Sunday 31 July 2011

ちいさいおうち

アパートのバルコニーから隣の家が見える。大きなマロニエの下、昔ながらの木造の家である。朝晩カモメがやって来るし、剥げたペンキが年輪を感じさせる。200坪はあるかと思う広い庭は、冬は一面銀世界、雪が解ける頃にはタンポポが咲き乱れ、今はご主人が夕方芝刈りをしている。毎朝スカーフ姿のお婆さんが家の前を掃除し、洗濯は昔ながらに庭で干し・・・といった、まさに絵本の世界である。

昭和の30年代に「ちいさいおうち」という絵本があった。Richard Lee Burton著の翻訳で、物語はアメリカの田舎にあった小さな家が、都会の波に飲み込まれていくというストーリーだ。子供心に憧れたのは、丘の上に立つ家とその周りで遊ぶ子供たち、豊かな四季の移り変わりの中に生活する人々であった。今から思えば、戦後の高度成長期に憧れた古き良きアメリカそのもので、”ちいさいおうち”がそのままアメリカに見えたのかも知れない。

「ちいさいおうち」は都会の波に押し潰されそうになったが、幸い郊外に引っ越して生き延びることが出来た。変わって欲しいところと、変わって欲しくないところ、素朴さを保つのは難しい。

Friday 29 July 2011

若い人のパートナー探し

この国の人は日本人に似てとてもシャイだ。フランスのように白昼堂々とキスする光景もあまりないし、知らない者同士気軽に話しかけることもしない。ただ学校を卒業すると、カップルで所謂同棲を始める慣わしがある。鳥ではないが番いになるのも大変らしく、贈り物や送り迎えなど、相応のバトルとプロセスがあるという。

では若いカップルがどうやって巡り合うのだろうか?中年の、まして外人が外から見ていたのでは中々分かり難いが、その一つがナイトクラブだ。今や日本では死語になったディスコである。夜の10時から明け方までやっている。1,000円程度の入場料を払い、一杯200円の飲み物をオーダーする。一度調査と称して見学に行ったことがある。開門と同時に入ったが客は誰もいない、人々が集まって来たのは11時を過ぎてからだった。若い人々は男女別々のグループでやってきて、時間と共に投合する。早い時間から東洋人が一人で飲んでいたこともあり、警備員が後ろにピッタリと付いて離れない、これには参った。

それから公園だ。よくジョッギングしていると、若い女性2人で草むらに座り何することなく話している光景を見かける。特にこの季節、日光浴を兼ねて結構刺激的な格好でいる。しかし良く辺りを観察してみると、必ずどこかに男性グループが屯っている。冬支度ではないが、寒さに閉ざされた国で生きていく知恵なのかも知れない。

Thursday 28 July 2011

夏の白ワイン

ある夏の暑い日、いつものように車庫から車を出していると、誤って車道の反対側に止まっていたお向かいの車にぶつけてしまったことがある。早速お詫びをし、その日の午後に事故証明を書きにお宅に伺った。品のいいマダムが出てきて、怒られることもなく一通りの手続きを済ませた。帰ろうとすると、冷たいものでもどうかと白ワインを勧めてくれた。味音痴の私でも、それはとても美味しかった。お礼を言うと、ウチで作っているのでと一本土産にくれた。見てみると何とあのランシュバージュ(Chateau Lynch Bages)でビックリしたことがあった。お店で飲めば何万円もする代物である。

以来、夏には時々白ワインを飲むようになった。喉の渇きがピタッと止まる。

今週のBBCが伝えるところによると、白ワインとして最高価格の落札が出たという。1811年のChateau d'Yquemで価格は何と£75,000(約960万円)とのことである。因みにこれまでの最高は、1869年の赤のChateau Lafiteで£151,000(約1900万円)らしい。どんな人がどんな目的で買うのか知らないが、空けてみて不味かったらどうするのだろう、と余計な心配をしてしまう。

Wednesday 27 July 2011

どうでもいいオルガの話

暫く前に、行き付けのパブで”マリーの日”というのがあった。そこで働いていたマリーは以前からかなりお腹が大きかったが、そろそろ休みに入る「暫しのお別れ会」だった。遅れて行くともう本人は帰っていていなかった。代わりに入って来たのがオルガという大柄のロシア人女性だった。

一般的にロシア人は笑顔がないので水商売に向かないと思っていたが、彼女はその点まだましだった。しかしいつも彼氏がピッタリ付いていて、話しに夢中のあまり中々頼んでも気が付いてくれない。おまけに煙草を吹かしに良く持ち場を離れる、勘定は間違える、寝不足でよく欠伸をする・・・等々どうかなと思っていた。このことを、ある時カウンターを挟んだ我ら常連が評価談義をした。そうすると意外にも、中々いいとの評判だった。決め手は素朴さにあったようで、以来私も心を入れ替えた。

にっこり笑うと矯正の銀歯が見え隠れするが、今日も優しく迎えてくれる。

バルトのユダヤ人

バルトというと、日本のシンドラーこと、外交官の故杉原千畝氏を思い浮かべる。第2次大戦中、リトアニアで発給したビザで多くのユダヤ人の命を救った。それにも拘わらずリトアニアのユダヤ人犠牲者は13万人もいた。勿論バルト3国の中で最も多い。


それに対しエストニアは1,000人と数の上では少ないが、やはり迫害があった。そもそもユダヤ人の入植は、19世紀のロシア時代に兵隊としての受け入れに始まる。以来同国には4,000人ほどが住み付いたが、ナチスドイツの侵攻で多くが国外に脱出、残った人が先の数であった。つまり戦争が終わった時点で、ユダヤ人は誰もいなくなった。


原翔著「エストニア」に、Kloogaという町に慰霊碑があるというので行ってみた。今では普通の住宅地であるが、昔は強制収容所があった。ドイツのダッハウ収容所も住宅地に隣接していたので、当時としては強ち珍しい風景でなかったようだ。ホロコースト犠牲者と書いた標識に沿って森に入ると、人気はなく不気味な感じがした。暫く行くとひっそり慰霊碑が建っていた。近くにPaldiskというソ連時代の大きな軍港があり、ドイツが来る前はこの建設に従事させられた。第2のシベリアと言われ過酷だったらしい。ともあれ暗い過去がここにも眠っている。

Monday 25 July 2011

ノルウェーの乱射事件

先週、ノルウェーで起きた銃乱射は大きな事件だった。ビル爆破と含め、93人もの若い命が亡くなった。勿論、戦後最大の惨事だった。真相はまだ分からないが、犯人と極右グループの関係から一つは移民問題と云われている。ノルウェーは1人当たりのGDPでは世界一であり、これを支えるのが移民である。最近はパキスタン、イラク、ソマリアといったイスラム圏から入ってくる人が多く、人口の1割がイスラムになってきた。また隣国スウェーデンも、イラン、イラク、レバノンといったイスラムが増えていて、3番目の都市パルメの人口の1/4はイスラム教徒だという。

ヨーロッパへの移民は、フランスのアルジェリア、ドイツのトルコ、オランダのインドネシア等何も今に始まった話ではないが、近年とみにこのイスラム圏が肥大化している。例えばパリの町を歩いてみると、ここは中近東かと錯覚する程だ。問題の根は深いし複雑だ。正にハンティントンの云う「文明の衝突(Clash of Civilizations)」があちこちで加速している。先日のFIFA女子サッカーでも、"Say No to Racisum(人種差別反対)"の垂れ幕を選手が持ってアッピールしていたが、こうした世情を反映している。

事件のもう一つの背景は家庭環境のようだった。容疑者の父親はロンドン在住の外交官で、彼が生まれた時には既に前妻との間に3人の子供がいた。加えて母親が直ぐに国に帰ってしまったので、父親と2人で暮らすようになった。その幼少期をして、父親という社会への敵意が助長したと。ともあれ国自体の抱える多くの問題を凝縮しているだけにショックも大きかった。

Sunday 24 July 2011

メンデルスゾーンの結婚行進曲

結婚式で、新郎新婦が入場する際に流れるのが結婚行進曲である。知人がこの曲、メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」の一節であると教えてくれた。メンデルスゾーンはハンブルグ生まれのユダヤ系ドイツ人、この曲は何と17歳の作品という。

先日、当地の田舎で結婚式に参列する機会があった。16世紀に建てられたゴチック様式の教会で厳かに行われた。新郎新婦が入って来ると、牧師の奥さん奏でるオルガンでこの結婚行進曲が流れ、一気にムードが盛り上がった。日本だけかと思っていたが、このセレモニーは世界共通のようだ。

式が行われた教会は、昔ナイト(騎士)を名乗るドイツ人荘園主の祈りの場であった。ドイツ人はハンザ同盟を後ろ楯に移住し、貴族として長年君臨した。しかし1939年、突然の独ソ不可侵条約で、バルトのドイツ人は500年住んでいた土地から追い出された。今でもドイツ人名のお墓が多かったり、年配の人がドイツ語を話すのはそのためだ。ドイツ人は去れどドイツ文化は生きている。

Friday 22 July 2011

チャイコフスキーと「白鳥の海」

チャイコフスキー (Tchaikovsky) のバレー組曲「白鳥の湖」は、その切なく激しい旋律で世界中の人に愛されている。白鳥ことオデットが舞う鬱そうとした森は、いかにも厳寒のロシアらしい・・・・とずっと思っていた。

実はこれが作曲されたのは、現在のエストニアのハプサル(Haapsalu)という海沿いの避暑地であった。当時サンクストぺテルスブルグに住んでいたチャイコフスキーは、夏になると汽車でこの地の遠戚を訪ねた。この曲を書いたのは、1875年の夏、彼が35歳の時であったが、27歳の時にピアノ曲「ハプサルの思い出」も書いているので毎年来ていたようだ。現在その路線は廃止されており、駅だけが当時の面影を残している。

チャイコフスキーはこの年の始め、有名なピアノ協奏曲第1番を発表しているし、3年後にはバイオリン協奏曲も書いている。私生活ではあまり恵まれず、仕事一筋の精力的な人のようだった。また旅行好きで、ウクライナ、スイスなど廻っては曲の着想を得ていた。ハプサルの海沿いに置かれているベンチに座ると、曲の1節が聞こえて来る。ただ今もって、どうしてここからあの曲が生まれたか、全く想像できない。

Wednesday 20 July 2011

緑のミッシュラン

随分前になるが、ある金曜日の夕方、同僚のW君が「今週末アヌシーに行ってきます、ミッシュランの星潰しをやっているものですから」と言う。「え!ミッシュランって何?」

ミッシュラン(Michelin)はフランスのタイヤメーカーであるが、昔から旅行ガイドを出していた。日本でも数年前に赤本の”東京レストランガイド”が出たのでご存知の方は多いと思うが、本来この赤本は旅先のホテル探しに使うものである。それがいつの間にかレストランの格付け書になってしまい、星の数を巡って自殺者が出るなど大変な権威を得てしまった。ところが本来有名なのは、緑の旅行ガイドである。

大げさに聞こえるかも知れないが、私はこの緑本に巡り合って人生が大きく変わった。旅が本当に楽しくなった。本の特徴は、土地の歴史、文化、地理をそれは豊かに掲載していることである。それを3つ星、2つ星、1つ星で格付けしている。3つ星は”行ってみる価値がある”、2つ星は”回り道をするメリットがある”、1つ星は”興味深い”、といずれも控え目の表現になっているが、これがまた的確である。見知らぬ町に入った時、歩く道順、見るに値する建物とその部分、見る角度、こぼれ話等事細かに記されており、未だかつて失望したことはない。

昔はフランスを中心としたヨーロッパ諸国だけだったが、最近は東欧、バルト、アメリカなどが増えてきて、翻訳はされていないが日本版もある。高尾山がこれで有名になったように、日本を再発見出来るかも知れない。

IDカードとIT化

エストニアはIT立国と云われる。国土の半分が森にも拘らず、どこでもWirelessが繋がる。そのため銀行送金の98%が、納税の92%がパスコンを通して行われている。勿論、学校や公的機関のブロードバンドは100%であるし、閣議の議事録、選挙投票、土地台帳等もペーパーレス化している。世界銀行のネットワーク迅速化指標(Network Readiness index)は世界25位(日本は21位)である。一見大したことないように見えるが、バルト、東欧国の中では最上位である。因みに1位はスウェーデンであるように、北欧のIT化に刺激されている面が強い。

これを支えているのはX-Roadと呼ばれる官民一体となったシステムである。元々独立後にゼロから国のシステムを構築したのが幸いしたようだ。小国ゆえに小回りも効いた。ただ身分証明書のID番号を入力すれば、個人情報が全て分かるようになっていて怖い面もある。例えば、銀行窓口で本人確認をするのは銀行カードでなくIDカード、自動車事故の際に本人確認するのも免許証でなくIDカードといった具合に、どこでもこれ1つで全て足りてしまうからだ。

因みにこのIDカードのことを当地では”ドキュメンツ”と呼ぶ。ソ連時代の名残らしく、私はこの言葉を聞く度にドキッとするが、当地の人は慣れっこになっている。

Monday 18 July 2011

なでしこの快挙

なでしこジャパンがFIFA2011ワールドカップで優勝した。大変な快挙でまだ興奮冷めやらない。

正直ここまで勝てるとは思わなかった。体格、過去の成績から考えると本当に信じられない。決勝も去ることながら、準々決勝で地元ドイツを破ったのが大きかった。会場の声援は圧倒的にドイツ、今回3連覇を目指した勢いもあった。その中で数少ないチャンスをものにして延長戦を制した。特に落ち着いたパス回しが良かった。準決勝のスウェーデン戦も体格で圧倒されながら、先制点を良く跳ね返した。決勝のアメリカ戦も終始に渡りボールを支配された。先制点を取られるとアメリカの勝利モードになり、会場の声援も圧倒的にアメリカの中でよく頑張ったと思う。何度もバーに救われたり、相手のPKミスなど運も味方してくれた。

印象的だったのは澤選手の活躍も然る事ながら、佐々木監督の人柄だった。インタビューの対応も良かったし、選手の緊張を解す人心の掌握に長けていた。また早速ドイツの知人から、現地の新聞に"Ihr seht, wir sind am Leben!" 「世界の人よ、我々はまだ挫けてはいない!」との見出しが出たと祝福のメールが届いた。震災のショックで消沈していた日本を勇気付けた大きな勝利だった。

Sunday 17 July 2011

通貨不安とギリシャ人

また通貨不安が再燃し始め、ドルは80円を割り込み、ユーロも110円近くまで安くなってきた。背景の一つは、言うまでもないがギリシャ問題だ。3つのD(Debt, Default, Devalue)懸念を抱え、年金など財政改革が中々進まないでいる。そもそもユーロ導入時の数字も怪しかったらしい。日本の政権交代ではないが、昨年発足した新政権が統計を見直しこれが発覚したという。

昔ギリシャ人の部下がいたことがあった。髭を蓄え船乗りのよう風貌で、貫禄はあったがラテン系の多い社内ではよく同僚と衝突した。その原因は妥協を許さない強い個性と、何か異なるロジックだった。ある時、年1度の査定面談があった、私は彼に「今年は何を会社に貢献してくれるのか?」と聞いた。すると思わぬ応えが返ってきた。それは「ところで、あなたは私に一体何をしてくれるのか?」と。これには参ったが、往々にしてこの手のやり取りが多かった。

ユーロ圏は西欧の大きなクラブである。クラブには共通した価値観と信頼が大原則で、それを支えるのがキリスト教である。多くの国がカソリック、プロテスタントに対し、ギリシャは異端のギリシャ正教だ。どうもこの違いが問題を難しくしているような気がしてならない。

Saturday 16 July 2011

パルヌのヌーディストビーチ

タリンから西に120km行ったところに、パルヌ(Pärnu)という夏のリゾート地がある。木造の別荘、森の中のテニスコート、小さなレストラン…、日本の旧軽に似ている雰囲気だ。そして広い海岸線、更衣も浜の簡易な目隠しだけ、アイスクリームも子供が売り歩く。国内は元よりフィンランド、英国から来る人が多いという。

ホテルを出る時に係りの人が注意した方がいいことがあるという。何かというと、ここには女性専用ビーチとヌーディストビーチがあるという。確かに行って見ると、全体の2割程度が専用になっていた。特に囲いがある訳でもなく、一般ビーチの先に看板が立っていて、この先女性ビーチと書いてあるだけだ。何故か境界線近くには男が多い。ヌーディストビーチは女性ビーチの先にあった。つまりそこに行くには、女性ビーチを突っ切らなくてはならない。この勇気を持った人だけがたどり着けるような仕組みになっているようで、変に納得した。

見る訳にもいかず、さりとて気になるので後学のためチラッと眺めてみると、肉眼では判別出来ない距離になっていた、かくして落ち着かない中、1日が過ぎた。太陽の日差しは強いものの、あまり焼けないし喉も渇かない。何となく物足りなさを感じた1日であった。

Thursday 14 July 2011

夏の寄港地

夕方、いつものようにPubを目指して歩いていると、やけに人が多い。聞くと、今日は大型船6隻が一度に来港、9,100人の観光客が訪れたという。勿論今までで最高である。これは今年タリン市が欧州\の文化都市に指定された関係もあるが、旅の宿泊地として高い評価を得てきた結果でもある。お陰で2010年、ホテルの稼働率の伸びがユーロッパの都市で一番高かった。

目的の1つは食事である。町に中世の料理を出すOlde Hanzaというレストランがあり、人々は蝋燭の光と中世の音楽に浸りながら食事を楽しむ。決して美味しいとは言えない豆と肉の料理、そして酸味の強い昔風のワインだが、そのノスタルジーを求めていつも満員である。また昔、ドイツ人の街だったこともありビールが安いのも魅力だ。

ショッピングも人気がある。ホテルから出ている連絡バスで、郊外の大型ショッピングセンターに買い物に行く。品添えは豊富で、北欧に比べて割安感があり、この時期バーゲンも手伝い賑わっている。40万人程の町にしてはやたら大型ショッピングセンターが多いのは、この為のようだ。ともあれバカンス真っ盛り、賑やかなのはいいことだ。

Wednesday 13 July 2011

ラトビアのブロンズパレード

この春の週末、バスでラトビアの首都リガに行ってみた。隣国と言えど、どちらも小国なので東京から名古屋に行くようなものだ。街に着いて歩いていると、男が寄って来て「韓国人か」と聞く。あまりしつこいので追っ払う。市場に行って写真を撮ろうとすると、大声で駄目だと言われる。夕方のレストランでは、数人の男グループが酒に酔って大声を上げている・・・・・そう何か荒々しいものがある。


ラトビアは、首都リガの人口の半分がロシア人であり、先頃選ばれた大統領も旧ソ連時代の共産党員であったように、未だに旧ソ連の色彩が濃い。店で騒いでいたのも、そういえばロシア人だった。ただ歴史とは皮肉なもので、そのロシア人を追い出そうとバルトの中で最も戦ったのもラトビア人だった。歴史博物館に行くと、第2次大戦でドイツのヘルメットを被り、ロシア軍と戦っている絵画があった。こんな光景はエストニアにない。当然その後の報復代償も大きく、曳いては今日に至っている。

そして最近、追い討ちをかけたのがリーマンショックによる国内2位のパレックス銀行(Parex Bank)の破綻である。これによって不動産始め多くの企業が連鎖した。そのせいか、リガの町は世界遺産に指定されているというが、とてもその風情は感じられない。野晒しにされている古い建物が多く、街も荒れて汚い。

そういった鬱憤を払おうと、5月に恒例のブロンズパレードなるものが催された。女性だけでなく、老若男女が参加する町興しだった。私は行かなかったが、発想といい企画といい極めてロシア的なイベントであった。

Monday 11 July 2011

柔道からJudoへ

日本の国際化を象徴する1つが柔道である。「生まれは日本」、「育ちは世界」のスポーツとして、今や世界の人に愛されている。ただそのルールや道着の色形がどんどん変わっているように、世界の中では柔道からJudoに進化している。

ヨーロッパの柔道は盛んで、最も盛んなフランスでは2百万人もの愛好家がいて日本より多いという。エストニアはまだ2000人に過ぎないが、オリンピックのメダリストを輩出したり頑張っている。先般、縁あって当地の柔道を見る機会があった。毎日夕方からコーチについて1時間半の稽古が始まる。日本と同じで挨拶から始まるが、ウォーミングアップは室内サッカーである。適度な足技の練習にも
なり、競技性もあるので終わる頃には汗だくになる。その競技スタイルも全然違う。日本は受け身が基本だが、こちらはレスラーというだけあって攻めが中心だ。そのため組み手の距離が短いし、力ずくで投げるスタイルは正にレスリングそのものだ。上半身の鍛え方も凄い。また”マテ”や”イッポン”の日本語が出るのはいいが、1時間半が過ぎると三々五々帰ってしまう。初めがあって終わりがないのは締りがなく見えるものの、これもお国柄らしい。

日本の輸出というと車、機械などのハードは有名だが、こうして形は変えども精神が海を渡り根を張っているのを見ると、とても日本人として誇らしい気分になる。道場の入り口に嘉納治五郎の絵が掛かっていた。優しく見守っているようで印象的だった。

Sunday 10 July 2011

日本の憂鬱

パリのオペラ座近くに、Harry's Barという老舗のバーがある。映画に出てくるような大きなベレー帽を被った靴磨きの少女や、各国の大学ペナント、シックな客層などが雰囲気を作っている。

随分前になるが、ここに通っていた時、隣り合わせた初老の男がいた。肩を落として元気がない。例によって他愛もない話をしていると、「もうこの国は駄目だ」と嘆くので、「そんなことないよ、パリって凄いじゃん!」と肩と叩いて励ましたりした。何度か会っているうちに、家に友人が集まるので来ないかという。気軽に返事をすると、近くになって自宅に立派な招待状が送られて来た。そして当日、行って見ると何と7区の高級住宅街、通された部屋にはグランドピアノ2台が小さく見える大豪邸、夫人も雑誌に出て来るような人だった。4匹の室内犬と共に現れた彼氏は、Barとは別人で驚いたことがあった。

時々この話を思い出すのは、今の日本もこれに結構似ているからだ。世界から見れば大変高い所得を享受し、治安の心配もなく、文化も成熟している。何より経済はプラス成長している。確かに元気のない国になってはいるが、駄目だと思っているのは意外と本人だけかも知れない。

Friday 8 July 2011

My Estonia

昨年ベストセラーになった、Justin Petrone著「My Estonia」を読んでみた。アメリカのジャーナリストが、エストニアの女性と知り合い結婚するという体験談である。ピーターメイルの「南仏プロヴァンスの12か月」のエストニア版というか、外人から見た観察が面白く共感も覚えた。

まず食生活である。私は食べたことがないが、ここの主食でポーリッジ(Porridge)と呼ばれる粥はアメリカ人の口に合わないらしい。同様に血のソーセージや茹でた肉にも閉口している。いつぞや中国でザリガニが出てきた。美女が頭から丸かじりしているのを見て興醒めしたことがあったが、食べ物は国や人の先入観を変える。今でこそ市民権を得た寿司も、昔は生魚に虫ソース(醤油のこと)を付けて食べる下手物と見られた。

それからこの国の人の世界観、主人公の女性はサイババやマレーシアに憧れているらしいが、時として世界の一部を誇大化する傾向がある。私の知り合いの男も、宮本武蔵の五輪書の虜だ。思うに、寒くて長い冬の日に繰り返し読む本の世界が、そのまま頭に残ってしまうのかも知れない。ここの人は若い時に世界を旅行して回ることがとても多いが、アジアや中国、インドといったエキゾチックな国を好む。

ほっとするのは親戚の付き合いである。特に堅苦しい習わしはないようで、やはり結婚となると田舎の親戚を紹介して回る。その他北欧らしいHIV検査の話など興味深い。ともあれロマンティックで仄々する本だった。日本でも翻訳版が出るのといいのだが。

Thursday 7 July 2011

ブルターニュの石碑

TVを点けたらツールドフランス(Tour de France)をやっていた。フランス全土を一周する自転車レースで、月末にパリのシャンゼリゼにゴールする。

今週のコースは、どこかで見た光景かと思ったらブルターニュであった。ブルターニュ地方はフランス西部の半島である。日本からの観光客もモンサンミシェルまでは行くが、その先を訪れる人は少ない。英語でBrittanyと書くように、昔はイギリスの領地であった。このためアーサー王伝説の舞台になるなど、今でもケルト文化が色濃く残っている地域でもある。産業は漁業と塩田しかなかったので、フランスでの中でも貧しい地域とされてきたが、近年その起伏に富んだ海岸線を求めて訪れる人が増えている。

その1つがカルナック(Carnac)の石碑である。紀元前5000年に誰が何の目的で置いたのか、今となってはミステリーだが、無数に並ぶ古代の石碑は圧巻である。有名なイギリスのストーンヘンジ(Stonehenge)も、とてもその比ではない。また美島(Belle-Ille)と呼ばれる小島も自然の宝庫だ。パフィン(Puffin)と」呼ばれる嘴が赤く愛嬌のある鳥が群生している。旅の穴場かも知れない。

Wednesday 6 July 2011

ドイツ人のKISS

震災から早4か月が経とうとしている。政治は混迷を極めて前途多難だが、何とかしなくてはいけない。この間、ドイツの決断は早かった。地震があって1週間もしないうちに旧型の原発を止め、先月には2022年までに脱原発を決議した。

この違いは何なのであろう。一つは自然と人の関わりだと思っている。ドイツの多くの都市は100万人以下の中堅であり、住居は郊外の森に囲まれた庭付きの一軒家である。第2の都市ミュンヘンでも、多くの人々は郊外の村から通っており、そこには教会、小川、家族で経営するロッジが点在する。日常の雑貨は村の店で済ませ、特別な時だけ市内に出てきて買い物する。レストランは牧場の中にあるので、田舎の臭いとハエが邪魔するが、それも生活の一部と気にする人はいない。会社も郊外にあるので、職場環境は信じられない程快適だ。この自然との距離が、原発をして本能的な拒否感になっている。

もう一つは、意思決定プロセスである。議論を重ねトップが決断すると実行に移す、この単純な過程が一見日本と似ているようで非なるものがある。違いは、”トップの決断が絶対的なこと、そしてまずやってみてそれが駄目ならやり直す”、これが徹底している。日本人は始めるまでのコンセンサス作りに時間を費やす、だからやり直しが効かない。彼らの好きな言葉に、”すっきり且つ分かり易く”(Keep It Simple & Straight、略してKISS)がある。質素をモットーとするドイツ人らしい思想だ。中々マネしようとしてもこの文化の違いは大きいが、何とかならないものだろうか。

Monday 4 July 2011

歌の祭典

この国の最大のイベント、「歌の祭り」が土曜の夕方8時から始まるというので行ってみた。会場は民族衣装を着た各地の子供、若者で溢れていた。土産物の人形そっくりでとても可愛かった。ただいつになっても歌が始まらず、よくよく案内書を見ると当日はダンスの日で、歌は翌日だと分かった。そういうことで日曜にまた出直した。

今度は午後1時から始まった。炎天下、入れ代わり立ち代わり歌が続いた。大勢の観客も、のんびりと日光浴を兼ねて聞いている。夏の1日を家族で過ごす素朴な祭典だ。印象的だったのは、歌っている子供たちの笑顔がとてもいい、この日を一番楽しんでいるのがよく分かる。ブロンズの髪に花の冠が良く似合う。

祭典は延々と続き、5時には流石飽きてきて退散したが、終わったのは7時を回っていたようだった。

民族の絆

この週末は歌の祭典があった。今年はサッカーで云えばユース版らしいが、素朴な国民行事を楽しませてもらっている。

その前夜の金曜日、寝付かれないこともあって夜遅く近くのパブに繰り出した。この季節、外はまだ薄っすらと明るい。普段は閑散としているのに、驚いたことに大勢の人がアコーディオンとギターで踊ったりしていた。察するに、歌の祭典の前夜祭のようだった。飛び入りで仲間に入れてもらったが、こういう時には異邦人に視線が集まる。まして近くに住んでいるとなると、KGBではないがと警戒されている気分になる。その内に英語の達者な人が助っ人に出てきた。曰く、エストニアの人口は130万人だが、生粋のエストニア人は70万人しかいない。これまでの600年の歴史は、ロシアとドイツの支配下にあったため、誰もの親戚にはシベリアに送られた人が必ず1人はいる。そしてそれを乗り越えて現在があると。悪酔いする輩もなく、静かに絆を確かめている様な光景であった。

独立を勝ち取ったのはソ連の崩壊だったかも知れないが、いち早く実現したのが民族の絆、その唯一の手段が歌なのだった。歌うことは当時の限りなく許された自己表現だった。歌の意味は分からないが、(語学学校のお陰で)祖国、父と母、祖父と祖母、子供たち・・・という言葉が良く出てくるの素朴なフォークソングだ。

祭典のパンフの一部が全てを物語っていた。「小国では勝つ必要はない、ただ上手な上演をすることは素晴らしいことに違いない。それは又、それ以上のことをもたらしてくれる!」

Sunday 3 July 2011

社会主義とサマーハウス

ソ連解体の前夜、ゴルバチョフが監禁された守旧派のクーデターがあった。結局、エリティンの尽力でクーデターは失敗に終ったが、ゴルバチョフが拘束されたのがクリミア半島の別荘であった。それにしても、富の所有を禁じたはずの社会主義と別荘はどうも結びつかない。

この国の東、ロシア国境にナルバ(Narva)という町がある。住民の多くはロシア人で、近くのオイルシェール掘削に従事している。かつては「バルトの真珠」と呼ばれた町も、第2次大戦末期には、ソ連軍の爆撃で跡形も無くなってしまった町だ。そこにまたロシア人が住んでいるのは、何とも皮肉としか思えない。つくづく戦争は空しい。ナルバはまた1704年の北方戦争で、スウェーデンがロシアを破った地としても有名である。カール12世率いる1万のスウェーデン軍が、4万のロシア軍を破った戦いだ。今でもその城跡が残されている。

近くにナルバヨエソ(Narva-Joessu)という、旧ソ連時代の別荘地があるというので行ってみた。よく区画整理された森の中に、古いサマーハウス(別荘)が点在し、軽井沢に似ていた。森を抜けるとバルト海の白浜がどこまでも続き、夏の休暇を過ごすには素晴らしい所であった。ところがよく見ると空き家が多い。地元の人に聞くと、ソ連の解体で所有者が国に帰ってしまったらしい。セントぺテルスブルグ(Saint-Petersburg)まで150kmなので、昔は週末に共産党幹部などが通っていたのだろうか。社会主義と聞くと今でも怖い感じがするが、ここだけは人間味がした。

Friday 1 July 2011

夏の訪れ

春のある日、窓を開けていたらカナリアが飛び込んで来た。どこかで飼っていたらしく、人懐こく、餌をやると喜んで食べる。誰も引き取り手がいないので、結局その日から一緒に暮らすことになった。ピーピーといい声で鳴く。そのカナリア、日の出と共に鳴き始めるのはいいが、今では朝4時になってきた。日の暮も大分延びて来た。夜の11時に夕焼けを見るのは変な気分だが、食事を終えてベランダでのんびり過ごす時間は何ともいえない。


先日まで雪のように舞っていたタンポポも消えてきた。バルト海のひんやりしていた風も、大分和らい出来た。町は週末の歌祭りに地方から集まってきた人で溢れて出している。10万人が一度に会するというので、普段ガラガラの市電も東京のラッシュ並である。一方でバカンスシーズンに入ってきたので、車の数はめっきり減ってきた。地元産のイチゴやスイカも出始めた。やはり幾分スペイン産より安い。


公園では水着姿で太陽を求める人が多い。一見無用心に思える光景によく出くわすが、とても覗き見する気分にならない。短い夏を我挙って太陽を求める、何か生存本能のようなものを感じるからである。とてもひと事ではない。今日から7月、待ちに待った夏が始まる。