Wednesday 30 November 2022

ジアンの陶器

海外に駐在すると、まず買い揃えるのが食器である。ロンドンに駐在した人なら、ミントンやウェッジウッド、ロイヤルドルトンだろう。ただその後殆ど使われないで棚の中に眠ってしまうのがオチである。 

昔ある外国文学界の功名な先生が亡くなった時、大量の食器を頂いた事がある。中には一度も使われていないイニシャル入りのヘレンドもあった。惜しげもなく使っている内に、いつの間にか消えてしまったが。有名な陶器は宮廷文化の名残である。所詮一般庶民とは無縁の文化だから仕方がないのかも知れない。

ただ旅の途中で出くわすと、土地の香りを嗅ぐようで旅に華を添えてくれる。

パリから130km程下ったロワール地方にあるジアン(Gien)は、多々ある古城と相まって華麗さがあった。面白かったのは二級品(2eme cru)と称する訳アリ品である。素人には何が欠陥なのか分からないが、安くてこれなら安心して使えた。

もう一つはマイセンである。ベルリンの壁が崩壊して間もなく、旧東ドイツを旅した時だった。ワイマールからドレスデンに向かう途中、その工場に立ち寄った。こちらは高価な芸術品といった印象で、ソ連時代の寒々しさも感じた。 

ところで陶器は英語でボーンチャイナ(Bone China)である。歴史的な背景から来るらしいが、一般名称に国名が使われているのが気になる。

Tuesday 29 November 2022

粋な晩酌

先日、知人の陶芸家が個展を開いたので覗いて見た。学校の先生の傍ら、趣味で始めた陶芸が、いつの間にかプロ顔負けの腕前になった。その日もデパートの一角を借りて多くの作品を展示していた。

観に行ったからには手ぶらで帰る訳には行かない。ちょうど焼酎グラスに事欠いていたの、2つ求めて帰った。その晩は早速、その器で黒霧島のお湯割りを試してみた。やはり味がいつもと違う気がして、ちょっと魯山人の気分になった。

友人のW君が焼いた皿も見事なので、正月に取り出しておせちを乗せて楽しんでいる。W君は40代で会社を辞めて笠間の窯に弟子入りした本格派である。家族を残して単身修行する事3年、念願の陶芸家として独り立ちした。笠間もそれが縁で何度か行ったが、日本の奥深さを感じる町である。

普段は無縁の陶芸だが、こうしてたまに接するといいものだ。以前テレビの番組で、日本酒探訪家の太田和彦さんが、数あるぐい吞みの中からその日の晩酌に合った器を選んで楽しんでいた。そんな味わい方があるのか?と、流石太田さんだった。

この冬の夜長はそれを真似て、粋な晩酌に心掛けようと思っている。

Saturday 26 November 2022

冬のウクライナ

ウクライナで大規模停電が続いている。ロシア軍のインフラを狙った攻撃で、発電施設が損害を受けた事による。これから2月にかけて冬が本格化するので、とても心配だ。

首都キーウの今の気温は-1度、12月から-5〜-8度になるという。昔住んでいたバルト海とちょうど同じ気温帯なので、ちょっとした親近感を持っている。

この寒さはシベリア程ではないが、ビール瓶を外に置けば凍って破裂してしまう。ただ家の中は暖かいし移動も車のため、人々の服装もダウンジャケットの下はTシャツといった軽装の人が多い。ところが暖房が止まってしまうと話は別である。その時も凍死したニュースをよく聞いた。 

 随分前になるが、冬の山荘で薪だけで過ごしてみた事がある。家の中でも吐く息は白いし、沢山着込んで薪を焚いても焚いても寒さは凌げなかった。最後は近くの温泉に入って体を温め直した記憶があるが、その薪の量は半端ではなかった。

例えば丸一日薪を燃やし続けた場合、その量はちょうど人の背丈ほどになる事が分かった。それを準備するのも、大木を倒し輪切りにして何年か寝かし、最後は斧で割ってと時間と労力が掛かる。スキーと同じで、滑り下りるのは一瞬だが、山頂に辿り着くまで物凄い時間とお金が掛かるのだ。

ウクライナの人もそんな蓄えもないだろうし、一体何で暖を取るのだろう?ユニクロのヒートテックや暖パン、練炭やこたつ冬山用品など、日本も緊急援助しなくては!

Thursday 24 November 2022

悔しさがバネに

昨夜のW杯対ドイツ戦は興奮した。前半押され気味の日本だったが、後半2得点して逆転で勝利した。特に終了間際、浅野選手のゴールは見事だった。念願のベスト8もこれでグッと近づいた。 
 
処でその浅野選手だが、前回のロシア大会では最終メンバーに入れなかった。今回の終了後のインタビューでも、「その悔しさを4年間持って頑張って来た」みたいな事を言っていたのが印象的だった。

思い出すのは遠藤保仁選手である。彼は2006年のW杯(ドイツ)には行ったものの、唯一出場機会には恵まれなかった。その時は素人考えで、「折角なので、ちょっとでも出してやれよ!」と思った。しかし彼はその体験を基に、その後2010年(南ア)、2014年(ブラジル)、2018年(ロシア)のW杯のメンバーに選ばれた。何よりその長い選手生活で、A代表の出場記録152試合、これは歴代1位である。

もう一人、香川真司選手もいた。2010年の南ア大会で最終メンバーには残ったものの、やはり最後で外された。当時の若手エースとした確実視されていたので意外だった。しかしその後の活躍は周知の通りで、2014年と2018年のW杯のメンバーになった。

最後に何と言っても三浦知良選手がいる。55歳にして現役を続行している信じられないサッカー選手である。その彼の有名なエピソードは1998年のフランス大会前の合宿で、最終メンバーから外された事件だった。当時は日本の中心選手として活躍していただけに、大きな話題になった。結局その後もW杯とは無縁の選手生活を送っているが、あの時の悔しさがあったらこそ、今でも心を燃や続けているのではないかと思っている。

Monday 21 November 2022

エリザベート・シュワルツコップ

マリア・カラスが来日した時は行けなかったが、もう一人のソプラノ界のプリマドンナには間に合った。それはドイツリート界の華、エリザベート・シュワルツコップ(Elisabeth Schwarzkopt)である。1972年の冬、彼女は既に57歳の晩年に入っていたが2回目の来日だった。当時学生だった私は、上野の文化会館で永年の憧れの人を目の前にした。

マリア・カラスが個性が強く独創的な歌い手なら、こちらはドイツロマン派の正統派である。その時も一つ一つ丁寧に歌い上げるのが印象的だった。

その日は大好きな「愛の喜び(Plaisir d‘Amour)」や「糸を紡ぐグレートヒェン(Gretchen am Spinnrade)」こそ出て来なかったが、ブラームスやシュトラウスの小曲を聴いた記憶がある。

彼女は典型的なアーリア人だから、嘸かし戦中も引き合いに出されたかと思いきや、Wikiで意外な原点を知った。それは校長だった彼女の父親がナチ党大会を拒否した事によって、大学進学の道が閉ざされ、結果的に音楽の道に進むことになった経緯である。

オーストリア西部のシューベルトも良く訪れたという村には、彼女の博物館もあると言うので、また旅の寄り道が増えた。ドイツとスイス国境に近いその一帯は、随分前に旅して民宿に泊まった事があったが、英語やドルが全く通じないド田舎であった。そんな処で晩年を過ごしたのも意外だった。

Sunday 20 November 2022

マリア・カラスの生涯

子供の頃、小遣いを貯めてはクラシックレコードを集めた時期があった。あれは確か東中野の小さなレコード店だったか、ジャケットの美貌に魅せられ歌劇「カルメン」を思い切って買った。三枚綴りで中には写真集も入って、かなり高価だった記憶がある。それはマリア・カラスとニコライ・ゲッタが共演した1964年版の作品であった。

カラスの歌うカルメンは、ドスが効いた太い声域と豊かな抑揚がジプシー女を見事に演じていて、子供心にも虜にさせる魅力があった。特に歌詞のフランス語は完ぺきであった。後で分かった事だが、彼女の日常のフランス語はとても流暢で美しかった。 

そのマリア・カラスをドキュメンツ風にした映画「私はマリア・カラス(Maria by Callas)」が暫く前に上映された。観る機会を逃していたら、先日アマゾンプライムでやっていた。ギリシャ彫刻を思わせる美貌と、人の心に突き刺さる歌声は正に世紀の歌姫で、改めて彼女の魅力に惹かれたのであった。

ただ一方で私生活には恵まれず、長年親交のあったオナシスがJFKの未亡人ジャクリーヌと結婚したのはショックだった。それも本人に言わせれば新聞で知ったというから猶更であった。53歳の若さで亡くなったのも、そうした心労があったのかも知れない。

先日も石田純一氏の元妻、松原千明さんがハワイで亡くなった。こちらも途中から私生活には恵まれなかったようだった。華やかな表舞台とは裏腹に、やはり「女の幸せは男次第」に思いを馳せたのであった。