Sunday 31 August 2014

コカ・コーラのCMシリーズ

週に一回はマックに行く。人からよく飽きないねと言われる。数あるメニューの中で辿り着いたのはベーコンレタスバーガーだ。以降これが定番になっている。ただ飽きずに続くのはコークがあるからだ。コークは影の主役、ストローから喉に入る瞬間は毎度の事ながら快感がある。

ある時そのコークの話をしていたら、旧友のM君がそのCMを集めたDVDを送ってくれた。1960年代から現在まで多くのアーティストが歌っている逸品である。60年代の加山雄三から始まり、ピンキー、森山良子、矢沢永吉と来て、松山千春や早見優・・・トランザムは特に良かった。一世を風靡していたのが80年代、「そこにあるのは自由・・・裸足で地球を駆けるのさ!・・」の高度成長期、日本が一番乗っていた頃だった。面白かったのは、「意見が合うのはコカ・コーラだけ!・・」という60年代のシリーズだ。兄弟の学校は早慶、結婚式も和洋と全く異なるのに、コカ・コーラだけは一致しているというストーリーだった。

スキー、サーフィンに始まりスカイダイビング、ホーバークラフト、熱気球・・・時代は代われど、自然の中でスポーツに勤しむ若者の笑顔ってやはり素晴らしい。時代を経て半世紀、ぶれないコカ・コーラの経営哲学は凄い。

Friday 29 August 2014

シリアの処刑

最近は殆ど新聞を読まない。その代りに、朝の電車の中でBBCとフランスのル・ポアンのニュースをiPhoneで読んでいる。大体1日から2日遅れて日本の新聞にそれが紹介される。出た頃にはどっかで見た記憶がある。

今朝はシリアの人質の話だった。250人のシリア兵が捕虜になり砂漠をパンツ一丁で走っている。解説によると彼らはその後処刑されたという。先日もアメリカのジャーナリストが、昨日はクルド人のグループがオレンジ色の装束を着せられ、これから処刑される最後の映像がネットに映し出されていた。

処刑は金曜日に多く行われるという。こうしている間に無差別に人が殺されていく。その数、3年間で19万人に上るという。ただ加害者のイスラム人は、昨日まで被害者でもあったようだ。イスラムと言うだけで死を覚悟した抑圧時代もあったから、報復が報復を呼んでいる。恥ずかしながら中東は全くの無知、シリアとリビアの違いすら良く分からない。これを機会に地図を見始めた。

Wednesday 27 August 2014

Youは何しに日本へ?

「Youは何しに日本へ?」というテレビ番組がある。成田空港で待ち伏せし、来日の理由を聞く。場合によっては取材旅行までしてしまう。スイスから来たお母さんが息子と中山道を踏破したり、48時間の耐久徒歩大会、ロシアの舞踏団、車椅子の指導員・・・毎回楽しませてもらっている。

面白いのはその意外性だ。四角四面の日本社会をズカズカと横切って行く、それでいてユーモアと温かさがある。見ていて結構知らなかった日本を知る事も多い。思えば江戸の浮世絵、大正の上高地や軽井沢、最近ではミッシュランの高尾山等々、身近な価値を発見したのはそうした外の目だった。

寿司屋に行くと、日本人はまず刺身から始め寿司は最後に食べる。一方外人はまず寿司でお腹を満たしてからゆっくり酒を飲む。蕎麦屋も同様だが、真似してみると結構行ける。舌が新鮮な内にメインを楽しめるからだ。まだまだ身近な発見があるかも知れない。

Tuesday 26 August 2014

スコットランドの独立投票

スコットランドの独立を巡る投票日が迫っている。そもそも1603年に王位を失ってから4世紀が経ている。それをまるで昨日の事のように思っているから驚く。独立の是非は今のところ半々らしいが、その執念には感心する。

日本人から見ればイギリス人もスコットランド人も同じに見えるが、きっと彼らに言わせれば日本人と韓国人の違いがあるのだろう。スコットランドが独立すれば、英国の国旗の色彩も変わってしまう。白のバッテンがないユニオンジャックなんて、間抜けな感じがする。一方スコットランドも、あっと間に経済破綻してしまうかも知れない。

そのスコットランド、昨年蒸留所巡りをしてからスコッチウィスキーに凝っている。それもヘイグやマッケランのような高級酒ではなく、名も無い安酒である。リチャードソン(Richardson)、ヘッジズ&バトラー(Hedges & Butler)、面白い処ではク・デュー(Cu Dhub)がある。多くがブレンド酒で1000円程度で買える。オンザロックで口に含み、暫し余韻を楽しむ。してラベルから蒸留所の場所を突き止めると、そこの冷気が伝わって来る気がする。パブを思い浮かべ夢想に耽る、これが何とも楽しい。

Monday 25 August 2014

スパゲティーを食べる人間犬

犬好きの私に、海外の飲み仲間が面白い動画を送ってくれた。

黒のラブラドールがスパゲティーを食べる仕掛けだ。東洋紡のテレビコマーシャルは、2匹であっち向いてホイ!や卓球をやっているが、こちらは一匹で頑張っている。例によって二人羽織で、人間が中に入りフォークで口に運ぶ。最初は旨く食べているが、その内その犬が興奮し、最後は手掴みでめちゃくちゃになってしまう。それが何とも面白い。リアル感が出ているのは、一口食べ終わるとナプキンで口を拭いているからだ。

https://www.youtube.com/user/Luxtheoneandonly

犬馬鹿と云われるかも知れないが、久々に笑ってしまった。

Sunday 24 August 2014

壁に耳あり

毎週土曜日の夕方に、Suntory Saturday Waiting Barと云うラジオ番組がある。バーで聞き耳を立てていると、有名人の会話が聞こえて来る・・・という設定である。ウィットに富んだ軽妙なトークは快いが、そんなバーの過ごし方もあるようだ。

それを真似している訳ではないが、耳に入って来る話で楽しいものもある。毎朝駅に向かう途中、一緒になる小学生の兄弟がそうだ。高学年のお姉さんと低学年の弟の会話である。いつもお姉さんが一歩前を歩きながら、「ねえ、あんなことお母さんに言ったら、お母さんどう思うと思っているの!」、「だからこの前・・・って言ったじゃない!」と、いつも何か叱っている。弟は後ろから首を項垂れ黙って聞いている。野球帽を斜に被りとてもいじらしい。大きなバックが何故か重そうに見えるが、ついつい微笑んでしまう。そして、こうして育った男の子はどういう子になるんだろう?など余計なことまで考えてしまう。


これは無害な例だが、電車の中など際どい話も多い。壁に耳あり障子に目あり。番組に登場するような話なら兎も角、やはり周囲には気を付けた方がよさそうだ。

Wednesday 20 August 2014

カワサキラケットの軽井沢合宿

昭和40年代の軽井沢と言えば何といってもテニスである。皇太子が美智子さんと結ばれたのもテニスコート、ラケット文化は一世を風靡していた頃であった。

そんな学生時代、夏のアルバイトはテニススクールだった。決して上手かった訳ではないが、今から思えば需給関係で採用された。場所は軽井沢、国産ラケットメーカーのカワサキが主催するテニス合宿であった。ヘッドコーチは渡辺三兄弟の勉さん、早稲田のOBで明るい人柄にファンも多かった。

そんなある日、私の受け持つクラスに中年の男の人が入ってきた。初心者で運動神経はあまり良くない。ボールを出しても中々追い付かないので、「取れるぞー!」と声を掛けていた。ところが夕方のミーティングで私が「X☓大学の学生です」と自己紹介すると、その人は「僕はその☓☓大学で教えている」と言うではないか。そして「君の先生は誰かね?」と聞かれ、青くなりそれ以降立場が逆転した記憶がある。塩沢のコートを見ると、その時のことを思い出す。

Tuesday 19 August 2014

大塚久雄教授の別荘

今から30年以上前になるか、夏の軽井沢に、それも万平ホテルに1週間滞在したことがあった。今から思えばお金があったのだろうか、一緒に付き合ったのがアメリカ人のWさんだった。

Wさんは当時ICUに留学していた学生だった。学生と言っても風貌は30代半ば、学生と言ってもジャパン・タイムズの仕事をしていたり、学者の片鱗があった。そもそも中国に関心を持ったバークレーの学生だったが、入ることも出来ず仕方なく日本に来た。その彼がひょんなことで我が家に来るようになり、夏休みを一緒に過ごす事になった。

万平ホテルには、気が付けばジョン・レノンと小野ヨーコ夫妻が泊まっていた。時々見かけたが、音楽には無縁だったので、当時は気にならなかった。そんなある日、彼は先生に会いに行きたいと言う。先生は大塚久雄教授、東大からICUに移り、全集の出版を準備していた社会科学の大御所だ。レンタカーを借りて師の別荘まで届けると、2人は何やら楽しげに話し合っていた。運転手の私は只管待たされたが、最後に先生から「運転も労働ですね!」と言われた。それがとても印象に残っている。大塚久雄と言えば、マックス・ウェーバーの大権威、流石知らない人は居ない雲の上の人だ。ひょんな処でお目に掛かり驚いた。Wさんはその後オックスフォードに渡り先生になった。軽井沢と聞くと、その時の事を思い出す。

Monday 18 August 2014

豊崎少尉の手記

終戦が迫った1945年7月28日、霞ケ浦から博多の由比ヶ浜に向けて飛び立った4機のゼロカン(零式水上観測機)がいた。搭乗員は全て学徒、予備学生の13期と14期が多かった。

機は戦闘用の固定銃を外し、特攻用の爆弾を抱えていた。して琵琶湖上空に差し掛かった頃、グラマンの編体に襲われ、全機撃墜された。8人いた搭乗員で唯一生き残ったのが豊崎昌二少尉だった。豊崎は東大から学徒に出征した14期だった。その話は、「学徒特攻その生と死、海軍第14期飛行予備学生の手記」(国書刊行会)、「三番機偵察員の記録」に記されている。

14期は訓練の時間もなく、取り分け戦死者が多かったという。戦後生き残った人達は高野山で供養の会を催した。お茶の千宗室、俳優の西村崑等々、戦後の著名人も混じっていたらしい。ただ人々の心中は複雑だ。たまたま招集された同世代、同期と言われても自ら望んで来た処でもない。同じ体験と云っても人様々、生き続ける人もいれば過去にしたい人もいたようだ。そんなことをこの時期になると思い出す。

Sunday 17 August 2014

小泉妙さんの記事

一昨日は終戦の日、今年で70周年になったという。戦争を体験した人が次第に他界していく。時恰も隣国の脅威に国防の機運が擡げ始めている。歴史は繰り返すというが、そうしてはならない・・・。

終戦の日、読売新聞に小泉妙さんが寄稿していた。妙さんは慶応の塾長を務めた小泉信三の次女である。6年前に「父 小泉信三を語る」を出版し、家族から見た父の姿を紹介している。今回も記事の中で、三田の火災で火達磨になった父に、大樽で水掛けたのは19歳の妙さんだったと語っていた。信三は塾長時代、幻の門から学徒を送り出し、自らの子息も戦火に散った体験がある。「君の出征に臨んで言って置く・・・」の一節は、結婚式の祝辞でも使われたように多くの人の心を打った。その著書「海軍主計大尉小泉信吉」(文芸春秋刊)からは、教育者というより理想の父親像が伝わって来る。

火災に遭ってから顔の肉が落ち、指がくっ付いて開かない、初めて見る人に取ってはビックリする風貌に変った。1950代後半だったか、とある会で握手する機会を授かった。子供心に怖い人のイメージだったが、それが後年宝物のようになった。記事の最後で、妙さんが「終戦日と言っても特別なことをせず、テレビが点いていれば黙祷を捧げます」と言っていたのが印象的だった。

Thursday 14 August 2014

サルコジのあの日あの時

ネットの社会は恐ろしい。特に過去がずっと付きまとう。いい事ばかりならいいが、忘れたい事もある。一般人のみならず、有名人に至ってはマスコミに出る分尚更だ。8月10日のル・ポアン誌にはサルコジ前大統領の話が載っていた。1984年のその日は彼の前の奥さんと最初に出会った日であった。ただ一緒に居たのは前の前の奥さんと、前の前の奥さんで彼の友人のジャックという男だった。当時はそれを知る由もなく、フランクに時間を過ごした二家族であった。

暫くして彼はその友人の奥さん(セシリア)と結婚し、11年を一緒に過ごしたが、セシリアの浮気旅行を切っ掛けに分かれた。新聞には表現はドギツイが、「寝取ったが寝取られた」と書いていた。

サルコジ(Sarkozy)は当時ヌイイ市長だった。ヌイイ(Neuilly)はパリ市の西に隣接し、ブーローニュの森に囲まれた高級住宅地である。そこで彼を有名にしたのが爆弾男事件だった。体に爆弾を巻き付けた男が幼稚園に立て籠もり大騒ぎになったが、市長の彼は陣頭に立って指揮し、犯人を射殺し幼児を無事解放した。その後は順調に出世、2007年には大統領まで登り詰めた。今はスペイン系の元モデルと結婚して6年になる。幾らアムールの国とはいえ、ネットは忘れたいアムールまで、それも昨日のことのように蘇えさせる。

Tuesday 12 August 2014

ルーツを辿る里帰り

アイルランドを旅していると、欧米の旅行者、それも年配の人達とよく一緒になる。地元も心得ていて、食事つきのパブなどでは「アメリカから来た人はハイ手を挙げて、カナダ・・・、NZ・・・」と聞いて廻る。すると見事にコモンウェルズが出来上がる仕掛けだ。ディングル半島で知り合ったカナダ人の老婦もそうだった。先祖の地を正にルーツを辿っているという。皮肉なもので、荒涼とした地を捨てて出て行った子孫が、人が住まなかったからこそ残された豊かな自然を求めてやって来る。ご先祖様はどう思っているのだろう。

アイルランドは移民大国である。1800年後半から何百万人が新天地を求めて出て行った。取り分けアメリカには多く、今では40百万人近くがアイリッシュ系という。大統領もケネディー始め、レーガン、クリントン、そしてオバマなど多くを輩出している。アイルランドの名前はO`で始まる名字が多いのでO`bamaが原点かと思ったが、これは違うらしい。

ノスタルジックツアーをするのは何もアイルランド系だけではない。テニス仲間のAさんもこの夏、思い出のフランスを再訪した。学生時代にバックパックで放浪し、訪れたワイン畑で一緒にブドウ狩りをした友人を訪ねた。お互い40年振りに親交を深め、昔を思い出し食事を共にしたという。サケではないが、人はルーツを求め生まれ育った川に戻る習性がある。

Sunday 10 August 2014

「ライアンの娘」のロケ地

映画「ライアンの娘(Ryan's Daughter)」のロケ地、ディングル半島を訪れた。アイルランドの西方、辺りは未だに人が殆ど住んでいない僻地である。あるのは1800年後半の飢餓時代の小屋や、紀元前3000年の石器時代の礼拝堂だった。車がやっと擦り違えることが出来る狭い道路、石垣と緑の丘陵、荒涼とした大西洋・・・それこそ巨匠監督デビット・リーンが選んだ場所だった。

改めてDVDを借りて観てみた。トーリーは、第一次大戦後のアイルランド独立機運高まる中、片田舎に英国陸軍の若き将校が赴任する。結婚したばかりの娘はその将校と不倫関係になり、最後は村八分になる。時代背景も興味深く、将校は激戦地のパッシャンデ-ル(Passchendale)で負傷し、IRAはドイツ軍の使った武器を密輸する。パブで出るのは黒のブラック・スタウト、酒場の親爺(ライアン)は元IRAの闘志、イエスはエイ(Aye)と訛っている。映画の出だしで帽子が飛ぶシーンこそ、そこから離れたモハーの絶壁を使っていたが、殆どがディングル半島の風景で懐かしかった。
 

今でも閑散とした土地は観光で持っている。イルカが見られる湾があったので、観光船に乗ってみた。「イルカが見られなければお金要りません」と書いていたが、専門の人が別の小舟で早目に見つけてくれる。

Saturday 9 August 2014

リンチやボイコットの由来


英語圏を旅していると、時々英語の語源に遭遇する。今回訪れたゴルウェー(Galway)でも面白い話があった。

それは1600年代の市長の話だ。リンチ(Lynch)と言う名の市長には息子がいて、彼はスペインとのワイン貿易の仕事をしていた。そんなある日、息子の結婚を目前に、死の床に就いた船の同僚から、息子が船中で殺人を犯していたことを聞いた。正義をモットーとする市長は、群衆の見守る中自宅の窓から息子を縛り首にして吊るした。以来リンチは私刑の意味で使われることになったという。因みにリンチ名はアイルランド人に多く、メリル・リンチやワインのリンチ(仏語はランチ)・バージュ、映画「ツイン・ピークス」の監督のデービット・リンチなど多士済々だ。


また拒否運動を指すボイコットもある。1880年代の土地の管理人だったボイコット大尉(Captain Boycott)は、英国からアイルランド西部に派遣された退役軍人だった。飢饉の時代に厳しい取り立てを行ったため、地元の商店や洗濯屋などから総スカンを喰った。それが転じて今ではボイコットの名は拒否・排斥の意味で使われている。

Wednesday 6 August 2014

ジェフリー・アーチャーの最新作

トランジットしたコペンハーゲンの空港で、本屋を覗いていたらジェフリー・アーチャーの新作を見つけた。クリフトンシリーズの4作目「望みは慎重に(Be Careful What You Wish For)」である。

早速買い求めて機内で読んでみた。3年前からストーリーが続いているので読み易い。既に主人公は子から孫の世代に移り、時代も戦後になっている。面白いことにSONYの盛田社長が登場する。イギリスに資金調達にやって来る設定だが、1950年代にも拘わらずSONYは既に世界一流の仲間入りを果たしていたようだ。また前号からの偽札絡みで南米の元ナチが出てくるが、イギリスとの接点がIRAの闘志になっている。著者は英国人なので、悪役はやはりアイルランド人なのだろうか?

ともあれ相変わらず上品で撫でるような文章は快い。思えば登場人物の夫婦と養子が皆兄弟の関係にある。当然その子も近親である。そうしたドロドロとした世界にも拘わらず、ヒューマニズムに富んだ爽やかな仕上げになっている。

Tuesday 5 August 2014

ハーリングとゲーリック

ビールで有名なキルケニーの町に泊まった時だった。サッカーの試合でもあるのだろうか、カラフルなユニフォームを着て応援に向かう人達で町は溢れていた。宿は何処も一杯なので、諦めて次の町に行こうかと諦めていたところ、最後のB&Bに運よく泊まることが出来た。女将は「今日は煩くなるね」と言って鍵を渡した。

どうやらハァーリング(Hurling)という聞き慣れないスポーツの大会があるらしい。暫くするとパブのTVで放映が始まると、杓文字のような杖でボールを奪い合う、ホッケーとサッカーを足して2で割ったようなスポーツだった。スピーディーではあるが、ボディーアタックもない線が細い。それから何日かして、やはりパブでゲーリック(Gaelic)という、これはサッカーとラグビーを組み合わたような試合を見た。どちらもアイルランド伝統のスポーツらしいが、男同志なのにタッチのみが認められている腑甲斐さが残った。

勿論アイルランドにもサッカーやラグビーはある。ただどちらもあまり強くない。理由は良く知らないが、伝統的に組織力を求める戦いは不向きなのかも知れない。それより個人は群れないで、それでいて自分たちだけの仲間スポーツを楽しむ・・・そんな風土を感じたのだ。

Monday 4 August 2014

プロテスタント・ボーイズ

アイルランドといっても、北アイルランドは英国領である。通貨はポンド、町も気のせいか粗々している。その北アイルランドのバンゴールという町に週末泊まった時だった。夕方からパレードが始まった。30-50人の鼓笛隊が、各々の衣装に身を包み横笛と太鼓で行進して来た。観光客には有難いが、「これって何のお祭り?」と地元の人に聞いても、「毎週やっているけど・・・特に何かある訳でもない」とつれない返事が返って来る。そんな訳ないだろうと、何人かに聞いて見たところ、どうやらボイン河の戦いを記念していることが分かってきた。

ボイン河の戦いは、1690年7月4日にダブリン郊外で起きたアイルランド軍(カソリック)とイングランド軍(プロテスタント)の戦いである。云わばアイルランド版の関ヶ原である。結果はイングランド軍が勝ち、以来アイルランドはイングランドの支配下に置かれることになった因縁に戦いだ。今日、アイルランドに英国領がある事と無関係ではない。

パレードの人々は自衛団のように、大人から子供まで険しい表情で行進している。太鼓にはプロテスタント・ボーイズと書かれており、村の家々はユニオンジャックを掲げている。300年以上前の事とはいえ、未だにアイルランドに住むイギリス人は、7月になるとこれを持ち出して威嚇しているのだろうか。パレスチナとイスラエルの宗教対立を思い出した。

Sunday 3 August 2014

アイリッシュパブ転戦記

世界で一番居心地のいい場所、それはアイリッシュパブである。取り分け本場アイルランドのパブは何とも言えない歴史と伝統があって落ち着く。

改めてパブの暖簾を潜ってみると、まず目にするのはアイリッシュエイル(Ale)である。誰かが馬の小便とか言っていたが泡が無くコクがあるのが特徴だ。冷蔵庫が無かった昔は生ぬるかったらしいが、今は勿論冷えている。どこに行っても目にするのはSmithwicksという銘柄である。キルケニーの赤エイルと言われこれは旨い。そして黒ビールの代表ギネス、別名ストウト(Stout)と呼ばれ、アイルランドに来たらまずこれから始める。ビールに限らずワインなど移動の揺れに弱いので、日本で飲むギネスは薬の味がする。その点地元で飲むギネスはフルーティーで甘く水のようだ。同じエイルでマーフィー(Marphy)というハイネッケン系の黒ビールも良かった。Marphyはシンガポールでもお世話になった世界的なパブの代名詞、味も中々だ。

ただ毎日エイルとストウトを繰り返すと、やはり馴染みにあるラガーに回帰する。それを心得てか、多くのパブでハイネッケンやカールスベルグを置いている。更にドイツの白ビールことヴァイツビールのポーラナー(Paulaner)やベルギーのレフ(Leffe)もある。流石ここはヨーロッパ、近隣から輸入するので簡単に飲める。

こうして興奮していたら、あるベルファースト郊外のバンゴール(Bangor)という街のパブで飲んでいた時だった。地元の人から「それは工場ビールだ、ここに来たならこれを飲め!」とボトルを授かった。「俺の奢りだ」と言って出されたのはMcGrath'sというエイルだった。昔の麒麟ビールのようにビールの中のビールだった。奥の深さを痛感したのだった。

Saturday 2 August 2014

タイタニックの救命男

アイルランドの観光を支えているのがタイタニック号である。ベルファーストを訪れると、2年前に新設された記念館が出来ていた。まるでディズニーランドのような仕掛けもあり、一大観光スポットである。
 
タイタニック号が出発したのは、南部のコーブ(Cobh)という港町だった。岸壁にはアメリカに最初に渡った親子の銅像や、当時の駅舎を使った展示館もあった。多くの移民が飢餓から逃れ旧英国領に旅立った。オーストラリアにも、男女比が8:1だった理由で女性のみが向かったという。タイタニックの乗船者も紹介されていて、まるでドラマのようだった。その中にダニエル・バックレイ(Daniel Buckley)という青年がいた。彼はタイタニックが沈没した際に、女子供に隠れて救命ボートに乗った男だった。

アメリカには無事着いたものの、第一次世界大戦に参加し、なんと終戦の前日にフランスで戦死したという。28歳だった。映画「タイタニック」でもローズの婚約者が救命ボートに乗って助かるが、そのホックリーという富豪も1929年の大恐慌で拳銃自殺している。こちらは47歳、人の運命は分からない。

Friday 1 August 2014

Killarney Golfコースに挑戦

2010年と2011年にアイリッシュオープンが披かれたKillarney Golf & Fishing Clubの Killeenコースにチャレンジしてみた。全長6590m、美しいケリー地方の山と湖に囲まれた正に名門コースである。

朝7時40分のスタートを予約、7時に着くと誰も居ない。生憎の雨で車の中で係りの人が来るのを待つ。するとコース整理の人がやってきて、「ようこそ、ここはサーモン釣りのメッカだ。雨はもうじき止むよ、エンジョイ!」と言って声を掛けてくれた。ゲール語訛りの英語はとても聞き取り難い。確かに雨は上がり、美しい朝焼けが現れる絶好のスタートになった。ゴルフバックを担ぎ、一人淡々とラウンドする。例によってボールが中々見付からない。グリーンとフェアーウェイの境はない。それ以外はラフで入るとまずアウトだ。パー3のショートコースも、乗ったかと思いきやコロコロ崖から落ち小川に入ってしまう。1991年にニック・ファルドが優勝した時、彼が唯一のアンダーパーだったと聞いて納得した。

また慣れないゴルフ場では、コースがクロスする時が要注意だ。殆ど案内板が出ていないので、ティーポジションのプレートを確認しないと間違えやすい。今回もアウトの5番から気が付くと9番を廻っていた。終わる頃には人も増え、散々打ちのめされフィニッシュしたのであった。