Friday 28 February 2014

屋根の上のバイオリン弾き

外人にウクライナ(Ukraine)と言ったら、それはユークレインでしょ、と言われた。中々馴染みのない発音は難しい。考えてみればあまり接点はない国だ。思い出すのは子供の頃に来日したバイオリニストのデービット・オイストラッフ(David Oistrakh)だ。ブラームスを始め、重厚な音色に掛けては世界最高峰だった人だ。お年玉を貯め、高いチケットを買った記憶がある。またミュージカルの「屋根の上のバイオリン弾き(Fiddler on the Roof)」もそうだ。森繁久彌が劇団四季で上演し始めた頃に行った。娘を持つ牛乳屋の悲哀が滲み出て来るロングランの公演だが、これも舞台はウクライナだった。

2人に共通するのはユダヤ人だ。昔のウクライナはポーランドの植民地だったが、その関係で住み付いたらしい。19世紀末には2百万人のユダヤ人がウクライナに住んでいたというが、これはロシアのユダヤ人が5百万人だったことを考えると大変な数だ。ただそれもナチスドイツの侵攻で、1百万人近いユダヤ人が殺されてしまった。今回大統領を追い出したのは、その末裔なのだろうか。

今日は遂にクリミアまで飛び火した。クリミアと聞けばクリミア戦争だが、ロシアがオスマントルコに敗れて失った因縁の地である。その後、ロシアはクリミアを取り返し、フルシチョフ時代にウクライナに譲渡した。そこにはタタール人(=モンゴル人)も住んでいると知って驚いた。ウクライナが独立し、シベリアから戻ってきたという。まるでタタールの軛(くびき)を再現しているような人たちだ。ともあれ、ウクライナ問題は人種が混在する歴史絵巻そのものだ。

Tuesday 25 February 2014

日本海海戦に負けていたら

バルチック艦隊が出港したリバウ(現在はラトビアのリエパヤ)を訪れた時だ。廃墟同然の旧ソ連軍宿舎に、今でもひっそり暮らす人々がいた。その人達を見ながら、あの時日本海海戦で敗れていたら、日本はどうなっていたのだろうと暫し考えた。

数からすれば戦艦は3倍、歩兵は5倍のロシアである。勝ったことが奇跡だ。ただもしも敗けていたら・・・当然ロシアの植民地になるから、島にロシア人がやってくる。軍人だけでなく一般人も。すると自宅は没収され強制的に退去させられる。勿論都会の一等地や伊豆、箱根の別荘地はロシア人が占領する。そしてモノの搾取が始まり、その後の社会主義で一層モノ不足になる。戦後の高度成長などある訳がないから、ただ只管配給を待つことになる。仕事は下請けに限定される。サービス精神など必要ないので笑顔がなく、密告社会で益々暗い国になる。反抗すればシベリアか粛清が待っている。当然今の自分も無かっただろう・・・。

バルト3国ではソ連崩壊から20年以上経つのに、未だに個人商店が育たない。お客に対する笑顔は世代が代わらないと駄目だ。そんな事を考えいるので、ウクライナをとても他人事とは思えないのだ。

Monday 24 February 2014

ティモシェンコが現れて

ソチのオリンピックを尻目に、隣国ウクライナは連日大変なことになっている。ニュースで流れる映像を見ると、市民がスナイパーの標的になっている。一人一人狙い撃ちされる光景は恐ろしい。ロシアの統治は力が全てだから、これからどうなるのだろうと思っていたら、昨日前首相のティモシェンコが現れ、反対に大統領が国外逃亡するなど形勢は逆転し始めた。ティモシェンコと言えば、当時自慢のブロンズが実は染めていたと話題になったが、久々に見る彼女は3年間の拘束で随分歳を取った。

ウクライナは昔から真の独立を模索している。黒田祐次氏によれば、唯一のチャンスは18世紀初頭にスウェーデンが波に乗っていた頃という。ただそれもあの大北方戦争でピョートルの前に屈してしまった。日本では赤穂浪士が討ち入りしていた頃の話だ。

ウクライナはバクー油田や穀倉地帯を抱え資源に恵まれている。だからこそロシアはそう簡単に手放さないだろうし、いざとなればリトアニアの石油封鎖のように揺さ振りを掛けてくる。暫くは目が離せない。

Sunday 23 February 2014

白馬を滑りに

久々に白馬にスキーに行った。先週の大雪で中央本線が不通になっていたが、流石週末の開通には間に合った。大雪の反動だろうか、嘘のような好天に恵まれ絶好のスキー日和となった。雪も締まって最高だ。

ゴンドラで一挙にうさぎ平まで上がる。やおら滑り始めるが、レンタルスキーがまだ足に馴染まない。普段上越のスキー場に浸かっているせいか、ここの傾斜がきつく感じる。確かにスキーヤーも上級者が多い。一息入れたところで、黒菱平まで行く。ここは長野オリンピックの滑降のスタート地点だ。パノラマが開け、多くのスキーヤーが白馬岳をバックに写真を撮っている。更に唐松岳を目指す山スキーの一行も見える。スキー場の雰囲気も昔と少し変わった。スノボー派の若者とスキー派のシニアに混じって、オーストラリア人がやたらに目に付く。

白馬と言えば、夏山を縦走したものだ。栂池から入り白馬大池・山頂小屋を通って雪渓を下りてきた。一昔前のヒヤヒヤした登山を思い出したり楽しい週末だった。

Wednesday 19 February 2014

各国の戦争博物館

各国にある戦争博物館は、その国の特色があって面白い。訪れた中で一番大きかったのは、ソウルの戦争博物館である。朝鮮戦争の時に使った兵器が処狭しと並んでいる。勿論ナショナリズムの高揚を意識している。昔は秀吉から始まる日本の侵略展示が多かったが、10年ほど前に行くと殆ど無くなっていた。代わりに北をテーマにしたものになった。

ロンドンは第二次大戦の飛行機、武器など、やはり数では多い方だった。印象的だったのは、アシカ作戦と称してドイツが英国に上陸する時に地方では大騒ぎになったが、その人々の様子が綴られていたベルファーストの博物館だ。フランスはアンバリッドにあるナポレオン時代の武器が圧巻だ。ただ第2次大戦になると、ノルマンディーなど各地で両軍が残していった武器を展示している程度である。ベルギー・オランドもその類だ。アメリカはやはり第二次大戦の戦勝品である。テキサスの特殊潜航艇やゼロ戦など、太平洋から持ち帰った。

日本と同じ敗戦国のドイツはあまりなかった。ただ軍港キールに行った時にドイツ海軍の英霊を祀る建物があった。地下に入ると神秘的な雰囲気で、海の中から声が聞こえてくるような怖さがあった。往々にして、どこも宗教色はなく、武器や資料の博物館といった印象だ。

Monday 17 February 2014

靖国の遊就館

時間もあったので、泉岳寺から靖国神社に寄ってみた。昨今の慰安婦問題で、「河野談話は根拠が曖昧だ」とアジする一行を尻目に、雪の坂道を登る。

境内でお参りし、遊就館に向かう。相変わらず多くの人で混雑している。遊就館は別名戦争博物館である。ただ他国の戦争博物館と違うのは、戦死者が祀られていることだ。そして先の戦争に対する啓蒙もある。館内に入って直ぐ映画の鑑賞があるが、タイトルは「私達は忘れない」である。1時間程して出てくると、不思議と「戦争は良くないが、しかしあの時それ以外の選択はあったのだろうか」という気持ちになる。

これは私だけでなく、何人かの人も同じことを言っていた。まるで眠っていた日本人のDNAが目を覚ますような感覚であった。そしてゼロ戦、回天、桜花等々、若くして散って逝った人に思いを馳せる。改めて昭和史を振り返って見たくなるのだった。

Sunday 16 February 2014

赤穂浪士を訪ねて

天気が良くなったので、残雪の都心に繰り出した。目指すは高輪の泉岳寺である。

時は元禄15年12月14日、大石内蔵助率いる赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした。泉岳寺には主君浅野内匠頭と47士が眠っている。改めて説明を聞くと、両国の吉良邸からここまで10Kmの道のりを歩き通したという。中には負傷した侍もいたが、3時間かけ今日みたいな雪道を、しかも草履を穿いてである。討ち入りも沙流ことながら、その後の気力は大したものだ。寺に着いて朝粥を食べたというが、その雰囲気が伝わってきた。

それから47士と思っていたら、墓は49人分あった。一人は萱野三平と言って事前に自害した侍、もう一人は寺坂吉右衛門と言って途中で居なくなった侍という。ただ墓があるということは一応参加したと見做されたのだろう。当日になって脱盟した毛利小平太などは忠臣蔵で有名だが、いろいろな人間模様があったようだ。それにしても、今日も多くの訪問客で賑わっていたのに驚いた。


Saturday 15 February 2014

大雪と犬

先週、今週と東京が大雪に襲われた。飛行機は飛ばないし、列車も運休する、都会は雪に弱い。お店は閉まるし、路上はツルツル滑って恐い。

喜ぶのは犬だけだ。「雪やコンコン・・・犬は喜び庭駆けまわり・・・」の歌の通り、異常に興奮する。以前飼っていた黒ラブが、子犬の時に初めて空から降って来る雪を、ジャンプして食べていたのを思い出す。今回も短い足がズボッと埋まるせいか、飛び跳ねながら走り回る。寒いが、手付かずの真っ白な雪道を歩いて気持ち良さそうだ。

テニスコートやゴルフ場も閉鎖し、行くところがない週末だ。たまには自宅でゴロゴロ、本を読んだり昼からビールを飲んだり、日頃の骨休めをするにはちょうどいい。

Thursday 13 February 2014

シャーリー・テンプル

テンプル人形こと、シャーリー・テンプル(Shirley Jane Temple)さんの訃報が今週出ていた。享年85歳だった。たまたま神保町の古本屋で買った小泉妙著「父 小泉信三を語る」を読んでいたら、ハーバード大学の創立300年の記念祝典に出席する小泉信三に、娘がテンプル人形を強請る件(くだり)があった。時は1936年、戦争が始まる5年前の話である。

シャーリー・テンプルは子役として名馳せたのは知っていたが、改めてウィキペデイアで調べてみたら、その後、女優、実業家、外交官(ガーナ・チェコ大使)等々、輝かしいキャリアの女性だったようだ。往々にして子役でスターになると、その後の人生を大きく誤まるケースが多い。その点、彼女は終身真っ当な人生を送った、アメリカでも稀有な人だったようだ。

本人のIQがずば抜けて高かったことに加え、恵まれた家庭環境と堅実な結婚相手が大きかったようだ。テンプル人形も知らない世代だが、その人生に興味を持つのである。


Wednesday 12 February 2014

バルザックの恋

ソチの隣国、ウクライナも行ってみたい国の一つだ。最近は紛争が続き通貨が暴落、EUの支援が足りないとアメリカ高官の言質が取り沙汰されてる。それもそのはず、西側派の女性大統領が更迭され、今はロシア派が実権を握っているからだ。問題の本質は有史以来続いているロシアとの関係だ。

以前にもこのブログで紹介したが、これを分かり易く綴っているのが、中公新書の黒田祐次著「物語 ウクライナの歴史」である。筆者は元大使で、学者に有り勝ちな年表の羅列はなく、ふんだんに集めたエピソードを紹介している。これを読むと、ウクライナという国の歴史はロシアとのせめぎ合いだと分かる。筆者はいみじくも独立を勝ち取った同国を、「目出度さも中くらい」という表現で結んでいるのはとても的を得ている。

本の中で面白かったのはバルザックの恋である。バルザックは当時パリの花形作家であったが、ある時ウクライナの女性から手紙をもらった。何度か文通するようになり、遂に彼は遥々パリからウクライナまで会いに行くことにした。なんとその距離2000kmをしかも馬車で・・・。そして2人の恋は実り結婚するが、バルザックはこの旅で体調を崩し亡くなってしまう、というストーリーである。
ウクライナと聞くと、何故かいつもこの話を思い出す。

Tuesday 11 February 2014

コーカサス山脈とグルジア

オリンピックのスキー、ダウンヒルが始まった。低地は人工雪を降らしていたが、高地は十分雪が積もっている。豪快に滑り降りるスキー選手の背後には、雪を被ったコーカサス山脈が拡がっている。コーカサス山脈は隣国グルジアに繋がっている。

「今一番行ってみたい国は?」と聞かれれば、迷わずグルジア(Georgia)だ。以前ある旅行博に行った時だ、グルジアのコーナーがありパンフレットを貰った。素朴で然したる観光名所もなかったが、その手付かずの自然がとても印象に残った。そして何よりワインの発祥地という。グルジアワインは甘ったるく決して美味しいという代物ではないが、その土臭さが郷愁を誘うのである。

グルジアは旧ソ連邦にあって唯一のキリスト教国である。そしてスターリンの出身地としても有名だ。受難のキリストと粛清のスターリンのイメージは全く結び付かないし、最近のオセチア紛争などロシアがグルジアを制圧する皮肉な因縁を感じる。ユネスコの無形遺産の民族音楽も聞いてみたいし・・・そう思って山の向こうに思いを馳せるのである。

Sunday 9 February 2014

ソチに込めるロシア人の思い

ソチの冬季オリンピックが開幕した。早速上村愛子のモーグルもあり、これから2週間は目が離せない。開会式も色彩がとても綺麗だった。特にロシア(といっても実際はソ連)の歴史を、スライドとヒトで綴った演出は面白かった。イワン雷帝やピョートル大帝、そして「戦争と平和」も登場した。

改めてソチってどこ?と地図を見て見てみた。ロシアの南端で黒海に面し、まるで漏斗の出口のよう形をした地域である。プーチン大統領の別荘もあるらしいが、寒いロシアのあって特別な地域だと分かる。その一つは海だ。ロシアは一見広そうだが、海に出ようと思うと北を除き限られている。ソ連時代はバルト3国があったが、今では使えなくなったので尚更である。そして温暖な気候と豊かな資源に恵まれている。

ソチの西側はウクライナ、東はグルジアである。グルジアの隣はチェチェン共和国だから、どこも紛争のメッカである。ソチの北500Kmにはボルゴグラードもある。昔のスターリングラード、ナチスドイツとの激戦地である。スターリンは多大な犠牲を出してもここを守りたかった。こうして見ると、ソチに込めるロシア人の思いって、オリンピック以上のものが伝わって来るのだ。

Wednesday 5 February 2014

インドあれこれ

マイクロソフトのCEOに、インド人のサトヤ・ナデラ氏が就任した。インド人はITに強いとされて来たが、正に象徴的な出来事だった。

インドがBRICsと呼ばれ、脚光を浴び出したのは今から10数年前だ。ちょうどインターネットが盛んに成り始めた頃である。今までシリコンバレーに頼んでいた仕事を、安く早く肩代わりした成功した。香港の洋服屋ではないが、ソフト制作をインドに頼むと翌朝までに出来上がって来る、そんなスピード感が始まりだった。特に(多少分かり難いが)半母国語の英語は大きかった。これを書いたのが、トーマス・フリードマン著「フラット化する世界(The World Is Flat)」である。本ではインターネットの普及によって地理的障壁が無くなり、その恩恵を最も授かったのがインドだという。

遠藤周作の「深い河」もインドを舞台にした長編小説だ。失恋した上智大生がインドに巡礼に向かう話である。今でもサイババなど多くの心霊を求め世界から修行に訪れる人は多い。プネの空港にはこの宗教団体の出迎えでごった返しているが、ビジネスマンと混在しているから面白い。



Tuesday 4 February 2014

遠慮のないインド人

安倍首相がインドを訪問し、日本を売り込んだ。淡水化や地下鉄など、2000億円の円借款を供与した。そのインドだが、実際に仕事をしてみると思うようにプロジェクトが進まないことが多い。原因は気候だったり、国民性だったり様々だ。ただ往々にして遠慮なく主張する風土に最初は戸惑う。

大昔になるが、我が家にインド人夫婦が1週間泊まったことがあった。ボンベイのお金持ちで世界旅行をしていた人だった。旅先で気楽に声を駆けたのがきっかけで、「日本に来たらおいでよ!」と言ったら本当に来てしまった。滞在中は牛肉は食べないがヨーグルトを食べたいとか、奥さんが着物を着てみたい等々、次から次への要求が出た。最近では研修で来たインド人だ。彼は毎日カレーしか食べないので昼は交代で仲間が付き合うのだが、カレーの中に肉が入っていないか都度尋ねる。入っていると分かると、店に頼んで取り除いて貰う。確かに宗教上の戒律があるのだろうが、郷に入っては郷に従えが通じない。また買い物に付き合うと、事ある度に「安くならないか?」と交渉を頼まれる。「ここは日本だから値切らない」と言っても、中々分かって貰えない。

インドは中東とアジアの間に位置する国だ。多分こういうデマンディングな面はアラブの影響だろう。一方、勤勉で礼儀正しい性格はアジア的だ。そしてとても日本びいきの国だ。多少図々しいと思っても、最後は親近感を感じてしまう。

Sunday 2 February 2014

デビスカップとカナダ人の応援

有明にデビスカップを観戦に行った。日本とカナダ、初日のシングルスと2日目のダブルスを取った日本が王手をかけた。それも今日の初戦は錦織なので、簡単に決着が付くのではないかと思った。案の定、試合は日本ペースで進んだ。カナダの選手か1セットが終わった時点で棄権してしまい、あっけない幕切れになった。

それにしても今回のデビスカップは盛り上がった。観客席も8-9割は埋まっている、こんなテニス大会は久々だ。やはり錦織効果は大きい。思い出すのは60-70年代のデビスカップだ。まだ田園コロシアムで行われていた頃、誰もがラケットを小脇に持つテニスブームの最中だった。ところが日本は結局本戦に出れなかった。それを阻んだのはインドのクリシュナンだった。大柄で一見動きは鈍そうだが、手首の柔らかさと絶妙のボール裁きが上手かった。彼が一人でシングル2つとダブルスを取ったのだ。そう思うと、デビスカップは1人のスターがいれば勝てる大会なのだ。錦織1人で頑張れば、ひょっとして日本はいい処まで行けるかも知れない。

試合も沙流ことながら、今回面白かったのはカナダ人の賑やかな応援だった。試合前から選手の大柄イラストを持って太鼓で気勢を上げていた。松岡修造ではないが「ここはアウェーか?」と思わせる雰囲気だった。試合には負けたが、これこそ本来の国対抗だ。

Saturday 1 February 2014

大阪の人情

大阪は中々好きになれない街だ。電車に乗れば、叔母さん同士が大声が煩い。まるで人に聞いてもらいたいかのようだ。その大阪弁は何処となくドギツイし穢い感じがする。また気のせいか、歩いているとドブ川の匂いがプーンと鼻を突く。

ただ人情はある。梅田駅近くの商店街を歩いていて、何気なく入った飲み屋は老夫婦が細々と営む地元のたまり場だった。客層が良く、客を見れば店の品格が分かる典型だ。話を聞くと、若い頃はハルビン(哈爾浜)の町で育ったらしい。その時のアルバムを見せてもらうと、ハルビンは日本の看板が立ち並び、ロシア人が着飾って闊歩するモダンな町だった。伊藤博文が暗殺された町として昨今も日中関係を熱くしているが、老夫婦には思い出が詰まった場所だったようだ。

初めて登った大阪城も良かった。大阪駅から天守閣の8階まで往復2時間のカミカゼ登頂だった。場内の秀吉と家康、大阪夏と冬の陣の展示も興味深かったし、何より城壁の立派さに驚いた。これだけの規模は世界でも有数だろう。肌に合わない大阪だが、意外と奥深いのかも知れない。