Monday 30 December 2013

第3の銃弾

もうかれこれ1カ月も読んでいる本がある。Stephen Hunter著「The Third Bullet(第3の銃弾)」である。原書で読むと通常の10倍は時間がかかる。それも通勤の車中と限られているので、12月の忘年会シーズンは中々進まない。一杯飲んだ後は、流石横文字はしんどい。そんな中、早くも翻訳版が出てしまった

これにはショックだった。昔神奈川県の丹沢に登ったことがあった。麓から苦労して歩き着いた先は駐車場だったことがあった。今回もそれに近いものがあった。

JFK暗殺については数多くの著書が出ているが、これもオズワルド単独説を疑問視するものだ。主人公は犯行現場になった倉庫に行き、狙撃窓の位置、200ヤードの距離等に首を捻る。現場は今でも当時のまま保存されているので、訪れた人なら誰しも疑問に感じることだ。それだけに親近感があった。日本の比喩も良く出てくる。例えば、「硫黄島の戦いでは勝ったが、オズワルドの戦いでは敗れた」とか、「(日本のポルノ収集とバンコック休暇)を除いて何も見つからなかった」等々 ・・・。冬休みに何とか最後まで辿り着きたい。

Sunday 29 December 2013

足尾を訪れて

ひょんなことで足尾に行くことになった。足尾はどこかと思いきや、特急に乗っても東京の自宅からは4時間以上もかかる、正に陸の孤島であった。足尾は足尾銅山として有名だ。1800年代の半ば、江戸時代から明治にかけて、世界一の銅山であった。ところが行ってみると寒村だった。

訪れビックリしたのは、その変わり果てた街並みだ。嘗ての工場はガラスが壊れ吹きさらしに放置されていた。最盛期に4万人もの人が住んでいた宿舎は、殆ど空き家になっているか、取り壊され空き地になっていた。当時の面影を残す銅山観光があるので行ってみた。江戸時代には寛永通宝の硬貨を作っていたようで、坑道に入ると裸の人夫(人形)がノミひとつで彫っていた。過酷な作業だったので、当時は囚人も多かったという。

また戦争中は朝鮮人や中国人、それに南方から連れて来られたオランダ人もいたという。そのことを地元に人に聞くと、彼らの墓に連れて行ってくれた。中国人の墓は立派だったが、朝鮮人の墓は比べものにならない程貧弱だった。どうやら南北朝鮮の人の話が纏まらないのでとん挫しているらしい。ともあれ、ここは日本の近代史そのものだった。

Thursday 26 December 2013

映画「永遠の0(ゼロ)」

封切られた映画「永遠の0(ゼロ)」を早速観に行った。往々にして原作がいいと、かえって裏切られることが多かっただけに、正直あまり期待していなかった。だけど力みのない、自然な役者の立ち回りと、原作に忠実なストーリーはとても良かった。CGを使った撮影技術も効果を高めた。

小説では興味深い表現がいくつかあった。例えば零戦が真っ直ぐ飛んでいるようだが微妙に軌道を変えるのを「滑る」と言うが、映画でもこれを再現していた。戦闘シーンの曳光弾も数発間隔で飛ぶと解説されていたが、これもよく分かった。また映画にはならなかったが、ロケット特攻機の桜花が切り離されるときに、フワッと無重力になる恐怖は、体験した人でないと語れない。

主役のおじいさんが「あと10年もすれば、戦中派が皆居なくなってしまう」という言葉が耳に残った。多くの人が口には出さないが、当時を背負って生きてるのだろう。その時代に生まれたら、きっと自分も同じような生き方をしただろう。サザンのテーマソングを聴きながら素直にそう思ったのだった。

Wednesday 25 December 2013

黄色いリボン

ジョン・フォード監督、ジョン・ウェン(John Weyne)主演の「黄色いリボン(She Wore A Yellow Ribbon )はウェスタンの名作だ。1949年の作というから、戦争が終わって4年しか経っていない頃だ。広いテキサスの大地をバックに、リズミカルで陽気なマーチが木魂する。キャバリエ(騎兵隊)がパトロールする姿は、今更ながら恰好いい。

何度か見直すと発見もある。騎兵隊の多くはアイルランド人、典型は軍曹役の大男だ。良く酒を飲み、喧嘩をして殴ると「ダッチ野郎」と言うので、オランダ人も混じっていたようだ。軽快なマーチは、アイルランド民謡の「私が置いてきた女性(The Girl I left Behind Me)をアレンジした曲のようだ。そう言われればジョン・ウェンもアイルランド系だ。映画の原題は、「彼女は黄色のリボンを付けていた」というように、影の主役は令嬢役の女性である。そのジョアンヌ・ドリュ(Joanne Dru)の2番目の亭主はアイルランドという姓であった。

ストーリーはジョン・ウェン演じる大佐が定年退職する。仲間から銀時計を贈られ、残り時間を見計らいながらインディアンとの衝突を避ける。一仕事終わると日が変っていて任期が切れる。すると馬を走らせ、サッと去って行く。その姿が何とも粋なのだ。

Tuesday 24 December 2013

南スーダンとウクライナ

今日はクリスマス・イブだ。この歳になると聖夜は大晦日だし、本当のクリスマスはやはり正月だ。ただそうはいっても、クリスマスには夢がある。ツリーを見れば気持ちが和らぐし、クリスマスソングを聴けば子供の頃を思い出す。、不思議な魔力がある。

そんな最中、自衛隊の弾丸1万発をPKOに提供することが決まった。提供先は南スーダンの駐留韓国軍だ。南スーダンは勿論行ったことのないが、イスラム教徒が支配するスーダンにあって数少ないキリスト教派の土地である。それがイスラム派の攻撃に遭っているので、今回の対応になったようだ。ウクライナもそうだ。元々はキリスト教をルーツにする民族だったが、ロシア正教が永年支配している。今回の発端になったEU加盟の是非は、原点に帰る戦いだ。

キリスト教とイスラム教とロシア正教と何が違うのか、信じる神が違う他は良く分からない。しかし例えば、キリスト教には禁酒とか礼拝の義務、女は人前では顔を隠し教育が受けられないという制約は少ない。特に利潤に対する考え方は寛容だ。プラスアルファを生む自由な活動は、イスラム・ロシア正教は悪に近い。自由を認めると既得権益が脅かされるからなのだろうか。今晩世界中で多くの人が自由への願いを込めて祈っている、そう思う一夜である。


Sunday 22 December 2013

別れの歌

先日、昔の仲間とカラオケに行った。例によってお決まりの曲をいくつか歌う。人が聞いていようがいまいが勝手に歌う。それでいて、出てくる歌はどれも聴き慣れた曲ばかりなので気が楽だ。

その晩、T君はユーミンの「ひこうき雲」を歌った。音程は外れていたが、久々に聞くといい歌詞だと思った。続いて歌った曲も比較的軽い曲だったが、昔に比べて選曲が変って来た。現役時代はもっとうらぶれていた。当時の十八番は、中島みゆきの「狼になりたい」だった。朝の吉野家を舞台にして、「ビールはまだか!」を遂々口にしてしまう歌だ。いつもイライラしストレスが溜まっている、それでいて何か出来る訳ではなく、正にピッタシの歌だった。

かく言う私も若い頃、会社仲間から「おまえが歌っているのは、別れの曲ばかりじゃないか」と言われたことがあった。そう言えば、レパートリーは尾崎紀世彦の「また逢う日まで」、小林旭の「北へ」、アリスの「冬の稲妻」・・・、一瞬ハッとした。確かにその頃は出会いと別れを繰り返していた。口ずさむ歌は、今を映し出しているのだ。




Friday 20 December 2013

忠臣蔵と「菊と刀」

連日TVで忠臣蔵をやっている。昨日は片岡知恵蔵の内蔵助であった。やはり彼は重みがあり適役だ。ストーリーも映画が異なると、都度発見もある。泉岳寺は47士の墓と思っていたが、浅野内匠頭が祭られた寺だったようだ。それから大石が江戸に入るに際し、立花左近なる侍に偽るシーンがある。真偽のほどは定かでないが、中々面白い。

忠臣蔵は日本人の忠義を象徴するドラマである。それを初めて紹介したのが、ルース・ベネディクト(Ruth Beendict)著の「菊と刀(Chrysanthemum and the Soward)」であった。そもそもは太平洋戦争時の日本研究だった。それが戦後の占領国管理に繋がったと言われている。ゴッホのジャポニズム同様に、外から諭されて気が付いた日本人の特性であった。

忠臣蔵を何度見ても飽きないのは、その忠誠心も沙流ことながら、死に際の美学だと思っている。人の一生は短い。増して歳を取れば醜くなる。それを脂の乗り切った若い時に散る潔さである。正に桜の散り際もそうだが、誰もが望む男の幕引きであろう。TVでは1960年代の日本の風景が出て来るのが見逃せないし、まだ戦争の余韻が役者の顔形に残っているのが何ともいい。

Tuesday 17 December 2013

違和感ある都議会

都議会が猪瀬知事の5000万円で揺れている。ただ、連日委員会で追及する姿勢にとても違和感を持つ。そもそも都議会は裁判所ではない。それなのに、まるで知事を被告のように大勢で吊し上げている。

猪瀬さんは石原さんに連れて来られた一匹狼だ。派閥もなければバックもない。今回はそれに付け込んでか、次の選挙に繋げる政治闘争のようなものを感じる。確かに大金を受け取ったのは問題だが、使った訳でもなく既に返却したんだからいいじゃないか、と思うのは私一人だけではないだろう。もういい加減に正常な都政に戻って欲しい。

猪瀬さんは元作家で、中々世間の不条理感覚に冴えた人だ。東電の株主としての提言や、都営と営団の地下鉄乗り入れなどヒット発言は多い。国会議事堂駅の「バカの壁」撤廃は、彼らしい着眼だった。そして何といっても最近ではオリンピック招地が良かった。人は誰でも間違いをするものだ。議会で一人ぐらい「もういいじゃないか!」と叫んでくれる勇気ある議員はいないのだろうか?

Saturday 14 December 2013

由比正雪、橘中佐、桜海老

静岡はお茶だけかと思っていた。ところが話を聞く内に、中々歴史の宝庫だと分かってきた。代表的なのは由比正雪、江戸時代に幕府に縦を突いた英雄だという。彼があって後に西郷隆盛と山岡雪舟の会談がここ静岡であった。それがなければ、江戸城の無血開城がなかったという。日露戦争の橘中佐もそうだ。駿府城跡地に今でも立派な石碑が建っている。本人は九州出身なのに・・・?と思いきや、静岡連隊の関係らしい。

 
そして桜海老である。桜海老は海老の通称かと思っていたが、駿河湾で取れる海老のみが桜海老と呼ばれるという。深海に生息しているため朝と夕方に浮かんでくる。駿台予備校や駿河台の地名もここから来たらしい。更に最近ではNHKの連ドラに出ている杏もいる。駅の近くにある三菱電機のマスコットガールになっている。タクシーの運転手さんも、駅のどこの柱に彼女の写真が貼ってあるか良く知っている。

何より市内から眺める富士山は迫力があった。当地の桜海老と鯵の天ぷら、黒はんぺん、生シラスの味噌和え、そして地酒お「志太泉」を飲みながら探訪したのであった。

物乞いに会って

地方都市の地下通路を歩いていたら、座って物乞いしている人がいた。母親のような年頃のおばあさんが、座布団に座りお椀を前にお金を乞いていた。最近では殆ど見慣れない光景だっただけに一瞬ハッとした。一度は通り過ぎたが、気になったので引き返し小銭を入れた。


そして歩き出すと、近くにいたおばさんから、「あんたのような優しい人見たのは初めてだよ!」と言われた。何気ないことだっただけに、突然人から褒められ複雑な心境になった。些細なことが、人の琴線に触れたことにも驚いた。

そもそも見も知らぬ人にお金を上げるのは、あまりいい思い出がない。特にヨーロッパの乞食はプロだから、お金を渡すと感謝されることもなく、むしろ「少ない」とクレームが付くのが落ちだ。中には序に「ビールが飲みたい」言ってくる輩もいるなど、往々にしてデマンディングである。その点、今回の人は本当に困っている様子で、とても乞食と呼べないものがあった。路頭に立たねばならない境遇の人って、日本狭しといえど意外と多いのだろうか。

Thursday 12 December 2013

フナッシーと海神の酒

京葉工業地帯に行った帰り船橋に寄ってみた。最近はフナッシーで有名になった町だ。フナッシーの縫ぐるみに入っている人は、長年芸を独自で磨いてきたという。素人には大して代わり映えしないキャラクターだが、熾烈な競争があるようだ。

その船橋だが、ゴルフ場以外はさして思い浮かべるものもない。ただここは工業地帯に通う人々の基地、今でいう城下町である。また、隣の駅の蘇我から内房線と外房線が分かれるのも面白い。外房は勝浦、銚子など魚のメッカに繋がっている。九十九里の広大な浜もあり、その起点が蘇我である。

ぶらっと寄った船橋の駅近くに、70歳を超える夫婦が永年やっている店があった。地酒を頼むと、鴨川の海神(カイジン)があるという。アルコール度が高いので、隣の人に2杯飲んだら腰を抜かしたので気を付けろと言われた。珍しい鯖の燻製を肴に、その酒を飲むと久々にグッとくるものがあった。甘く円やかでコクがあり、素晴らしかった。以前新潟の湯沢で飲んだ「うまいの助」以来だ。ご主人曰く、この酒を卸しているのは内だけだと。また寄ってみたい店だった。

Tuesday 10 December 2013

ショート広岡

大宮から上越新幹線に乗った。自由席だったが結構混んでいた。幸い3人用の窓側が空いていたので、通路側に座っていた人が立って通してくれた。続いておばさんもやってきて、真ん中の席に座った。やはり通路側の人が、自分の荷物が取って通してくれた。通路側の人はゴホゴホ咳をしていて、何か偉そうに威嚇する訳でもないだろうが、そんな気がしないでもない。

して次の駅の高崎で降りると、彼も降りた。一見どこかの大学教授風かと思ったが、背丈は190㎝近くはあるし、矍鑠としていてちょっと感じが違う。紺のブレザーに旅行用のバックを持っている後姿を見て気が付いた・・・「アッ、広岡だ!」。これで新幹線で出会うのは2度目だった。

広岡は元巨人のショート広岡、王や長嶋と9連覇のジャンアンツ黄金時代を築いた立役者だ。子供の頃は、憧れてその背番号2番を付けていた人だ。その後ヤクルト、西武ライオンズを日本一に導いた監督として、管理野球の方が有名になった。ただ個性が強い人だったようで、いろいろ軋轢もあったようだ。後ろ姿はとても80代には見えない。多分どこかの講演会に行く途中だったのだろう。凛としていて、今でも近付き難い雰囲気がある。

Sunday 8 December 2013

クリスマスツリーを見ると

師走の街、暫く前からあちこちにクリスマスツリーが立ち始めた。自分とは関係ないと思っていても、不思議と気持ちが和らぐ魔力を持っている。

そのクリスマス、この前ある外人から、「クリスマスと聞いて何を思い出すか?」と聞かれた。答えに詰まったが、思い出したのは、3年前のタリンのクリスマスツリーだ。市庁舎の前の広場に大きなツリーが立っていた。周りには多くの夜店が出ていた。氷点下10度以上というのに、観光客で賑わっていた。ホットワインで体を温め、民芸品のセーターや帽子の店を覗いていた。

そのクリスマス市場、発祥は13世紀のドイツという。ヨーロッパには2000以上のクリスマス市場があり、4億ユーロ(約560億円)の売り上げがあるという。その多くは今でもドイツで、観光地のロマンティック街道には、1年中クリスマスの飾り付けを売っている店もある。夜店の出展料も年々上がり続け、8M²でフランスのボルドーでは4-8千ユーロ(56~112万円)に対し、シャンゼリゼは14千ユーロ(約200万円)もするという。ともあれツリーには思い出と夢が詰まっている。

Saturday 7 December 2013

茅野から下諏訪温泉へ

茅野に行った。駅の改札は昔のままだが、新しく出来た公共施設は過疎の町には不釣り合いだった。美術館には絵画が10点程しかないし、図書館も殆ど本がない。使われていない音楽ホールと老人が居眠りするロビーがガランとしていた。タクシーの運転手によると、冬にはガラスが割れるし、無用の石畳に雪が溜まりスリップするという。毎度のことだが、箱物行政にがっかりする。
 
折角来たので、温泉にでも浸かろうと案内所の人に聞くと、隣駅の下諏訪温泉がいいと言う。東京とは逆方向の中央本線に乗り、上諏訪駅で降りる。金曜日だというのに人気は殆どない。立派な温泉宿があったので、思い切って敷居を跨いでみた。受付にはおじいさんが番頭をしていたが、耳が遠いのか叫んでもちっとも気が付かない。暫くして孫のような少年が降りてきて、日帰り入浴はOKだと言う。

客は誰もいない。突然だったが、廊下は良く手入れされ綺麗だ。温泉は滾々と湯が湧いていた。湯船を独り占めし暫し息をつく。それにしても、いつ来るか分からない客のために惜しみなく流れる湯は贅沢の極みだ。日本の温泉文化はかくも奥深い。遥々来た甲斐はあった。

Friday 6 December 2013

ヒッチコックの鳥

TVでヒッチコックの「鳥(The Birds)」をやっていた。自宅の周りにカラスやカモメが集まり、人間を襲うスリラー物だ。1960年代の映画にも拘わらず、合成撮影を上手く使い、臨場感はいまだに通用するものがあった。

20年ほど前になるか、フランスのブルターニュ半島の付け根にあるディナール(Dinar)の町を訪れたことがあった。対岸には、中世の城壁を残したサン・マロ(Saint-Malo)の町がある。観光地のモンサンミシェル(Mont Saint‐Michel)も近い。その町に何とヒッチコックの銅像が建っていた。肩にはカラスが止まっていたので、てっきり撮影がここで行われたと思った。確かに海辺だけあってカモメは多いが、それにしてもどうしてこんな場所を選んだのだろうと、ずっと疑問だった。

ところが最近それは間違いだったことが分かった。ディナールは単に映画祭を記念して作らたようだ。ディナールは潮が引くと、ゴツゴツした岩と海藻が現れる。荒涼とした風景には、サイコに出て来たような一軒家が良く似合う。クレープやカルバドスの産地もあり魚も美味しい。

Thursday 5 December 2013

パリの娼婦

フランス議会で、買春を行った際に課金が科されることが決まった。画期的だという一方で、非現実的だという意見の賛否両論だ。買った客は1500ユーロ(約21万円)の罰金義務が決まった。

(筆者はその道の専門家ではないが)フランスはかねがね鷹揚な国だ。今回も娼婦を客の暴力から保護するのが目的らしい。そのため普通にお金を払い交渉の結果合意に至るのは、対象になるか疑わしい。ル・ポアン誌によれば、フランスの娼婦は2~4万人、多くはパリに住んでいて、国籍はルーマニア人、中国人、ナイジェリア人、ロマ人など、外人が8割を占めるという。この道に入った動機も様々で、中国人は親元に送金するため、ナイジェリア人になると親から売られ、リビアの軍隊で娼婦として働いた後、フランスに流れてくるという。平均年齢は14歳から42歳だ。

一口に娼婦と言ってもピンキリだ。裸一貫で始めると、場代が掛からないのは森の中だ。有名なブーローニュの森は、夜になると突然車の前に飛び出して来る。着ていたマントをパッと開き、裸を見せるから気を付けなくてはならない。交渉が成立すると森の中で事に至るが、最後になってホモだと分かったりトラブルは尽きない。また一財産築いた娼婦は車とアパートを持つ。バンドーム広場などに止まっている車は、その手のキャリアだ。このため安全だが、値段と年齢が高いと言われる。ともあれ、フランスの事、そう簡単には社会は変わらないだろう。

Wednesday 4 December 2013

休日の六本木

週末、六本木ヒルズで食事をしようと久しぶりに都会に繰り出した。平日なら兎も角、休みの日までわざわざ都心に出る人もいないだろうと高を括っていたら、どっこい大変な人集りに圧倒されてしまった。昼をかなり過ぎているというのに、どこのレストランも長蛇の列だ。何もそこまでして待たなくてもいいのでは?と思ったが、その勢いは凄かった。
 

それにしてもこんな所まで出てくる人種って、一体どんな人なのだろう?まず思い浮かんだのは若い人のデートだ。ところが場所柄、若い人より結構年配者が多い。中年夫婦、マダム仲間、結婚式から流れて来た一派、TVで見たことがある女優とヤクザ風の黒服男・・・。アベノミクスの恩恵ではないだろうが、ここだけはデフレとは無縁のようだ。
 
どうやらこの現象は、丸の内や日本橋でも同じだという。都内の人は元より、新幹線で上京する地方の人、中国などの外国人が多いという。まるで山でも登るかのように、地方から都会に、都会の中でも更に都心のビルに向かって人が集まっている。人の心理もあるのだろう。ふと、昼からシャッターを閉めた地方の商店街を思い出してしまった。

Monday 2 December 2013

ミセス・ガンジーの墓

天皇皇后がインドを訪問している。53年ぶりの再訪問というので、思い出も一入だろう。インドは何といっても親日的な国だ。大東亜戦争がインド独立の切っ掛けになった縁だろう。チャンドラ・ボース(Chandra Bose)や、東京裁判のパール(Pal)判事などに代表される日本親派は多い。

インドは今や中国と並ぶ21世紀の大国だ。ただ、税金を払っているのは国民の2割に過ぎないので、貧富格差は未だに大きい。その社会を支えているのがカースト制度だ。ホテルで荷物を置きっぱなしにしていてもまず盗まれることはない。治安の良さに加え英語は公用語だ。インド訛りは聴き難いものがあるが、中国にない武器である。

今回の訪問では、ガンジー(Gandhi)の記念碑を訪れたという。ガンジーは遺骨を散骨したので墓はないからだ。ただミセス・ガンジーの墓はあった。暫く前にプネに行った時、ホテルからタクシーで連れて行ってもらった。ひっそりとした庭園に佇み、見過ごしてしまいそうだった。ガンジー13歳、夫人は14歳の時に結婚だったというので、どんな夫婦だったかのだろうか。

Sunday 1 December 2013

悪化する日中関係

日中関係が悪化している。尖閣を国有化してから次第に、特に先日の航空識別圏の設定では緊張感が一挙に増した。お互いにスクランブルを駆ければ、一触即発はもはや時間の問題だ。中国大使館が在日の中国人に、有事に備えて登録を促したのも事態の深刻さが伝わって来る。

戦争はある時降って湧いてくる。詰将棋のように、一手一手駒を進めるうちに、後戻りが効かない処まで来るからだ。問題はその後だ。どうやって納めるか、ケンカをやってみると分かり易い。そこに至るまでの過程があるから、お互いそう簡単には引き下がれない。最後はなぐり合いがうっぷんを晴らすまで続く。そうしないと中々終わらない。

先日京都を歩いていたら、中国語を話す一行と一緒になった。思わず「So beautiful !」と囁いた。すると一人の中国人が、「どうして私たちが中国人だと分かったのですか?」と、流暢な日本語でを聞かれた。「だって中国語で話していたじゃない」と返すと、「ああそうでしたね」と悪びれた様子になった。それはとても何か変な会話であった。中国に住む日本人も外出しなように気を付けているというが、日本を旅する中国人もそうなのだろうか。