Monday 30 December 2013

第3の銃弾

もうかれこれ1カ月も読んでいる本がある。Stephen Hunter著「The Third Bullet(第3の銃弾)」である。原書で読むと通常の10倍は時間がかかる。それも通勤の車中と限られているので、12月の忘年会シーズンは中々進まない。一杯飲んだ後は、流石横文字はしんどい。そんな中、早くも翻訳版が出てしまった

これにはショックだった。昔神奈川県の丹沢に登ったことがあった。麓から苦労して歩き着いた先は駐車場だったことがあった。今回もそれに近いものがあった。

JFK暗殺については数多くの著書が出ているが、これもオズワルド単独説を疑問視するものだ。主人公は犯行現場になった倉庫に行き、狙撃窓の位置、200ヤードの距離等に首を捻る。現場は今でも当時のまま保存されているので、訪れた人なら誰しも疑問に感じることだ。それだけに親近感があった。日本の比喩も良く出てくる。例えば、「硫黄島の戦いでは勝ったが、オズワルドの戦いでは敗れた」とか、「(日本のポルノ収集とバンコック休暇)を除いて何も見つからなかった」等々 ・・・。冬休みに何とか最後まで辿り着きたい。

Sunday 29 December 2013

足尾を訪れて

ひょんなことで足尾に行くことになった。足尾はどこかと思いきや、特急に乗っても東京の自宅からは4時間以上もかかる、正に陸の孤島であった。足尾は足尾銅山として有名だ。1800年代の半ば、江戸時代から明治にかけて、世界一の銅山であった。ところが行ってみると寒村だった。

訪れビックリしたのは、その変わり果てた街並みだ。嘗ての工場はガラスが壊れ吹きさらしに放置されていた。最盛期に4万人もの人が住んでいた宿舎は、殆ど空き家になっているか、取り壊され空き地になっていた。当時の面影を残す銅山観光があるので行ってみた。江戸時代には寛永通宝の硬貨を作っていたようで、坑道に入ると裸の人夫(人形)がノミひとつで彫っていた。過酷な作業だったので、当時は囚人も多かったという。

また戦争中は朝鮮人や中国人、それに南方から連れて来られたオランダ人もいたという。そのことを地元に人に聞くと、彼らの墓に連れて行ってくれた。中国人の墓は立派だったが、朝鮮人の墓は比べものにならない程貧弱だった。どうやら南北朝鮮の人の話が纏まらないのでとん挫しているらしい。ともあれ、ここは日本の近代史そのものだった。

Thursday 26 December 2013

映画「永遠の0(ゼロ)」

封切られた映画「永遠の0(ゼロ)」を早速観に行った。往々にして原作がいいと、かえって裏切られることが多かっただけに、正直あまり期待していなかった。だけど力みのない、自然な役者の立ち回りと、原作に忠実なストーリーはとても良かった。CGを使った撮影技術も効果を高めた。

小説では興味深い表現がいくつかあった。例えば零戦が真っ直ぐ飛んでいるようだが微妙に軌道を変えるのを「滑る」と言うが、映画でもこれを再現していた。戦闘シーンの曳光弾も数発間隔で飛ぶと解説されていたが、これもよく分かった。また映画にはならなかったが、ロケット特攻機の桜花が切り離されるときに、フワッと無重力になる恐怖は、体験した人でないと語れない。

主役のおじいさんが「あと10年もすれば、戦中派が皆居なくなってしまう」という言葉が耳に残った。多くの人が口には出さないが、当時を背負って生きてるのだろう。その時代に生まれたら、きっと自分も同じような生き方をしただろう。サザンのテーマソングを聴きながら素直にそう思ったのだった。

Wednesday 25 December 2013

黄色いリボン

ジョン・フォード監督、ジョン・ウェン(John Weyne)主演の「黄色いリボン(She Wore A Yellow Ribbon )はウェスタンの名作だ。1949年の作というから、戦争が終わって4年しか経っていない頃だ。広いテキサスの大地をバックに、リズミカルで陽気なマーチが木魂する。キャバリエ(騎兵隊)がパトロールする姿は、今更ながら恰好いい。

何度か見直すと発見もある。騎兵隊の多くはアイルランド人、典型は軍曹役の大男だ。良く酒を飲み、喧嘩をして殴ると「ダッチ野郎」と言うので、オランダ人も混じっていたようだ。軽快なマーチは、アイルランド民謡の「私が置いてきた女性(The Girl I left Behind Me)をアレンジした曲のようだ。そう言われればジョン・ウェンもアイルランド系だ。映画の原題は、「彼女は黄色のリボンを付けていた」というように、影の主役は令嬢役の女性である。そのジョアンヌ・ドリュ(Joanne Dru)の2番目の亭主はアイルランドという姓であった。

ストーリーはジョン・ウェン演じる大佐が定年退職する。仲間から銀時計を贈られ、残り時間を見計らいながらインディアンとの衝突を避ける。一仕事終わると日が変っていて任期が切れる。すると馬を走らせ、サッと去って行く。その姿が何とも粋なのだ。

Tuesday 24 December 2013

南スーダンとウクライナ

今日はクリスマス・イブだ。この歳になると聖夜は大晦日だし、本当のクリスマスはやはり正月だ。ただそうはいっても、クリスマスには夢がある。ツリーを見れば気持ちが和らぐし、クリスマスソングを聴けば子供の頃を思い出す。、不思議な魔力がある。

そんな最中、自衛隊の弾丸1万発をPKOに提供することが決まった。提供先は南スーダンの駐留韓国軍だ。南スーダンは勿論行ったことのないが、イスラム教徒が支配するスーダンにあって数少ないキリスト教派の土地である。それがイスラム派の攻撃に遭っているので、今回の対応になったようだ。ウクライナもそうだ。元々はキリスト教をルーツにする民族だったが、ロシア正教が永年支配している。今回の発端になったEU加盟の是非は、原点に帰る戦いだ。

キリスト教とイスラム教とロシア正教と何が違うのか、信じる神が違う他は良く分からない。しかし例えば、キリスト教には禁酒とか礼拝の義務、女は人前では顔を隠し教育が受けられないという制約は少ない。特に利潤に対する考え方は寛容だ。プラスアルファを生む自由な活動は、イスラム・ロシア正教は悪に近い。自由を認めると既得権益が脅かされるからなのだろうか。今晩世界中で多くの人が自由への願いを込めて祈っている、そう思う一夜である。


Sunday 22 December 2013

別れの歌

先日、昔の仲間とカラオケに行った。例によってお決まりの曲をいくつか歌う。人が聞いていようがいまいが勝手に歌う。それでいて、出てくる歌はどれも聴き慣れた曲ばかりなので気が楽だ。

その晩、T君はユーミンの「ひこうき雲」を歌った。音程は外れていたが、久々に聞くといい歌詞だと思った。続いて歌った曲も比較的軽い曲だったが、昔に比べて選曲が変って来た。現役時代はもっとうらぶれていた。当時の十八番は、中島みゆきの「狼になりたい」だった。朝の吉野家を舞台にして、「ビールはまだか!」を遂々口にしてしまう歌だ。いつもイライラしストレスが溜まっている、それでいて何か出来る訳ではなく、正にピッタシの歌だった。

かく言う私も若い頃、会社仲間から「おまえが歌っているのは、別れの曲ばかりじゃないか」と言われたことがあった。そう言えば、レパートリーは尾崎紀世彦の「また逢う日まで」、小林旭の「北へ」、アリスの「冬の稲妻」・・・、一瞬ハッとした。確かにその頃は出会いと別れを繰り返していた。口ずさむ歌は、今を映し出しているのだ。




Friday 20 December 2013

忠臣蔵と「菊と刀」

連日TVで忠臣蔵をやっている。昨日は片岡知恵蔵の内蔵助であった。やはり彼は重みがあり適役だ。ストーリーも映画が異なると、都度発見もある。泉岳寺は47士の墓と思っていたが、浅野内匠頭が祭られた寺だったようだ。それから大石が江戸に入るに際し、立花左近なる侍に偽るシーンがある。真偽のほどは定かでないが、中々面白い。

忠臣蔵は日本人の忠義を象徴するドラマである。それを初めて紹介したのが、ルース・ベネディクト(Ruth Beendict)著の「菊と刀(Chrysanthemum and the Soward)」であった。そもそもは太平洋戦争時の日本研究だった。それが戦後の占領国管理に繋がったと言われている。ゴッホのジャポニズム同様に、外から諭されて気が付いた日本人の特性であった。

忠臣蔵を何度見ても飽きないのは、その忠誠心も沙流ことながら、死に際の美学だと思っている。人の一生は短い。増して歳を取れば醜くなる。それを脂の乗り切った若い時に散る潔さである。正に桜の散り際もそうだが、誰もが望む男の幕引きであろう。TVでは1960年代の日本の風景が出て来るのが見逃せないし、まだ戦争の余韻が役者の顔形に残っているのが何ともいい。

Tuesday 17 December 2013

違和感ある都議会

都議会が猪瀬知事の5000万円で揺れている。ただ、連日委員会で追及する姿勢にとても違和感を持つ。そもそも都議会は裁判所ではない。それなのに、まるで知事を被告のように大勢で吊し上げている。

猪瀬さんは石原さんに連れて来られた一匹狼だ。派閥もなければバックもない。今回はそれに付け込んでか、次の選挙に繋げる政治闘争のようなものを感じる。確かに大金を受け取ったのは問題だが、使った訳でもなく既に返却したんだからいいじゃないか、と思うのは私一人だけではないだろう。もういい加減に正常な都政に戻って欲しい。

猪瀬さんは元作家で、中々世間の不条理感覚に冴えた人だ。東電の株主としての提言や、都営と営団の地下鉄乗り入れなどヒット発言は多い。国会議事堂駅の「バカの壁」撤廃は、彼らしい着眼だった。そして何といっても最近ではオリンピック招地が良かった。人は誰でも間違いをするものだ。議会で一人ぐらい「もういいじゃないか!」と叫んでくれる勇気ある議員はいないのだろうか?

Saturday 14 December 2013

由比正雪、橘中佐、桜海老

静岡はお茶だけかと思っていた。ところが話を聞く内に、中々歴史の宝庫だと分かってきた。代表的なのは由比正雪、江戸時代に幕府に縦を突いた英雄だという。彼があって後に西郷隆盛と山岡雪舟の会談がここ静岡であった。それがなければ、江戸城の無血開城がなかったという。日露戦争の橘中佐もそうだ。駿府城跡地に今でも立派な石碑が建っている。本人は九州出身なのに・・・?と思いきや、静岡連隊の関係らしい。

 
そして桜海老である。桜海老は海老の通称かと思っていたが、駿河湾で取れる海老のみが桜海老と呼ばれるという。深海に生息しているため朝と夕方に浮かんでくる。駿台予備校や駿河台の地名もここから来たらしい。更に最近ではNHKの連ドラに出ている杏もいる。駅の近くにある三菱電機のマスコットガールになっている。タクシーの運転手さんも、駅のどこの柱に彼女の写真が貼ってあるか良く知っている。

何より市内から眺める富士山は迫力があった。当地の桜海老と鯵の天ぷら、黒はんぺん、生シラスの味噌和え、そして地酒お「志太泉」を飲みながら探訪したのであった。

物乞いに会って

地方都市の地下通路を歩いていたら、座って物乞いしている人がいた。母親のような年頃のおばあさんが、座布団に座りお椀を前にお金を乞いていた。最近では殆ど見慣れない光景だっただけに一瞬ハッとした。一度は通り過ぎたが、気になったので引き返し小銭を入れた。


そして歩き出すと、近くにいたおばさんから、「あんたのような優しい人見たのは初めてだよ!」と言われた。何気ないことだっただけに、突然人から褒められ複雑な心境になった。些細なことが、人の琴線に触れたことにも驚いた。

そもそも見も知らぬ人にお金を上げるのは、あまりいい思い出がない。特にヨーロッパの乞食はプロだから、お金を渡すと感謝されることもなく、むしろ「少ない」とクレームが付くのが落ちだ。中には序に「ビールが飲みたい」言ってくる輩もいるなど、往々にしてデマンディングである。その点、今回の人は本当に困っている様子で、とても乞食と呼べないものがあった。路頭に立たねばならない境遇の人って、日本狭しといえど意外と多いのだろうか。

Thursday 12 December 2013

フナッシーと海神の酒

京葉工業地帯に行った帰り船橋に寄ってみた。最近はフナッシーで有名になった町だ。フナッシーの縫ぐるみに入っている人は、長年芸を独自で磨いてきたという。素人には大して代わり映えしないキャラクターだが、熾烈な競争があるようだ。

その船橋だが、ゴルフ場以外はさして思い浮かべるものもない。ただここは工業地帯に通う人々の基地、今でいう城下町である。また、隣の駅の蘇我から内房線と外房線が分かれるのも面白い。外房は勝浦、銚子など魚のメッカに繋がっている。九十九里の広大な浜もあり、その起点が蘇我である。

ぶらっと寄った船橋の駅近くに、70歳を超える夫婦が永年やっている店があった。地酒を頼むと、鴨川の海神(カイジン)があるという。アルコール度が高いので、隣の人に2杯飲んだら腰を抜かしたので気を付けろと言われた。珍しい鯖の燻製を肴に、その酒を飲むと久々にグッとくるものがあった。甘く円やかでコクがあり、素晴らしかった。以前新潟の湯沢で飲んだ「うまいの助」以来だ。ご主人曰く、この酒を卸しているのは内だけだと。また寄ってみたい店だった。

Tuesday 10 December 2013

ショート広岡

大宮から上越新幹線に乗った。自由席だったが結構混んでいた。幸い3人用の窓側が空いていたので、通路側に座っていた人が立って通してくれた。続いておばさんもやってきて、真ん中の席に座った。やはり通路側の人が、自分の荷物が取って通してくれた。通路側の人はゴホゴホ咳をしていて、何か偉そうに威嚇する訳でもないだろうが、そんな気がしないでもない。

して次の駅の高崎で降りると、彼も降りた。一見どこかの大学教授風かと思ったが、背丈は190㎝近くはあるし、矍鑠としていてちょっと感じが違う。紺のブレザーに旅行用のバックを持っている後姿を見て気が付いた・・・「アッ、広岡だ!」。これで新幹線で出会うのは2度目だった。

広岡は元巨人のショート広岡、王や長嶋と9連覇のジャンアンツ黄金時代を築いた立役者だ。子供の頃は、憧れてその背番号2番を付けていた人だ。その後ヤクルト、西武ライオンズを日本一に導いた監督として、管理野球の方が有名になった。ただ個性が強い人だったようで、いろいろ軋轢もあったようだ。後ろ姿はとても80代には見えない。多分どこかの講演会に行く途中だったのだろう。凛としていて、今でも近付き難い雰囲気がある。

Sunday 8 December 2013

クリスマスツリーを見ると

師走の街、暫く前からあちこちにクリスマスツリーが立ち始めた。自分とは関係ないと思っていても、不思議と気持ちが和らぐ魔力を持っている。

そのクリスマス、この前ある外人から、「クリスマスと聞いて何を思い出すか?」と聞かれた。答えに詰まったが、思い出したのは、3年前のタリンのクリスマスツリーだ。市庁舎の前の広場に大きなツリーが立っていた。周りには多くの夜店が出ていた。氷点下10度以上というのに、観光客で賑わっていた。ホットワインで体を温め、民芸品のセーターや帽子の店を覗いていた。

そのクリスマス市場、発祥は13世紀のドイツという。ヨーロッパには2000以上のクリスマス市場があり、4億ユーロ(約560億円)の売り上げがあるという。その多くは今でもドイツで、観光地のロマンティック街道には、1年中クリスマスの飾り付けを売っている店もある。夜店の出展料も年々上がり続け、8M²でフランスのボルドーでは4-8千ユーロ(56~112万円)に対し、シャンゼリゼは14千ユーロ(約200万円)もするという。ともあれツリーには思い出と夢が詰まっている。

Saturday 7 December 2013

茅野から下諏訪温泉へ

茅野に行った。駅の改札は昔のままだが、新しく出来た公共施設は過疎の町には不釣り合いだった。美術館には絵画が10点程しかないし、図書館も殆ど本がない。使われていない音楽ホールと老人が居眠りするロビーがガランとしていた。タクシーの運転手によると、冬にはガラスが割れるし、無用の石畳に雪が溜まりスリップするという。毎度のことだが、箱物行政にがっかりする。
 
折角来たので、温泉にでも浸かろうと案内所の人に聞くと、隣駅の下諏訪温泉がいいと言う。東京とは逆方向の中央本線に乗り、上諏訪駅で降りる。金曜日だというのに人気は殆どない。立派な温泉宿があったので、思い切って敷居を跨いでみた。受付にはおじいさんが番頭をしていたが、耳が遠いのか叫んでもちっとも気が付かない。暫くして孫のような少年が降りてきて、日帰り入浴はOKだと言う。

客は誰もいない。突然だったが、廊下は良く手入れされ綺麗だ。温泉は滾々と湯が湧いていた。湯船を独り占めし暫し息をつく。それにしても、いつ来るか分からない客のために惜しみなく流れる湯は贅沢の極みだ。日本の温泉文化はかくも奥深い。遥々来た甲斐はあった。

Friday 6 December 2013

ヒッチコックの鳥

TVでヒッチコックの「鳥(The Birds)」をやっていた。自宅の周りにカラスやカモメが集まり、人間を襲うスリラー物だ。1960年代の映画にも拘わらず、合成撮影を上手く使い、臨場感はいまだに通用するものがあった。

20年ほど前になるか、フランスのブルターニュ半島の付け根にあるディナール(Dinar)の町を訪れたことがあった。対岸には、中世の城壁を残したサン・マロ(Saint-Malo)の町がある。観光地のモンサンミシェル(Mont Saint‐Michel)も近い。その町に何とヒッチコックの銅像が建っていた。肩にはカラスが止まっていたので、てっきり撮影がここで行われたと思った。確かに海辺だけあってカモメは多いが、それにしてもどうしてこんな場所を選んだのだろうと、ずっと疑問だった。

ところが最近それは間違いだったことが分かった。ディナールは単に映画祭を記念して作らたようだ。ディナールは潮が引くと、ゴツゴツした岩と海藻が現れる。荒涼とした風景には、サイコに出て来たような一軒家が良く似合う。クレープやカルバドスの産地もあり魚も美味しい。

Thursday 5 December 2013

パリの娼婦

フランス議会で、買春を行った際に課金が科されることが決まった。画期的だという一方で、非現実的だという意見の賛否両論だ。買った客は1500ユーロ(約21万円)の罰金義務が決まった。

(筆者はその道の専門家ではないが)フランスはかねがね鷹揚な国だ。今回も娼婦を客の暴力から保護するのが目的らしい。そのため普通にお金を払い交渉の結果合意に至るのは、対象になるか疑わしい。ル・ポアン誌によれば、フランスの娼婦は2~4万人、多くはパリに住んでいて、国籍はルーマニア人、中国人、ナイジェリア人、ロマ人など、外人が8割を占めるという。この道に入った動機も様々で、中国人は親元に送金するため、ナイジェリア人になると親から売られ、リビアの軍隊で娼婦として働いた後、フランスに流れてくるという。平均年齢は14歳から42歳だ。

一口に娼婦と言ってもピンキリだ。裸一貫で始めると、場代が掛からないのは森の中だ。有名なブーローニュの森は、夜になると突然車の前に飛び出して来る。着ていたマントをパッと開き、裸を見せるから気を付けなくてはならない。交渉が成立すると森の中で事に至るが、最後になってホモだと分かったりトラブルは尽きない。また一財産築いた娼婦は車とアパートを持つ。バンドーム広場などに止まっている車は、その手のキャリアだ。このため安全だが、値段と年齢が高いと言われる。ともあれ、フランスの事、そう簡単には社会は変わらないだろう。

Wednesday 4 December 2013

休日の六本木

週末、六本木ヒルズで食事をしようと久しぶりに都会に繰り出した。平日なら兎も角、休みの日までわざわざ都心に出る人もいないだろうと高を括っていたら、どっこい大変な人集りに圧倒されてしまった。昼をかなり過ぎているというのに、どこのレストランも長蛇の列だ。何もそこまでして待たなくてもいいのでは?と思ったが、その勢いは凄かった。
 

それにしてもこんな所まで出てくる人種って、一体どんな人なのだろう?まず思い浮かんだのは若い人のデートだ。ところが場所柄、若い人より結構年配者が多い。中年夫婦、マダム仲間、結婚式から流れて来た一派、TVで見たことがある女優とヤクザ風の黒服男・・・。アベノミクスの恩恵ではないだろうが、ここだけはデフレとは無縁のようだ。
 
どうやらこの現象は、丸の内や日本橋でも同じだという。都内の人は元より、新幹線で上京する地方の人、中国などの外国人が多いという。まるで山でも登るかのように、地方から都会に、都会の中でも更に都心のビルに向かって人が集まっている。人の心理もあるのだろう。ふと、昼からシャッターを閉めた地方の商店街を思い出してしまった。

Monday 2 December 2013

ミセス・ガンジーの墓

天皇皇后がインドを訪問している。53年ぶりの再訪問というので、思い出も一入だろう。インドは何といっても親日的な国だ。大東亜戦争がインド独立の切っ掛けになった縁だろう。チャンドラ・ボース(Chandra Bose)や、東京裁判のパール(Pal)判事などに代表される日本親派は多い。

インドは今や中国と並ぶ21世紀の大国だ。ただ、税金を払っているのは国民の2割に過ぎないので、貧富格差は未だに大きい。その社会を支えているのがカースト制度だ。ホテルで荷物を置きっぱなしにしていてもまず盗まれることはない。治安の良さに加え英語は公用語だ。インド訛りは聴き難いものがあるが、中国にない武器である。

今回の訪問では、ガンジー(Gandhi)の記念碑を訪れたという。ガンジーは遺骨を散骨したので墓はないからだ。ただミセス・ガンジーの墓はあった。暫く前にプネに行った時、ホテルからタクシーで連れて行ってもらった。ひっそりとした庭園に佇み、見過ごしてしまいそうだった。ガンジー13歳、夫人は14歳の時に結婚だったというので、どんな夫婦だったかのだろうか。

Sunday 1 December 2013

悪化する日中関係

日中関係が悪化している。尖閣を国有化してから次第に、特に先日の航空識別圏の設定では緊張感が一挙に増した。お互いにスクランブルを駆ければ、一触即発はもはや時間の問題だ。中国大使館が在日の中国人に、有事に備えて登録を促したのも事態の深刻さが伝わって来る。

戦争はある時降って湧いてくる。詰将棋のように、一手一手駒を進めるうちに、後戻りが効かない処まで来るからだ。問題はその後だ。どうやって納めるか、ケンカをやってみると分かり易い。そこに至るまでの過程があるから、お互いそう簡単には引き下がれない。最後はなぐり合いがうっぷんを晴らすまで続く。そうしないと中々終わらない。

先日京都を歩いていたら、中国語を話す一行と一緒になった。思わず「So beautiful !」と囁いた。すると一人の中国人が、「どうして私たちが中国人だと分かったのですか?」と、流暢な日本語でを聞かれた。「だって中国語で話していたじゃない」と返すと、「ああそうでしたね」と悪びれた様子になった。それはとても何か変な会話であった。中国に住む日本人も外出しなように気を付けているというが、日本を旅する中国人もそうなのだろうか。

Saturday 30 November 2013

高麗人って

最近ウズベキスタンに行った人が、「結構韓国人が多いんですよ」という。セントヘレナ島に流されたナポレオンが、島で清王朝の末裔と親しくなったと読んだことがあった。今回もどうしてこんな処にこんな人が?と思った。

調べて見ると、シベリアから移住させられた韓国人が20万人もいたという。同じように旧ソ連に住みついた朝鮮民族は50万人もいたという。彼らの事を高麗人と言うらしい。そう、高麗はコリアンの語源だったり高麗人参は今にその名残を残している。確かに・・・スタンという国にはおよそアジア系の顔をした人が多い。中国人の系統かと思っていたが、これには驚きだった。

今週号の週刊新潮に朴大統領の話が掲載されている。韓国から不適切だと批判があるらしいが、「恨」のことに触れている。昔から良く仕事で知り合った韓国の人と飲んだ。杯が進むと不思議と日本への対抗心が擡げて、熱くなり人によっては涙を流すのには参った。「恨」に繋がる歴史、まだまだ近くて遠い国のかも知れない。

Tuesday 26 November 2013

コカ・コーラのCM

「そのままでいいのさ、素顔に会えるから、感じてる、感じてるコカ・コーラ、爽やかテイスティ・・・」と爽快に歌うコカ・コーラのテーマソング、特に80年代の作品は自信に溢れ輝いていた。振り返る女性の笑顔が当時を象徴している。そのメロディーが最近TVに出始めた。これもアベノミックスの恩恵だろうかと、懐かしいものがある。

コカ・コーラのCMは時代を反映していて面白い。一時は目立たなかったが、最近はやっと活気が出て元気なヴァージョンに変ってきた。メロディーの後段は「初めてじゃないのさ、いつでも一緒だから・・・、もう一度確かめよう、毎日が新しい・・・」と続く。

団塊の世代と話していたら、今の人は可哀想だという話になった。何故かというと、バブル時代を知らないからだという。接待費は使い放題のため、飲み食い、帰りのタクシー代、週末の接待ゴルフ、延いては海外旅行までが会社のポケットから出たからだ。ことの顛末は兎も角、このCMには当時を思い出す懐かしいものを感じるのであった。

Monday 25 November 2013

シャネルとジャッキー

ケネディー暗殺の時に、ジャクリーヌが着ていたのがシャネルのピンクの服だ。彼女は血を浴びた服を着たまま、病院から機上でジョンソンの大統領就任に立ち会った。

暫く前に、シャネルの自伝である山口昌子著「シャネルの真実」を読んだ。山口さんは産經のパリ支局員を務めた本格派だ。彼女の記事を読むために、産經新聞を取る人が結構いるという有名人だ。そのシャネルだが、20世紀の女性解放の流れを上手く先取りして成功した。パリのグランパレが火事にあい、長いドレスが災いして逃げ遅れた女性が多かったことも幸いした。機能的でかつ女性を意識したスタイルが受けたようだ。本では彼女の生い立ちにも触れている。彼女は修道院に預けられた孤児だった。その時の飢えが、モノトーンの色彩にも繋がったと言われている。

ところでシャネルで有名なのは「シャネルの5番」と称する香水だ。マリリン・モンローも付けていた。そのモンローとケネディー大統領は不倫関係にあったので、ジャクリーヌにとってモンローは敵だった。シャネルが取り持つ縁というか、不思議な因縁を感じるのである。

Sunday 24 November 2013

健在の団塊世代

朝のラジオで堺屋太一さんが登場した。これからの団塊の世代を予測した本だそうだ。「油断」や「日本沈没」のように、経済現象に架空の登場人物を配し物語がよりリアルになっているという。聞いていて読んでみたくなった。

それは日本の高齢化社会の予想だ。例えば60歳以上と若い人が雇用機会を巡ってデモで対峙する、2020年の東京オリンピックでは純血主義が崩れ外人が活躍するのでお祭り気分になる、生活保護が一般化するため若者は働かないことに違和感を持たなくなる、亡くなる人の遺品が1万点で遺族が引き取るのは1000点、その残りが市場に出回る・・・等々。

日本は元々食に関しては世界一、そこに持ってきて医療がいいので人は中々死なない。お金も60歳以上が資産の80%以上を持つという。正に高齢化社会を支える条件は盤石だ。今日は秋晴れの一日、たまたま団塊世代と人達とゴルフした。皆大会社の一線を退き優雅に暮らしている。団塊世代は正に日本の形そのもの、これからも話題は尽きないようだ。

Saturday 23 November 2013

終活と就活

満員電車で吊り広告を見ていたら、週刊誌の「天皇・皇后の終活」が目に留まった。就活は聞いたことがあったが、終活は初耳だった。調べてみると、最近出来た造語だそうだ。ヒトの最後をどう生きるか、死と向かい合い準備することのようだ。このご時世、中々いい言葉だと思った。

同じような似同義語に、無職は夢職というのもあった。これも中々上手い事を云うなと思った。無職は収入がなく不安だ。霞を喰うような毎日は、老後を先取りしたようで辛いものがある。ただ過ぎてしまうと懐かしい。思ってもいなかった人生がその葛藤から始まった・・・と思うと、確かに失業時代は夢を求めて仕事していたのかも知れない。

今日TVを見ていたら、サザンオールスターの東北公演をやっていた。素晴らしいコンサートに釘付けになってしまったが、桑田佳祐が最後にジャンバルジャンならぬガンバルジャンと称して、レ・ミゼラブルに倣ったミニミュージカルを組んでいた。思わず笑ってしまったが、プロは面白いことを考える。

ケネディー暗殺50年

今日はケネディー大統領が暗殺されて50年目の日だ。時は1963年11月22日、テキサス州のダラスで事件は起きた。書店にはコーナーが出来るし、多くのメディアが連日記事を載せている。何か新しい事があったのかと、日米同時発売の「ウォーレン委員会50年目の証言(A Crude and Shocking Act)」を読んでみたが、相変わらず事件は闇の中だ。謎が謎呼ぶ殺人事件である。

以前このブログでも書いたが、事件現場の一角はビルを含めて当時のまま博物館として保存されている。訪れた人は、オズワルドが狙った窓から通りを眺めた後、今度は✖印の現場から窓を見上げ、そして首を捻るのである。そもそも、狙撃したとされるビルのパンフレットには、「それはグラシーノールに比べれば小さなビルである」というタイトルである。グラシーノールとは、通りを挟んだ小高い高台のことだ。公開されている8ミリを見ると、3発目の弾丸で大統領の頭は吹き飛ばされているのが、どう見ても後ろからではなく横か前からだ。その犯人が居たのがグラシーノールだった・・・と現場に立った人は思う。それにしても誰が何の目的で・・・?犯人はKGB、カストロ、CIA、FBI、地元のKKKなど、記念館にはその陰謀説がパネルで整理されているから驚きだ。

情報公開は2039年というからまだ26年もある。生きていて真実を知りたいと思うのは私だけではないだろう。まるで昨日の事のような出来事だが、大統領までも殺される国には背筋が寒くなるのである。




Thursday 21 November 2013

キャロライン・ケネディーと京都

キャロライン・ケネディが駐日大使に指名され、先日皇居で信任状の授与式があった。パレスホテルから馬車に乗り、天皇に接見する一連の儀式は思った以上に厳粛そうだった。ニュースではご本人も沙流ことながら、沿道に集まった庶民、元米国大使館員など、改めて日本の伝統に魅せられたようだ。

明日11月22日は、JFK暗殺50周年の記念日だ。御父君は第2次大戦時に中尉で従軍し、乗った魚雷艇が日本軍によって沈められた。その時部下を救った勇姿が大統領選の勝利に繋がったと言われている。またキャロラインが新婚旅行に選んだのは日本だった。何かの縁かも知れないが、ケネディー家と日本の因縁を感じるのだった。

今週はまた京都を訪れた。午後から東寺、東福寺を廻った。正に紅葉真っ盛り、晴れた空の元多くの観光客が訪れていた。歩いていて、ここが大戦下爆撃されないで良かったとつくづく思った。アメリカは敢えて古都を避けたのだろうか。寺も700年前と古い。思えばケネディーの先祖がアイルランドで、悪法のキルケニー法に虐げられていた頃だ。そんなことを考えながら、過ぎゆく秋を楽しんだのであった。

ナチスの絵画

先日、ドイツ南部のアウグスブルクでナチス時代の絵画が発見された。80歳の老人がスイス国境の警備員に職務質問されて、9000ユーロ(約110万円)を所持していたことが発端だった。自宅を調べてみたら、100㎡の部屋の1400点を超える絵画が置かれていた。マチス、ピカソ、シャガール、ルノワールなど、時価にして10億ユーロ(1300億円)相当というから驚きだ。

男は画商の父親から絵画を引き継いだものだという。生涯無職で独身の彼は、絵だけが友達だったらしい。密かに絵を売却しては食い繋いでいたようだが、それにしても永年よくも隠せ通したと感心してしまう。

第2次大戦時に絵画に纏わる話はよく聞く。映画「大列車作戦(The train)」では、フランスから鉄道で持ち出すのを鉄道員が阻止する話だったり、ソ連がドイツからプーシキン美術館に多くの絵画を移送した話は有名だ。今回の発見も、過去を辿れば面白い小説になりそうだ。

Saturday 16 November 2013

ねねの圓徳院と祇園

小雨の降る中、夜の京都を散策した。今回は八坂神社から高台寺、そして圓徳院を廻った。どこも始まったばかりの紅葉がライトアップされ、綺麗だった。夜にも拘わらず、多くの観光客が歩いていた。取り分け、初めて訪れた圓徳院は素晴らしかった。竜安寺のような石庭があり、縁側に座り暫し瞑想に耽った。

圓徳院は秀吉の妻ねねが晩年を過ごした場所だという。案内書には彼女が58歳から没する77歳まで過ごしたと記されていた。女性は亭主が居なくなってから元気になるという。心地良さそうな佇まいと、何より祇園は目と鼻の先、ちょっとお茶でもと歩いて行ける距離だった。東京で言えば赤坂・六本木、晩年はさぞかし快かったのではないかと思った。

して、寒くなった体を温めようと祇園に戻った。暖簾をくぐった割烹は、和服の女将とシャキッとした板前が出迎えてくれた。京都の店は繊細で、何より店に品書きがベタベタ張っていないのがいい。芸術品のような突き出しと温燗、そして何よりの静けさにいい感じになったのであった。

琵琶湖の浮御堂

寒い中、近江八景の一つ、琵琶湖の浮御堂を訪れた。浮御堂は京都から出る湖西線の堅田で下車する。ところが間違って琵琶湖線に乗ってしまった。慌てて引き返えすと、両方の線は山科で分かれ、湖の西廻りが湖西線、東廻りが琵琶湖線の2つがあることが分かった。堅田に向かう途中、比叡山坂本、雄琴温泉・・・とローカルな駅名が続いた。この辺から延暦寺に登るケーブルカーがあるためか、観光客が沢山下車した。そして突然暗くなり雨が降ってきた。

浮御堂に着くと、写真で見た通りに、御堂は琵琶湖にせり出しポツンと立っていた。国宝の重要文化財と聞いてはいたが、それは中にある尊像だけで、本体は再建されたものだった。近くに琵琶湖大橋が見えた。

波一つない静かな風景は、ややもすると物足りなさを感じた。訪れる人もあまりなく、佃煮を売っている土産物屋が寂しそうだった。引き上げる時になって、さっきまで降っていた雨が上がり虹が出た。澄んだ空気と夕焼けが映えて美しかった。それにしても、この辺は時間が止まったような地域だ。京都に戻り雑踏にホッとするものがあった。

Tuesday 12 November 2013

レイテ島の嵐

台風が猛威を振るい、フィリッピンでは1万人が被害にあったという。今回は大変な被害が出た。場所はレイテ島と聞いて、何やら思い当るものがあった。そう昭和19年のレイテ沖海戦だ。追い詰められた日本艦隊が止めを刺された一戦だった。この戦いで空母を殆ど失い、以降は地上戦に入って行った。レイテ湾に突入するはずの栗田艦隊も途中で断念した、俗にいう謎の反転だ。

レイテ沖海戦に先立ち、T戦法というのがあったと「零戦燃ゆ」に出ていた。それは台風を利用した攻撃で、日本海軍が台風シーズンを狙って仕掛けた奇襲作戦だった。敵の盲点を突くはずが、台風の中で飛ばすプロペラ機は如何なものだっただろう。頭文字のTは台風のT、そんなことをやっていた時代だった。

そして12月7日、ハワイ奇襲3周年目に大地震が名古屋を襲った。マグネチュード8の東南海地震だった。報道管制が敷かれ、事態は隠ぺいされたが、三菱始め多くの軍事工場が被害に会った。それは終戦を早めたと共に、特攻を一層加速させた両面を持っていた。ともあれ、今も昔もこの時期は自然が猛威を振るう。

Monday 11 November 2013

風に吹かれて

風には敏感だ、といっても風見鶏ではない。テニスをやっているので、風を味方に付ける必要がある。土曜日は11度と寒いく、北風が吹き昼から雨雲に覆われ暗い日中だった。一転して日曜日には南風、気温も上がったが強風でテニスには不向きだった。ロビングを上げると、ボールは追い風では流されるし、向かい風では死んでしまう。連日、目まぐるしく風向きが変わるのに翻弄されたが、これに慣れるのもテニスである。全てはボールをコントロールすることから始まるからだ。

風に纏わる話は多い。その一つが、竹中平蔵さんの「竹中式マトリクス勉強法」だ。竹中さんは若い頃から論客だったが、相変わらずずばっと本質を突くセンスは一流だ。彼はアリスこと谷村新司さんのファンで今でもコンサートに欠かさず行くという。本でも最後の締めに谷村さんの言葉を引用している。それは「鳥は向かい風の中、飛び立つ」で、彼の戦う気持ちが出ていた。

古くは、ボブ・ディランの「風に吹かれて(Blown' The Wind)」の歌も有名だ。当初は反戦歌だったが、焦燥感に覆い尽くされた時に、気が付けば頬を撫でる風だけが吹いているという歌だ。風に吹かれながら、「答えは風の中にある・・・」と続く。風はないに越したことはないが、そう!風あっての人生だ。



Saturday 9 November 2013

ハローウィンとカボチャ

先週はハローウィンだった。若い人が変った衣装を着て街を歩くお祭りだ。いつから輸入されたか知らないが、昔はなかった。暫く前だったか、会社の中年女性が今日はハローウィンで仮装するという。30歳を過ぎて今更何をやっているの?と喉まで出かかったが、グッと抑えて見送ったものだった。クリスマスも所詮初めはそうだったので、強ち舶来物にケチを付けるつもりはない。ただ所詮は仮装行列だ。

その主役のカボチャだが、コロンブスが15世紀にメキシコからスペインに持ち帰った物だという。英国のサツマイモことサツマと同様、欧州では輸入品だった。廻りまわって今では日本の風物詩になっている。

 
小学校の時、パンプキンという仇名の女の子がいた。読んで字の如く、漫画に出てくるような大きな丸顔にニキビ面だった。時代が時代なら、もう少し違った仇名が付いたと思う。ただ当時はカボチャと言えばジャガイモのような存在、子供は正直だった。ハローウィンのカボチャを見ると、当時の頃を思い出す。


オランダの花文化

アベノミックスの第一の矢は超金融緩和だ。「バンカーに入ったらサンドウェッジでしょ!」と、正にその通りである。一方、インフレ、取り分けハイパーインフレから来るバブルは、80年代の二の舞にならないように、気を付けなくてはならない。

そのバブルだが、歴史上の発端はオランダのチューリップ投機と言われている。1600年代の事ゆえ、誰もそれが何だか知らないが、兎に角球根の買占めが、人々の生活を大きく狂わせたようだ。先日TVでオランダの花を紹介していたが、オランダの花の競りは、当時の教訓から上限が決まっていて、高い方から安い方に向かって競売するという。

オランダは、今や世界の花の流通の60%が経由しているという。欧州のみならず、アフリカ、中東の花がここオランダに集まる、正に魚で言えば築地のような地位を築いている。花は目出度い時も悲しい時も、まるで酒のように欠かせない存在だ。取り分け人生の節目の求愛と謝罪には無くてはならない。TVで面白かったのは、年金生活者は10本で3ユーロ(約400円)と安く買えるということだった。年寄りは家に長くいるせいか、花を見ていると気が和むという。いかにもオランダらしい計らいで感心した。

Wednesday 6 November 2013

Nさんからの手紙

昔お世話になったNさんから葉書が来た。Nさんは今年70歳、暫く前にお会いした時、緑内障を患っていると言っていた。今回の手紙は、その目の負担を軽くすべく、今後は季節の挨拶を失礼するといった趣旨の内容だった。
 
ややもすれば、ダラダラと賀状だけが行き交うことが多い。それを心配して早い内から手を打ってきた。中々出来るようで勇気がいることだと感心した。それで思い出したのは、ゼミの先生だった。会は黙っていれば先生が生きている限り続く。元気なうちはいいが、歳を取ってくると何があるか分からない。ややもすると醜い姿を人目に曝すことにもなり兼ねない。身近にそんなことがあったのか、随分前にXX会は止めになった。
 
人間不思議なもので、一度区切りを付けると気が楽になり、また会ってみようかという気になる。そろそろ師走の足音が聞こえて来そうな今日この頃、また賀状の心配の時期になってきた。そんな折、Nさんの英断はとても参考になるのであった。

Monday 4 November 2013

楽天に負けるな!

楽天イーグルスが日本シリーズで優勝した。創部9年目で頂点を極めた。野球に日頃疎い者でも、この7戦はハラハラした。マー君の無配記録も沙流ことながら、何より東北に本拠地を置く球団の勝利は大きかった。きっと多くの人の願いが通じた賜物だろう。

傍から見ていて星野監督だからこそ、ここまで来れた感じがした。選手は孫の世代、そのため直接指導するのはコーチだったという。つい甘やかしたくなる気持ちを抑え、非情な監督業はさぞかし大変だったと想像する。折しも震災の年から、地元の復興を見ながらのことだった。話を聞いていて、星野さんは奥さんに先立たれ一人住まい、酒は飲まないと聞いてびっくりした。一体どうやって自身をコントロールしていたのだろう?と思った。優勝して開口一番に「選手を褒めてやって下さい!」と挨拶していたのが印象的だった。

そして地元のファンの一言にジーンと来た。それは「楽天に負けるな!」だった。そんな気持ちにさせてくれた快挙だったのだ。

Sunday 3 November 2013

ハニートラップとロシア料理

ゴルフの件で電話したFさんが、「面白い本があるんだ」と言う。ジェイスン・マシューズ著「レッド・スパロー(Red Sparrow)」で、スパイ小説だ。早速読んでみると、ロシアの雀こと、ハニートラップを専門とする女スパイが主人公だった。色仕掛けのプロを養成する専門学校や、諜報員の待ち合わせ場所など、元CIAの著者ならではの世界が紹介されている。

本の最後に、米ロで捕まったスパイ返還が行われる。場所はエストニアのナルヴァである。ナルヴァはエストニアとロシアの国境の町で一度訪れたことがある。ナルヴァ川を挟んで検問所があり、毎日ロシア側から労働者が渡ってくる。かつてはスウェーデンがピュートロ大帝を破った大北方戦争の舞台で、美しい町があったという。それを第2次大戦でソ連が破壊し、結局はソ連がその後居座ったので再建を余儀なくされた皮肉な歴史がある。エストニア側の高台からロシアが見えるが、38度線ではないが、渡ったら最後2度と戻れない怖さが伝わって来る。

本で面白いのは、各場面で出されるロシア料理のレシピが紹介されていることだ。どうやらFさんはそれが気に入ったようだった。

Saturday 2 November 2013

特攻隊員と月光の曲

鳥栖に、特攻で飛び立つ飛行兵が奏でたピアノであると聞いていた。以前から気になっていたので、近くに行った際に寄ってみた。それは駅前のひっそりした会館のロビーに置いてあった。説明によると、太平洋戦争の末期に、ピアノが置いてあった学校に突然2人の特攻隊員が現れ、最後の思い出にとベートーベンの「月光」を弾いたという。

九州は鹿屋、知覧だけでなく、多くの飛行場があった。その飛行兵はどこから飛び立ったのか、そしてその後どうなったのか知る由もない。映画にもなったというが、見たこともない。ただこうして場所柄、今もって当時の面影を残している。信州の別所に無言館があるが、そこに行った時と同じような気持ちになった。

その晩は、三瀬(みつせ)の鳥を味わった。焼き鳥、ささみ、どれをとっても新鮮で旨かった。そして地酒も最高だった。能古見、鍋島、万齢、東一、宮の松と、聴き慣れない銘柄だが、鳥との相性は抜群だ。ちょっとした処に旅情を感じたのだった。

Thursday 31 October 2013

住み易い日本

日本の食文化は世界一である。値段も沙流ことながら、その質とバリエーションは稀有なものがある。代表的なのはラーメンだ。たかがラーメン、去れどラーメン、その味に込める人々の情熱は凄いものがある。ラーメンでしてこの競争力、底辺のしっかりした日本の食文化を象徴している。

人は衣食住でバランスを取っている。日本の国土は狭いので、住は諦めて食と衣に注力している・・・と思っていた。ミシュランが本場フランスを凌ぐ星を得ているのは当然だし、ユニクロの登場も然り、しかし住宅環境は諦めていた。ところが、そうでもないらしい。

久々に昔の職場仲間と焼き鳥屋に行った時のことだ。オープンスペースの、どこから見てもこれ以下ない店であった。話が弾んだ頃、隣にアメリカ人2人が入ってきた。聞くと流暢な日本語で「焼酎梅入り、枝豆とつくね2本・・・」とオーダーしている。どうやら長年日本に住む英語教師だそうだ。ウェルカム!から始まり意気投合すると、日本や住み易いという話になった。駅から10分以内の1DKで6-7万円に住んでいるというが、それはNYの家賃の3分の1だそうだ。飲み代もマンハッタンでちょっと飲めば70ドル、7000円の世界に比べて東京は安いという。デフレの影響もあって日本は結構いい水準まで落ちて来たせいかも知れない。ともあれ外人に住み易いのはいいことだ。

Monday 28 October 2013

岩谷時子さんに感謝

作詞家の岩谷時子さんが亡くなった。岩谷さんは私の大好きな作曲家、弾厚作の歌詞を長年作っていた。もうかれこれ50年も続いているだろうか、多くの曲を作ってくれた。その一つのフェアウェル(今は別れの時)の一節、別れの時が来たようだ。

以前からどうやってその作詞をしたのか、不思議だった。その過程はあまり知らされていなかったし、それにしては弾厚作の生き様、タイムリーな気持ちを良く引き出していた。でも段々、弾厚作が自身の思いを語り、それをジーと聴いてある時歌詞にして持ってくる、そうやって曲を作っていたと思えるようになった。自分でも分からない自身の気持ちを形にしてくれる、正にプロの通訳のような人だった。

この人の歌詞がなかったら、弾厚作の歌もなかったし、私の節目のバックコーラスもなかった。そう思うと、とてもとても感謝する気持ちで一杯だ。岩谷さん、今まで長い間・・・思い出くれてありがとう!




Sunday 27 October 2013

ジプシーとキリスト

あるフランス人と話していたら、ロマ人ことジプシー(仏語でGitan)の話題になった。欧州には1000万人を超えるジプシーがいる。昔は違法に入国していたのが、2007年にEUに加盟して以降、堂々と来るようになったという。その多くはルーマニアとブルガリア人だ。代々の盗みを職業にしているため、当然人種差別の対象になっている。そのジプシー、フランスのカマルグ(Camargue)にも居るというので興味を持った。

カマルグはプロバンス地方の湿地帯にある。近くに闘牛で有名なアルルの町があるが、昔はそこに牛を納めていた地域だ。ジーンズのデニム(Denim)は近くのニーム(Nimes)の町が語源であるが、確かにこの辺は放牧に携わる人が多かったようだ。そのせいか、今でもカマルグには白い馬が多く放牧されている。その他、フラミンゴやフクロウなど、野生の動物も有名だ。

そう言われてみると、確かに毎年夏に各地からジプシーが集まる祭りが披かれる。「黒いサラ」と呼ばれる聖女を偲ぶのが名目だ。サラはエジプトからやっていた娘である。それを聞いて思い出しのはマグダラのマリアだ。ダ・ビンチ・コードにも登場するが、キリストの子を宿った女性がエジプトから逃れれて今のプロバンスに上陸、そして密かに保護されながら今日に至っているという話だ。ジプシーとキリスト、全く正反対の二人がどこかで結びつこうとしている。


Saturday 26 October 2013

雨の蕎麦屋

雨と聞くとホッとする。晴れればテニスだジョギングだと、長年の習慣で急き立てられるからだ。その点、昨夜からの大型台風は諦めもついた。そう思うと、急に昼から酒が飲みたくなった。

久々に近所の老舗の蕎麦屋に行くことにした。粋な日本庭園の鳥居と苔の生えた風情が、とても落ち着く店である。例によって剣菱の升酒から始める。やはり昼から飲む酒は格別だ。寒くなったので、湯豆腐を頼む。徐々に混んできたが、雨のせいか心持静かな感じがする。途中から温燗に切り替え、3合ほど飲んだところで蕎麦を頼む。少々高いが、今日は胡麻だれせいろにした。何とも言えない上品な味だ。そしてここは蕎麦湯がとても美味しい。

店を出る頃には雨も上がっていた。時々はこうして襟を正し、昼からグルメ三昧するのもいいものだ。

ミッドウェー海戦

決して戦争オタクとは言われたくないが、年を重ねるにつれ、DNAは隠しようがなくなってきた。柳田邦男の「零戦燃ゆ」を夢中で読み漁る内に、ミッドウェー海戦が出てきた。真珠湾から優勢だった日本が、一瞬にして空母4隻と飛行機200機以上を一挙に失った歴史の転換点だ。

もしもあの時、最初の通り魚雷を装着していれば、南雲司令長官でなく他の指揮官だったら、と何度思ったのは私一人ではないだろう。最近読んだ本でも、ベストセラーの「永遠0(ゼロ)」、「淵田美津雄自叙伝」、ケン・フォーレットの「Winter of the world」などにも出てくる。永遠のゼロの作者は、南雲は実践経験がない人だと言うし、真珠湾の飛行隊長だった淵田はズバリ指揮官の資質に欠けていたと酷評している。またケン・フォーレットはひょっとして映画「Midway」を見て書いた?と思うほど、正確に定説を再現していた。

仮にミッドウェー海戦で勝利を得ても、その後の物量で凌駕されていたと考えるか、この勢いで和平に持ち込んだか、それは分からない。ただこの一戦を境に日本は敗戦の道を進み始め、結果として多くの人が命を失ったことは事実だ。今日満員電車に埋め込まれるのも、高いお金を払ってゴルフするのも、果ては満州という大きな国土を失ったからかも知れない・・・とは思わないが、今更ながら悔いても悔いてもお釣りが来る一戦だった。

Thursday 24 October 2013

パブ仲間からの便り

エストニアのパブ仲間から久々にメールが来た。このブログでも何度か紹介したMさんだ。Mさんはスイス人、ホテルのマネージャーだったが、仕事の関係でエストニアに滞在したのを縁に住み着いた。

ところが今年、定年を契機にスペイン領のテネリフェ島に移住した。寒いバルト海から、暖かなカナリア諸島は楽園のようなだと言っていた。気候も沙流ことながら、毎日ビキニ姿の女性が取り分け気に入っていたようだ。歳はとっても好奇心は旺盛で、その世界の隠語の権威だった。よくエッチな言葉を日本語で何ていうのと聞かれて、返答に窮したものだった。

ところが半年経って流石に見飽きてきたのか、またエストニアに戻って来たという。曰く、やはり世界で一番美しいのはエストニアの女性だと。寒くて然したる娯楽もない国だが、その何もない世界は、本国スイスと通じるものがあったのかも知れない。彼はスイスに自宅があるので、勿論クリスマスは本国で過ごす。ヨーロッパには、こうして渡り鳥の生活をしている人が多い。

クラーク博士の喝

秋の札幌を訪れた。14度と東京の服装ではやや肌寒く、既に冬の気配がした。道庁から北大の構内にかけて散歩してみた。秋の薄い日差しの中、ポプラ並木の紅葉が美しかった。

構内にはクラーク博士の銅像があった。我々にとっては、「少年よ、大志を抱け!(Boys, be ambitious!)」の言葉で有名な人だが、調べてみるとたった8か月しか北大にいなかったようだ。そんな人が創業者のように、語り継がれてることに何か不自然なものを感じた。また学生を前に、本当にそう言ったかどうかも怪しい。

北海道、取り分け札幌は昔から役人が多いところだ。加えて長い冬は人を家の中に閉じ込めるので、決してチャレンジ精神に富んでいるとは言い難い土地柄である。因みに電力会社は全部で沖縄を入れ10社あるので、これを比較すると土地柄が分かる。南の九州、中国、四国の会社は、東電、関電に習おうとキャッチアップ精神が旺盛だ。それに反し、北陸と北海道は慎重というか保守的というか、話していてどうもノリが悪い。北海道の人を悪く言うつもりはないが、そんな人たちを見てクラーク博士は喝を入れたくなったのではないか?先の言葉の意味も本当は、「君たち、もっと覇気を持って!」だったのではないか?構内を歩いていてそんな気がしてきた。

Tuesday 22 October 2013

特定機密保護法案を巡って

特定機密保護法案の議論が熱を帯びている。確かに今まで何もなかったこと自体が驚きだ。マスコミは、「国民の知る権利が脅かされるのは問題だ」と反論する。戦時中の言論統制と重ねる人が多いからだ。勝っていたと思った戦争が、一転して戦争が終われば「私達を騙しておいて・・・」という記憶が生々しい。

一方で情報が何でも公開されるとどうなるのか。今の全国学力テストがその典型的な例だ。試験はやったが、多くの県で公開を拒んでいるという。傍から見ていて、一体何のための全国試験だったのかと思う。点数が低ければ頑張ろうと思えばいいし、何を尻込みしているのだろう。人は何でも知りたいと主張するが、自分の都合が悪くなると急に尻込みする。それは何も政治家に限ったことではない。

裁判員制度もそうだった。民間から選ばれた裁判員が犯罪者を裁く立場に付くと、多くに人が心や体調を崩したと聞く。本音は「出来れば聞かないで済むならそうしたい」だ。とても難しいが、日本人は人と向かい合うのに慣れていない。保護法案は輸入物である。それを咀嚼する強さがないと、何も始まらない・・・。

Sunday 20 October 2013

台風は左回り

連日、台風が日本列島を襲う。今回は大島で大きな被害が出ている。気候変動の影響か、はては最新の気象コンピューターで精度が向上したせいか、以前にも増して報道が活発になっている気がする。

テニスクラブで雑談していたら、その台風は左回りだという話になった。北半球では左、南半球の台風(サイクロン)は右回りだという。風呂の栓を抜いても、日本では左回りの渦が出来ると聞いて早速実験してみた。確かにそうだった。して南半球は渦が反対に回るという。どうやら地球の回転の関係らしい。

また台風の進路についても、気象庁とアメリカの情報は微妙に違うらしい。アメリカは軍事上の配慮なのか、日本のそれより北を通る経路を予想するという。空に詳しい友人のNさんは、毎日これを比べては首を捻っている。

Saturday 19 October 2013

別府のアルゲリッヒ

仕事仲間のYさんが「これ聴いてみない?」とiTunesを貸してくれた。音楽談義で盛り上がったマルタ・アルゲリッヒのピアノだった。それも日本の童謡を奏でる、珍しいシリーズだった。「いいね!」と返すと、そうでしょとばかり、日本で録音された逸品だという。童謡をジャズで聴いたことはあったが、巨匠が弾くピアノは初めてだった。静かでとても心が落ち着く不思議な旋律だった。

アルゲリッヒは1969年にショパンコンクールで優勝し有名になった。それから確か3-4年して来日、当時上野の文化会館に足を運んでいた者として、その演奏会は強烈な印象だった。演奏が終わり、自宅に着くまで呆然と余韻に浸っていたのを、昨日のことのように覚えている。それから20数年してパリでも聴いたが、最初ほどの迫力はなかった。

誰かが彼女には子供が3人いるが、父親は皆違うと言っていた。波乱に富んだ人生を、温泉で癒している訳でもないだろうが、別府を気に入ってくれて嬉しい限りだ。先の童謡もそこで録音されたようだ。

優勝で知る世界

先日の体育の日、とあるゴルフコンペに参加した。秋晴れの下、100人を超えるゴルファーが集まった。18ホールのストロークプレーで、終わってみれば40%が80台、62%が100を切るハイレベルな戦いだった。その中で、優勝したのはチームで参加した団塊世代の男性だった。1年分のビールと肉の詰め合わせを賞品にもらい、それは嬉しそうだった。

壇上に上がった男性は一言「やったー!」と叫んだ。童心に返り、それはいい表情だった。一緒の参加した仲間から、「同伴者に恵まれて・・・」の挨拶がないとヤジが飛び、慌てて言い直すと大受けしていた。チームからは女性のベスグロがでるなど、確かに素敵なゴルフ仲間の存在があったようだ。傍から見ていて絵になるような人達で、正直羨ましかった。

思えば自分も、「この10年で何が一番嬉しかったか?」と聞かれれば、こうして祝福されたことだ。数年前だったか、テニスクラブのシングルスで優勝した事があった。60名ほどのドングリの背比べの戦いだったが、暑さと雨を含んだコートで球足が遅くなったのが味方して、勝つことが出来た。まぐれとは言え初めて立った頂点だった。祝勝会には100名を超す仲間が集まり、初めて人から祝福されるのがこんなに幸せなことかと知った。優勝は滅多にないが、それだけにチャレンジする価値はあると思う。何より勝って初めて見る世界がある。

Thursday 17 October 2013

僕らはアンパンマン

漫画家のやなせたかしさんが亡くなった。「手のひらに太陽を」の作詞も手がけたとは知らなかったが、その代表作アンパンマンは多くの人に影響を残した。

私はアンパンマン体操の歌が好きだ。「もしも自信をなくして挫けそうになっても、いい事だけいい事だけ思い出そう!」のフレーズがとても気に入っている。今でも何かあると口ずさんでは元気になる。一昔前はひょっこり瓢箪島があった。やはり、「苦しいこともあるだろう、悲しいこともあるだろう、だけど僕らは挫けない、進めひょっこり瓢箪島!」の歌だ。

やなせさんは、生きる続けることの大切さを生涯訴え続けた人だ。その執念はどこから来たのだろう。一説に弟さんが学徒で出征し、特攻で亡くなったと聞いたことがある。その戦争体験が、美味しいパンを主人公にした話にも繋っていたらしい。アンパンマンは日本の子供なら誰でも潜る門だ。バイキンマンをやっつけるアンパンチを経て男の子は大きくなっていく。そして大人になっても純粋な子供時代を忘れないように、土産を残してくれたのがやなせさんだった。アンパンマンは今の僕らでもあるのだ!

Thursday 10 October 2013

ロンシャンの競馬場

随分前になるが、会社の後輩から電話があり、今度パリに出張で行くんですよ!と連絡があった。彼は大の競馬好き、ついては競馬場を見たいという。私は馬には乗るが、競馬は全くの門外漢だった。ただ下見と称して、近くのロンシャン競馬場に行ってみた。

休日だったか、次から次へと出走するレースが行われていた。華やかな紳士淑女とは無縁の草競馬だ。試しに馬券なるものを買ってみた。確か当時の10フラン(200円)だったか、簡単に買えて庶民の娯楽といった印象だった。そのロンシャンで、今年も凱旋門賞(Prix de l'Arc de Triomphe)が拓かれ、日本から出場したオルフェーブルが2着に入った。2400mの長丁場、中々勝てない鬼門だそうだ。現地まで出向き残念がっていた人がいたが、最高峰の大会らしい。それにしても地球の反対側に馬を運ぶだけでも、どれだけお金が掛かかることやら・・・。

ロンシャンはブーローニュの森にある。近くに小さな滝もある散策地である。またパリ市の北にはシャンティー競馬場もある。こちらはミシュランの3つ星が付いているお城に隣接している。コンデ伯の美術品と、屋内で馬のショーが見れる厩舎は高級感に溢れている。ランブイエやフォンテンブローの森では、馬の遠乗りが楽しめる。この辺は馬と身近な環境に溢れ、羨ましい限りだ。