Tuesday 28 December 2021

ソ連崩壊と入植者の困窮

この12月でソ連邦が崩壊してから30年が経った。今から思えばまるで昨日のようだが、ロシア人の多くはソ連邦にノスタルジーを持っているという。今ウクライナに侵攻しようとしているのもその一端かも知れない。ロシアには行った事がないが、旧ソ連圏に住んだ経験から彼らの気持ちも分からないでもない。

まず住居である。ソ連の傘下になるとロシア人ならタダで手に入った。元から住んでいた人を追い出し不法占拠したからである。その次は仕事である。その際障害になるのは言葉であった。連邦に加わったベラルーシ、リトアニア、ラトビアなどには元来のローカル言語があったが、それに突然ロシア語が加わった。昔に朝鮮で日本語が公用語になっていたのと同じで、ロシア人は言葉に不自由しないで仕事に就けたのであった。 

ただこの反動がソ連の崩壊後に起きた。住居は本来の所有者に返還されたため、ロシア人は追い出されパスポートも没収された。祖父さんの時代にやって来た家族にとっては母国のような土地だったのに、今更ロシアに帰れと言われてもどうしていいのか分からない。彼らにとってのロシアは既に外国だった。そのため帰るに帰れず無国籍者になった人が多かった。特にラドビアは国民の半分がロシア系だったので深刻だった。無国籍者はEUに加盟しても国境を超える事が出来ず、今でも貧困と治安の元凶になっている。言葉もローカル語が公用語に戻ってしまった。そのためロシア語しか話せない人は仕事に就けなってしまった。

こうして旧ロシア人は彷徨える人達になった。加えて社会主義という配給制に慣れた弊害も大きかった。例えばレストランを経営しても、「何を食べたいんだ?」から「何になさいますか?」の切り替えが出来なかった。今でも旧社会主義圏に生まれた50代以上の人は、殆ど笑顔で振る舞う事が出来ない。 

随分前になるが大阪に出張した時、北ノ新地に寄った居酒屋があった。老夫婦が営む小さな店だったが、傍らにアルバムが置いてあったので見せてもらった。それはハルビン時代のアルバムで、ヨーロッパ風の街並みに西洋人も混じって写っていた。彼らは「自分たちの一番いい時代でした」と懐かしそうに語っていたのが印象的だった。今のロシア人もきっと同じ心境に違いない。

Sunday 26 December 2021

サンソン処刑人

先日、2年ぶりに3人の死刑が執行された。2人は刑が確定してから17年と18年も経ったという。そんなに長い間、毎日いつ呼び出しが掛かるのか、びくびくした日が続いたかと思うと死刑囚とはいえ気の毒になるのであった。それにしてもいつ誰を執行するのか、又一体誰がそれを決めるのだろう?。まさか時の法務大臣ではないだろうが、一切公開されていないので知る由もないが、まだ100人以上の死刑囚がいるというので気掛かりだ。 

その刑の執行だが、ボタンを押したり遺体を回収したりは刑務所の看守が行うという。子供の頃、仲の良かった友達のお父さんが刑務所の看守だった。刑務所の塀に隣接する官舎によく遊びに行くと、いつもニコニコ顔で迎い入れてくれた。当時はそんな優しく温厚な人柄が囚人の教育にはピッタリと思っていた。ただ実際刑に立ち会っていたのなら、心労も並々ならぬものがあったに違いない。

そんな事を思ったのは、暫く前に読んだ「パリの断頭台(Legacy of Death)」だった。作者はアメリカの女性作家で、フランスで7代続いた処刑人サンソンの物語である。サンソン家は代々処刑を業とし、初めの頃は斧やロープ、フランス革命になってギロチンを使った。ルイ16世やマリーアントワネット、ロベスピエールやダントンも彼の手に掛った。

ただ社会の非差別と偏見も手伝い、その心痛から2代目のサンソンは晩年血を見ると震えが止まらなくなり、4代目は35歳で卒中に見舞われ、5代目は突然精神に異常を来し、7代目は仕事を逃れるためギロチンを質に入れたり、仕事とはいえやはり人間だった一面が伺える。 

その本の後書きにギロチンの効用と反省がある。ギロチンは苦痛と恐怖を与えない装置だが、その迅速さがフランス革命で多くの犠牲者を生んだと。(聊か辛辣だが)因みに絞首刑による絶命時間は7〜15分、電気椅子は4分半という。 

こうして死刑囚の死と向かい合うと、いつの間にか犯した罪もどこかに行ってしまう。ヴィクトル・ユゴーの「公共の権威が人間の生命をもてあそぶ時、人間の尊厳に対する観念はその偉大さを失うのみである」の言葉が耳に残るのである。

Friday 24 December 2021

ヴィンチ村の旅

テレビを点けると、「世界の街歩き」でミラノを放映していた。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が保存されている教会の前で、文房具屋の主人が登場していた。たまたまオバマ元大統領も来ていた時で、黒塗りの車から本人が下りてきた。

随分前になるが、その「最後の晩餐」を見に行った事がある。予約制だった事が分かり、改めて後日予約を取って出直した記憶がある。薄暗い室内にその謎めいた壁画が掛かっていた。

後日読んだダン・ブラウンのダヴィンチ・コードでは、沢山の謎解きがあったのを思い出す。その一つが失われた聖杯である。イエスとマリアの大きなV字型の空間は、女性のシンボルを示す処から二人の子供を指すという。確かにマリアを右に移動するとイエスの肩に寄り添う形になる。聖杯は子供の意味だった。

そのレオナルドだが、旅をしていると結構な接点があった。最初はルーブル博物館の絵画「モナリザ」である。未だに謎の微笑が何故そんなに価値があるのか分からないが、この絵だけガラスケースに入っていた。
次はロワール地方のアンボワーズ城である。フランソワ1世に連れて来られ、晩年の3年間を過ごした場所であった。イタリア人の彼がフランスに住んでいたのは意外だったが、当時はミラノがフランスに占領された時だったようだ。 フランソワ1世は名君だったので、二人の関係は良かったという。

最後は彼の故郷であるヴィンチ村である。これも随分前になるが、トスカーナ地方を旅した時だった。フィレンツェに泊まりサンジミアーノ、シエナを通りピサの斜塔を見に行った。たまたま近くに彼の生家があると聞いたので寄ってみた。1万人ちょっとの小さな村で、辺りはブドウとオリーブ畑が続く豊かな土地だった。

Saturday 18 December 2021

会津のローマ市民碑

外国の武勇に感動して碑を贈ったのは、アラモ砦の日本人だけではなかった。この夏、会津若松を訪れた際に、ドイツとイタリアから贈られた変った碑を見つけた。

場所は白虎隊のお墓がある飯盛山の一角であった。一つは1928年にムッソリーニがローマ市民の名前で送ったイタリア碑、もう一つは1935年にドイツ大使館の大佐が建てた碑である。特にイタリアの碑は立派で、何やらポンペイ遺跡から発掘した石柱という。どちらの国も三国同盟の友好を形にしたのだろうか、それにしても当時の様子が伺える一コマだった。

白虎隊については、(以前このブログでも書いたが)自刃したのは20名である。総勢は343名で戦死が33名、つまり残りの290名は生き延びたのであった。確かに自刃した事は痛ましいが、物語を誇張した感がどうしても付きまとう。

事実、明治になって会津藩は廃藩となり、人々は下北半島の寒村に移住させられた。つまり記念碑を建てた頃の人は会津とは縁も所縁もない人だったのではないか?自刃場所を観光スポットとしている今もそうだが、関係ないからこそ戦意高揚に利用出来たのではないか、そう思えてくるのである。

Monday 13 December 2021

アラモの日本人石碑

アメリカを旅していると、意外な所で古い日本に出逢う。一つはテキサス州に残るアラモの砦である。今では女子供が避難した伝道所だけが残る場所だが、その一角に日本人の石碑が建っていた。1914年に早稲田大の̪シガという教授が贈ったもので、少人数で大軍に立ち向かう姿が長篠の合戦と重なったという。長篠の合戦なんてアメリカ人には知る由もないため、当初は嘲笑されたようだ。それにしても変わった日本人がいたものである。

アラモの戦いはジョン・ウェン演じる映画で何度も見たが、250人の守備隊が数千人のメキシコ軍に立ち向かう姿は壮絶である。後に「Remenber the Alamo」がアメリカ人の勇気を象徴する言葉になったのも良く分かる気がする。因みに長篠の合戦は、500人の守備隊が15000人の武田勢と戦ってこちらは城を死守した。長篠城跡にはアラモの碑が建っているというので、いつか見てみたい。 

もう一つは、海軍兵学校のアナポリスである。行った時は卒業式の後で校内はガランとしていた。ビジターセンターで受付をして校内を散策していると、日本の酸素魚雷が置いてあった。傍のパネルにはその性能と共に、日米戦の転機となったミッドウェイの戦いについて詳しい解説があった。
 
またアナポリスの町に入る高台に、第二次大戦で犠牲になったメリーランド州市民の慰霊碑があった。その中のプレートを読むと「日本軍の捕虜に対する扱いは過酷で、捕虜の40%は殺された。特にバターンの死の行進は酷かった」と書いてあった。

アナポリスには多くの日本人も留学し、最近では極めて優秀な成績で卒業する自衛官もいると聞いている。そんな親近感もあるが、こうして何気ない過去に出逢うとドキッとする。

Friday 10 December 2021

アメリカに残る日章旗

太平洋戦争の開戦から80年、然したる記念行事もない中、愛媛県で「真珠湾攻撃隊十勇士」の史跡を建立したニュースがあった。ハワイ真珠湾に侵攻した特殊潜航艇の乗組員を祀る記念碑である。従来は9軍神だったが、これで晴れて捕虜第一号となった酒巻氏の名誉が回復し良かった。早速資金援助を兼ねて「酒巻和男の手記」を取り寄せた。

その酒巻少尉のミニ潜水艦であるが、9年前にアメリカのテキサス州を旅した時に偶然遭遇した。その時の話は、本ブログの2012年12月8日付「テキサスに眠る特殊潜航艇」で紹介させてもらった。場所はニミッツ提督の故郷のフレドリックスバーグで、ドイツのブレーメンから移り住んだ祖先がここでホテルを営んでいた。その広い敷地に「国立太平洋戦争博物館」を建造し、太平洋から持ち帰った日本の戦車やアメリカの魚雷艇などを陳列していた。 

その中にその特殊潜航艇もあった。ハワイで回収された後、戦意高揚のため全米を廻り最後はこの地に落ち着いた。鑑は綺麗に塗装が成されていた。酒巻少尉を紹介するパネルもあり、タバコの火の痕が残る写真と共に、戦後トヨタブラジルの社長を務めた経歴が書かれていた。敷地の一角には東郷元帥宅の庭を模した日本庭園もあった。日本政府のカネで作ったようだが、こんな寂しい場所に置き去りにされた潜水艇のせめてもの慰めに思えた。

アメリカを旅しているとこの手の博物館が実に多いのに驚く。2年前に廻った東海岸でも、立派な国立海兵隊博物館やノーフォークの軍港に係留する戦艦ウィスコンシン、マッカーサー博物館、スミソニアン博物館など、出征の寄せ書きが残る軍旗や日本軍の武器を展示したヴァージニア戦争博物館では「何でこんな所にあるの?」と思った。

外から見ると日本がよく分かると云うが、正にこれはその典型で、我々の知らない日本が
残されている。まだまだマサチューセッツやニューオーリンズ、グアムにもあるというのでその内行ってみたいと思っている。

Tuesday 7 December 2021

真珠湾から80年

明日の明朝は真珠湾攻撃の日、日米開戦から80年の節目である。今頃はエトロフの単冠湾を出港した連合艦隊の中で、搭乗員が今か今かと発艦を待っていた頃かと、当時に思いを馳せている。 

真珠湾攻撃を書いた戦記や映画は実に多いが、こういう時に思い出すのは攻撃隊長だった淵田美津雄氏の自叙伝「真珠湾攻撃総隊長の回想」である。第一次攻撃隊183機を引率し、あの「我奇襲に成功セリ」の「トラトラトラ」を打電した人である。終戦後はキリスト教徒として伝道の道を歩んだ人だったが、淡々と任務を務めている様子が伝わってくる。

その太平洋戦争であるが、NHKではいつものように日本が戦争に突き進んだ反省番組を組んでいた。しかしこの自虐的な感覚がどうしても許せない。日本は400年に渡る鎖国を無理やり解かれかと思うと、そこは欧米の植民地主義の最中、気が付くとロシアが迫ってきてた。辛うじてこれに勝利したが、多くの犠牲を出した割には代償も取れなかった。その後やっと手に入れた満州からもまさかの撤退を通告され、従わないなら禁油すると言われた。欧米の理不尽に散々振り回された挙句、民族存亡の危機が迫った時だった。 

さっきTVを見ていたら安倍さんが、いみじくも「(彼らは)見誤った」と言っていたが、起こるべくして起きた戦争だった。それは日本だけでなくドイツも同じである。第一次大戦後の驚愕な賠償請求がなければ、ヒットラーの出現はなかったし第二次大戦も起きなかっただろう。

だから仮に時間を巻き戻したとしても、日本人なら又同じ決断をする気がする。80年と言えば人に称えると傘寿である。先日テニス仲間の傘寿のお祝いをしたから身近に元気な人は多い。遠い昔のようだが、その人達を見ていると、実はそんなに古い話ではないと思えてくる。

Sunday 5 December 2021

病原体仮説のウソ

日本では沈静化しているコロナ感染だが、ヨーロッパでは又急拡大が始まっている。1日の感染者がドイツやフランス、英国でも4〜5万人も出ているという。ワクチンを打ったのにどうして中々収まらないのだろう?日本でも三回目の接種が始まろうとしている矢先、本当にワクチンは有効的なのだろうか?と、疑問を持ち始めている人は多いと思う。 

その感染源だが、実はワクチンを接種した人の体内から出る飛沫という説がある。知人のHさんが薦めてくれた「ワクチンの真実」という本で、著者は奈良医科大を出た医師である。それによると最近話題になっているブレークスルー(すり抜け)も、犯人はワクチン接種者という事になってくる。

確かにファイザーやモデルナの大手製薬会社がほぼ世界を独占している点も変だし、政府が必死に接種を推奨するのも気持ち悪い。またCDC(アメリカ疾病予防センター)やファウチ氏のアレルギー感染病研究所という公共の機関が、本来チェックすべき大手製薬会社と一体となっている構図も気掛かりだ。本ではCDCをして「狐がニワトリ小屋の見張りをしている」と評していたが、新薬の治験なんて何でもありみたい世界が透けて見えて来る。 

それにしても、こうしてワクチン行政を批判するのは本当に勇気がいる。思い出すのは60年代に流行った公害である。当時それに立ち向かったラルフ・ネーダーや東大の宇井純氏は、政府・企業に真っ向から挑戦した孤高の人だった。その宇井氏は助教授のまま据え置かれたし、今でも原子力の専門家で原発行政を批判している京大の小出裕章助教もそうだ。つくづく既存の体制と向かい合うにはそれなりの覚悟が要ると思うが、声が大きくならない理由もそこにあるのかもしれない。

今のワクチン理論は、パスツールやコッホから始まる「病原体仮説」がベースという。所謂ヒトの体内に病原菌を挿入して抗体を作る方法である。ただそのパスツールも死ぬ直前に、「病は人が置かれている気候、衛生、ストレスなど環境から来るもの」と、その病原体仮説の過ちを認めたという。何が本当なのか素人には本当に分からないが、一つだけ思っているのは「もう三回目は勘弁して欲しい!」。