正に観光の目玉になっていた。
桂浜の記念館に行くと、龍馬が生涯に駆け抜けた距離は46千キロと紹介されていた。19歳で江戸に出て31歳で短い生涯を閉じるまで、その活動期間を12年とすると年間3800㎞、毎年東京と大阪を3往復していた事になる。自動車もない時代に改めてその行動力には驚かされるが、一体そのカネは何処から出たのか?彼のバックは誰だったのか?その方が気になった。そもそも一介の下級武士の家に生まれ脱藩までした田舎青年が、薩長の橋渡しや薩土盟約を仲介するなど、これも本来ではありえない事である。そして色々書物を読むうちに、辿り着いたのは駐日英国公使パークスやトーマス・グラバーであった。龍馬は英国のエージェントと捉えると色々筋が通ってきた。土佐に戻った時1000丁の銃を土産に持って帰ったのも、その筋から出たのだろう。そう言えばフランスは幕府側に付いて函館で戦っていたし、明治維新は英仏の代理戦争だったのかも知れない。
もう一つ、龍馬は京都の近江屋で暗殺され31歳の短い生涯を閉じた。一体誰が何の理由で殺したのか、未だにそれは謎という。新選組や京都見回り組などの説が有力で、一緒に死んだ中岡慎太郎の生家と記念館でもそれらしき描写で綴られていた。しかし作家加治將一は、切ったのは中岡慎太郎ではないか?と推察している。駆け付けた谷干城も中岡も同じ土佐、何か土佐の中で解決を迫られた訳があったのではないか?と。記念館には中岡が三条実美に充てた手紙が残されており、二人の関係の深さが伝わってきた。という事は、龍馬は朝廷にとって都合が悪い存在だったのかも知れない、そう考えると辻褄が合って来る。流石に記念館の人に「切ったのは中岡ですか?」とは聞けなかったが、手付かずの自然が残る安芸の山奥から当時の様子が伝わって来たのである。
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