Wednesday 22 April 2020

台湾の幸運

ゴルフ仲間のTさんは、老後を台湾で過ごしている。昔の仕事の関係で定住を決めたようだが、人が優しく、物価が安いので住み易いと言う。そんなTさんだが、一時帰国してゴルフを楽しんでいたら、コロナで入国制限が出てしまった。帰るに帰れず、今では高いホテル生活を余儀なくさせられている。全く同情の至りである。

その台湾だが、今回は感染者抑え込みが功を奏し、未だに400人程度の感染者(死亡は6人)に留まっている。リチャード・クー氏の解説によれば、強制自宅待機の人が外出した場合の罰金が300万円と高額なのと、マスクが一人3枚まで毎週購入できるなど、先のSARSの教訓が生きたという。何より幸運だったのが、中国からの入国禁止をいち早く打ち出せた事だった。ただこれは、中国が台湾の総選挙に圧力を掛けて、台湾から中国への渡航を制限した対抗措置だった。正に万事塞翁が馬で、天から降った偶然が国を救っている。

台湾はWHOに加盟していない。だから自前でやらざるを得ない危機感が強いと言う。これも今回は吉と出た。

Monday 20 April 2020

万事塞翁が馬

NYの感染死亡者が減少傾向にあると言う。ピークアウトしたのか、余談は許さないが成り行きが注目される。NYと云えば世界の憧れの都市である。(生活した人の話だと)地下鉄は便利だし、公園、商業施設や郊外の自然が豊かで、とても快適に暮らせるらしい。そんなNYに昨年、ヘッドハントで赴任した人が居た。直後に今回のコロナ感染に襲われ、思いも掛けぬ事態になった。正に万事塞翁が馬である。

諺の「万事塞翁が馬」の語源は、中国の老人(塞)の話である。彼曰く、足の遅い馬が逃げた時、足の速い馬を連れて戻って来た。喜んでいると、その足の速い馬に乗った息子が振り落とされ足を折った。悲しんでいると、足を折ったせいで戦争に行かないで済んだ話である。禍福は糾える縄の如しで、幸不幸は交互にやってくる。長かったサラリーマン生活もそうだった。つまらない仕事と思っていると、後になってそれが意外と役に立ったり、反対に恵まれたポストに就いて、同僚の妬み嫉みで足を引っ張られるなど、浮き沈みの繰り返しだった。何が良くて悪いのか、最後まで本当に分からない。

今回の異常事態はまだまだV時回復どころか、意外と長期化する気がする。長引けば倒産が出て社会が混乱するだろう。しかし新たなビジネスも生まれるだろうし、テレワークで何とか会社が廻る事が分かれば、労働環境の改善にも繋がるに違いない。何より家族の絆を再確認する切っ掛けにもなった。一方でこれから国境を越えた人の移動は厳しくなり、フラット化した世界も後戻りするかも知れない。コウモリや野生動物を食べる人とは、一線を画すことの大事さを痛感したからだ。ともあれ、ウィルスに侵され逃げ惑う光景は万国共通である。久しぶりに、政治信条やイデオロギー抜きで世界が一つになっている。

Saturday 18 April 2020

イスラムとマスク文化

ヨーロッパでコロナ感染者が大きく増えた理由について、色々な事が言われている。例えばハグやキスなど直接接触の習慣があるとか、土足で部屋に入るとか、風呂にあまり入らないとか、加えて一帯一路で、今までにない数の中国人を受け入れたとか・・・。

そんな中、フランスに住む人が面白い事を言っていた。それはイスラム文化とマスクの関係である。特にフランスでは、顔を隠すブルカが2011年に禁止され、ヒジャブ(女性のスカーフ)も学校での着用が禁じられた。これらのイスラム装束は、女性の隷属と抑圧の象徴であるから、自由を謳うフランスでは相容れなかった。そんな事で顔を隠すマスクはイスラムに繋がるのか、昔から敬遠されて来た。

確かに風を引いてもマスクをする人は稀だし、フランスのみならず、ヨーロッパでマスク姿を見る事は昔から殆どなかった。以前勤めていた会社には、ドイツ人がよくやって来た。彼らが開口一番に言ったのは、「どうして日本人は、町でマスクをしているの?」だった。「それは花粉症予防だ」と説明すると納得していたが、それでも一様に社会現象化している光景が奇妙に映ったようだ。文化の違いは恐ろしい。今の処何とか感染爆発を免れている日本である。花粉症対策が思わぬ処で役に立っているのかも知れない。

Friday 17 April 2020

外出自粛の暇潰し

外出自粛が続くと人恋しくなるのだろうか?最近は思わぬ人からLineやメールが入って来る。先日も昔の仕事仲間のHさんやIさん、Sさんから期せずして「どうしているの?」と言って来た。「毎日やる事ないから暇を持て余しているよ!」と云うと、「コロナが終わったら一献しましょう!」で終わる。短いやり取りで会話も弾まず、正に生存確認である。

家に閉じこもっていると、本も読む気になれない。外部からの刺激がないと、好奇心も削がれてしまう。そんな中、一か月前に始めた数独(Sudoku)の凝っている。時間があればゲームに手が出てしまう。正に数独中毒(Sudoku addiction)である。1ゲームだけと思っても、終わるともう1ゲームとと際限がない。問題集はネットに無料の例題が山ほどあるので事欠かない。最近では中級なら10分程度、上級でも30分で解ける処まで来た。目標はその半分の時間である。達人は「パットと見ただけで1~9に欠けている数字が分かる」と何かに書いてあったが、毎日そればかり見ていると反射的に分かるようになる。

そんな人間の営みを尻目に、今年もカラスの巣作りが始まった。卵を産んで雛に帰るまでが一番危険である。ただ雛になると警戒心が和らぐのだろうか、区役所の人が取りに来ても左程騒がない。今年はその前にと思って杉の木に登り、針金のハンガーや枝木で作っている巣を取り除いている。カラスが戻ってきて、カーカーと鳴いているのを聞くと、してやったりの気分になる。カラスは何故か朝夕来るが、日中はどこかに行っている。そんな時を狙うのだが、撤去してもまた翌日から同じ場所の作り始めるから困ったもんだ。そんなイタチごっこも、こんな時だから出来る。

Wednesday 8 April 2020

蝶々夫人と日本人妻

やっと緊急事態宣言が出された。日本人は走り出してから考えるというから、取り敢えずこれで良かったのではないか。因みに英国人は考えてから走り出し、ドイツ人は歩きながら考えるという。この手の国際比較のフレーズは、本質を付いているから面白い。

加藤浩子さんの「オペラで楽しむヨーロッパ史」でも、蝶々夫人(Madame Butterfly)が日本人女性の名声を高めた事から、当時の天国の生活とは、「アメリカの給料をもらい、イギリスの家に住み、中国人のコックを雇い、日本人の妻をもらう」だったという。蝶々夫人は昔で言う現地妻である。ピンカートンが帰国しても只管彼の帰国を待ち続けたが、再会した時には彼にはアメリカ人の妻がいたので身を絶った。その可憐で一途で従順で裏切られても身を引く姿が、理想の女性像になったようだ。日本人として喜んでいいのか分からないが、最近では大分様子が変ってきたのは確かだ。因みにその反対の地獄の生活とは、「中国の給料をもらい、イギリス人のコックを雇い、日本の家に住み、アメリカ人の妻をもらう」だそうだ。

暫く前に知人のKさんも、「若い頃に結婚するには綺麗なスラブ人がいい。中年になったら気配りがあり面倒見がいいウクライナ人がいい。ただ歳をとったら、子供の時から貧しく育ち、家族思いで介護も懸命にするモルドバ人がいい」と言っていた。以来、モルドバという未知の国が気になっているが、ただここまで来ると、実体験がないと中々理解し難いものがある。

Tuesday 7 April 2020

桜散る合格電報

コロナコロナでウンザリする毎日、今日は遂に7都県で緊急事態宣言が出された。欧米に比べて爆発がまだ起きていない日本だが、今後どうなっていくのだろう。そんな事を尻目に、桜が散り始めた。今年の開花が早かっただけに、よく持ち堪えたと思う。桜は咲き始めもワクワクするが、やはり散り際が美しい。刹那的で日本人のセンチメンタルに合うのだろうか?「散る桜、残る桜も散る桜」のフレーズを思い出す。

そんな桜を見ていたら、大学2年になろうとする2月に、入試の電報屋をやった事を思い出した。クラブの先輩2人と入試の日に店を出した。店の名前は「登龍会」である。景気付けに登り龍をイメージした。男ばかりだと警戒されると思い、可愛い女子学生に頼んで受付を任せた。部室から机を運び出し、自宅で作った合格電報の札を出した。これから受験場に向かう学生に「合格電報如何ですか?」と声を掛けると、続々お客が舞い込んだ。受験生は氏名と住所を書き、いくらだったか忘れたが、電報代を置いて行った。中には中学校時代の同級生も居た。お互い久々に会ってびっくりしたが、相手はこれから本番に臨む人生の大一番だった。とても旧交を温めている場合ではなかった。その日は仲間4人で分け前をきっちり四等分し散会した。

そして合格発表の日が来た。掲示板で何度も番号を確認し、駄目だった人には「桜散る」の電報を打った。それも確認したのは私一人だったから、今から思えば信じられない事である。見も知らずの学生に人生の岐路を委ねる方もそうだが、もし見間違っていたらその人の人生を左右しかねない。今から思うとゾッとするが、当時はそんな時代だった。

Sunday 5 April 2020

バイロイトと小泉さん

友人のS君は、昔から大のクラシック音楽ファンである。その彼が引退を機に、良くヨーロッパまで足を運んで生の演奏を楽しんでいる。真にリッチな限りであるが、昨年はバイロイト音楽祭に行ったと言う。一晩いくら掛かるか知らないが、暑い中冷房もない部屋で長時間座っている体力も含めて、中々真似できるものではない。

そのワーグナーの祭典だが、加藤浩子さんの「オペラで楽しむヨーロッパ史」を読んでいたら面白い事が書いてあった。それは日本の小泉(元)首相の話だった。ワーグナーは反ユダヤ主義者だったため、ヒットラーも心酔した話は有名である。そのためバイロイトは戦前の聖地になっていたため、戦後もドイツの政治家は敬遠して足を踏み入れる事がなかったという。ところが小泉さんがドイツを公式訪問した際に、大のオペラファンだった彼がバイロイト音楽祭の鑑賞を希望し、当時のシュレーダー首相を誘った。これが切っ掛けになり、その後はメルケルさんなども足を運ぶようになったという。兎角世界の舞台では影の薄い日本の政治家だが、たまにはいい事もするもんだ。

バイロイトには行った事が無いが、近くにはニュールンベルグやレーゲンスブルグなど、バーバリア地方には美しい街が沢山ある。ビールの種類も豊富だし、モーゼルワインの産地でもある。仕事や旅で何度も訪れた。そんな楽しかった日々を思い出した。

Friday 3 April 2020

マッカーサーの息子

その病院船が出港したノーフォークには、マッカーサー記念館(MacArther memorial )があった。かつての英雄の足跡を偲ぶ館だが、行ってみると訪れる人も疎らでひっそりとしていた。「老兵はただ消えゆくのみ(The old soldier only leaves)」の言葉通りに、今では本当に忘れられた人に思えた。

マッカーサーは戦後、次期大統領の有力候補としてアイゼンハウァーと競った。二人の運命を分けたのが朝鮮動乱だった。寝耳に水のある朝、北が38度線を越えて南下を始めた。東京にいた彼はあわてて指揮を取ったが、在韓米軍はあっという間に押し戻された。たがその後の反撃が功を奏し、今度は38度線を越えて中国国境に迫った。一気呵成の中国軍も劣勢に立たされ、あと一歩で勝利の時に本国から待ったが掛かった。梯子を外されたマッカーサーは、その後も日本寄りの発言で本国から、またある失言で日本国民からも見放されてしまい、政治家としてのピリオドを打たれた。

記念館にはフィリッピンや東京などで、家族を帯同して過ごした痕跡が数多く残っていた。家族思いの彼には一人息子がいた。マッカーサーの父も軍人だったので、息子もその血を引き継ぐのかと思いきや、彼は音楽家の道を選んだ。マッカーサーという偉大な名前も重荷になったのか、その後は名前も代えてNYで生きたという。その事がとても心に残った。

ジョン・トーランドの「朝鮮戦争」の副題は「勝利なき戦い」である。トランプも朝鮮に深入りしようとしないのはこの徹を踏まない為の気がする。