Saturday 31 August 2013

平成の生麦事件

生麦事件は1862年9月、島津藩の大名400名が江戸から戻る時に起きた。通ったのは馬に乗った英国人4名、大名行列に突っ込み、無礼を働いたと一人がその場で切られた。時は尊王攘夷の最中、それがきかっけで薩英戦争が起きたという。その時、傷を負った英国人が駆け込んだのはアメリカ領事館のヘボン博士、後のヘボン式で有名な明治学院の創始者、正に時代は文明開化前夜だった。

今の生麦は川崎、鶴見と並ぶ工場地帯である。港湾労働者が多く、昼から酒を飲んでいる。ある時養老乃瀧にランチに入ったら、多くの男たちが昼から酒を煽っていたのには驚いた。中華料理屋も多く、どこも安くて量が多い。ただ一方で「水は未だか、料理が冷めている!」と、大声でケチを付ける輩が多い。兎も角荒々しく、丸の内・大手町とは雰囲気が違う。

 今年は良くキリン生麦工場に飲みに行く。やはり作りたての味に勝るものはないと、遥々電車タクシーを乗り継いで行く。ところが辺りは真っ暗な工場地帯である。ある時の帰り道、ほろ酔い気分で歩いていると、自転車が物凄い勢いで突っ込んで来た。思わず「危ないな!」と避けると、乗っている男が「避けるのはそっちだろ!」と、自転車を降りて向かって来た。幸い周囲の人に助けられたが、危うく第2の生麦事件に発展しそうだった。

Thursday 29 August 2013

メルケル首相のダッハウ訪問

先週、ドイツのメルケル首相がダッハウを初めて訪れたという記事が載っていた。ダッハウはミュンヘン郊外の元収容所(Dachau Concentration Camp)である。彼女の親はアウシュビッツの犠牲者だっただけに、初めての訪問とは意外だった。またビールテントと称する選挙キャンペーンと重なっていたので一部から非難が出ていたが、大きな問題には発展しなかった。

ダッハウは当時3万人を収容していた収容所である。周囲の住民はその事実さえも知れされず、戦後解放された時には、遺体の処理を手伝わされショックを受けたという。映画「Band of Brothers」にもその解放シーンが出てくる。私も2度ほど訪れたことがあったが、正に住宅地に隣接したいた。アウシュビッツのように当時の遺品を残している訳でもないが、一度壊したバラックはその後再建された。中でも犇めくベットとトイレ、片隅の焼却炉は、当時の面影を残している。広い敷地は静かなだけに、亡霊の声が聞こえてくるようで気味が悪かった。

ドイツの第2次大戦に対する反省は未だに続いている。それは国内に歴史の爪痕が残っているので、目を背けることが出来ないからだ。来月はミュンヘンでビールの祭典オクト-バフェストが披かれる。人々は、過去と現在が共存した中で生きている。

Tuesday 27 August 2013

「終戦のエンペラー」を観て

暫く前に、映画「終戦のエンペラー(原題:Emperor)」を観た。あまり期待していなかったが、アメリカ映画だったのでストレートで、終戦直後を描いた日本も新鮮だった。映画のタッチは、日本芸者を描いた「Sayuri」や「太陽の帝国」、「ラストサムライ」に近かった。後で調べてみたら、案の定、日米作品を手掛けた奈良橋さんという演出家の手が入っていたようで納得した。



興味深かったのは、御前会議でポツダム宣言受諾が決ってからの皇居だった。占領下にも拘わらず、そこだけ聖域になっていたのに驚いた。陸軍が玉音放送を阻止しようと、皇居に乱入した場面も良かった。映画「日本の一番長い日」を彷彿させた。またマッカーサーが来て軍備の解除が始まったが、処分されていく飛行機、武器は単に何故か鉄くずに見え空しかった。

主役のマッカーサーやフェラーズ准将役も良かった。しかし日本人女性を演じた初音映莉子という女優は、表情に自信がなく、とてもアメリカ人を相手にする力がなかった。知性もなくミスキャストだった。それにしても、あの時天皇の戦争責任を問うて裁判に掛けられていたら・・・その後の日本はどうなったのだろうと思わせる映画であった。

Monday 26 August 2013

ミリタリー・タトゥーの軍楽隊

旅も終わりエジンバラに戻ってきた。この季節、エジンバラは音楽祭で賑わっている。友人のM君がミリタリー・タトゥー(Military Tattoo)は是非見るべきだと言っていたのを思い出した。ミリタリー・タトゥーはスコットランド軍楽隊のパレードある。世界から多くの観光客が訪れるので、1年前から予約しているという。誰に聞いても「今頃そりゃ無理だよ」と云われたが、そう言われると逆にファイトが湧いてきた。

夕方、下町で其れらしき怪しげな男に「チケット欲しいんだけど、勿論弾むよ!」と小声で耳打ちする。すると「それはあの男に聞くといい」と次々に仲間を紹介され、結局開演1時間前にチケットをゲットすることが出来た。値段も一人37ポンドの処、50ポンドなので許せた。して9時からの開演に滑り込んだ。

ミリタリー・タトゥーの意味は、軍隊の入れ墨かと思ったら太鼓という。キルトで正装したスコットランド兵がバグパイプで演奏する、それは絵巻物のような美しさであった。曲も御馴染のスコットランド・ザ・ブレーブ、関係なくても血が騒ぐ。観客のお国柄も様々で、地元のイギリス始めアメリカ、カナダ、オーストラリア・・・と大英帝国が続く。スイス人、中国人も多かったが日本人は少なかった。余興にメキシコ、NZ、モンゴル、そして何故か韓国の軍楽隊が友情参加していた。見終わるとナショナリズムが頭を擡げ、ちゃんとした日本の軍楽隊が欲しくなったのだ。

Sunday 25 August 2013

グレンコーの末裔

フォート・ウィリアムズ(Fort Williams)の町は読んで字の如く、昔はイングランドの駐屯地であった。その関係で昔、近くのグレンコー(Glencoe)の谷ではスコットランド史上に残る大きな事件があった。2年前にそれを知らずに通り過ぎてしまったので、後悔していた。今回は朝早く行っては見たものの、深い霧に包まれていた。
グレンコーは雄大な谷に囲まれた緑の宝庫である。今では野生の動植物が生息する場所としてトレッキングに多くの人が訪れる。しかし一方で、血生臭い歴史のスポットでもある。1692213日、厳冬の最中、村の住民38名がイングランド兵に虐殺された。年末までにスコットランド人がイングランドに忠誠の著名をする指令が出ていたが、頭領のマクドナルドが山を降りるのに時間が掛ったためである。着いた時は担当官が休みで、著名がまた遅れたのも不運だった。虐殺はその報復であった。未だに引き摺っているのは、兵の駐留が何日も続き、村中がハイランド流儀に沿って温かい食事と住居を提供したにも拘わらず、事件はある日突然起きたことだった。

今回訪れて面白いことを発見した。それはその時辛くも生き延びたマクドナルドの末裔の話だった。彼の子孫は200年後の1838年にアメリカに渡り、ハドソン湾株式会社に就職した。そしてインディアンの女性と結婚し12人の子供を儲けた。ただ時はカスター将軍率いる騎兵隊とインディアンの戦いの最中、多くのインディアンが殺されるのを見てきた。親子共々インディアンと結婚、当時の状況をスコットランドと重ねたという。現在モンタナ州のグレーシャー国立公園の湖は、その名を取ってマクドナルド湖というらしい。スコットランド民謡が哀愁に包まれているのは、この事件があるからだ。

Saturday 24 August 2013

フォート・ウィリアムスの宿女将

スカイ島からローモンド国立公園(Loch Lomond)を通り、フォート・ウィリアムス(Fort Williams)という景勝地に一泊した。途中、美しい古城や自然の景色を楽しんだ。
 
ここでもどこも宿が満室で、心細くなったが頃やっと高台に空き室を見つけた。B&Bでもピンからキリまであるが、そこはキリの方だった。怖そうなおばさんが一人で錐揉みする小さな一軒家で、普通70-80ポンドの宿代も半分だった。珍しく靴を脱いで入ってくれと云われる。

翌朝は7時半に朝食を頼んだが、6時ごろからバタバタ下で音が聞こえる。降りていくと、おばさんが「昨夜兄が危篤になった。これから飛行機でバーミンガムに行くの!」という。目は真っ赤、あまり眠てない様子で疲労感がにじみ出ていた。「明日は既に8名のお客さんの予約が入っているので、連絡が取れなかったら戻って来なくては・・・」と心配している。見ていてとても気の毒になったが何も出来ない。唯一ここを早く離れることだと、逃げるように立ち去った。未だにそのおばさんのことが気になる。

Friday 23 August 2013

スカイ島とオーウェルの1984


スカイ島(Skye islands)は険しい山と海が織り成す美しい島であった。夏でこそ観光客が多いが、一体こんな寂しい島に人々は何をしているのだろう、そう思わせる処だった。

島を周遊していたらウィスキー蒸留所があった。タリスカー(Talisker)といってあまり馴染のない銘柄だった。湖畔にこじんまり建っていたが、中に入ると観光客でごった返していた。係の人が10年物と蒸留所スペシャルの2つを試飲させてくれた。島なのでアイラ島のようなスモーキーなものを想像したがそうではなかった。面白かったのはパネルに島で生きて行く男の条件が書いてあった。曰く、跳ね返す力、豊かな創造性、ユーモア、タフ、自信、忍耐、勤勉、そして運が必要だという。

それを聞いて思い出しのは、ジョージ・オーウェルの未来小説「1984」だった。戦争は平和(War is peace)や無知は力(Ignorance is strength)などの名文句を残し、近未来を予言した画期的な本だ。書かれたのは戦後間もない1947年、場所はやはりスコットランドの孤島だった。どうしてあのような小説が図書館もない場所から生まれるのか不思議だったが、ここにきて少し分かったような気になった。

Thursday 22 August 2013

スカイ島への道

オークニー島からスカイ島への移動は大変だった。フェリーで一度本土に戻り、陸路を延々300Km走った。道は海沿いの片道車線、所々に対面通行の避難所があるが、起伏の多い山沿いの道は時速40Km位なのでとても疲れる。行けど行けど緑の絨毯と入り江が続き、人けもなく正に地の果ての景色であった。

途中トング(Tongue)という村で一泊した。朝起きると深く入り込んだ海が目の前に拡がっていた。遠浅で海藻のこげ茶と青い空の色が美しいコントラストを放っていた。

スカイ島に着いたのは夕方になっていた。ポートレー(Portree)という中心地で宿を探すこと30分、どこも満室(No Vacancies)の札が掛かっていて次第に心細くなる。何軒目かやっとのことで郊外のB&Bが空いていた。60歳後半の静かな夫人が出てきて、2階に案内してくれた。小奇麗な家で家具も良く整理されている。壁にスピットファイアーとパイロットの写真が飾ってあったので聞くと、父親という。Battle of Britainの最中に空軍で活躍したらしい。あれから70年が過ぎ、静かな島で娘夫婦がひっそり民宿を営んで住んでいる・・・ゆっくり時間が流れる不思議な感覚がした。

Wednesday 21 August 2013

オークニー島の遺跡

今回の目的地の一つ、オークニー島(Orkney islands)に渡った。船に乗ろうと思ったら出たばかりだった。次の船まで待つこと5時間、こういう時はゴルフに限ると、近くのゴルフ場(Thurso Golf Club)に行った。セントアンドリュースと同じ25ポンド、どこでも気軽でいい。ところが14番を終えた頃から雨雲が近づき、あと2ホールを残して大雨に見舞われた。
 
オークニー島は北緯59度、知床が49度なのでとても寒った。島は昔バイキングが住んでいた関係で長年ノルウェーの傘下にあった。ところが17世紀に、嫁の持参金の抵当で英国に取られた経緯がある。カモメやパフィンの鳥、蘭、ナデシコ、ヒースの花が群生し、とても自然豊かだ。第2次大戦ではUボートが湾内まで入ってきて、英国の軍艦が沈められたこともあった。見所は、紀元前3000年頃のケルト人の遺跡であった。スタンディングストーンと称する大きな立石が円を描いて立っていた。ロンドン郊外のストーンヘンジに似ている。辺りは当時の住居跡もの残っていたので、古代人の生活感が伝わってきた。

島には地元のハイランドパークというウィスキー蒸留所と、オークニービールの醸造所があるというので行ってみた。ウィスキーは勿論シングルモルト、ビールは生温いエールビールである。良くもこんな遠くの島まで渡り酒造りを始めたものだ、と感心した

Tuesday 20 August 2013

ネッシーを探して

旅の4日目はネス湖から始まった。ここまで来ると14-5度とかなり涼しくなる。ネス湖はネッシーこと怪獣(モンスター)で有名だ。どんよりとした雲に覆われ、昼でも薄暗い湖上は、目を凝らしているとひょっとしてネッシーが現れるような不思議な雰囲気があった。

湖畔にネッシー博物館があったので寄ってみた。事の発端は、1934年に外科医が公開した写真であった。それは知人が作った恐竜のおもちゃを湖に浮べた物だった。本人は反響が大き過ぎたので嘘とは言えなかったが、彼の末期に親族が告白しだまし写真だと分かった。ただその後も何人もの目撃者が現れ、謎が謎を呼ぶようになった。戦後に、科学的にもソナーや潜水艦も登場し、日本からも石原慎太郎さんが何故かスキューバーチームを連れ潜ったという。結局ネッシーらしく見えたものは、船の波跡、流木、野生の鹿、サーカスの象だったらしかった。そもそも動物が生息するに足りる魚がいないということも分かった。

それにしても、今日多くの人が訪れるのはどうしてなのだろう。虚構の世界と分かっていても、心のどこかで何万年前の恐竜に出会いたいというロマンがある。誰もが謎は謎としてこのままでいて欲しいと思っている。

Monday 19 August 2013

グレンフィディックと焼リンゴの香り

ゴルフの後はスコッチウィスキーである。スコッチウィスキーの蒸留所は、多くがハイランド(Highland)と称する山岳地帯と、スペイサイド(Speyside)と呼ばれる更に北の海沿いに点在している。今回はそのスペイサイドを訪れた。特徴は何と言ってもシングルモルトのウィスキーである。同じ樽と蒸留所から生まれ、トウモロコシの入っていない大麦だけで作った酒である。

数多い数多い蒸留所の中から、日本でも馴染深いグレンフィディック(Grenfiddich)の工場を訪れた。あの緑色をした三角形の瓶である。深い山の中にあり、行くと命となる豊かな水の流れる音が聴こえきた。ツアーのうん蓄によると、ここの特徴は蒸留器を小さくし、今でもお抱えの樽職人を持つなど、家族的な伝統を大切にしているという。そして本番のティスティング・・・各自に3杯ずつ配られた。見慣れた緑の瓶は12年物でナシ風味、ブラウンは15年物で密とブドウ風味、そして18年物は焼リンゴとシナモンの香がするという。おそらくスペインから輸入した古い樽を再利用しているのだろう、年代毎に風味を差別化しているとは知らなかった。

時間があったので、近くの蒸留所「マカラン(Maccallan)」にも寄ってみた。日本では超高級のモルトウィスキーだが、質素な佇まいであった。またこの日は道すがらアバディーン(Aberdeen)の町に立ち寄った。何時ぞやこのブログでも書いたが、長崎のグラバー邸ことトーマス・グラバーの出身地である。案内所で聞くと「ああ、サムライね」と、かつて住んでいた場所を教えてくれた。通りの名前だけが故人を偲んでいた。

Sunday 18 August 2013

セントアンドリュースの風

夏休みはスコットランドの旅を楽しんだ。今日から何回かに分けて、その紀行を綴ってみたい。初日はセントアンドリュースのゴルフから始まった。首都のエジンバラから車で2時間、全英オープンが開催される名門クラブである。18ホールのコースが6つと9ホールが1つ、それにドライビングレンジ、レッスン棟、ゴージャスなホテルなど、正にゴルフの聖地と云われる所以でもある。門番はキルトの服で正装した堅苦しさがある一方、ちびっ子レッスンもあったり、ゴルフに関する全てが詰まっている感じだ。意外に敷居は低く、簡単にゴルフが出来る。今回もぶらっと立ち寄り、「1ラウンドお願いします」と云うと、1時間半後に予約を取ってくれた。料金も、今回のイーデンコースで25ポンド(約3800円)と手頃だ。

そして肝心のゴルフだが、海沿いのリンクス、アウトはアゲインストの風に向かって打つ。この風が名物とは聞いていたが、ドライバーで会心のショットを放っても押し戻されて、100ヤードちょっとしか飛ばない。このためパー4でまず2オンは無理だ。一方帰りは反対に凄い追い風が来る。驚くことに340ヤードのパー4ならば、Tショットは6番アイアン、セカンドは7番アイアンで十分グリーンに届く。少しするとこの特徴が分かってきて面白い。

ラフはTVで見ての通り深いので、ボールが入るとまず見つからない。枝にトゲもあるので要注意だ。そして所々にティッシュが落ちている?変だな思って気が付いたのは、女性のトイレだ。行って帰って来いのコースには途中1っカ所しかトイレがない。寒さで我慢できず用を足すのは、ブッシュの中ということなのだろうか。そんな事情なので、とてもボールを探す気にはならなかった。ともあれ体感温度12-3度の中、忘れられないラウンドであった。

Thursday 8 August 2013

ケン・フォーレットの新作

立て続けに、ケン・フォーレットの「大聖堂(The Pillars of the Earth)」と「Winter of the World」を読んでいる。どちらも長編で登場人物も多く、シナリオが錯綜しているので中々筋を追うのが大変だ。

大聖堂は1989年の作で翻訳も2005年なのでちょっと古い本だ。一方後者は、昨年出版された3部作の2作目である。第1作のFall of Giantはまだ読んでいないが、もう来年には完結編のEdge of Eternityが出るという。第2次大戦下のロンドン、ベルリンなどを舞台にしたファミリーを追っている。戦時下の普通の人々が見て取れるので面白い。

ケン・フォーレットはジャック・ヒギンズように、とても男らしい小説を書くのでファンだ。特に初期の「針の眼(The Eye of the Needle)」は映画にもなった逸品だし、このブログでも書いた「Jackdow」や「Hornet Flights」は舞台が第2次大戦末期という、私好みの設定である。読む方も大変だが、物凄い勢いで書いている作者に頭が下がる。

Wednesday 7 August 2013

神楽坂の女将を偲んで

暫く前に、友人のMさんから神楽坂の女将が亡くなったと連絡があった。享年94才、神楽坂の小料理屋の女将である。店は、神楽坂の坂を登り切った毘沙門天の近くにある。昔ながらの石畳は、泉鏡花や永井荷風の世界を今に伝えている。そして何と言っても、高台なので都心とは思えない静けさが心いい。


思えば20代から良く足を運んだ。決して安い店ではなかったが、年中置いてあった新政の樽酒がお目当てであった。小作りで適度の空間は快く、芸者上がりの女将さんはきりっとしていて、背筋を伸ばして飲む雰囲気があった。何故か自分の祖母に似ていたので、特別親しみがあった。

そんな女将も80歳を超えた頃から、老いが出てきた。ある時、癌で余命幾ばくもない先輩と飲みに行った。「お互い若い頃は良かったね」と交わす言葉を横で聞きながら、涙が止まらなかった。店内に若い頃お客さんと撮った写真が飾ってある。その時はそれをまじまじ眺めては、昔は綺麗な人だったんだ、と改めて思ったものだった。帰る時にカエルの土産をくれる。それを見ながら・・・ご冥福をお祈りします。

Monday 5 August 2013

スコットランドの旅

このブログはいつもスコットランド民謡を聴きながら書いている。スコットランドの音楽は何とも侘しく、それでいて子供の時に聞いたような親しみのある温かなメロディーである。不思議と旅をしているような気分になり、夢を掻き立てられる。http://www.youtube.com/watch?v=ZjVy5mICytY

スコットランドは2年前に訪れた。荒涼とした自然と点在するウィスキー醸造所に気持ちが入ってしまった。長く迫害された歴史も、一層旅に重みを付けてくれる。加えてセントアンドリュース始め、名だたるゴルフ場がある。どこもジーンズ姿で、全英オープン気分でプレーできる。ということで、この夏休みは又当地の旅行を計画している。春頃からウィスキー醸造所や歴史を読み漁り、秘かに準備した。遠足は準備をしている時が一番楽しい。

ところが今日、旧友のMさんからメールが来て、今スコットランドを廻っているという。先を越された感があったが、彼も旅のツボを心得ている。

Sunday 4 August 2013

辛坊さんのチャレンジ

TVを見ていたら、辛坊キャスターの復帰会見をやっていた。辛坊さんは太平洋横断のヨット航海に出たが、途中で船が沈んでしまった。どうやらクジラと衝突したらしく、折角休みを取って出発したのに不運だったと云うしかない。彼は「お騒がせして申し訳ありません」と謝っていた。自衛隊に助けられたことが重く伸し掛かっているらしい。

世間はうまく行けばいいが、失敗すれば鬼の首を取ったかのように酷評するのが常だ。いい例が、番組の司会を勤めたキャスターだった。彼は辛坊さんに、「貴方の自己責任はどうか、自衛隊(国費)を使った救助費用はどう思うか」など、行く前とは手のひらを返したように詰問する。それはまるで被告に対する話し方だった。

船とぶつかった訳でもなければ、自衛隊は救助が仕事だから何も恥じることはない。正に愚問だった。この手の類で往々にしてケチをつけるのは、自分にとって都合の悪い人だ。司会は代役がこれで終わって降板させられる・・・そんな妬み嫉みがあったのだろうか。そんなことより辛坊さん、来年もう一回チャレンジしよう!

Thursday 1 August 2013

インドネシアの蚊薬

早いものでもう8月に入った。毎日ゲリラ豪雨が降るので、晴れていても気が抜けない。段々日本も南アジアの気候になってきた。

夏になると悩ましいのは蚊だ。昔に比べれば大分少なくなったが、殺虫剤を撒いても撒いてもどこからともなく現れる。犬の散歩、新聞を取りに庭に出た時など要注意だ。いろいろ防備は施してはいるが、中々これといった決め手がなかった。

ところが10年ほど前になるか、インドネシアに行ったときに現地の人からもらったAutanという塗り薬を付けると、殆ど蚊に刺されないことが分かった。日本の蚊など、南方に比べればまだまだ可愛いのかも知れない。以来、インドネシアに行く人に頼んで買ってきてもらっているが、夏にはこれが欠かせない。