Wednesday 27 December 2023

地下の戦跡見学

イスラエルとハマスの戦闘が続き、ガザの死者は2万人を超えたという。何とか止める手段はないのだろうかと、手を拱いて願うしかない。そのガザでイスラエル軍は地下トンネルを潰している。全長は550Kmに及ぶという。ハマスの原始的な技術力でよく掘ったと感心する。 

というのも先日、日吉の地下にある連合艦隊司令部跡を見に行った時、暗くて狭い通路を歩くととても長く感じられたが、それでも全長は2600mというから、改めてガザの規模には驚かされる。

日吉の地下壕は太平洋戦争末期に艦隊がなくなり、陸に上がった海軍の指令部跡だった。まだ飛行機が残っていたので、そこから特攻のモールス信号を受電していたという。地下壕は1944年7月から3カ月で完成したというから早かった。

 同じ地下壕は松代の大本営跡も行った。こちらは完成すれば全長10㎞の地下都市になっていた。天皇も移る予定と聞いて、当時の狂気を見る思いがした。

 最も大きかった地下都市は、チェコとポーランド国境のオスフカ(Osowka)の地下司令部であった。ドイツが1943年から作り始め、機関車も乗り入れできる巨大な地下要塞だった。完成すれば全長30㎞というから、反抗に備えたのかも知れない。

その他、朝鮮半島の38度線、所謂非武装地帯(DMZ)にあるトンネルも比較的広かった。北が掘って発見されたものだが、地上ではまだ両軍の兵士が睨み合っていたので、緊張感があるツアーだった。

第一次大戦にフランスが作ったマジノ線の地下壕はよく保存されていた。べトコンの地下通路は人が一人通れるだけの狭い穴だった。

Sunday 24 December 2023

ナポレオン街道

ナポレオンがエルバ島に流された後、10カ月ほどで島を脱出、パリに戻って帝位を取り戻した。所謂100日天下である。その時に通ったのが、アンティーブから北上しグルノーブルを通る、今ではナポレオン街道と呼ばれるルートである。

同じくこの街道を使い、パリに向かったのがジャッカルであった。フレデリック・フォーサイスの名作「ジャッカルの日」に出て来る殺し屋である。彼は革命記念日にドゴール大統領を狙うが、弾は逸れ計画は失敗する。ただそのルートが魅了的で見ていて飽きない作品である。

 例えば出発地点のアンティーブ(Antibes)は、コートダジュールの美しい港町である。ナポレオンの「鷲は鐘楼から鐘楼へと羽ばたき、やがてノートルダムの塔まで達するであろう」の碑も建っている。

 ちょっと行ったグラース(Grasse)は香水の町として有名である。ネ(仏語で鼻)と称するブレンド師が世界の香水の調合をしている。日本の資生堂の香水もここで作らられている。街に入ると何とも言えないいい香りが漂ってくる。

また映画にも出て来るが、ラフレ(Laffrey)の村ではナポレオンを捕らえに来た兵士が、逆に彼に心酔して寝返った。側近のネイ将軍も途中で合流した。

遺体のすり替え説

映画の冒頭はトゥーロン(Toulon)の奇襲から始まった。ナポレオン大尉の名を一躍有名にした一戦だった。夜襲と敵陣からの砲撃で英国艦隊を壊滅させた。

そのトゥーロンは南仏の軍港である。いつか車で通った事があったが、フランスの町にしては驚く程に汚かった。だからミシュランでは、背後の山からの眺望を薦めている。

ところで映画「レ・ミゼラブル」の冒頭にもジャン・バルジャンがドックで船を引っ張るシーンが出て来るが、それもトゥーロンの造船所である。思えば時を同じくして物語の主人公2人が、奇しくもこの町から人生をスタートさせたのだ。


映画は ワーテルローの戦いで敗れたナポレオンがセントヘレナ島に流される処で終わる。大西洋に浮かぶその島を知る由もないが、倉田保雄さんの「ナポレオンミステリー」には面白い逸話が載っている。 

 一つはナポレオンの世話をしていた男の話である。彼の名前はジェン・ユーという何と中国人だった。清皇帝の落とし子として生まれた彼は、中国から英国に渡り際に捕虜になりそこにやって来た。教養も高くどちらも捕らわれの身だった事もあり、ナポレオンとは話が合ったそうだ。 

 もう一つは、フランス側が遺体を引き取りに来て棺をを空けると別人だった話である。埋葬時と19年後の引取り時に立ち会った側近の証言が門儀を醸しだした。偽物は元ナポレオンの給仕に似ていた。着ていた軍服もパレード用正装から普通の軍服に変わっていた。そこで当時お棺を管理していた英国が、遺体をウェストミンスター寺院に運んだという噂が出た。パリのアンバリッドのお墓は今や一大観光地になっている。本当だったら滑稽極まりない。

 またナポレオン自身の子孫は途絶えたが、アメリカに渡った末弟(ジェローム・ボナパルト)の話も紹介していた。ジェロームの孫はハーバードを出て、1935年に入ったのが捜査部(後のFBI)であった。ナポレオンの血が海を越えFBIに流れているという。

ワーテルローの戦い

アウシュテルリッツやワーテルローの戦いシーンは見応えがあった。昔のロシア版「戦争と平和」でも多くのエキストラを使って壮大だったが、改めて今の映像技術に感心した。

随分前だがそのワーテルローを訪れた事がある。今のベルギーだが、小高い丘にライオン像が建っているだけの何もない野原だった。隣接する博物館で当時を再現した映画を見た後外に出た。目を閉じると風の音の中に、馬の肥爪や兵士の怒号が聞こえ来るようで感動した記憶がある。

ワーテルロー勝利を英国でいち早く知り、株で莫大な利益を得たのがロスチャイルド一族であった。英仏独に散った兄弟の情報網の成せる業だった。映画ではその話は出て来ないが、一体彼らがどうやって戦況を知ったのか気になっている。

 一方でアウシュテルリッツの場所は何処なのか?今回改めて調べてみたらチェコのブルノ(Brno)の郊外だと分かった。ブルノの町は5年前プラハに戻る途中で寄った。遺伝学のメンデルの生家でエンドウ豆の法則をお浚いはしたが、「地球の歩き方」にアウシュテルリッツは載っていなかった事もあり行きそびれた。やはりミシュランガイドがないと駄目だった。

この戦いの勝因はナポレオンの陽動と分断作戦だった。オーストリア軍を囮部隊に向かっておびき寄せ、本隊を奇襲する作戦が功を奏した。今回映像で見てそれがよく分かった。

ジョゼフィーヌとデュマ

最新の映画「ナポレオン」を観に行った。ナポレオンはヨーロッパ近代史の象徴だけに、見終わってからもあれこれ考えさせられた。4回に分けて綴ってみたい。

 映画の半分は最初の妻ジョゼフィーヌとの関係に割いていた。そのジョゼフィーヌはカリブ海の仏領マルティニーク島の貴族の娘であった。映画にも黒人議員が出ていたが、当時から海外県の人達がフランス本国に深く関与していたのが分かった。

思い出したのはアレクサンダー・デュマの父親である。彼はサン・ドマング(現ハイチ)の統治に活躍したローカルの将軍だった。昔読んだ「黒い将軍」という本にその生涯が書かれていたが、そう言えばデュマの顔立ちは生粋の白人ではなかった。「モンテクリスト伯」に出て来る財宝の隠し場所もカリブ風だった。 

 余談だが、2017年にフランスの人気ロック歌手のジョニー・アルディーが死んだ時、お墓をカリブ海の仏領サン・バルテルミー島に作った。風光明媚な場所でフランス人が静かに眠れるのか、以来気になっている。 

 ジョゼフィーヌに話を戻すと、ナポレオンとの熱愛関係はやや違和感があった。というのも、一般的には彼女は歴史の脇役と思われていたからだ。ナポレオンには生涯3人の子供がいた。一人は二番目の奥さんマリー・テレーズの子供だったが、後二人は2人の愛人との間に生まれた。他にも女性関係は多かったようだし、こうした演出が英国的と批判される所以なのかも知れない。

Monday 11 December 2023

「ドジャースの戦法」教本

大谷選手のドジャース移籍が決まった。契約金額も10年で7億ドルと破格である。円に直すと年間100億円になる。日本の12球団の年俸総額が400億円というから、その大きさが分かる。

ドジャースでは野茂英雄や最近では前田健太などの日本人も多く活躍した。エンジェルスと同じ西海岸で、気候も温暖だから当初から本命だった。やっと決まったので新天地で頑張って欲しいと思っている。

ところでそのドジャースだが、昔から日本と関係が深かった。特に読売ジャイアンツの監督だった川上哲司は、1954年に出版された野球教本「ドジャースの戦法(The Dodgers` Way to Play Baseball)」を取り入れ、V9に繋げた話は有名である。

ドジャース戦法とは、守備力を重視した野球である。今では常識になっているが、ヒット&ランや犠打を紹介したのもこの本だった。川上はこの本をヘッドコーチの牧野茂に読ませ、1961年にはアリゾナで巨人とドジャースの合同合宿も実現させた。 

 実は子供の頃に、その牧野コーチのお宅に伺った事がある。親同士が友達だった縁だが、広岡や藤田のファンだったこともあり、沢山のアルバムやトロフィーを見て興奮した覚えがある。帰り際に何枚かの写真も頂いた。その中の一枚が、そのキャンプで撮った若き長嶋、王、金田選手であった。 勿論撮ったのは牧野さんである。

 今では宝物であるが、こうして半世紀を経てまた新たな関係が始まるかと思うと感慨も一入である。

Friday 8 December 2023

連合艦隊と酸素魚雷

暫く前の日経新聞の「リーダーの本棚」欄に、静岡がんセンターの山口総長が出ていた。氏の父親も医者で、ラバウルで軍医として終戦を迎えたという。その影響なのか、座右の書は意外にも伊藤正徳の「連合艦隊の最後」だった。組織として理念、戦略、戦術、システムを考える上で、海軍はその手本というのが理由だった。

早速その本を取り寄せ読んでみたが、出版がまだ焼野原が残る昭和30年という事もあり、著者の気迫と無念感がにじり寄る一冊だった。確かに開戦時に254隻、その後383隻もの軍艦が建造されたが、終わってみれば49隻という事実がそれを物語っていた。 

 本の後半に酸素魚雷の話が出て来た。その速度、射程、爆薬量で英米を遥かに凌駕していた。その技術を転用した人間魚雷「回天」の成功率が高かった事もあり、終戦直後にサザーランド参謀長が真っ先に潜水艦の居場所を聞いた逸話も紹介していた。

 そう言えば昔、東海岸のアナポリス(海軍兵学校)を訪れた時、校内にその酸素魚雷が置かれていた。そこは太平洋戦争の日本コーナーで「ミッドウェイ海戦を境に戦局が好転した」の碑もあり、しばし立ち止まって思いを馳せた。

 また著者は戦争末期の指揮官の在り方に批判的だった。昔は東郷元帥のように陣頭指揮していた時代から、最後は日吉の地下壕から無線で命令を出すようになったからだ。士気も上がらないし無線の精度も悪い。その失敗が電波が届かず謎の反転が起きたレイテ戦だった訳だが、分かるような気がした。