Tuesday 31 July 2018

ボツニアルート

アフリカや中近東から欧州に向かう移民の問題は深刻だ。入ったはいいが言葉の壁やその後の仕事、子供の教育など想像に絶する。それでも辿り着いた人はまだいい。途中で命を落とすニュースが後を絶たず、イタリアのリゾート海岸に遺体が流れ着くと言う。朝鮮半島や中国の混乱を思うと、とても他人事に思えずゾッとした。

そんな中、パキスタンやシリアから、ボツニア・ヘルツゴビナ経由で入る移民が増えているというニュースがあった。昨年の8倍という。ボツニア・ヘルツゴビナはEUに加盟していない国なので、比較的入り易いのが原因らしい。昨年のバルカン半島の旅で、その煽りを喰った事を思い出した。

それは車でモンテネグロからクロアチアに入ろうと走っていた時だ。海沿いの道からそれて山道に入ってしまった。気が付くと国境の検問所があった。何の気なしに通過すると、そこはボツニア・ヘルツゴビナであった。その辺は国境が入り組んでいるので、よくある事だと思い、そのまま山越えでクロアチアに入ろうとした。ところが、国境では今度は車が長い列を作っていた。外は40度近い暑さで、日陰もなく車の中で待機するしかない。10分経つとやっと1台動き、結局3時間程掛かり、やっと検問所を通過する事が出来た。お蔭で軽い熱中症になってしまい、頭がクラクラになった。前の車の人が大きな水ボトルを持っていたので、頭に掛けてくれたりした。この辺の人は待つのに慣れていると感心したが、改めてEUは天国に思えた一日だった。

Sunday 29 July 2018

ニコライ事件の判決


オウムの残り6人の刑が執行された。マスコミの処刑された被告に同情する発言や、死刑制度の是非などに言及する風潮が気になる。そうした厭世感は事件から20年以上も経った事から来るのだろう。時間が経つと、被害者やその家族は普通の生活に入り、被告も事件前の姿に変る。憤りや罪意識も人間だから次第に変化する。そんな無為な時間が人の判断を惑わす・・・、やはり刑は数年で執行しないといけなかった!

そんな中、吉村昭著「ニコライ遭難」を読んでいたら、同じような裁判の話があった。時は明治24年、ロシアのニコライ皇太子が来日した時、大津で津田巡査に切られる事件が起きた。幸い皇太子は一命を取り留めたが、日本国中が大騒ぎになり、天皇も自ら収拾に尽力した。政府はロシアの怒りに配慮して死刑を望んだ。しかし刑法では無期懲役、死刑を執行するには皇室罪の適用が必要だった。政治と司法が真っ向から対立し、最終的に司法の主張が通って無期になった。近代化が始まったばかりの日本だが、改めて当時から真っ当な判断が働いていた事に感心したのである。

余談だが、本では相変わらず吉村さんの丹念な取材が光っている。例えば皇太子を救った2人の車夫は、その功績を湛えられ高額な報奨金と年金が与えられた。しかし一人は散在して紙屑拾いに、もう一人は日露戦争が始まると国賊扱いを受けるなど、その後の人生も翻弄された。又長崎にお栄というロシア語が出来る女がいて皇太子の通訳をした。若くしてロシア艦隊の女給仕になりウラジヲストックに渡り、そこで日本から持って行った真珠を高く売り財を築いたという。また皇太子は京都など先々の村や寺に、今で云う10~20万円をポンポン寄付し、京都の買い物代は2億円相当など、本当に良く調べている。西南戦争は終わったが、西郷生存説が脅威だった事、津田の犯行動機が西南戦争の死者を祀った碑にロシア人が足を掛けた事など、当時が浮かび上がって来る一冊だった。それにしても、それから10年ちょっとで日露戦争が始まったので平和な時代だった。

Saturday 28 July 2018

女子禁制の飲み屋



夕方のテレビを見ていると、茅場町の珍しい居酒屋を紹介していた。それは立ち飲みの店で、長年女子禁制でやっているという。理由は良く分からないが、何となく分かる気もした。全てセルフサービスで、客が勝手に冷蔵庫からビールを取り出すので、女性がいるとその素朴さが無くなってしまうのだろう。やはり暫く前だったか、仕事仲間のIさんとセンベロ会をやっていた。会社の帰り道、ツマミを取って三杯飲める店があったので、そこに寄って帰るのだが、千円でベロベロになるので、いつの間にかその名前になった。時間は30分強、安くて時間も短いので結構長続きした。ただ女性がいたらそうは行かっただろう。

そう言えば、昔はパブやバーは半ば女子禁制だった。男の隠れ家ではないが、男が気遣いせずに過ごせた空間だった。飲み屋だけでなく、ゴルフ場や雀荘、碁会所もそうだ。それがいつの間にか様子が変わってしまった。その象徴が昨今の霞が関ゴルフ倶楽部であろう。本家のセント・アンドリュースも陥落したから仕方ないのだろうか。

学生時代の仲間が集まる機会が多くなる世代だが、居心地のいいのは、やはり男達だけのサークルである。変な男女のゴタゴタモなかったから、当時のままの静かな関係が維持されている。それはまるで酒の熟成のようで、時間と共に味わいが深くなっている快さがある。逆に女性が入っていたクラブはそうはいかない。くっ付いたり離れたりすると、苦い青春時代になってしまう。もうストレスもないので酒に頼る必要も無いが、そんな渋い場所には未だに惹かれる。

Wednesday 25 July 2018

アメリカへの流刑

長崎のグラバー邸こと、トーマス・グラバーの生涯は中々波乱に富んで興味が尽きない。幕末の志士たちを英国に送り出し、明治維新の陰の立役者になった。しかし2代目は戦艦武蔵の建造を巡ってスパイ容疑が掛けられ、終戦を前に自害してしまう。以前スコットランドを旅した時、アバディーンにある彼の生家を訪れてから、特に身近な人になっている。

そのアバディーンの町だが、ケン・フォレットの「自由の地を求めて(原題:A Place Called Freedom)」にも出て来た。時代はトーマス・グラバーの100年前なので、より厳しい階級社会である。物語は近くの炭鉱で働く若者が、労働争議の罪に問われアメリカに流刑になる話である。行った先はバージニアの農場だが、何とオーナーは以前働いていたスコットランドの貴族の所有地であった。最後は貴族の娘と新天地を求めて西の未開の地に向かう。トーマス・グラバーも職を求めてアバディーンを去ったが、似たよう姿に改めて当時のスコットランドの荒涼さが伝わってくる。

物語はこれから始まる所で終わってしまった感があるのはちょっと残念だが、ケン・フォレットは何を読んでも楽しめる作家である。主人公をマックと呼んでいたが、MacではなくMack McAshのスペルであったり、当時の文書偽造は縛り首の刑だったり、娼婦と言ってもとても人間的だったり、死刑に次ぐ刑がアメリカへの流刑だったり、当時ヴァージニアから西は未だ未踏の地であったり、発見も多かった。

Tuesday 24 July 2018

キリマンジェロの雪

人は死を予感した時に何を思うのだろう?昔の映画「キリマンジェロの雪(原題:The Snows Of Kilimanjaro)」は、そんな男の生きざまを描いていて面白い。主演はグレゴリー・ペック演じるアメリカ人の作家である。アフリカで足を負傷し壊疽になり、迎えの飛行機が来ないまま、傷はどんどん悪化し死期を悟るのであった。

その病床で夢に出て来るのは、過去の女性達であった。売れっ子作家とパリで生活していた頃、3人女性と付き合う。それは一見華やかだったが、結果はどれも挫折と別れであった。その苦い過去を振り返り、自身の不徳を顧みるのであった。作品を見ていると、それは作者のヘミングウェー自身と重なって見えて来た。自由奔放には生きたが、終わてみたら何も残っていなかった、そんな気持ちになったかどうか分からないが、彼は自身に向けてピストルの引き金を引いたと云う。

余談だが、世界の主要都市にハリーのバー(Harry`s Bar)がある。パリにもオペラ座近くにこの名前の店があり、今でもレ・ミゼラブルに出て来るような靴磨きの少年がいたり、中々歴史を感じさせる名店である。「キリマンジェロの雪」の主人公もハリーだったので、ひょっとしてヘミングウェー好みのパリジャンがその名を借用したのだろうか?そう言えば、高級ホテルのリッツのバーの名前もヘミングウェーバーだから、長く滞在している時に通ったのかもしれない。いつか誰かに聞いてみたい。

Sunday 22 July 2018

人間臨終図鑑

偉人の最後ばかりを集めた、山田風太郎の「人間臨終図鑑」があった。こんな本を読むような歳になったのかと、改めて思ってしまう。人の一生は棺桶の蓋が閉まるまで分からない、と言うが確かにそうだ。
 
歴史に名を残す人でも、晩年は病に苛まれる人は多かった。美食家の北大路廬山人は、魚の腐敗した臓物が原因で肝臓ジストマで死んだ。食を極めた過ぎて体を壊したようだ。ベートーベンも耳が聞こえなくなってからアルコール依存症になった。死因は肝硬炎だった。同じ作曲家のスメタナも聾者でこちらは梅毒だった。梅毒になると精神異常をきたし、今は無き人に手紙を書くらしい。また女性関係が縺れたまま世を去る人もいた。彫刻家のロダンは77歳の時に長年連れ添った妻と晴れて結婚した。しかしその一方で長年愛人だったクロデールは捨てられ精神病院に入った。そのクロデールの弟が駐日大使だったと知って身近な話になった。ヨハン・シュトラウスも晩年に愛人を作り、奥さんはそれを苦に自殺した。あの軽やかなワルツの陰にいろいろあった。そして川端康成、芥川龍之介、太宰治、そしてヘミングウェイは自ら命を絶った。そんな中で、元海軍大将の井上成美の清廉潔白な晩年は印象的だった。本では「孤高、瀟殺(しょうさつ)」という言葉が使われていた。

そもそも人の晩年だけ切り出して、横比較すること自体、凡そ乱暴な話である。しかしその終わり方で一生が評価されることも事実である。生きるのも大変だが、どう死ぬかも大事だ。

Saturday 21 July 2018

H君を偲んで

先日、旧友のY君から電話があった。「H君の一周忌で、お線香を上げに行くので付き合ってくれ」と言われた。我々3人は大学で一緒になったが、Y君とH君は九州から出て来た縁で特に仲が良かった。二人とも気骨があり酒の飲みっぷりも豪快だった。そんな事で、暑い中、雪が谷大塚のお宅に伺った。

道すがら、Y君は仏前のビールを数本買った。着くと奥さんが出迎えた。白髪交じりの品の良さそうな人だった。勝手し放題の人生を歩んだH君の伴侶らしく、慎ましい人だった。仏前に手を合わせると、亡くなったことがまだ信じられない気分になった。奥さんは。持参したビールのツマミを用意していた。暫し歓談すること一時間、故人の思い出に話は尽きなかった。立派に成長した2人の子供達の写真を見ていると、故人の若い頃の面影が蘇ってきた。そろそろ引き揚げようとすると、奥さんが「これからどこかいらっしゃるの?」と聞く。「ハ~ちょっと一軒寄って帰ろうかと思って・・・」と言うと、「それなら駅前の「とよだ」がいいですよ。私は行った事がありませんが、主人は良く通っていましたから・・・」と教えてくれた。

赤提灯が掛かる「とよだ」は、H君が好きそうな店だった。ここで彼は飲んでいたのか!、親子二代に渡り、労務一筋の仕事人だった。親分肌で人の面倒はよく見るタイプ、ただ頑固で唯我独尊、好き嫌いはハッキリしていた。転勤も10数回、殆ど単身で、奥さんが「思い返せば一緒に暮したのは半分ぐらいだったかしら・・」と寂しそうに話していたのが印象的だった。友が居なくなるのは辛い。合掌。

Sunday 15 July 2018

忠犬ハチ公の飼い主

お盆の季節である。迎え火を焚き、お墓参りに行く。猛暑の中、何か所も廻るのはきついものがあるが、これも生きていく生活の営みのである。

その一つ、青山墓地を訪れ、先祖の供養を済ませた。帰り道、ふと忠犬ハチ公の碑が目に入った。それは、飼い主だった東大の上野英三郎教授のお墓であった。昔映画で見た上野教授は初老の紳士だった。渋谷駅からの帰り道、ハチを連れて居酒屋で一杯やる姿は、定年前の渋さがあった。しかし調べてみると、氏が亡くなったのは53歳だったので、今から思えば随分と若かった事になる。

知らなかったが、ハチは教授が亡くなってから10年も渋谷駅に通い続け、碑が建ったのは9年目と云うから、未だハチが生存していた頃に出来た事になる。碑の建立は1934年というから、ヒットラーが総統になったり、日本がワシントン条約を破棄したり、戦争が近づいていた頃だった。当時の状況を考えると、号令一科で敵陣に突っ込む忠誠心と重なったのは容易に想像できる。余談だが、1934年は美智子妃が生まれた年でもあった。それが分かると、知らなかった過去がグッと身近になったのである。 

Friday 13 July 2018

学閥社閥のテニス倶楽部

暑さに耐えて走り回る夏のテニス、たっぷりと汗をかき、暑さと戦った一日はとても充実したものがある。何より終わってから飲む冷えたビールは格別だ。頭がボーっとしているのは相手も同じである。お互い湛えるより、その暑さを乗り越えた親近感で、ビールは更に旨くなる。

そのテニスだが、見た目の華麗さとは裏腹に、少し陰湿なところがある。軽井沢の倶楽部は、土地柄、「貴方は何方にお住まい?お爺様は何をされていたの?・・・」、そんな昔から住む別荘族の声が聞こえて来るようだ。また東京の名門G倶楽部では、昔から1番コートはレジェンドしか使えない不文律があった。うっかり迷い込むようだと、注意に来る人がいたが、今ではどうなのだろうか?その他のコートも学閥社閥がある。それを知らずに、ぶらっとベンチで座っているようなものなら、「何年のご卒業なの?」とか「何部にいるの?」と聞かれる。暫くしてXXコートは医科歯科大OB,XXコートは松下電器と分かり、部外者は練習ボード近くの3面に追いやられる宿命が待っている。

やはり、20年以上前に入ったクラブがあった。そこそこ名が通った所だったが、初日にボードで板打ちをやっていると、おばさんがやって来た。そして彼女から「貴方な3番コートね!」と言われた。それは1番でも2番でもないが、4番でもない腕舞という意味だった。嫌なことを言うな?と思ったが、それは体育会の名残で、序列を重んじる世界だと直ぐに分かった。今では流石に薄らいでいるが、そんな時代だったのかも知れない。たかがテニス、去れどテニス、ボールを追い掛けるのも中々大変で、よくここまで諦めないで来たものだと我ながら感心する。

Thursday 12 July 2018

チェコのカフカ

来月、チェコやポーランドを旅するので、下調べに余念がない。目的地の一つに偉人の生家とお墓がある。キューリー夫人、スメタナ、ドボルザーク、コペルニクス、そしてカフカなど、彼の地の生んだ作曲家、作家は多い。20年以上前だったか、ショパンを巡りポーランドの生家とパリのお墓を訪れた事があった。それが切っ掛けで、点と点が繋がり身近な人になった。今回も、それに綾香って偉人との距離を埋めようと思っている。

そういう事で、取り敢えずカフカから読み始めている。彼の生家とお墓がプラハにあるというので楽しみにしている。その代表作の「変身(原題:Die Verwandlung)」は若者がベットで眠りから覚めたら動物になっていた、という幻想の話である。主人公は「今日も学校、会社に行きたくない、いっそ人間を止めてしまおう!」というサラリーマンの嘆きに似ていて、現実から逃避してしまう。心配して勤務先の上司が来たり、最後は対称的で真っ当な妹が青春の輝きを放つシーンで終わるなど、今と同じような光景である。

しかし作品は正直とてもつまらない。どうしてこれが評価されているのか良く分からない。1915年という時代の作品だったからだろうか?帝国主義が闊歩する中で、既成外の生き方は特殊だったのかも知れない。これから「審判」「アメリカ」なども読んでみようかと・・・。

Saturday 7 July 2018

フランス人の見た日本

あまりフェースブックはやらないけど、時々面白い話が入って来る。先日もフランス人のDさんから、日本のバス会社のストの記事に「いいね!」が来た。バス会社の従業員はストをする代わりに、バスを無賃で走らせた。どうやら岡山市の話のようだが、ストライキが国民的な行事になっているフランスにとっては、ちょっとした驚きのようだった。バス会社にとって出費は痛手だが、日本人は物事を上手くやっていると好意的だった。

外人から見た日本はまだまだ発見が多いようだ。やはりあるフランス人の印象では、蕎麦を食べる時や鼻をかむ時に音を出す習慣は驚きだし、仕事時間が長いことやタバコを公共の場で公然と吸っている光景も異常に映るらしい。またちょっと日本語を話すと、どこに行っても「日本語上手ですね」と言われたり、日本人女性の甲高い声にも違和感を持つようだ。サッカーのワールドカップでのゴミ拾いは有名になったが、日本の都市はゴミ箱が少ないためか、ゴミが落ちているのも気になるらしい。ただ誉め言葉の語彙が多いのは感心するらしく、可愛い、凄い、美味い等の使い分けは日本的という。

それにしても、未だに言われてみて初めて気が付くことが多い。

Friday 6 July 2018

チェンライの電力

救助を待つタイの洞窟は、チェンライの近くだという。タイ北部はラオスとミャンマーと国境を接する、あの黄金のトライアングルと呼ばれる地域だ。経済的には貧しく、山岳民族と呼ばれる人たちが住んでいる。昔、その人達と同じ飛行機で同乗した事があったが、背丈はとても小柄で独特の雰囲気だった。そして何より、この地域の女性は色白で美しい。

そのチェンライから南西に180km程行った所にチェンマイがある。今はどうか分からないが、随分前に通っていた時は、バンコックと違って田舎の風情がある町だった。人々は暑い日中を避け、夕方になると活動し始める。夜店は賑やかで、多くの観光客で賑わっていた。その電力を供給するのが地元のメクワンダムである。山を堰き止め、この地域の電力を賄っているが、実は日本が140億円を出したODA事業である。

今回の事件でイギリス人ダイバーは登場したが、まだ日本の顔が出て来ない。しかしひょっとして、24時間照らし出されている明かりは、そのダムから来ているかも?と期待している。兎も角、何とか救出に漕ぎつけて欲しい。

Thursday 5 July 2018

神秘的な洞窟

タイの洞窟で子供13人が取り残されているという。連日の報道を見ていると、否が応でも救出して欲しい気持ちになる。きっかけは水位が急に上がって、引き返せなくなったらしい。

昨年訪れたスロヴェニアの世界遺産、シュコツィアン鍾乳洞でも同じような現象があった。中に入ると大きな空間があり、40~50m下には川が流れていた。静かな洞内で川の流れる音だけが聞こえた。見ると雨季に水位が上がった地点にマークがあった。それは人が歩いているより更に高かったので、改めて流れ込む水量に驚いた。洞窟を歩く事10Km,最後はエレベーターが壊れたいた事もあり、150m程の登山となってやっと地上に戻った。とても老人だったら無理だと、洞窟ツアーには体力が要るのを実感した。

洞窟は旅の魅力的なスポットである。ブルガリアのBacho Kiroという洞窟では、46000年前のスキタイ人に会うことが出来たし、フランスのピレネー地方のGargas洞窟では、発掘された時、長年探していた殺人犯の遺骸が発見されたという。あのブルーチーズも、僧侶が洞窟に置き忘れたチーズを探しに行くとカビが生えていたのが由来だ。神秘的な場所だが、どこも田舎だけに人気がないので中に入ると怖い。

Wednesday 4 July 2018

今というニス塗り

W杯で日本がベルギーに惜敗した。最後に一瞬の隙があったのだろうか?まさかの失点になってしまった。それにしても2点リードしていただけに、残念の一言に尽きる。前半は強い相手に良く粘った。解説者も言っていたが、相手を研究していた成果が随所に見られた。それが後半、予想外のリードをした頃から守りが甘くなった。確かにベルギーも戦術も変えて来たようだが、あれから流れが変ってしまった。

その悪夢から一夜が明けた。誰もが寝不足の一日だったようで口数も少ない。今更何を語るのも空しい気がする。特に歳を取って来ると、それが不思議と随分昔の事のように感じる。感受性が鈍くなっただけでなく、処世術に長けて来たのかも知れない。

ヒトの嬉しい記憶はいつまでも残るが、苦い記憶は逆に薄らぐと言われている。誰かがそれは記憶の上塗り効果と言っていた。苦い体験があると、ヒトはその記憶を消し去りたいと、今と云うニスを何回も薄く塗って行く行為である。それは人間の生存本能みたいなもので、いい思い出だけが残り、苦い過去が閉じ込められるのである。今回の事は暫く頭から離れないが、やがて気が付くと又4年後に向けて準備する姿が見られるだろう。