Thursday 31 October 2013

住み易い日本

日本の食文化は世界一である。値段も沙流ことながら、その質とバリエーションは稀有なものがある。代表的なのはラーメンだ。たかがラーメン、去れどラーメン、その味に込める人々の情熱は凄いものがある。ラーメンでしてこの競争力、底辺のしっかりした日本の食文化を象徴している。

人は衣食住でバランスを取っている。日本の国土は狭いので、住は諦めて食と衣に注力している・・・と思っていた。ミシュランが本場フランスを凌ぐ星を得ているのは当然だし、ユニクロの登場も然り、しかし住宅環境は諦めていた。ところが、そうでもないらしい。

久々に昔の職場仲間と焼き鳥屋に行った時のことだ。オープンスペースの、どこから見てもこれ以下ない店であった。話が弾んだ頃、隣にアメリカ人2人が入ってきた。聞くと流暢な日本語で「焼酎梅入り、枝豆とつくね2本・・・」とオーダーしている。どうやら長年日本に住む英語教師だそうだ。ウェルカム!から始まり意気投合すると、日本や住み易いという話になった。駅から10分以内の1DKで6-7万円に住んでいるというが、それはNYの家賃の3分の1だそうだ。飲み代もマンハッタンでちょっと飲めば70ドル、7000円の世界に比べて東京は安いという。デフレの影響もあって日本は結構いい水準まで落ちて来たせいかも知れない。ともあれ外人に住み易いのはいいことだ。

Monday 28 October 2013

岩谷時子さんに感謝

作詞家の岩谷時子さんが亡くなった。岩谷さんは私の大好きな作曲家、弾厚作の歌詞を長年作っていた。もうかれこれ50年も続いているだろうか、多くの曲を作ってくれた。その一つのフェアウェル(今は別れの時)の一節、別れの時が来たようだ。

以前からどうやってその作詞をしたのか、不思議だった。その過程はあまり知らされていなかったし、それにしては弾厚作の生き様、タイムリーな気持ちを良く引き出していた。でも段々、弾厚作が自身の思いを語り、それをジーと聴いてある時歌詞にして持ってくる、そうやって曲を作っていたと思えるようになった。自分でも分からない自身の気持ちを形にしてくれる、正にプロの通訳のような人だった。

この人の歌詞がなかったら、弾厚作の歌もなかったし、私の節目のバックコーラスもなかった。そう思うと、とてもとても感謝する気持ちで一杯だ。岩谷さん、今まで長い間・・・思い出くれてありがとう!




Sunday 27 October 2013

ジプシーとキリスト

あるフランス人と話していたら、ロマ人ことジプシー(仏語でGitan)の話題になった。欧州には1000万人を超えるジプシーがいる。昔は違法に入国していたのが、2007年にEUに加盟して以降、堂々と来るようになったという。その多くはルーマニアとブルガリア人だ。代々の盗みを職業にしているため、当然人種差別の対象になっている。そのジプシー、フランスのカマルグ(Camargue)にも居るというので興味を持った。

カマルグはプロバンス地方の湿地帯にある。近くに闘牛で有名なアルルの町があるが、昔はそこに牛を納めていた地域だ。ジーンズのデニム(Denim)は近くのニーム(Nimes)の町が語源であるが、確かにこの辺は放牧に携わる人が多かったようだ。そのせいか、今でもカマルグには白い馬が多く放牧されている。その他、フラミンゴやフクロウなど、野生の動物も有名だ。

そう言われてみると、確かに毎年夏に各地からジプシーが集まる祭りが披かれる。「黒いサラ」と呼ばれる聖女を偲ぶのが名目だ。サラはエジプトからやっていた娘である。それを聞いて思い出しのはマグダラのマリアだ。ダ・ビンチ・コードにも登場するが、キリストの子を宿った女性がエジプトから逃れれて今のプロバンスに上陸、そして密かに保護されながら今日に至っているという話だ。ジプシーとキリスト、全く正反対の二人がどこかで結びつこうとしている。


Saturday 26 October 2013

雨の蕎麦屋

雨と聞くとホッとする。晴れればテニスだジョギングだと、長年の習慣で急き立てられるからだ。その点、昨夜からの大型台風は諦めもついた。そう思うと、急に昼から酒が飲みたくなった。

久々に近所の老舗の蕎麦屋に行くことにした。粋な日本庭園の鳥居と苔の生えた風情が、とても落ち着く店である。例によって剣菱の升酒から始める。やはり昼から飲む酒は格別だ。寒くなったので、湯豆腐を頼む。徐々に混んできたが、雨のせいか心持静かな感じがする。途中から温燗に切り替え、3合ほど飲んだところで蕎麦を頼む。少々高いが、今日は胡麻だれせいろにした。何とも言えない上品な味だ。そしてここは蕎麦湯がとても美味しい。

店を出る頃には雨も上がっていた。時々はこうして襟を正し、昼からグルメ三昧するのもいいものだ。

ミッドウェー海戦

決して戦争オタクとは言われたくないが、年を重ねるにつれ、DNAは隠しようがなくなってきた。柳田邦男の「零戦燃ゆ」を夢中で読み漁る内に、ミッドウェー海戦が出てきた。真珠湾から優勢だった日本が、一瞬にして空母4隻と飛行機200機以上を一挙に失った歴史の転換点だ。

もしもあの時、最初の通り魚雷を装着していれば、南雲司令長官でなく他の指揮官だったら、と何度思ったのは私一人ではないだろう。最近読んだ本でも、ベストセラーの「永遠0(ゼロ)」、「淵田美津雄自叙伝」、ケン・フォーレットの「Winter of the world」などにも出てくる。永遠のゼロの作者は、南雲は実践経験がない人だと言うし、真珠湾の飛行隊長だった淵田はズバリ指揮官の資質に欠けていたと酷評している。またケン・フォーレットはひょっとして映画「Midway」を見て書いた?と思うほど、正確に定説を再現していた。

仮にミッドウェー海戦で勝利を得ても、その後の物量で凌駕されていたと考えるか、この勢いで和平に持ち込んだか、それは分からない。ただこの一戦を境に日本は敗戦の道を進み始め、結果として多くの人が命を失ったことは事実だ。今日満員電車に埋め込まれるのも、高いお金を払ってゴルフするのも、果ては満州という大きな国土を失ったからかも知れない・・・とは思わないが、今更ながら悔いても悔いてもお釣りが来る一戦だった。

Thursday 24 October 2013

パブ仲間からの便り

エストニアのパブ仲間から久々にメールが来た。このブログでも何度か紹介したMさんだ。Mさんはスイス人、ホテルのマネージャーだったが、仕事の関係でエストニアに滞在したのを縁に住み着いた。

ところが今年、定年を契機にスペイン領のテネリフェ島に移住した。寒いバルト海から、暖かなカナリア諸島は楽園のようなだと言っていた。気候も沙流ことながら、毎日ビキニ姿の女性が取り分け気に入っていたようだ。歳はとっても好奇心は旺盛で、その世界の隠語の権威だった。よくエッチな言葉を日本語で何ていうのと聞かれて、返答に窮したものだった。

ところが半年経って流石に見飽きてきたのか、またエストニアに戻って来たという。曰く、やはり世界で一番美しいのはエストニアの女性だと。寒くて然したる娯楽もない国だが、その何もない世界は、本国スイスと通じるものがあったのかも知れない。彼はスイスに自宅があるので、勿論クリスマスは本国で過ごす。ヨーロッパには、こうして渡り鳥の生活をしている人が多い。

クラーク博士の喝

秋の札幌を訪れた。14度と東京の服装ではやや肌寒く、既に冬の気配がした。道庁から北大の構内にかけて散歩してみた。秋の薄い日差しの中、ポプラ並木の紅葉が美しかった。

構内にはクラーク博士の銅像があった。我々にとっては、「少年よ、大志を抱け!(Boys, be ambitious!)」の言葉で有名な人だが、調べてみるとたった8か月しか北大にいなかったようだ。そんな人が創業者のように、語り継がれてることに何か不自然なものを感じた。また学生を前に、本当にそう言ったかどうかも怪しい。

北海道、取り分け札幌は昔から役人が多いところだ。加えて長い冬は人を家の中に閉じ込めるので、決してチャレンジ精神に富んでいるとは言い難い土地柄である。因みに電力会社は全部で沖縄を入れ10社あるので、これを比較すると土地柄が分かる。南の九州、中国、四国の会社は、東電、関電に習おうとキャッチアップ精神が旺盛だ。それに反し、北陸と北海道は慎重というか保守的というか、話していてどうもノリが悪い。北海道の人を悪く言うつもりはないが、そんな人たちを見てクラーク博士は喝を入れたくなったのではないか?先の言葉の意味も本当は、「君たち、もっと覇気を持って!」だったのではないか?構内を歩いていてそんな気がしてきた。

Tuesday 22 October 2013

特定機密保護法案を巡って

特定機密保護法案の議論が熱を帯びている。確かに今まで何もなかったこと自体が驚きだ。マスコミは、「国民の知る権利が脅かされるのは問題だ」と反論する。戦時中の言論統制と重ねる人が多いからだ。勝っていたと思った戦争が、一転して戦争が終われば「私達を騙しておいて・・・」という記憶が生々しい。

一方で情報が何でも公開されるとどうなるのか。今の全国学力テストがその典型的な例だ。試験はやったが、多くの県で公開を拒んでいるという。傍から見ていて、一体何のための全国試験だったのかと思う。点数が低ければ頑張ろうと思えばいいし、何を尻込みしているのだろう。人は何でも知りたいと主張するが、自分の都合が悪くなると急に尻込みする。それは何も政治家に限ったことではない。

裁判員制度もそうだった。民間から選ばれた裁判員が犯罪者を裁く立場に付くと、多くに人が心や体調を崩したと聞く。本音は「出来れば聞かないで済むならそうしたい」だ。とても難しいが、日本人は人と向かい合うのに慣れていない。保護法案は輸入物である。それを咀嚼する強さがないと、何も始まらない・・・。

Sunday 20 October 2013

台風は左回り

連日、台風が日本列島を襲う。今回は大島で大きな被害が出ている。気候変動の影響か、はては最新の気象コンピューターで精度が向上したせいか、以前にも増して報道が活発になっている気がする。

テニスクラブで雑談していたら、その台風は左回りだという話になった。北半球では左、南半球の台風(サイクロン)は右回りだという。風呂の栓を抜いても、日本では左回りの渦が出来ると聞いて早速実験してみた。確かにそうだった。して南半球は渦が反対に回るという。どうやら地球の回転の関係らしい。

また台風の進路についても、気象庁とアメリカの情報は微妙に違うらしい。アメリカは軍事上の配慮なのか、日本のそれより北を通る経路を予想するという。空に詳しい友人のNさんは、毎日これを比べては首を捻っている。

Saturday 19 October 2013

別府のアルゲリッヒ

仕事仲間のYさんが「これ聴いてみない?」とiTunesを貸してくれた。音楽談義で盛り上がったマルタ・アルゲリッヒのピアノだった。それも日本の童謡を奏でる、珍しいシリーズだった。「いいね!」と返すと、そうでしょとばかり、日本で録音された逸品だという。童謡をジャズで聴いたことはあったが、巨匠が弾くピアノは初めてだった。静かでとても心が落ち着く不思議な旋律だった。

アルゲリッヒは1969年にショパンコンクールで優勝し有名になった。それから確か3-4年して来日、当時上野の文化会館に足を運んでいた者として、その演奏会は強烈な印象だった。演奏が終わり、自宅に着くまで呆然と余韻に浸っていたのを、昨日のことのように覚えている。それから20数年してパリでも聴いたが、最初ほどの迫力はなかった。

誰かが彼女には子供が3人いるが、父親は皆違うと言っていた。波乱に富んだ人生を、温泉で癒している訳でもないだろうが、別府を気に入ってくれて嬉しい限りだ。先の童謡もそこで録音されたようだ。

優勝で知る世界

先日の体育の日、とあるゴルフコンペに参加した。秋晴れの下、100人を超えるゴルファーが集まった。18ホールのストロークプレーで、終わってみれば40%が80台、62%が100を切るハイレベルな戦いだった。その中で、優勝したのはチームで参加した団塊世代の男性だった。1年分のビールと肉の詰め合わせを賞品にもらい、それは嬉しそうだった。

壇上に上がった男性は一言「やったー!」と叫んだ。童心に返り、それはいい表情だった。一緒の参加した仲間から、「同伴者に恵まれて・・・」の挨拶がないとヤジが飛び、慌てて言い直すと大受けしていた。チームからは女性のベスグロがでるなど、確かに素敵なゴルフ仲間の存在があったようだ。傍から見ていて絵になるような人達で、正直羨ましかった。

思えば自分も、「この10年で何が一番嬉しかったか?」と聞かれれば、こうして祝福されたことだ。数年前だったか、テニスクラブのシングルスで優勝した事があった。60名ほどのドングリの背比べの戦いだったが、暑さと雨を含んだコートで球足が遅くなったのが味方して、勝つことが出来た。まぐれとは言え初めて立った頂点だった。祝勝会には100名を超す仲間が集まり、初めて人から祝福されるのがこんなに幸せなことかと知った。優勝は滅多にないが、それだけにチャレンジする価値はあると思う。何より勝って初めて見る世界がある。

Thursday 17 October 2013

僕らはアンパンマン

漫画家のやなせたかしさんが亡くなった。「手のひらに太陽を」の作詞も手がけたとは知らなかったが、その代表作アンパンマンは多くの人に影響を残した。

私はアンパンマン体操の歌が好きだ。「もしも自信をなくして挫けそうになっても、いい事だけいい事だけ思い出そう!」のフレーズがとても気に入っている。今でも何かあると口ずさんでは元気になる。一昔前はひょっこり瓢箪島があった。やはり、「苦しいこともあるだろう、悲しいこともあるだろう、だけど僕らは挫けない、進めひょっこり瓢箪島!」の歌だ。

やなせさんは、生きる続けることの大切さを生涯訴え続けた人だ。その執念はどこから来たのだろう。一説に弟さんが学徒で出征し、特攻で亡くなったと聞いたことがある。その戦争体験が、美味しいパンを主人公にした話にも繋っていたらしい。アンパンマンは日本の子供なら誰でも潜る門だ。バイキンマンをやっつけるアンパンチを経て男の子は大きくなっていく。そして大人になっても純粋な子供時代を忘れないように、土産を残してくれたのがやなせさんだった。アンパンマンは今の僕らでもあるのだ!

Thursday 10 October 2013

ロンシャンの競馬場

随分前になるが、会社の後輩から電話があり、今度パリに出張で行くんですよ!と連絡があった。彼は大の競馬好き、ついては競馬場を見たいという。私は馬には乗るが、競馬は全くの門外漢だった。ただ下見と称して、近くのロンシャン競馬場に行ってみた。

休日だったか、次から次へと出走するレースが行われていた。華やかな紳士淑女とは無縁の草競馬だ。試しに馬券なるものを買ってみた。確か当時の10フラン(200円)だったか、簡単に買えて庶民の娯楽といった印象だった。そのロンシャンで、今年も凱旋門賞(Prix de l'Arc de Triomphe)が拓かれ、日本から出場したオルフェーブルが2着に入った。2400mの長丁場、中々勝てない鬼門だそうだ。現地まで出向き残念がっていた人がいたが、最高峰の大会らしい。それにしても地球の反対側に馬を運ぶだけでも、どれだけお金が掛かかることやら・・・。

ロンシャンはブーローニュの森にある。近くに小さな滝もある散策地である。またパリ市の北にはシャンティー競馬場もある。こちらはミシュランの3つ星が付いているお城に隣接している。コンデ伯の美術品と、屋内で馬のショーが見れる厩舎は高級感に溢れている。ランブイエやフォンテンブローの森では、馬の遠乗りが楽しめる。この辺は馬と身近な環境に溢れ、羨ましい限りだ。

Wednesday 9 October 2013

ゴルフのレッスン

最近、会社の帰りにゴルフレッスンに通っている。ビルの一角にモニター付きの練習レンジが並ぶ。狭い空間だが、フォームが直ぐにチェックできるハイテクは有難い。長年クラブを握っているので、コーチのワンポイントアドバイスで十分だ。左足は踏み込んで、頭は残して、肩は入れて、両腕の返し、打球はフック気味に・・・等々、今更だが目からウロコの連続だ。

生徒はやはり女性が多い。それも中年である程度キャリアを積んだ人々だ。更なる上を目指しているのか、皆真剣に聞いている。レッスンを初めてから、2回コースに出てみた。短期間だが効果は抜群だ。ボールをコントロールできる感覚に、初めてゴルフの醍醐味が伝わってきた。

ゴルフはセオリーのスポーツという。正しいスウィングは確実にスコアに繋がる。もっと早く習えば良かったか、と言うとそうでもない。この歳まで伸び代を取っておいたのだ。

Tuesday 8 October 2013

三途の川

毎晩の晩酌、いい気持ちになって杯を重ねる。2杯が3杯、次第に論が達者に成り始めるとそろそろ危ない。後は失礼とばかり根城に潜り込む。一日の適度な疲労とその酒慰労が混ざり合い、一人勝手に眠りの谷に落ち込んで行く・・・何と快いことかと思う。

食欲、保身欲、支配欲、防衛欲、性欲、虚飾等々、煩悩を邪魔する多くの欲望、人間は毎日が修行である。中でも睡眠欲は避けがたい誘惑だ。それを死神と言う人もいたが、打ち勝ってこそ今があると多くの先人が残していた。

旧友のM君と久々に会ったら、先日臨死体験をしたという。50歳半ばからマラソンを始めたM君だったが、この夏レースに出た時に、ゴールまであと僅かで意識を失ったという。本人は覚えていないが、どうやら熱中症だったようで、気がつくと病院のベットに横たわっていた。その時、面白い体験をしたという。それは無意識の最中、2つの質問をされたと云う。それが何だったか覚えていないようだが、1つはとても厳しい質問、もう一つは優しくかつ誘惑がある質問だったという。結果は、どちらもとても難しかったので答えられなかったという。三途の川ではないが、あの世とこの世の境がやはりありそうだ、そう思った話だった。

Monday 7 October 2013

松岡修造の特訓

TVを点けたら、松岡修造の「炎の体育会」をやっていた。小学生にテニスを特訓する番組で、ついつい見入ってしまい、最後は貰い涙してしまった。

松岡は慶應の幼稚舎からテニスを始めたお坊ちゃんだ。お父さんは東映社長、かつてのデ杯選手だったが、社業に専念するため、卒業後テニスから遠ざかったという。その子供が、慶応高校から柳川商業に移った時の心境はどんなものだっただろう。単に松岡の「テニスが強くなりたい!」の一心が、親の反対を押し切った。今でもこうして子供たちを本気で叱咤するのは、こうした自身の体験があったからこそだ。

松岡の話し方は厳しいが、とても優しいものがある。そして純粋で、人を包み込む温かさがある。レッスンを見ていると、ある程度走らせておいて、苦しくなった頃を見計いペースを上げて限界まで追いやる。続けるかは子供に選択させ、子供が殻を破ったところで両親にバトンタッチする。中々上手いなと思う。確かに勝負は疲れが出てた頃に始まる。やはり勝って初めて見えてくる世界がある。それを知って欲しいのだろう。


Sunday 6 October 2013

象のリンチ

先月のル・ポアン誌に、象の事件が2つ載っていた。どちらもアメリカで起きた事件だが、一つは1885年9月のこと。象の名前はジャンボといい、スーダン生まれで20歳になるまでロンドンのサーカスの人気者だった。メスを見ると暴れ出し手に負えない性癖もあった。それから二ューヨークに渡り、全米で3年間で9百万人の人が訪れる人気を博した。ところが夜間列車に乗り換えている際に、ランタンをつけ忘れた係員のミスで、列車に跳ねられ死亡した。
 
もう一つは象のリンチというショッキングな事件だった。時は1916年9月テネシーで起きた。マリーという名の象だったが、ある時飼育係が大好物のメロンをやっていた時、誤って同僚が調教用の棒で耳を突いてしまった。象は暴れ挙げ句、飼育係に圧し殺してしまった。それを見ていた観客が「象を殺せ!」と叫び死刑が決まった。刑は前代未聞の象の縛り首だった。100トンの大型クレーン車で引き上げられた象は、最後まで何が起きるのか分からず大人しかったという。当時の社会ではリンチはユダヤ人、黒人、インディアン、王など、珍しくなかった背景もあったようだと述べている。

象は体が大きく分、目は優しく何か寂しさが付き纏う。最近は動物に接することが少なくなっただけに、やけにこうしたアナログな記事が印象に残った。

Thursday 3 October 2013

流れが変わる一打


楽天オープンの初戦で錦織選手が逆転勝ちした。相手はオーストリアのメルツァー、ファーストセットを落とし、セカンドセットも5-2とリードされながら逆転した。本人も終わってからあれは負けるかと思った試合だった。転機になったのは一本のリターンショットだった。深い角度で入ってきたサーブを振り抜き、見事ノータッチのエースが決まった。この一打を境に力みが取れたという。



見ていて思い出したのは2011年の全米オープン準決勝だった。前年に続き、フェデラーとジョコビッチの一戦だった。セットカウント2-2で迎えたファイナルセット、5-3で王手を掛けたのはフェデラーだった。スコアは40-15、フェデラーがマッチポイントを握り、しかも彼のサービスだ。誰もがフェデラーの勝利を確信した、その時だった。ジョコビッチの一か八かのリターンが決まり40-30,それに動揺したフェデラーが何とダブルフォルトしてジュースになり、最後はこのゲームを落としてしまった。これで流れが変わり、ジョコビッチが7-5で逆転した。


テニスの試合には流れがある。精神的にどちらが優位に立つか、それで勝敗の70%が決まる。ただずっと維持するのは難しいので、アリの一穴ではないが、少ないチャンスを物にすれば流れが変わることがある。今回の一打はそれを見た気がした。

Wednesday 2 October 2013

「風立ちぬ」を観て

宮崎駿監督のアニメ映画「風立ちぬ」を観た。「風立ちぬ」は堀辰雄の小説から、少女の名前も続編「菜穂子」から引用している。結核の療養を舞台にした物語だが、原作はトーマス・マンの「魔の山」、タイトルはフランスのポール・ヴァレリーの詩の一節である。だから映画はコピーのコピー、と云っては失礼だが事実だ。

映画は堀越二郎の半生を描いていた。昭和初期の日本の風景、人々が描かれていて興味深かった。ドイツのユンカース社に見学に行ったシーンも面白かった。ただ美しい画像と美しいストーリーは、ややもすると本筋から外れてしまった感があった。

ゼロ戦については、先日柳田邦男著「零戦燃ゆ」を読んだばかりだ。連日のように10機、20機と失っていく様は、今更だが身に詰まされた。それでも月間200機は作っていたというのも驚いた。正に日本全土が消耗戦の時代だった。通俗的でもいいから、零戦をテーマにするなら、その生々しさを描いて欲しかった。

Tuesday 1 October 2013

山崎豊子さんを偲ぶ

作家の山崎豊子さんが亡くなった。山崎さんといえば、「沈まぬ太陽」や「白い巨塔」など多くの小説を書いた。不条理の社会にあって懸命に生きる姿は、読者に大きな力を与えてくれた。昨今のナイロビの乱射事件で真っ先に思う浮かんだのは、沈まぬ太陽の主人公だ。また病院で巡回する白衣の先生を見ると、つい財前教授を思い浮かべてしまうのは、私だけではなかったはずだ。


中でも印象深いのは、「大地の子」だった。原作をTV化したものも取り分け良かった。印象深かったのは、主人公が左遷され、中国奥地の発電所に飛ばされた時だった。そこで働いている人の多くは左遷、島流しに遭った人達だ。皆無口で、それを称して「化石のような人」と言っていた。中々いい表現だと感心した。
  
化石の人は、刹那的で何事にも無関心だ。例えば「美味しい物を食べに行こう」と言っても、「どうせ最後は出てしまうので、何を食べても同じだよ」と言う。「体のために運動したら」と奨めても、「どうせ疲れるだけだよ」と返ってくるし、「寒くなければいい」とオシャレする訳ではない。一体何を考えているの分からない・・・長年そう思っていた。ところが最近は歳のせいか、そうなったのもまた原因があるのでは、と考えるようになった。執筆途中の作品があると聞いて、とても残念だ。