Sunday 31 December 2017

ハイランドパーク

その金正恩が余生を送る北海の島って、どんなとこなのだろう?未知の世界で想像もつかないが、きっと住んでいる人も少なく寂しい場所なのだろうか?そんな事を思っていたら、何年か前に行ったオークニー島を思い出した。

オークニー島に行くには、スコットランドの北の端から船で3時間程掛かる。今でも紀元前の居住跡や列石が手付かずで残されているが、それらをエジンバラで借りたレンタカーで廻った。驚くことに、ロンドン郊外のストーンヘンジを上回る大変な列石群であった。今から5000年以上昔にこんなに寒い地に人が住んでいてかと思うと感動ものであった。そんな寒冷地に唯一ウィスキーの醸造所があった。知る人ぞ知るスモーキーなハイランドパーク(Highland Park)である。同じスコットランドのアイラと同じ孤島で作る風味は、そこで生きた人々の孤独とユーモアが伝わってくる味わいがある。

同じ北海にはベア島もある。行った事はないが、A・マクリーンの「北海の墓場(原題:Bear Island」)の舞台である。「ナヴァロンの要塞」や「シンガポール脱出」の著者が繰り広げるサスペンスである。物語はベアー島という北海の孤島に撮影隊が行く話だが、戦時中の財宝探しが絡んでいてとても面白い。読んでいると冬の荒波が聞こえて来るような迫力がある。ハイランドパークを飲みながら読むと、より小説がリアルになった記憶がある。

Friday 29 December 2017

スヴァールバル諸島

最近は何でもネットに出ているから、遂読み入ってしまう。最たるものは金正恩の亡命先だ。Xデーが来ると、彼はウラジオストック経由でロシアの居住区に逃れるらしい。そこには既に彼の別荘があるというから驚きだ。本当かどうか分からないが、改めて情報網の凄さを知った。

その亡命先だがスヴァールバル諸島(Svalbard)という。どこかと思って調べてみると、ノルウェーの北方の大きな島だった。地権はノルウェーだが、ロシア人の独立した居留地があるという。今でも2000人程の人が住んでいるが、厳しい自然環境は半端ではない。7月の夏でも最高気温は7度、冬になれば−20度になるという。とても北朝鮮の寒さどころでなく、移った処でそんな地で暮らす金一家の毎日がどんなものか、想像に絶するものがある。

Xデーはやはりオリンピックが終わった頃なのだろうか?先のソチオリンピックも、終わると直ぐにロシアがクリミアに侵攻した。古くはサラエボオリンピックもあった。こちらは8年後だったが、ボツニア紛争が起きた。この夏に訪れたサラエボ市は山で囲まれた盆地だった。周囲の山をセルビア軍に抑えられ砲弾が降って来た。勿論オリンピックの施設も、損害の例外ではなかった。そんな現実も知ったので(本当はない方がいい戦争だが)、ついついXデーを考えてしまう。

Monday 25 December 2017

クリスマスの退避

今日はクリスマスである。若い時ならいざ知らず、もう普通の日と変わらなくなってしまった。ただキリスト教の国の人達は違う。昔、合併交渉の佳境に入った頃、外人はクリスマスだからと一斉に帰国して姿を消してしまったのには流石驚いた。彼らにとってクリスマスとはそういうものなのかも知れない。

話は変わって緊迫する北朝鮮の状況、Xデーはいつになるのか気になる今日この頃だ。そんな事は起きないと多くの人は思っているが、放っておけば核の完成が近づくことだけは事実である。そんな最中、いつもの居酒屋論議で盛り上がった。誰かが「アメリカ人なら、クリスマスに誰でも家族を国に返すよ!」と言うのを聞いてハッとした。確かに彼らは2~3週間は帰国して冬休みを取る。あえて退避させる必要はない、年に一度の機会である。

そうは言っても冬季オリンピックも控えているから、仮に戦争が始まれば中止になってしまう。まさかないだろう?そうは思っても、ヤケに気になるこの時期だ。夕刊フジは1月9日説の記事を書いている。1月8日が金正恩の誕生日だからだ。

Sunday 24 December 2017

ファンドマネージャー

新聞を見ていたら、Sさんの名前があった。発掘株を紹介した本の推薦人だった。久々にお目に掛かったような気分になり嬉しかった。

Sさんは外資のファンドマネージャーだった。30年以上前から業界で名を馳せていた。たまたま同じテニスクラブで知り合ったが、いつも真っ赤なフェラーリでやって来ては豪快なテニスをしていた。若いのに髭を蓄え、綺麗な奥さんを同伴していた。噂ではハワイのマウイ島の別荘から、電話一本でトレーディングをしていると聞き、何とも格好いい姿に憧れたものだった。

浮き沈みが激しく、生き馬の目を抜く様な業界にあって、こうして長きに渡り一線で活躍していることは凄い事だ。氏の投資スタイルは集中した長期投資だそうだ。バフェットや澤上ファンドも確かそうだったが、中々出来るものではない。精悍な目つきの奥にどこか優しさを持ち合わせた人でもあった。きっと経営者とやり合えるのは、その人柄なのかも知れない。

Friday 22 December 2017

カイザー・シュマーレン

ドイツのデザートに、カイザー・シュマーレン(Kaiser Schmarren)がある。卵、牛乳、砂糖などで焼き上げるパンケーキであるが、プリンのように中は柔らかいのが特徴だ。上にはシュークリームが乗っていて、出て来る時は温かく、結構量も多いので食べ応えがある。名前のカイザー(皇帝)は、最後のハプスブルグ皇帝のフランツ・ジョセフから来ているらしい。

そのカイザー・シュマーレンを初めて食べたのが、ミュンヘンの郊外の小さなレストランだった。冬のある日、外は雪が積もる寒い日だった。辺りは静かで、教会の鐘の音だけ聞こえて来る田舎である。室内は暖炉で温かく、地元のヴァイツ(白)ビールとモーゼルワインを飲むとすっかりご機嫌になった。何を食べたか今になっては忘れてしまったが、肉料理しかない地域であるから、食べ終わった頃にはお腹が一杯になっていた。それでも最後に出てきたこのデザートを満喫できたのは、とても美味しかったからである。

実はそのレストランに連れて行ってくれたのが、ドイツ人のSさんだった。知的で鋭いビジネスマンだった。男同士の食事のため、普通なら割愛するデザートをその時は無理して頼んでくれた。しかしその後、Sさんとは距離が出来てしまい2度と二人で食事をすることはなかった。カイザー・シュマーレンの甘い味は、苦い思い出と相まって記憶に残るのであった。

Thursday 21 December 2017

偶然のサラエボ事件

江村洋著「フランツ・ヨーゼフ(ハプスブルグ最後の皇帝)」を読んでいたら、バルカン半島とシンクロする事がもう一つあった。それはサラエボ事件の現場であった。ボツニア・ヘルツゴビナの首都サラエボを訪れたオーストリア皇太子が狙撃され、それが切っ掛けで第一次世界大戦が始まった話は有名である。この夏にその現場に立った時はとても感動した。それはミリャツカ川に沿った大きな通りから入った、一方通行の細い一角であった。そこに曲がるには車の速度を落とさねばならない場所だった。あのダラスで起きたJFKと全く同じ状況であった。犯人グループはその日の為に、複数人が市内に配置して皇太子を待っていた。一発目は花束に包んだ爆弾だったが、幸い後続車の前で爆発した。ただ皇太子は何を思ったか、そこで負傷したお付きを見舞うと言って車を反転させ現場近くに戻って行った。まさか来るとは思っていなかった犯人の男は、目の前に差し掛かった獲物を見て咄嗟に引き金を引いた。

皇太子と言っても奥さんは身分が低かったので、皇帝は始め結婚に反対した。結局渋々許可した条件が、一代限りで子供に継承権は与えなかった。それを「貴賤結婚」というらしいが、その言葉を今回初めて知った。そんな皇太子が唯一奥さんを同伴したのがサラエボだった。江村さんの本はその辺のセンチメンタルにも触れているので、とても読者を引き込ませる力がある。いい例が皇帝の性格だ。例えばヨーゼフは倹約家で使い用紙にメモして指令するとか、軍人として朝4時に起きて11時に就寝するルーチン好きだとか・・・、こうしたフレーズが読者をして皇帝との距離を縮めてくれる。

「最後の皇帝」という意味は、それを象徴する多くの悲劇が決定打になっていたようだ。皇帝の一人息子は心中し、弟はメキシコで、奥さんのエリザベートもイタリア人に殺害された。そしてこうして甥だった皇帝夫妻もそのテロに会った。改めて時代の運命を感じてしまうが、それはまた現実的で皮肉的であった。テロを起こしたセルビアは、ハプスブルグのオーストリア・ハンガリー同盟から離れたいと思っていたかも知れないが、結果的には敵対したロシアの傘下に入ってしまったからだ。それを思うとあのクロアチアやスロベニアのように、じっとした方が良かったのではないか?と思ってしまうのである。いずれにせよ、撃ったプリンツィップ(Princip)というセルビア人は、まさか皇太子が目の前に来るとは思ってもなくサンドイッチを食べていたというから、偶然というか、そんな歴史の巡り合わせに立ち止ってしまうのであった。

Tuesday 19 December 2017

フランツ・ヨーゼフのホテル

この夏に、クロアチアのプーラ(Pula)という町に泊まった。ローマ時代のコロシアムが残るアドリア海の古い町だった。泊まったのは地元の人に教えてもらった大きなホテルであった。受付の女性が、「ここは昔XXも泊まったのですよ」と教えてくれたが、その人が誰だか分からなかった。ただどこかで聞いた名前だったのでずっと気になっていた。

ところが最近古本屋で買った「フランツ・ヨーゼフ、ハプスブルグ最後の皇帝」を読んでいたら、何とその時の話が出ていた。時代は18754月、まだ日本では明治維新が終わり廃藩置県の行われた頃だった。当時のハプスブルグ家の皇帝フランツ・ヨーゼフが、領地のダルマチア地方(今のクロアチア)を視察で訪れた時に寄ったのであった。ハプスブルグ家は既に退潮していて、当時はオーストリア・ハンガリー同盟と呼ばれていた。それも当時台頭してきたプロイセン(後のドイツ)に、ケーニッヒグレーツの戦いで敗れた後であった。そんな中、何とか繋ぎ止めようと思ったバルカンの領地も、その後ロシアに取られてしまった。

皇帝が泊ったホテルは、起きて窓を開けると目の前は港であった。季節こそ違うが、窓から差す朝日は眩しかった。彼はそこから東の端のコトルまで行った。それはこの夏に車で走った逆コースであった。黄昏を迎えたヨーゼス皇帝も同じように港を見ていたかと思うと、時代と時間を超えてシンクロするのであった。

Monday 18 December 2017

ベンジャミンとTED

最近、ベンジャミン・ジョッフという人のプレゼンテーションのビデオを見た。タイトルは「最近のハードウェア起業」というシリコンバレーの話であった。彼はHAX社というアメリカの投資家であり、日本語も流暢な知日家であった。話は、大企業だったら何年も掛かる商品化をベンチャーが安く短く成功させる内容だった。そんな彼が日本で中々ベンチャーが育たない理由をセイフティーネットがないからだと解説していた。例えば日立は一度出ると二度と戻れない会社だが、アメリカではそんなことはないばかりか、長期の失業手当てがあるから再チャレンジ出来るという。その安心感がシリコンバレーを支えていて、改めてアメリカの懐の深さを感じたものだった。

そんな話を同僚のHさんにしていたら、「ああ、その人だったらTEDに出ていましたよ!」というではないか!「え!、でもTEDって何?」と聞き返すと、NHKの番組だと教えてくれた。深夜にやっているプレゼンテーションの番組なので今まで知らなかった。世界の知名人を収録しているようで、若い人達は結構見ている事を知って驚いた。そのベンジャミン氏もそこのプレゼンターの一人だった。

同氏はそのプレゼンで、LEDの発明者の中村教授の言葉を引用して「日本からは中々世界が見えない!」と語っていた。それはとても心に突き刺さる言葉であった。それから現在のシリコンバレーを支えるのが実は若い中国人ということもあって、これからは日本もそうした人たちと協力していかないと駄目・・と諭していた。日頃、尖閣諸島や南沙諸島ばかり気にしている者にとって、それはとても新鮮なフレーズでもあった。それにしても、HAX社やTEDなど、歳を取ったせいでいつの間にか置いて行かれた世界だった。

Saturday 16 December 2017

ジョニー・アルディーの埋葬

先週、フランスのロック歌手 ジョニー・アルディー(Johnny Hallday)が亡くなった。フランスのエルビス・プレスリーと言われ、昔から絶大な人気があった。フランスの代表的な大衆誌であるパリマッチの表紙を良く飾っていた。ハスキー犬のような目つきは一度見たら忘れられない鋭さがある。ただ残念ながら歌は一度も聞いた事がない。あまりロックに関心がないからだ。

そんな彼の葬儀にパリ市民100万人が参列したという。歴代の大統領が3人も出席し、多くの市民がシャンレリゼ通りを行進した。その規模は革命記念日を上回る大変なものだったと、パリに住むHさんが興奮して伝えて来た。またこうした国民的な追悼はエディット・ピアフ以来だという。改めて歌というか芸術の都らしい出来事だと思った。

葬儀が終わると、遺体はカリブ海のサン・バルテルミー島(Saint Barthélemy)に運ばれた。奥さんが故人の遺志を継いだらしいが、どこかと思って地図を調べると、何とドミニカの近くでフランス領の島だった。でもどうして遥々こんな孤島に埋葬を希望したのだろうか?そんな事の方が気になった。今まで散々注目されて来たので、これからは人々から離れた処で静かに送りたい!そんな遺志だったのだろうか?”お墓は家族が来やすい場所がいい”と思っていたので、つい考えさせられてしまった。

Monday 11 December 2017

ジャーナリストの辺さん

TVの朝鮮報道で、しばしば登場するのがジャーナリストの辺真一さんである。分かり易い解説とフレッシュなネタ提供にはつい聞き入ってしまう。そんな氏の角川新書「大統領を殺す国、韓国」は中々いい本だった。歴代の韓国大統領の栄光と挫折を、TVと同じキレのいい洞察で纏めていた。つい時間も忘れて読み通してしまう一筆書きの快さがあった。

氏は在日の韓国人だから両国に通じている。そのため、韓国文化を日本人向けに通訳する才能に長けている。随所に「日本で言えばXXです・・」というフレーズは、映像をくっきり浮かび上がらせる力がある。例えば今の慰安婦を巡る件を、徳川家康の「鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス」と形容している。勿論それは日本の事だが、韓国も豊臣秀吉に準え「鳴かぬなら、鳴かしてみようホトトギス」と対比している。的を得た比喩で思わず笑ってしまう。誰かが「今の文在寅大統領は韓国の鳩山由紀夫だ」と称したピンポイントの感覚に似ている。

明快という点では、岡崎冬彦氏(ペンネームは長坂覚)の「隣の国で考えたこと」の中に引用した福田徳三氏もあった。氏は日韓の違いを、日本は封建制を経て近代化したが、韓国は両班の階級制度から飛躍したという。確かに形がないまま民主化すれば混乱するな!と思える所以である。その岡崎氏の本の中で柳周鉉著「小説 朝鮮総督府」も何度か出て来るので、これも取り寄せて読んでみた。韓国人の目で見た日韓併合史だが、伊藤博文から始まった統治の大変さを垣間見るのであった。

Sunday 10 December 2017

小津安二郎と小田原

世代は違うが、小津安二郎のファンである。白黒のノスタルジーもあるが、一呼吸置いた人の会話に深みを感じるからだ。代表作の「東京物語」や婚期を過ぎた娘を嫁がせる「晩春」はいい作品だ。特に笠智衆の父親役がはまり役で品がある。そんな小津監督が大船撮影所で仕事を終えて通ったのが小田原だった。

小津には小田原に好みの芸者が居たという。2人が会っていたのが老舗料亭の「清風楼」だった。今でも立派な佇まいで、文久2年創業というから150年の歴史がある。女将の話によると、当時映画の主人公だった原節子が小津に好意を寄せていたという。結局、小津も原節子も独身のまま終えたが、それには小田原の芸者も一役買っていたのだろうか?その清風楼が佇みのが宝小路である。当時は遊郭が立ち並ぶ盛況な一角だったらしいが、今ではさびれたバーが残る寂しい町であった。その夜も客は鰻を頼む老男女だけだった。夜の9時を廻る事には一人になり、早く店仕舞いしたい老夫婦に急かされるように店を後にした。

小田原の町は終戦の日8月15日に空襲があった。熊谷を爆撃した米軍機が、帰途の途中残った爆弾を処理する序で落として行った。その一撃で古い町並みが焼けてしまった。何とも不運な運命だったが、それが無ければもっと風情も人も残ったかも知れない。小津の人生と重ねた一夜であった。

Monday 4 December 2017

グランブルー

週末にTVで見た映画、「グランブルー(原題:Le Grand Blue)」は中々良かった。30年も前の映画というが、名作は時を経ても色褪せない魅力があった。物語はジェン・レノ演じるダイバーが、フリーダイビングと称する素潜りに挑む話である。イルカと泳ぐシーンは、海好きな人だったら堪らないだろうな!と思った。モデルは実在のイタリアとフランスのダイバーらしいが、どちらも最後は海に散ってしまう。生死を掛けて潜っている内に、悪魔の囁きに耳を貸してしまったかのかも知れない。

また付き合った女性は共に妊娠するが、ダイバーには相手にされない。それを知った女性が一人で子供を育てようとするのだが、「子供は人生を変える」と呟いていたのが印象的だった。舞台になったのはシシリー島のタオルミーナだった。どこかで聞いた事があったと思うと、今年のイタリアサミットの開催場所だった。

素潜りではないが、30代の頃だったか、何かのきっかけでスキューバダイビングに凝った時期がある。ウエットスーツやレギュレターを揃えてツアーに参加した。何人かでマイクロバスに同乗し伊豆の海洋公園や真鶴に通うのだが、特に冬の季節は海の透明度が良く潜るのには最適だと知った。その時に取得したライセンスはその後役に立って、プーケットやハワイ、モルジブで活躍した。特にタイの出張の合間に、「ちょっと潜ってきます!」と地元のスクーターに乗って見知らぬ海に入るのはとても快適だった。海の中は耳抜きや水面に上がる速度など、一つ間違えれば終わりだ。映画を見てそんな緊張を思い出した。

Saturday 2 December 2017

他人の健康が心配

最近、身近でヒアっとする事が多い。ビルの喫煙室でタバコを吸っていたKさんが突然倒れた。たまたま一緒に居た人が機転を利かせAEDを持ってきてスイッチを入れた。それが幸いしてKさんは一命を取り留めた。かと思えば反対のこともあった。

暫く前だったが、テニスコートで倒れたM君がいた。さっきまで元気で走り回っていたのに、突然呼吸が苦しいとしゃがみこんだ。段々辺りの人が集まり出し、彼を横にして様子を伺った。するとみる見る間に顔が蒼くなり息が苦しそうになった。寒さも襲ってきたようなので、皆で摩って「ハイ、大きく息をしてね!・・」と励ました。誰かが「AEDを探してこい!」と言うが辺りに見当たらなかった。そうこうしている内に救急車が到着し病院に運ばれた。ところが23時間すると、Mさんはケロッとした顔で戻ってきた。聞くと症状は過呼吸だったという。周囲が慌てて空気を吸い込ませた事が逆に症状を悪化させたと分かり、一同真っ青になった記憶がある。況やAEDなど流したことには、大変な事になっていた訳だ。

そんな事もあって、先日旧友のT君と久々にテニスをやった時には気が気でなかった。T君は心臓の手術が終わったばかりで、「生きている内にもう一度テニスをしたかった!」みたいな変なことを言う。「それって大丈夫なの?」と恐る恐る聞くと、「2度目だから大丈夫だよ」と言うし、いざボールを追いかけ始めると、動きは悪くない。毎週テニススクールに通っているだけあって、随分見ないうちに腕前を上げ、サーブは入るしボレーの詰めも良かった。予定していた2時間もあっと言う間に過ぎてその日は分かれた。ただその後容体が気になったので自宅に電話してみた。ところが何度掛けても誰も出ない。「ひょっとして入院したか!?」と心配は募った。個人携帯にメールすると、「今旅先だけど?」と拍子抜けする返事が返って来た。色々あるので、健康には過敏になる今日この頃だ。

Wednesday 29 November 2017

近くて遠い国

中公新書の物語シリーズは、通史をコンパクトに纏めたいいシリーズだと思っている。カミカゼ読書家にはとても便利だ。ただ長い歴史を物語風に仕上げるのは容易ではない。豊かな経験がないと年表になってしまう帰来がある。特に著者の多くはその道の専門家で学者が多い。だからからかも知れないが、ややもすればカタカナ名ばかり登場して、ちっとも面白くない。いい例が最近出た「物語フィンランドの歴史」と「物語ポーランドの歴史」である。どちらも先生が一生懸命調べて書いた跡が滲み出ているが、それは教科書みたいで味気がない。

その点、外交官が書いた本は違う。極めつけは、以前にも紹介したが元ウクライナ大使の黒川祐次氏の「物語ウクライナの歴史」である。知識人の豊かな経験が伝わってくるようであった。また中公新書ではないが、現在は最高裁判事になっている元英国大使の林景一氏のアイルランドの本もいい。そしてちょっと古いが、長坂覚というペンネームで書いた「隣の国で考えたこと」は一級品だと思う。

著者は元タイ大使の故岡崎冬彦氏である。40年前に書かれた本を改めて読んでみたが、その問題意識は今と変わらないことに驚いた。そして何より一筆書きしたような痛快さがある。中々頭のいい人でないと出来ない芸当だと思った。今朝はまた北のミサイル発射が行われた。この冬はそんな近くて遠い国を少し深堀して見たくなった。

Tuesday 28 November 2017

北の2重スパイ

その板門店の越境事件は、30秒近い映像が再現されリアルだった。国境に向かってフルスピードで走るジープと兵士の銃撃など、まるで映画のシーンを見ているようであった。そんな矢先、本棚から朝日新聞特派員が40年以上前に書いた「韓国・光と闇」を取り出して読んでみた。するとそこには意外な事が書いてあった。

それは19673月の話だが、やはり板門店で起きた事件であった。国連軍と称する米軍将校が休戦委員会に出席し帰る時、北の朝鮮中央通信の記者が突然車に滑り込んできた。咄嗟に亡命と思った米軍の車は急発進して現場を離れた。後ろからは、北の兵士が銃撃してきたが、不思議と一発も車に当らなかった。亡命に成功した記者の名前は李穂根(イ・スグン)と言って、韓国で手厚く保護されそして結婚した。しかし暫くして2重スパイの嫌疑が発覚した。逃亡先で保護され、脱北から2年後に処刑されたという。遺族は濡れ衣だと訴訟をしていたようだが、何が本当だったのか闇の中である。

そんな事もあって、ひょっとして今回の亡命もひょっとして北のスパイなのだろうか?と勘繰った。確かにいくつもの検問を容易にすり抜けたことや、銃撃されたが急所を外れ生き延びたのは不自然だ。何が本当で何がフェイクなのか、余所者には分かり難い。ただ我々が考える位だから、今頃ソウルでは大変な事になっているのだろう、と思ってしまう。

Thursday 23 November 2017

ムラジッチの終身刑

今日の新聞に、ハーグの国際法廷でムラジッチに終身刑が言い渡されたと報道があった。その罪はジェノサイド(集団殺害)であった。殆どの人には関係のない事件だったが、その現場になったスレブニッツァに今年、わざわざ足を運んだ関係で記事に目が止まった。

事件は1995年に起きた。元々の発端はユーゴスラビアの解体だった。チトー(大統領)が亡くなってからそれは加速した。そんな中で、殆ど最後になって独立宣言したのがボツニア・ヘルツゴビナでそれは1992年だった。一方ユーゴスラビアの中核はセルビア共和国であった。そのため、セルビア人から見れば、各地が分離していく歯がゆさがあった。そして事件の起きたスレブニッツァは、そのセルビアとボツニア・ヘルツゴビナの国境線で山一つ隔てた盆地であった。国境と言っても昨日まで何も無かった場所で、セルビア人からすると自分の土地の感覚すらあった。

追われて殺されたのはイスラム系のボシュニック人であった。そこから山沿いに1時間車を走らすとサラエボの町である。未だに中東の雰囲気が残る、正にイスラム文化一杯の町である。当時、難を逃れたイスラム人が集まったのがそのスレブニッツァの村であった。

虐殺は一夜にして起きた訳では無かった。国連軍のオランダ兵も仲裁に入り、結構睨み合いが続きそれは2年にも渡った。今ではYouTubeに画像も公開されているので、その間ののんびりした雰囲気は伝わって来る。しかしある日、堰を切ったようにせるせるセルビア軍が越境し、村人その数8000人超を殺戮した。それは起きるべくして起きた気もする。今年訪れると新たな墓地が出来ていたが、あれから20年以上経っているのに、廃墟になった工場跡に置かれていたカラの棺に寄り添うイスラム女性の姿が印象的だった。

かつての王国セルビアは、その後西側から孤立しNATOの空爆の対象にもなった。今では海岸線を持たない山だけに囲まれた国になってしまった。元々豊かなスロベニアに加え、クロアチアやモンテネグロが観光で財を成す中、セルビアは取り残されてしまった。ジェノサイトと言うと被害者だけに焦点が当たるが、領地を取られた意味でセルビア人もまた被害者であった。テニスのジョコビッチ選手の頑張りを見ていると、その気持ちが少し分かるような気がするのである。

Sunday 19 November 2017

40年前の板門店

板門店で事件が起きた。北朝鮮の兵士が国境を越えようとして銃弾を浴びた。何とか成功したようだが、改めて戦時中の両国を見るようだった。板門店を訪れたのは1970年代だっただろうか、あれから40年以上が経つが風景は全く変わっていない。

板門店ツアーに参加するには、ソウルで外国人登録しなくてはならない。数日後にツアーに参加できるが、バスで朝から移動する一日仕事であった。参加した日は寒い冬の日であった。乾燥していて、ハンカチーフで覆面しなければならな程、風が痛かった。そして38度線に近づき緩衝地帯に入ると、対岸から北のプロパガンダの音声が流れてきた。勿論韓国語なので分からないが、何やら「北の村の生活がいいから来ないか?」という意味だという。そして板門店に着くと、写真で見た通り、目と鼻の先には北の兵士が立っていた。交渉の舞台になったバラックを見た後、バスは国境の橋の袂を廻って帰って来る。正に帰らざる河で、仮に飛び降りて橋を渡れば一生帰ってこれない世界で、その緊張感は観光を超えて迫力があった。

それにしても、今回写真で見た建物は少しモダンになったが、基本的には昔のままである。実はそのツアーで一番印象に残ったのは、途中の昼食で寄った米軍基地のハンバーガーであった。何との美味いそのアメリカンビーフは天国に思えた。何やかんや言っても、誰もが西側の自由な生活を欲している現実は今も昔も同じだと思う。

Saturday 18 November 2017

ジンバブエの少女

最近ジンバブエでクーデターがあった。37年間も独裁していたムガべ大統領が失脚したらしい。勿論そんな国に行った事はなく遠い世界の話であるが、実はちょっとした縁がある。

若い頃に途上国支援に興味があった関係で、フォスタープランに協賛していた。毎月2000円か3000円かを寄付し、途上国の恵まれない子供の里親になる制度である。申し込むと暫くして「貴方の子供です!」という連絡があった。それがジンバブエだった。確か15歳の少女で父親が姿を消して経済的に困っていた。そこには英語に翻訳した本人の手紙と写真が添えてあった。支援したのは23年だっただろうか、いつの間にか途絶えてしまった。正直あまり支援しているという実感はなかったからだ。

もう一つは、映画「ワイルドギース」である。こちらの方がより身近だが、今の大統領が誕生する前のローデシア(ジンバブエの前身)で、英国の特殊部隊が隔離されていた主導者を救出する物語である。リチャード・バートンや007のロジャー・ムーアが出ていて、何度見ても飽きない映画である。当時も貧しく治安が悪かったが、40年以上経った今でも一人当たりGDPは$2000というから、当時の毎月2000円($20)は凄い金額だった訳だ。ひょんな事でそんな事を思い出した。

Wednesday 15 November 2017

ステンガンとM16

アメリカで又銃の乱射事件があった。暫く前にラスベガスで大きな事件があったばかりだった。アメリカに住んだことがないので何とも言えないが、様々な人種と貧富の格差があるので自身を守る銃がやはり必要なのだろうか?確かにある日から丸腰になれば、江戸末期の刀狩でないが、寒々しいものがあることは想像できる。だからと言ってこのまま放置すれば、事件は後を絶たない。

その銃だが、今まで2回撃ったことがある。一度はワシントンDCのペンタゴンの地下である。射撃練習場みたいな施設があって、おカネを払えば試射出来た。確かコルトみたいな拳銃だったが、物凄い音と衝撃を覚えている。もう1回はベトナムである。アメリカ軍が残して行った武器を観光客向けに使わせる施設だった。中にはバズーカ砲や戦車の重機銃もあったが、試射したのは英軍が第二次大戦の時に使ったステンガンという軽機関銃と、米軍がベトナム戦争で使ったM16というカービン銃である。

ステンガンは弾倉が横に付いていて、発射音がタッタッタと静かなのが特徴である。一方M16は単射でも連射でも可能で、200m位先の的に真っ直ぐ飛んでいった。どちらもまるで曳光弾のようで、弾って目で追えるんだ!とその時思った。

テキサスを2週間掛けて廻った時、銃の看板があった。銃が正当化されている地域の印かと思って写真に収めたが、こちらはテキサス独立の観光ルートの意味だったようだ。それにしても辺りは未だに西部開拓史の時のような砂漠が続く荒野である。アメリカはまだそんな人気のない場所が多い。これを規制しろと言っても、田舎は中々難しい気がする。

Tuesday 14 November 2017

乳母車の子供

暫く前に、仕事の補助をしてくれた女性がいた。広島の田舎から出て来た若奥さんのIさんだった。テキパキと仕事を熟し、眼識が良かったのか、普段気が付かない処に目が届く人だった。暫くして、「あれ?大分体形が変わって来たな?」と思ったら、案の定お目出たという。そうこうしている内に、お腹の方はどんどん大きくなり、遂に出産の2カ月前に退職した。

そのIさんだが、その後無事に出産して先日子供を連れやってきた。まだ5カ月だというのに大きな男の子で、お母さんに目元が良く似ていた。その日は同僚と昼食を共にし、遅ればせながらのお祝いをした。退職してから半年ちょっとだというのに、先方は子供を生んで育児に四苦八苦している。それに比べ、こちらは相変わらず毎日酒ばかり飲んでいる。改めて月日の経つ重さを感じたりした。

そのIさんから帰り際、乳母車から子供を抱き上げて渡された。思いもしないハプニングにしばしたじろぎ、落としはしないかと慣れない事に怖くなった。でも何でそんな事になったのだろう?多分女性として、頑張ったというメッセージを伝えたかったのではないか?と後で思ったりした。一期一会というが、こんな出会いもあった。

Monday 13 November 2017

チョンの優勝

テレビというと、殆どテニスしか見ない。幸い一年中、WOWOWとGAORAで世界のトーナメントを放映しているからだ。見る方も大変だが、選手もいくら仕事とはいえ、狭いコートで連日ボールを打ち合っている姿に少し同情してしまう。

そのテニスだが今年も漸く終わりになってきた。ロンドンでファイナルと称するトップ8の戦いが始まった。昨年まで常連だったジョコビッチ、マレーそして錦織選手の姿はなく、新たにパリグラプリで滑り込んだソックスや小柄ながら頑張ったベルギーのゴファンなど、新顔が多いのが今年の特徴だ。そんな中で今年のランキングトップになったナダルや、36歳のフェデラーが入っているから驚きだ。どちらも休養して返り咲いたから、やはり適度な調整がいいのだろうか?

世代交代が中々進まないことを懸念してか、先週ローマで21歳以下の次世代トーナメントが初めて披かれた。ルールは4ゲーム先取のノーアド方式、レットもなければジャッジは全て機械である。時間と手間を省いた運営は中々評判のようだった。優勝は韓国のチョン、暫く前から見ていて実力があり納得の行く結果だと思った。

ところでロンドンファイナルのスポンサーは、今年から日東工業が付いた。LEDで世界を制覇した四国の会社だ。一昔前なら考えられないことがテニス界で始まっている。

Thursday 9 November 2017

消えない記憶

昨今はAI(人工知能)の話題で持ち切りだ。明日の労働を担う救世主のような論評が多いが、正直良く分からない。そんな矢先、遂に死んでから生き続けるAI技術が開発されたという。それは脳の信号を読み取る「機能的磁気共鳴画像法」とかいう機能で、生前個人の記憶を記憶させておけば、死後もそのデータを使って同じような会話が出来ると言う。勿論その時には本人はこの世にいなので、ロボットが代替するが、改めて色々な事を考える人がいるものだと思った。

暫く前だったか、ある病気に掛かると、人は消えるはずの記憶が消えない事を知った。普通の人であれば時間と共に記憶は薄らいで、段々遠い昔の事になって行く。ただその病気に掛かると、新しい体験が古い記憶を上塗りする機能がなくなり、古い思いがずっと残ってしまう。特にトラウマになった嫌な記憶程、鮮明に残るらしい。ヒトはそもそも嫌な事を忘れて、僅かな楽しいことだけを大事にするから生きて行けるのに、それはあんまり残酷である。その時、一生過去のトラウマと決別できない人の気持に思いを寄せた。

そんな人間の摂理に反する開発が進んでいるのはナンセンスである。科学は人の幸せのためにあるのに、全くそれと逆行している。やっている人は、その事に気が付かないのだろうか?

Tuesday 7 November 2017

竹島の海老

あれは森友事件の頃だったか?、テレビの解説者が「安倍さんと籠池さんは飲んできた水が違うんですよ!」とコメントしていた。それは初めて聞く言葉でとても印象に残った。正直そういう表現があるの?と、そのジャーナリストに敬意を表したが、竹を割ったような一語に霧が晴れた気がした。

その安倍さんだが、今回のゴルフ外交は彼らしい演出で良かったと思う。一度は行ってみたい霞が関CC、ハンバーガーで迎えて時差解消に軽くラウンドする、そのパーフォーマンスは中々出来るものではない。強いて言えば9ホールは中途半端だった。肩の力が抜けてアドレナリンが出て来るのが後半9ホールだからだ。トランプさんは自身が所有するコースを沢山持っているが、多分日本でゴルフをやるのは初めてではないか?日本のゴルフ場の微に入り細に入る整備魂を感じて頂いただろうか?

ゴルフはトランプさんの言う通り、仕事をするよりよっぽど相手が分かるスポーツである。パットを外すと大きなジェスチャーで残念がる人は多くが初心者である。逆に同伴者の110%のショットを見抜いてエールを送る人は練度が高い人である。ゴルフは嫉妬や他人の詮索など、人の本性が出るスポーツだ。そのためもう一度廻ってもいいかな?と思える人は5人に1人位だ。安倍さんとトランプさんもそういう関係になって欲しいが、所詮人の世界、本性がぶつかると何が起きるか分からない。そのトランプさんは今日隣国の韓国に移った。そこの晩さん会は竹島の海老と元慰安婦だったと聞いて驚いた。気持ち悪くなるプロトコールだし、それは正に飲んでいる水が違う人がやる事だった。折角、ゴルフで高揚したのが汚された気分になった。

Thursday 2 November 2017

トランプ大統領の来日

この日曜日にトランプ大統領が初来日する。日本では霞が関CCでゴルフも予定されているらしい。火曜日には離日し、韓国と中国を廻って一週間で帰国する。政府は暫く前から韓国への渡航を自粛するよう呼び掛けていた。またここに来て、韓国に行く際は宿泊ホテルまで届けるように通達が出されたので不気味なものを感じる。

そう言えば衆議院選挙も、それを意識して10月に行った。アメリカから先制攻撃することはないだろうが、北朝鮮が太平洋で核実験を行うとかICBMを撃った場合、それが引き金になって報復が始まる可能性は十分だ。それがかなり現実的になってきた。

もしも戦争が始まるとどうなるか?まず物流が滞るのでモノ不足なり物価が上がるだろう。当然株価は下落し金利は上がる。戦費を調達するため臨時国債が発行され、大口預金の引き出し凍結、年金カットなどがあるかも知れない。迎撃用のミサイルの基地、難民用のキャンプ地が必要だから、ゴルフ場や公共施設などの転用があったり。昭和天皇が亡くなった時に、政府から経団連を通じて企業に通達が出されたように、何かが突然降って来るかも知れない。勿論そんな事はない方がいいが、一度始まると大変だ。せめてこの週末はトイレットペーパーでも買い溜めしようかと思う。

Wednesday 1 November 2017

JFKの公開文書

JFKことケネディー大統領の暗殺を調査した文書が公開されるという。死後50年が経ち待った戒があった。JFKが身近になったのは、ダラスの狙撃現場を訪れたからだ。アメリカが凄いのは、オズワルドが狙撃したとされるビルや辺り一帯が未だに保存されていることだ。ビルの中の展示場には、CIA,カストロ、軍事産業、マフィアなどの犯人説を事細かにパネル化している。それまであまり関心がなかった人でも、自ずと謎解きに参加したくなってしまう。

極め付きはオズワルドが狙撃した窓である。そこから彼になった気分で200m程下の道路を見下ろすと、かなり遠いことが分かる。今では木の葉が邪魔してとても狙えない。狙撃された道路の地点には×印が打ってある。ケビン・コスナー主演の映画「JFK」では魔法の弾道を取り上げている。つまりオズワルドが撃ったなら、ありえない軌跡を辿っていることになる。そこで浮かび上がるのは、すぐ近くにあるノールヒルと呼ばれる小高い場所である。そこから白い白煙が上がったと目撃情報はあったが、不思議と近くにいた人はその後謎の死を遂げている。

それにしても誰が何の為に・・・?私のみならず生きている内にその真実を知りたい、そう思っている人は多いと思う。あれから多くの人の人生も変わった。ジャクリーヌはギリシャの富豪オナシスと再婚したが死ぬまで表舞台には立つことはなかった。JFKの弟のロバートも暗殺され、三男のエドワードは飲酒運転の事故で同乗者を亡くした。血に染まったシャネルのドレスのまま、ジョンソン副大統領の宣誓に立ち合ったジャクリーヌの目は、「やったのは貴方!」だった。その後、ベトナム戦争は泥沼化し、アメリカは荒廃していった。

Tuesday 31 October 2017

Kiss of Fire

知り合いから「Kiss of Fire」という高級日本酒を頂いた。立派な箱に入っていて、何やら山中教授がノーベル賞の授賞式で振りまわれた酒という能書きが入っていた。銘柄が英語なのはアメリカ向けの輸出品らしい。酒蔵は石川県の「常きげん」と知ると、なんだ!と思う。飲んでみると確かに美味しいが、これを海外に持って行ってしまうかと思うと、複雑な気持ちになる。

今や日本酒も国際競争の時代だ。そう言えば、オバマ大統領が来日した時、銀座の数寄屋橋次郎だったか、出されたのは広島の「賀茂鶴」だった。またプーチンが山口に来た際に安倍首相が振る舞ったのは地元の「東洋美人」だった。要人が飲んだと聞くと、野次馬のように一度は味わってみたくなる。酒ばかりでなくレストランもそうだ。大昔にカーター大統領が来日した時、お忍びで六本木の焼き鳥屋に行った。グルメのカーターさんならではの行動だったが、以来「串八」という小さな焼き鳥屋は有名になった。これもミーハー根性で何度か行ってみたが、六本木交差点近くのビルの2階で、適度な暗さが何とも落ち着く店だった。

オバマさんはあまり飲まなかったようだし、プーチンに至っては毒殺を警戒して料理にも箸を付けなかったし、温泉にも入らなかったという。だから本当に東洋美人を飲んだか疑わしい。山中教授もどうだったのか?ただ事の真相は兎も角、Kiss of Fireを飲むと、ノーベル賞授賞式に出席しているような気分になるのは確かだ。

Monday 30 October 2017

サンドラを思い出し

そのカタルーニャは、地中海を隔ててフランスの南部ピレネー・ルシヨン州と国境を隔てている。ピレネーはフランスとスペインの国境の山岳地帯で、多くの中世の村が残っている旅の宝庫である。有名なのはあのカルカソンヌの城塞である。「カルカソンヌを見ずして死ぬことなかれ」と言われているように、ほぼ完璧な中世が保存されている。近くにはロートレックの故郷のトゥールーズもある。近年は英仏で開発した音速ジェット機コンコルドの縁から、英国人が移り住んでいる。ただ所詮山の中の寂しい町である。ロートレックがパリに出て行ったのも頷ける。

そのピレネーだが、海岸線はもう少し華やかだ。コートダジュールからプロヴァンス地方を経て、バルセロナに抜ける美しい海岸線である。随分前だが日本で知り合った放送作家のフランス人がいた。日本のオタクやアニメなど独特の文化を映像にしていた。その彼がピレネー海岸線のコリウールが美しいと教えてくれた。だったらばと訪れた事があった。プロヴァンスの闘牛で有名なニームから車で2~3時間、眩しい湾に佇む絵のような港町であった。

そこから暫く南下するとスペイン国境のカタルーニャで首都のバルセルナに着く。国境が無ければフランスと何ら変わりない風景である。その昔、部下にサンドラという名前の女性がいた。スペイン人だったが、両親は彼女を産む前日に越境しフランスの病院で生んだ。そのため彼女はフランス国籍を取り、フランス人としてパリで会計の仕事をし始めた。今から思えばカタルーニャの人だったのだろうか?体形は太めで濃い睫毛、兎に角陽気で良く喋った。ひょんな事で彼女を思い出した。

Sunday 29 October 2017

カタルーニャの事

カタルーニャの独立を巡る投票が行われ、独立支持が多数を占めた。一方、スペイン政府は州知事を罷免するなど対立が続いている。遠い国のことでどうも実感が沸いて来ないが、どうやら問題の一つは経済のようだ。カタルーニャの経済はスペインで豊かな方なので、本来享受すべき対価を貰っていないという不満だ。それはEUであればドイツ人やフランス人、日本で云えば東京が高い高速道路料金を払っている不満と似ている。

もう一つは言語である。現地語が禁止されスペイン語の使用を義務付けていることだ。経済の方は仕方ないかな?と思うが、こちらの方は同情してしまう。バルト諸国でも独立を果たすと、公式言語がロシア語から現地語に変わった。すると旧ソ連の人達は、現地語が出来ないので学校の試験はおろか、就職にも支障を来たすことになった。アイルランドのゲール語もそうだったが、言語の制約は社会への参加を閉ざす威力がある。

カタルーニャ出身の偉人は多い。あのミロやダリ始め、アント二・ガウディ、チェロのカザルスもそうだ。以前、カザルスが国連で奏でた「鳥の歌」をYouTubeで見たが、その時のスピーチで「鳥はピースピース(Peace)と鳴く」と故郷の運命を語っていたのが印象的だった。きっと我々の知らない世界があるのだろう・・・今回のニュースを聞いてそんな思いがした。

Wednesday 25 October 2017

村田のリベンジ戦

最近感動した事、それは何と言っても村田涼太選手のエンダムとのリベンジ戦だ。ボクシングにはあまり縁がないが、数カ月前の不可解な判定から流石に気になっていた。その再試合は、ややもすればボクシング人生が終わってしまう一戦だった。この間の重圧は計り知れないし、それに耐えて見事やり遂げた。終わった瞬間、開放感から涙ぐむ彼の勇姿にグッとくるものがあった。

村田選手は渡辺謙さんとのドコモのテレビCMで知った。コーチ役の渡辺さんが自転車で伴走し、ジョギングする村田を励ますシーンだ。思わず村田も笑ってしまう真剣度だったが、その彼の爽やかさに魅かれた人は多かったのではないだろうか?

リベンジと聞くと日本では忠臣蔵の四十七士が有名だが、モンテ・クリスト伯、アドリア海の復讐、ジェフリー・アーチャーの「百万ドルを取り返せ!」など数えきれない。永年の不憫に耐えて無念を晴らす、この痛快さは万国共通のようである。それにしても、あの村田の終わった顔は本当に良かった。

Tuesday 24 October 2017

なんばの牧水

大阪に行くと必ず寄る店がある。なんばの法善寺横丁近くの「牧水」という酒処である。高い天井と古めかしい日本家屋で、とても落ち着く。結構大きな店で、年配の女将さん達は和服を着ている。先日も半年ぶりに訪れた。

まだ時間が早かったのか、客は殆どいなかった。静かな店内は、やかんから昇る湯気の音だけが聞こえて来る。暫しメニューを広げ、寒かったので酒はぬる癇にしてもらった。聞くと、剣菱、賀茂鶴と神戸の香住鶴があるという。聴き慣れない銘柄を試しに飲んでみることにした。それが中々円やかで美味かった。「酒蔵はどの辺にあるの?」と女将さんに聞くと、「日本海の方ですよ」という。恥ずかしながら、それまで兵庫県の海は瀬戸内海だけかと思っていた。思わぬ発見に暫し地図を眺めたりした。

この日の料理はハラスと熊本の馬肉を頼んだ。どちらも味が濃く、香住鶴との相性が良かった。3合程飲み店を出た。辺りを歩いているのは今や中国人の観光客ばかりである。そんな中、ゆっくり日本を味わえる場所があるのは本当に有難い。

Friday 20 October 2017

アルバトロスの話

吉村昭氏の「漂流」では、よくアホウドリが出て来る。アホウドリは、12年間孤島に生き延びた男の島で唯一の食糧源だった。来る日も来る日も生のアホウドリを取って食べ続けた。アホウドリはその名の如く、簡単に捕まえることが出来るらしい。ただ人によっては暫くして足腰が立たなくなる病気に犯されるいう。ともあれ、これを覚えておくと無人島で生きることが出来る。

そのアホウドリだが、「80日間世界一周」の作者、ジュンヌ・ベルンの「征服者ロビュール(原題:Robur Le Conquerant)」にも出て来る。主人公の乗る飛行船の名前がアホウドリ号である。物語は、エンジン付きに飛行船で世界一周し、日本も江戸の上空も通過する。書かれたのは1886年で日本では戊辰戦争の頃だった。その年は本当に江戸だったのだろうか?と調べてみると、何と1886年に江戸から東京に名称変更が成された。ベルヌの記載は正しかったことになる。因みに、(解説にもあるが)ライト兄弟の飛行成功が1903年だから、空想とは言え著者の先見性は凄かった。

そのアホウドリだが、英語はアルバトロス(Albatross)である。今ではすっかりゴルフ用語である。そう言えばバーディ(Bardie)やイーグル(Eagle)も鳥に因んだ言葉である。ベルンの飛行船がどうしてアホウドリ号なのか、またどうしてゴルフと鳥なのか、どちらもよく分からない。

Thursday 19 October 2017

関口台町から目白へ

椿山荘に行った序でに、辺りを散歩した。関口台町からの一帯は子供の頃住んだ懐かしい場所である。椿山荘から目白通りを隔てて聳えているのは、聖マリアカテドラル大聖堂である。かの丹下健三が東京オリンピックの前後に造った東洋一の教会である。コンクリートで出来てはいるが、聳える鐘楼は下から見ると捻っている。吉田茂の葬儀には、町内の多くの人が献花に来たという名所だ。
 
それから目白通りを目白駅に向かうと老松町である。昔は水梅という大きな八百屋があった。今ではマンションになっているが、小石川高校を出た2代目が継いでいた。大学進学を諦めていたのかも知れない優秀な八百屋だった。彼は若い頃近くの田中角栄邸に良く出入りしていた。そんなある日、角栄さんの目に留まり、可愛がってもらったという。その角栄邸も今では小さな門構えになってしまった。昭和の30年代は角栄さんで町内会が潤っていたことが懐かしい。
 
有名人は俳優の小堺一機である。当時からヤンチャで女の子のスカートを捲っていたようだが、従兄のお姉さんは学校で一番成績が良かった。中華料理屋を継いだK君、目白グラウンドの管理人の息子T君、印刷屋のF君、乾物屋のTさん・・・が今でも出て来そうだった。鳳山酒店、岡田理髪店、岡崎耳鼻科・・・今でもニ代目三代目が頑張っている。それにしてもポンジョ、独協、川村短大、学習院、ちょっと離れて教育大、ワセダと流石文京区だけあって学校が多い。都電も走っているし、陸の孤島だが緑多いいい地域だ。

Sunday 15 October 2017

絹と武士

古本屋で見つけたライシャワー大使の「ザ・ジャパニーズ・トゥディ(The Japanese Today)」と、ハル夫人の「絹と武士(原題:Samurai and Silk)」を続けて読んでみた。どちらも今から30年程前に書かれた。

The Japanese Todayは所謂外から見た日本人を描いている。かつて日本人はイザヤ・ベンダサンやルース・ベネディクトを通じて自身の姿を初めて知った時代があった。それに比べと驚きは少ないし、それから又30年も経つと、今は少し違った日本人になっている気がする。しかし所々にユニークな視点がある。例えば日本人は酒を飲んで酔っ払う事を無礼講とする風土がある。それは閉ざされた社会の息抜きであるが、日本人の食生活は酵素が不足し低脂肪なので酒に酔い易いと言っている。果たして本当だろうか?

一方ハル夫人の本は、両親の松方家と新井家を描いたもので、著名な家系図は幕末から明治に至る日本史そのものである。有名な松方正義のみならず、国際文化会館の松本重治氏や駐米大使の牛場氏、森村財閥、三菱の岩崎弥之助など、キラ星の如くである。こうした星の下に生まれた人には敵わない!と改めて思った。英語はNHKのラジオを聞いて学んだり、西町インターナショナルに子供を通わせたり、大衆のやる事に思えて来た。それにしても開国後の日本人の変わり身の早さといい、その立派な仕事ぶりといい、当時は凄い時代だった。

Saturday 14 October 2017

ハイチの日系選手

先日、ジャパンサッカーの親善試合ハイチ戦があった。大勝を予想していたが、結果は散々で3-3の引き分けに終わった。W杯への候補選びが熾烈になるさ中、これで終わった選手も多かったのではないだろうか。そのハイチ選手の中に日系人がいた。どんな軌跡を辿ったのか知らないが、意外な処に意外な人がいるものだ。

意外と言えば、あのモンテ・クリスト伯の作者アレキサンダー・デュマ(Alexandre Dumas)もルーツはハイチである。デュマのお爺さんは、当時フランス領だったハイチでカカオのプランテーションを営んでいた。そこの奴隷女性との間に生まれたのが、(やはり同じ名前の)父親デュマだった。彼はナポレオンに仕える軍人になり将軍まで登り詰めたが、フランス社会で黒人が生きるのは容易でなかった。その辺は、「ナポレオンに背いた黒い将軍(原題:Glory Revolution, Betrayal and Real Count of Monte Cristo)」に書かれている。当時ハイチはサン・ドマング(Saint-Domingue)と呼ばれ、スペインから引き継いだ黒人奴隷の貿易地だった。デュマの母親もその奴隷の一人で、マリーという名前は、Marie du mas(農家のマリー)から来たという。

父も作家のデュマも、その母親の名前を使い続けた。モンテ・クリスト伯はフランス革命を舞台にした復讐劇であるが、父母の生い立ちと無関係ではなさそうだ。小説は孤島の財宝やバルカンの首領の娘の庇護など、エキゾチックな彩が何とも言えない。かのサッカー選手も一味違った生い立ちだ。これからどんな人生が待っているのだろう。

Thursday 12 October 2017

高速の追突事故

今週、4カ月前に東名高速で追突されて死亡した夫婦の事故結果が発表された。言いがかりをを付けた男が高速道路で前に入り停車、車から降りてヤクザ紛いをやっている内に、後ろから来たトラックが衝突した事が判明した。普段、良く高速道路を使っている者にとって、それはとても他人事ではなかった。数年前にやはり同じような目に遭ったことがあった。それは関越道だったが、全く脈絡はない中、邪魔する意図を以て絡んできた車がいた。幸いいつの間にか離れたが、常軌を逸している輩は怖いものだ。

しかしこんな事は滅多にない。海外でも随分運転したが、似たような経験は殆どなかった。唯一この夏のスロベニアの山奥だったか?一車線の登り車線でトラックがパッシングを掛けて来た。時速は60Km程で凡そ追い抜ける状態ではなかった。それもくねくね曲がる山道だ。しかしトラックはその内に並行して走るようになり、クラクションを鳴らし前に入れろと強行し始めた。逆方向から車がくればお互い一瞬で終わりのシーンだったが、すかさずブレーキを踏むとスッと前に入って九死に一生を得た。未だに何故あんな事をされたのか分からない。

それ以外は怖い思い出はなかった。切れる処までは行くのは日本ならではなのだろうか?フランス人のドライバーが怒るとハンドルを離すことがある。それは相手に抗議する時に、オララー!と両手を挙げて叫ぶ習性があるからだ。それを高速道路でされると参ったものではない。また「お前は馬鹿だ!」の仕草は、右手の人差し指を自身の頭に向けピストルのネジのようにクルクル廻す仕草もある。どちらも危ないが、所詮コミカルに感じる。

Wednesday 11 October 2017

アメリカとパリ協定

アメリカのトランプ政権がパリ合意の見直しに入った。具体的には石炭火力の継続である。折角お金と時間を掛け、世界が京都議定書以来の合意に漕ぎ着けた矢先だった。もったいないというか瓦解感は否めない。そんな中、先日東京で開かれた「クール・アースへの革新会議(ICEF)」を覗いてみた。久々に見る温暖化防止の最先端である。聞いていて風力と太陽光発電の時代になったか?という印象を持った。

インドでは風力の単価が石炭より安いというし、英国でも石炭の割合が10%を切っているという。本当か?と思うが、昔に出席したボンのCOP6では殆ど国別のキャップ議論に終始していたことを思うと隔絶の感があった。正に10年ひと昔、時代は学者の手法論議から実務家のビジネスへと確実に移っていた。今回は田中さんという元IEAに出向していた人が議事を進めていた。10年前は川口外務大臣だった。どちらも流暢な英語で仕切っていて頼もしい。日本のプレゼンスが掛かっているだけについつい応援してしまう。

日本は平地が少ないから、風力の羽や太陽光のパネルを置く場所が限られている。欧州のように電力融通も出来ないから、自ずとハンディのある協定だった。石炭は所詮燃やしてもCO2ゼロだったら問題ないだろう・・・そうした技術に磨きを掛けるチャンスが又出て来たかも知れない。今回の事はそう捉えたい。

Thursday 5 October 2017

カズオ・イシグロの受賞

先程、今年のノーベル文学賞が発表され、カズオ・イシグロ氏が受賞した。有名な人とは知っていたが、ジャンルが違ったせいもあり、今まであまり関心は無かった。ところが数年前だったか、ロンドンの町を歩いていた時、とあるイギリス人から「イシグロは素晴らしい!」と言われ、バックの中から本を取り出し見せられたことがあった。見知らぬ人だったので、何か下心があるのでは?と勘ぐったが、どうやら純粋に日本人に気持ちを伝えたかったと後で分かった。

それから、代表作の「The Remains of the Day(翻訳:日の名残り)」を読んでみた。確かイギリスの執事が語る物語だったが、何かかったるくもどかしかった記憶がある。ただ物語の中に、ドイツの英国大使リッペントロップが登場する場面だけはハッとした。リッペントロップは、あの1939年の独ソ不可侵条約の立役者である。戦争が始まる前は、一外交官としてイギリスに駐在していた。

本はその頃の英国の上流社会を辿っていたが、それ以外は掴み処がなかった。日本語でなく英語で読んだ方がニュワンスが伝わって来るのかも知れない。

Wednesday 4 October 2017

銀翼のイカロス

連日、小池都知事の希望の党の話題で尽きない。突然の民進党の解党には驚いたし、全く政策もない党に入る人達のにも飽きれてしまう。恐れ多くも先日まで議員をしていた政治家である。いくら選挙が近いとはいえ、無節操というか、人として信じられなくなる。

そんな矢先、仕事仲間のIさんが池井戸潤の「銀翼のイカロス」を貸してくれた。暫く前の本だが、その民主党が迷走したJALの再建をテーマにしている。お馴染みの半沢直樹が、銀行員とは思えない痛快さで大活躍する。政権を取った民主党は、銀行団にJALの債権放棄を迫る。名を上げたい代議士が裏で暗躍するのだが、結局は上手くいかずに再生機構に引き継がれる。終わってみれば、タスクフォースの費用10億円までJALに負わせるなど、結果は散々だった。例の有名な仕分けもそうだったし、素人のやることだった。

今回の希望への移籍も、それに近いものを感じる。イカロスは自身を過信したために溶けて落ちる鳥の神話である。民進党の人達を見ているとそのイカロスにも見えて来る・・・。

Sunday 1 October 2017

1%の妬み嫉み

最近は、また吉村昭氏に凝っている。「漂流」は南方の孤島で12年を生きた男の話であった。島には流れ着いた船乗りがやって来るが、お互い生死を彷徨っているにも拘わらず礼儀が伝わってきて快かった。辿り着いた男達は対馬の出身で、その中に結婚寸前の男がいた。彼は嫁を「腰担ぎ」で決めたという。腰担ぎは初めて聞く言葉だったが、男に頼まれた村の衆が女を浚う習わしであった。北欧のバイキングと違い、狭い対馬の言わばゲーム感覚儀式で微笑ましかった。


「大本営が震えた日」は真珠湾を前に、戦艦武蔵の図面が消失した話である。舞台は長崎造船所、良く吉村氏が犯人を探し当てたと感心した。その動機は単純なもので、「陸奥爆沈」の男と同じ出世根であった。ムシャクシャして図面を燃やしてしまったことが、真珠湾を前に凍り付いた事件になった。

「空白の戦記」では、日本海海戦を終えた戦艦三笠が、湾内で爆沈した裏話を紹介していた。こちらは火薬庫と酒を飲んだ際に引火した話だが、どれも共通するのは99%は管理しても、所詮はヒトのやることである。最後の1%は妬み嫉みの感情の世界になる。”事実は小説より奇なり”、吉村さんの凄いのは、その1%の世界を刑事のような執念で発掘している。

Saturday 30 September 2017

フェイマス・グルース

パース(Perth)と言えば、オーストラリアを思い浮かべる。一度は行ってみたい美しい町である。ただもう一つ、スコットランドにも同じ名前の町がある。ひょっとしてこちらの方が歴史があるのかも知れない。スコットランドのパースは首都のエジンバラから車で1時間、ティ(Tay)河に掛かっているレインボーブリッジのような橋を渡るとダンディ(Dundee)の町に着く。そこからちょっと行った処が、そのパースである。

パースには、スコッチウィスキーのフェーマス・グルース(Famous Grouse:有名なライチョウ)の蒸留所がある。数年前に訪れると、遠くからほのかなウィスキーの香りが漂ってきた。受付には看板の猫がいた。待つ事30分、各国から来た観光客に混ざってツアーに参加した。スコットランドのウィスキーは、このハイランドと北部のスペーシーサイドと呼ばれる地に大きく二分化されている。このハイランドはブレンドウィスキーのメッカである。ツアーが終わると試飲させて貰ったが、ラベルにはXX年物という表示が無かった。「何故、年代表示がないのですか?」と聞くと、「それは秘密です」という返事が返ってきた。どうやらそのブレンド技術がこの銘柄の秘密レシピらしい。

近くには、やはりブレンドのベル(Bell)やグランツ(Grant's)の蒸留所があった。今日は酒屋でそのフェイマス・グルースがあったので求めた。1100円と超安い割には、ブレンドの奥深さがある。そう言えば、そのパースにはセント・アンドリュース(Saint Andrews)でゴルフをやった後に寄った。ゴルフとウィスキー、そんな楽しい旅を思い出した。

Wednesday 27 September 2017

若洲リンクス

スピードゴルフとは行かないが、その感覚に近いのが若洲ゴルフリンクスである。東京都の埋立地「夢の島」に作ったコースで、スキーで云えばガーラ湯沢の感じだ。林や起伏がなく、只管真っ直ぐになっている。

何と言っても都心に近いので、スタートの1時間前に家を出れば間に合う。築地までは目と鼻の距離なので、終わってから仲間とタクシーを飛ばし、寿司屋に寄って帰るグループも多いという。経営は東京都である。以前はドンを始め、都議会関係者が抑えていたので中々一般人が予約を取ることが難しかった。ところが先の小池知事就任をきっかけに、がらっと雰囲気が変わったという。流石、平日から都議がゴルフする時代ではないようだ。

コースは全て歩きである。起伏がないので疲れないし適度な運動になる。埋立地のため、ダフるとメタンガスが出るとか冗談をいう人がいたが、勿論そんな事はなく、海風が気持ちいい。プレー時間の5時間は他と変わらないが、9時にスタートしても夕方4時には家に帰れる。

Tuesday 26 September 2017

スピードゴルフ

英国のニュースに、スピードゴルフ(Speed Golf)の事が紹介されていた。初めて知ったが、スコアとタイムを競うゴルフだそうだ。ルールは殆ど変わらないが、ロストの場合の救済や服装はランニングシューズOK、パットは旗が立っていても可など、工夫が凝らされていて中々興味深い。

調べて見たら日本でも大会があるようだ。大体18ホールを1時間以内に廻り、スコアも80台だから大したものだ。普通は1ラウンド5時間程掛かる。4人で廻るので1人で当り1時間15分の計算になる。仮に90分で廻ると90打の平均持ち時間は1分である。それでも移動を含めると、かなりハードな運動になる。

ゴルフは楽しいが、時間が掛かるのがネックだ。ゴルフ場まで平均1時間半、スタートの1時間前には到着するので、アクセス3時間+準備・昼食3時間+プレー5時間=11時間は要る。ゴルフ場には、白洲次郎のPlay first!の古びたポスターが掛けてあるが、長年のプレースタイルはそう簡単には変わりそうもない。ただツーサム限定の18ホールスルー、予約なしの到着順でスタート、電動カートの高速化、ハンディー20以下限定、2時間を越えると罰金が嵩むなど、セミスピードゴルフの余地はある。

Friday 22 September 2017

三保の松原

富士山が世界遺産に登録された時、三保の松原がセットだった。富士山はどこからでも見れるが、駿河湾から望む光景が評価されたようだ。だったら一度は見てやろうと、今週はその三保の松原を訪れてみた。

行ってみると普通の松林の浜辺だった。確かに、松の形が少し曲りくねったのは珍しい形だったが、ただそれだけであった。生憎この季節はガスが掛かっていて、富士山は見れなかった。掃除をしていたおじさんに聞くと、「富士が見れるのは一年の三分の一位かな?冬にならないと駄目だね!」と言われた。早速引き返すと、それと知らずドンドン押し寄せてくる観光客とすれ違った。浜辺だけだと直ぐに終わってしまうので、遥か遠くにバスを止めて神の道と称する松林を歩かされていたのは気の毒だった。

その松林にはフランスのバレリーナの碑があった。三保の舞に魅せられたフランス女性の髪を祀ってあるという。帰りに寄った日本平にも、「赤い靴」の母子像に出会った。こちらは童謡の「赤い靴」を履いた少女の母親が清水市の出身の所以らしい。どちらも取って付けた様なチグハグの違和感があった。富士山と松原を重ね合わせた広重の世界が、手を加える程にそのシンプルさが失われていく。

Monday 18 September 2017

ダンケルクの映画

最近封切られた映画「ダンケルク(原題:Dunkirk)」を観に行った。シンプルなストーリーで、歴史好きな人にとってはいいが、普通の人はちょっと物足りないかも知れない、そんな印象を持った。

ダンケルクはベルギー国境近くのフランスの海村である。第二次大戦の初期に、ドイツ軍に追い詰められた英国軍が奇跡の脱出に成功した。その裏には、ヒットラーの突然の追撃中止があった。それは栗田艦隊の謎の反転などと並んで、第二次大戦の七不思議に数えられている。もしも中止が無かったら、その後のノルマンディー上陸も危ぶまれたし、英国自体の存立も左右しかねた。その辺を映画に折り込むと、もっと立体的になった。

ダンケルクは以前にも、ジャンポール・ベルモント主演で作られた。こちらの方はもう少し情緒的だった気がする。ともあれフランスの海岸線は長く広く、映画でも飛行機が着陸していた。特に潮位が下がる明け方には、どこまでも海に続く幻想的な砂浜が現れる。そんな事を思い出して、風景を楽しませてもらった。

Saturday 16 September 2017

数字の語呂合わせ

車のナンバープレートは、自身で番号を選べるようになっている。それは知っていたが、敢えてお金を出して迄、数字合わせに拘る気持ちはなかった。ただ3年前に買った中古車の番号が、さ96だった。何か、”サー苦労”とか”サー苦しむ”に読めて気になっていた。確かにそれから不幸な事が続き、暫く前に思い切って番号を代えた。

その番号に拘る人は結構多い。テニス好きは6464、中国人は8888、6666を見るとフルーメイソンかと思ってしまう。そう言えば、長年乗った車がある時、ボンという音がして高速道路で止まってしまった事があった。レッカー車を呼び修理工場に運搬されたが、エンジンの寿命と告げられ廃車にした。別れ際にふと距離計を見ると162,847Kmを指していた。読むと”十六分に走ったな!”で痛く感激した事があった。その愛車だが、人生の節目と思った日は77,777Kmだったり、偶然とは思えない事が続いた。

車とは関係ないが、数字の語呂合わせの奥は深いようだ。184(いやよ!)を5回繰り返して足し込むと1104(いいわよ!)になるし、8x8(ハッハ!)と4x9(シクシク)の合計は100になる。「笑って泣くのが人生」という意味だのだろうか?これは薀蓄の受け織である。

Thursday 14 September 2017

佐賀旅情

長崎に行く途中、陽も暮れたので佐賀に泊った。博多から特急さくらで1時間、人に言わせれば「何もない佐賀」である。有名人も久留米は多いが、佐賀は大隈重信ぐらいだ。そうは言っても鍋島藩のお膝元である。朝早く起きて散歩すると、城跡から流れる天祐寺川の遊歩道は立派であった。今では通る人もいないのか、彼方此方で蜘蛛の巣に邪魔されベトベトになってしまったが、透き通った水は美しかった。

その鍋島藩も日本酒にその名を残すだけになってしまった。流石に地元の居酒屋には置いてあり、きびなごとの相性も良く堪能した。2杯目に頼んだ「東一」も更に素晴らしかった。そんな旅情に浸っていると、何年か前に泊った鳥栖を思い出した。

ホテルは駅前に1軒だけで、「食事する処はあるんですか?」と不安になる過疎地だった。ところがホテルで紹介された居酒屋に行ってみるとビックリした。それは地鶏のみつせ鳥を出す店で、素人にも味の違いが分かる程鳥が新鮮だった。そして驚いたことには、聞いた事のない地酒が飲み放題で振る舞われていた。その時、改めて旅の醍醐味を実感した。まだまだ地方には少量多品種の食材がゴロゴロしている!

Wednesday 13 September 2017

長崎の原爆

暫く前に、「母と暮らせば」という映画があった。母親役の吉永小百合と息子役の二宮和也が共演した。場所は長崎で、原爆で命を失った息子を想いながら生きる母親の物語であった。一見不憫な設定ではあったが、亡霊を亡霊と感じさせない日常が爽やかだった。本来のテーマは「息子と暮らせば」だろう。敢えてそう呼ばなかったのは、老いた母を残して先だった息子の無念の方が強かったのでは・・・と感じた。

今週はその舞台の長崎を訪れた。映画の事もあって、今回はどうしても原爆資料館を訪れてみたかった。二宮演じる医学生は長崎医大の学生だったが、大学は爆心地直下だった事が分かった。今でも浦上に向かって山を登る市電が走っている。長崎大の正門には三菱重工の魚雷工場跡を記すプレートも貼ってあった。原爆資料館に入ると小学生でごったがえしていた。子供達と一緒に模型の前で解説を聞くと、今更だが放射能は遮蔽物があっても避けられず、特に空から降ってくるγ線は槍のようであった。また立ち登るキノコ雲は、一度拡散した熱が戻って舞い上がった現象で、既に被曝が終わった後の風景だったことを知った。

時あたかも北朝鮮が核実験した矢先である。その規模は長崎の10倍という。ここで町が消滅したのに、10倍は想像出来ない恐ろしい規模に思えた。勇ましい言葉が飛び交っているが、百聞は一見に如かず、この現実の前にはとても空しく思えた。