Thursday 28 February 2019

マフィア村のキャフェ

マフィアと云えばイタリア、中でもシチリア島はその本巣であろう。何年か前に島をレンタカーで一周したが、数ある旅の中でも一番印象に残る旅になった。島だから、歴史と文化が閉じ込められたのだろう、ギリシャ時代の建造物が今でも手付かずで残り、シラクサの裏路地ではアフリカ風の白装束の男が働き、街道にはトラック運転手を待つアフリカ女の娼婦が立っていた。ホテルでもクレジットカードは使えず全てキャッシュのみ、ただタコなど海の幸は新鮮で、オリーブオイルと合わせると美味だった。

折角なので、ゴッドファーザーのコルレオーネ村に寄ることにした。シチリア島は海岸沿い発展した町が続いている。しかしその村は島の中心地、つまり山の中にあり辿り着くのが大変だった。途中陽が暮れたので、ある村で泊まる事にした。ところがホテルらしき看板もないので、たまたま開いていた食料店に入って聞いてみた。勿論英語は通じないので身振り手振りで、すると「うちの2階なら泊まっていいよ!」と言う事になり、お世話になった。入ってみると旅人用の調理器やベットもあり、特別扱いされた訳では無いことも分かり安心した記憶がある。翌朝、近くに面白い所があるというので、店の人が連れて行ってくれたのが地元の教会だった。中に入ってビックリ、沢山の骸骨が衣服を着て横たわっていた。聞くとその村の人だという。子供もいれば年寄りもいる。亡くなった時のままの姿で祀られていた。

コルレオーネ村は岩に囲まれ、余所者を寄せ付けない雰囲気があった。戦後、その谷から多くの遺体が発見された話を聞いていたので緊張した。車を置いて町を歩くと、暫くして中心の広場に出た。昼時と言う事もあり、外に出ている人が多かった。しかし皆んな男ばかりで女性の姿は見えない。やはりマフィアの末裔なのだろうか?勇気を出して一軒のCaffèに入ると、中にいた男たちの視線が一斉に集まるのを感じた。気のせいか、目つきが鋭い。話掛けられる訳でもなく、ジーっとこっちを見ている。あまり慌ててはいけないとゆっくりコーヒーを啜り、店を出た時は流石にホッとした。実はゴッドファーザーは小説の世界だから、村とは関係ないと言う人もいた。いつかイタリアの人に会ったらその辺を聞いてみたい。

Wednesday 27 February 2019

カルヴィ事件

映画「ゴッドファーザー」のパート3は、劇場の前で娘が撃たれ、失意のままゴッドファーザーが息を引き取る所で終わる。ただ、バチカンの枢機卿が報復されたり、以前から良く分からない脈絡であった。しかし、暫く前にひょんな切っ掛けでラリー・ガーウイン著「誰が頭取を殺したか(原題:The Calvi Affair)」を読むと、そのカルヴィ事件を下書きにしている事が分かってきた。

カルヴィ事件とは、イタリアの大手銀行の頭取だったロベルト•カルヴィが、1982年6月、テームズ川に架かるロンドンの橋下で首吊り死体として発見された事件である。その不可解な死を手繰ると、バチカンのアングラマネーやマフィア、フリーメイソンなどが関わっていた事が判明し、当時は大きなスキャンダルになった。結局犯人や死因も特定できず、事件はうやむやになってしまったが、(映画にも出て来るが)その4年前にはパウロ一世が在位して1カ月ほどで謎の死を遂げるなど、バチカンのカネを巡る世界が浮き彫りになった。

マフィアとバチカン、一番遠いはず両者が、実は背中合わせに座っている。マフィアは3人の子供がいると、1人は法律家、1人は司祭、1人は医者にするそうだ。(確か金正恩も同じような事を言っていたので、その受け織かも知れない)。だからさして驚く事ではないのかも知れないが、そんな目で見ると世界も少し変ってくる。ところで松本清張がカルヴィ事件を題材に「霧の会議」という大作がある。折角なので取り寄せて読んでみたが、二流小説であった。やはり言葉の壁が大きかったのだろう。

Monday 25 February 2019

ユダヤ人の選択

欧州でユダヤ人の排除が過熱しているという。一連の移民排斥の流れだろうが、フランスでは墓地に鍵十字が塗られたり、ドイツでも反ユダヤ主義的な暴力が急増しているという。特にフランスはアメリカ、イスラエルに次いでユダヤ人が多い国だから深刻な気がする。それに、時あたかもEU崩壊の危機の最中である。暫く前に高原剛一郎という学者が、面白い事を言っていた事を思い出した。それは、世界史の栄枯盛衰はユダヤ人と共にあるという説である。ポルトガル、オランダ、スペイン、英国などの列国は、ユダヤ人を受け入れると国が栄え、追い出すと衰退したという。確かに貿易とカネの流れは、ユダヤ人の活躍機会と比例するから理に叶っている気もした。

先日オーストラリアに行った際に、シドニーのユダヤ人博物館を訪れた。オーストラリアに住むユダ人は10万人程度なので、人口の1%にも満たない数である。それにも拘わらず、立派な施設に有史以来のユダヤ人の歴史を綴っていた。特にホロコーストには多くのスペースを割いていた。それにしても何故こんな処にこんな施設を作るのだろう?係りに人に聞いてみたが明快な答えは聞けなかった。ただオーストラリアは白豪主義で人種の排他を国是にしている国だから、それに備えているのかも知れない。因みにこの国では少しづつ増えている。

随分前になるが、ロンドンに行く飛行機で隣り合わせた女性がいた。聞くとイスラエルに住んでいるという。たまたま帰りの飛行機も隣になり、長い時間に渡り、如何にキブツの生活が素晴らしいかを聞かされた。「一度いらっしゃい!」と言われ連絡先も貰ったが、何故かあまり気が進まなかった。生活は制約されるがイスラエルに住むのか、あるいは差別を受けても国外を選ぶのか?永遠に続く選択なのだろう。

Sunday 24 February 2019

ブラタモリのパリ

先日、昔の職場仲間が集まった時、ブラタモリの話題で盛り上がった。結構皆んな見ているものだと感心した。そのブラタモリは、2週に渡ってパリであった。地下の通路や石の採掘場所など、普段知らない世界を紹介していて面白かった。確かに一帯は昔海底だったようだ。番組でも貝の標本が出て来たが、近くのフォンテンブローの森にはその痕跡が多く残っているから本当なのだろう。

またオスマン計画が始まる前の路地は狭く、汚物も二階から投げ捨てる習慣があったという。さぞかし不潔な町だったのだろうと、思い出したのはジョージ・オーウェルの「パリ・ロンドン放浪記」であった。時代は20世紀の初頭、パリの貧困街に住んだ筆者が自身の毎日を描いている。それはあの未来小説「1984」を書いた人とは到底思えない生活振りで、正にその悪臭が伝わってくる本である。その貧困こそがパリの人間味を醸し出し、華やかな町のもう一つの顔になっている。

番組の最後で、タモリさんはムーランルージュのあるモンマルトル界隈が一番興味があったと言っていた。どうやら新宿のごちゃごちゃした世界と重なったようだった。確かに権威と貴族的なパリにあって、そこは下町風な一角である。昔はクリッシー通りを挟んだ北側がパリ市でなかったので、酒が安く芸術家も集まる切っ掛けになったようだ。今でもパリは特殊な場所で、フランス人でも足を踏み入れた事の無い人は多いと言われている。その違和感が黄色いベスト運動の原点になっているのだが・・・。ともあれアシスタントの女性も、始めの頃に比べて少し慣れて来てイイ感じだった

Thursday 21 February 2019

日本人お断り!

年々増え続ける外国の観光客は、昨年は3000万人になったという。随分前から、全国津々浦々、何処に行っても外国人、特に東南アジア系の人が居ない処はない。大阪の道頓堀界隈は「ここは香港か?」と思いたくなる。聞こえて来るのは中国語ばかりで、出張でホテルに泊まろうものなら、朝食時に9割以上は外人客だと気が付く。有馬温泉など、小さな山間の景色が変わっている。都内の新宿、渋谷も、一見区別が付かないが、歩いているのは日本人より中国人や韓国人の方が多い気がする。

スキー場も例外ではない。湯沢町も東南アジアの人でごった返していた。外人の経営するレンタルスキー店も出来たり、レストランも予約がないと入れない時代になってきた。白馬もそうだ。こちらは圧倒的にオーストラリア人が多い。今では成田から直行のバスがあるらしいが、小さな村が占領された?みたいな感じである。スタンドバーも、客ばかりか従業員もオーストラリア人で、日本人は遠慮するような場所になっている。勿論レストランも一杯で、予約がないとまず夕食に預かれない事態である。多分誰かが手配しているからだろうが、それはまるで「日本人お断り!」みたいな印象を受ける。仕方がないので、我々はコンビニで弁当を買って済ませることになる。

それは何も日本に限った事ではないようだ。オーストラリアもそうだった。偶々春節に重なったため、シドニーは中国人ばっかりだった。ショッピング街の飾り付けや、港のオブジェも中国人歓迎であった。その数はやはり異常で、ここは上海かという感じだった。中には道路を逆走する中国人ドライバーや、公共の場で用を足す人、ぶつかっても平気で行ってしまう無礼人など、短い間にも多くのドラマがあった。ただオーストラリアはまだ広いからいい。狭い日本はもう限界である。入国の人数、それに国別の割り当てで規制する時代になっている。

Sunday 17 February 2019

犬の気持ち

ゴールドコーストの空港には、沢山の本がベストセラーのランキング順に並んでいた。その中に、ゴールデンレトリバーの顔が載った「A Dog's Purpose」があった。随分前に出た本だったが、何かのご縁と思い、この際読んでみることにした。本を持ってレジに行くと、係りの女性から「私も読んだわ!いい本よ」と言われた。

本は飼い主の男の子Ethanと、Baileyというゴールデン・レトリバーの物語であった。主語がそのBaileyのため、車に閉じ込められて喉が渇いたシーンなど、リアル感じが伝わってきた。それにしてもいくら犬好きだからといって、良くも四六時中こんなに観察出来るもんだ?と感心してしまった。犬を可愛がる気持ちは洋の東西を問わないが、その表現力という点では、西洋人の方が遥かに豊かな気がする。それは英語の語彙の数と、同じことを縦にしたり横にしたりする言い回しの違いかも知れない。タイトルは犬の気持ちとでも訳するのだろうか?偏に犬は、飼い主が喜ぶ事だけを考えている事を教えてくれる。

ただ残念ながら、本にはドラマ的な展開がある訳では無く、全体的なタッチも何か女性的だったので、珍しく途中で飽きてしまった。一方映画にもなっていると聞き、Amazon primeで見てみると、こちらの方は中々面白かった。やはり人間が犬語を話す事に、ちょっと限界があるのかも知れない。

Saturday 16 February 2019

白い帽子と黒い足

先日、パリに観光に行った人がシャンジェリゼ通りの変わり果てた姿に驚いていた。それでもデモは週末なので、平日だったら大丈夫と買い物に励んだそうだ。その黄色ベスト(Gilets jeunes)運動だが、また今週も始まるのだろうか?それにしても寒い中、3カ月も続いているから深刻だ。

最近では黄色に対し、赤いスカーフ(Foulard rouge)を付けた穏健派のデモもあるらしい。つくづくフランスは色で象徴するのが好きな国民だと思う。そう言えば、傭兵の外人部隊だが、正式な呼称とは別に、俗には白い帽子(Cheapeau blanc)と呼ばれている。又昔、アルジェリアから来た移民は、黒い足(Pied noir)と言われた。流石今では使われていないと思うが、作家のカミュやあのジャック・アタリもそうだったというから歴史を感じる。またブルゴーニュワインで有名なコート・ドール(Côte-d'Or)県は直訳すれば黄金の丘、ニースやカンヌのある地中海のコート・ダジュール(Côte d'Azur)も、紺碧の海岸の意味である。

色で識別するのはフランスに限った事でなく、ロシアも革命の時には白軍、赤軍だったり、ベラルーシも白ロシア、モンテネグロも黒い山の意味だから、西欧の特徴かも知れない。日本人は侘びさびの世界でモノトーンが好きである。多分、民族が多様化していない処から来るのだろう。最近はそんな日本が段々好きになっている。

Thursday 14 February 2019

Hyundai車は懲り懲り

旅には失敗が付き物だ。今回もその例外でなく、ハラハラ、ドキドキする連続だった。まず成田でチェックインしようとすると、「ITASのビザがありますか?」と聞かれた。その時初めてオーストラリアにはビザが要る事を知った。もう旅行も駄目かと思ったが、まだ出発まで2時間近くあったので、駄目もとでiPhoneで申請してみた。すると暫くして返事があり許可が下りた。出発まで1時間を切っていたので奇跡的だった。最終搭乗者で機内に入った時は、流石ホッとした。
 
次はレンタカーである。Jet Starの紹介するレンタカー屋は、1日1600円と安かった。日本で借りると6000円位だから1/4である。空港で借りて返すので荷物を持って歩き回る事も無い。今回もそうかと思っていたところ、空港には申し込んだSIXTのカウンターがない。AVISの人に聞くと、「SIXTはシャトルバスで行かないと・・・」と云う。散々迷った挙句、やっとそのバス停が分かり、辿り着いた先は、空港から数キロの工場団地だった。用意された車もHyundaiの小型車で、ブレーキの利きも悪く、車内の換気も酷かった。何より走ってみると、パワステがないので80Kmが限界だった。殆どの一般道が100Km制限なので、後ろから煽られるようで怖かった。安いというのにはワケがある事を疑って見るべきだった。韓国のHyundaiは一流会社とか聞くが車は三流だった。もう懲り懲りだ。
 
ホテルはいつも気ままに、陽が暮れると飛び込むスタイルだ。なまじ予約しておくと、知らない土地柄、時間に縛られていいことはない。今回もそう思ってぶらっと入ると、結構高い事が分かった。モーテルでも最低1万円もする。ところがBooking.comで探すと安いホテルも出て来るので、今回は途中からそのスタイルに切り替えた。ところがシドニーから南に100km程の、ウロンゴン(Wollongong)に泊まった時だった。着いてみるとそこは工場地帯のど真ん中で、ホテルの1階は大きなバーになっていた。鉄鋼の町らしく、飲んでいる人々も何か荒々しく感じた。勿論レストランも近くに無く、夜はトルコ人のやっているケバブを買って済ませた。ともあれ、観光とは程遠い奮起だったが、終わってみれば旅の思い出の一部になる。

Wednesday 13 February 2019

罪深い人間と慈悲

オーストラリアの第二の国歌と言われるのが、ワルティング・マチルダ(Waltzing Matilda)である。旅の途中、ロッド・スチュワートが歌うこの曲を繰り返し聴いた。歌詞は、野宿していた男がある日、やって来た羊を空腹のあまり食べてしまう話である。当時はそれは縛り首の罪であった。暫くして警官がやって来て事態が判明し、彼は池に身を投げるのであった。マチルダは寂しく包まって寝る毛布の愛称である。その悲哀と郷愁が入り混じり、深い共感を呼ぶのであった。

シドニーの港に行くと、最初に来た移民の碑が立っていた。Convictsという肝心の英単語が分からなかったので、近くに居る人に聞くと囚人だと教えてくれた。それで思い出したのは、何年か前にアイルランドを旅した時に立ち寄ったCobhの港町だった。タイタニック博物館があり、アイルランドからの移民の歴史を紹介していた。当時はジャガイモ飢饉と称し、多くの餓死者が出ていた頃だった。オーストラリアに最初に行ったのが男ばかりだったので、暫くして女性が集団で移民した件はリアルだった記憶がある。囚人と云っても、Prisonerとはちょっと意味が違うようだ。今から230年前にやってきたConvictsが今のオーストラリアを作ったと思うと、ダイナミックな時間の流れを感じた。

そう言えば、小説「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャンも、一切れのパンを盗んだ廉で、生涯に渡り警部から追われる話であった。こちらもミュージカルで世界の人に感動を与えているが、やはり泥棒の話である。キリスト教の影響なのか、西洋の人はつくづく罪深い人間が、慈悲を乞い善を施しながら生きていく姿が好きだ。

Tuesday 12 February 2019

カウラの日本人墓地

オーストラリアと日本の戦争で、欠かせないのはカウラ(Cowra)の収容所である。シドニーから車で3時間余、戦時中に日本人捕虜を収容した場所である。有名にしたのは、日本人捕虜が集団脱走し、230余が命を失った事件である。ただでさえ広大なオーストラリアの地にあって、カウラは海岸から遥か離れた奥地である。脱出といっても逃げ場がない事から、当時は何と馬鹿げた行為と思われた。しかし次第にその動機の解明が進み、捕虜としての恥に耐えきれないものだった事が分かり、当時の日本人の考え方に理解も寄せられたのである。同じ頃収容されていたのが、北アフリカから連れて来られたイタリア兵であった。こちらは只管終戦を待って暮らしていたというから対称的だったようだ。

町の外れに日本人墓地があるというので、お参りして帰ることにした。行ってみると一人一人の名前と歳が刻まれたプレートが、日本の方向を向いて並んでいた。若い人だけでなく、結構年配者も多かった。それにしても誰がこんなにきちんと管理しているのだろう?茶道裏千家の寄贈もあったり、日本人として現地の人に感謝の念が沸いてきた。終わってから町の案内所に行くと、係りのおばさんが、「カウラ市から日本の成蹊高校に、交換留学で今まで50名も行っているのよ。私も昨年吉祥寺に行ったわ!」と楽しそうに話してくれた。

今の時代は平和だ。その日の午後は、折角なのでカウラゴルフ倶楽部で18ホールを廻ることにした。こうして気軽に日本人旅行者がゴルフしている姿なんて、当時の収容されていた人が見たらどう思うのだろう?そんな事を考えながらボールを追った。それにしても、当時の日本兵の心境は異常だったのだろうか?そう言えば、自身も昔、海外赴任の際に盛大な送別会を披いてもらった事を思い出した。ところが1年位で帰国することになり、何ともバツの悪い思いをしたことがあった。「今更日本には帰れないな!」、正にカウラの日本兵と同じ心境になった。確かに、帰国すると周囲は白々しく距離を置く感じがしたから、強ち思い過ごしではなかった。時代は代われど、日本人の島国根性は変ってないかも知れない。

Monday 11 February 2019

ゴールドコーストの慰霊碑

旅の前半は、ゴールドコースのクーランガッタ(Coolangatta)という町に泊まった。60Km続くゴールドコーストの南端に位置し、人口6千人程度でこじんまりした町だった。朝、レストランで食事をしていると、カメレオンみたいな大トカゲが出て来た。ビックリして店主に聞くと、「その子チャリーって名前よ、毎朝来るわ!」と教えてくれた。地理的にはこの町までがクイーンズランド州で、隣町はニューサウスウェールズ州である。そのため、少し場末感があってそれがまた良かった。そんな町を歩いていたら、ビーチや広場に立派な記念碑が建っている事に気付いた。それは大平洋戦争の記念碑で、この町から出征して還らぬ人の慰霊碑であった。「私たちは貴方を忘れない(We shall remember you)」の文字が印象的だった。

ある日の夕方、夕陽が綺麗と聞き、海を見下ろす高台に登ってみた。多くの人がどこまでも続く海岸線を見下ろして寛いでいた。若いカップルもベンチで食事していた。テイクアウトして持ってきた料理とワインで、フォークナイフを使いながら、それはとてもオーストラリアらしい風景だった。そんな断崖のフェンス沿いに歩いていたら、フェンスに多くのプレートが掛かっていた。読むとそれは大平洋戦争で犠牲になった船の慰霊ボードだった。例えば「IRON CHIEFTAN号、4812t、1927年にグラスゴーで建造、1942年6月3日シドニーの東にて日本潜水艦の魚雷により沈没、12名の犠牲者」、「MAMUTU号、300t、1938年香港にて建造、1942年8月7日ケープヨークの北東にて日本の砲撃により沈没、114名の犠牲者」といった具合である。
 
日本軍は、パプア・ニューギニアのポート・モレスビーの飛行場まで爆撃に飛んで行ったのは知っていたが、オーストラリア近海まで出没していたようだ。それから何か加害者になったような気分になってしまい、暫しバカンス気分もどっかに行ってしまった。

Sunday 10 February 2019

アルコールに厳しい国

暑いオーストラリアで楽しみにしていたのは、冷たいビールだった。「イギリス風のパブで旨いエイルを飲みたい」、そう思っていたが、意外とパブが無い事に気が付いた。ブリスベンやシドニーのような大都市なら兎も角、地方の町にはそれらしき場所が中々見当たらない。そう言えば、ゴルフ場の入り口にも、必ず「アルコール類持ち込み禁止」の看板が掛かっている。中華料理の店でビールを頼んでも、「うちはアルコール販売の許可を取っていないのでありません」と無下に断られる。仕方がないのでスーパーに買いに行くが、アルコールの専門店にしか置いてないことが分かってきた。つまりオーストラリアは、酒にとても厳しい国のようだ。大柄の男達が浴びるように飲んでいるイメージがあっただけに拍子抜けした。

レストランの数も圧倒的に少ない。小さな町に行くと、夕方に空いているのは中国人の中華と中近東のケバブ、タイ人のタイ料理店位である。それもテイクアウトする人が多く、中で食べる人は少ない。その代わりに賑わっていたのは、町のゴルフ倶楽部や退役軍人のソルジャーズ倶楽部だった。誰でも入れるのでよく食事に使ったが、まるでカジノのような雰囲気でもあった。スロットマシンが並び、競馬やドックレースの掛け、モニターではクリケット、女子野球が放映されていた。機械の前には、「家族の事を考えて!」と注意書きが貼ってあるが、見ている限り、熱中している人は少ない。それにしても、1杯のビールで良く飽きずに過ごせるものだと感心する。

滞在中の1月26日はオーストラリア建国記念日(Australia Day)だった。テニスの全豪選手権で錦織選手や大阪なおみ選手が活躍していた頃だが、人々はあまりそちらに関心なく、その記念日を祝していた。その喜びようは半端でなかった。オーストラリアは豊かな天然資源を輸出し、車は作らず外国から買っている。1人当たりGDPも日本より遥かに高く、皆立派な家に住んでいる。オージーバーガーに代表される大味な国だが、倶楽部で集う人を見ていると、そんな豊かさに満足している様子が伝わって来るのであった。

Saturday 9 February 2019

オーストラリアのゴルフ

オーストラリアから、多くの人が日本にスキーにやってくる。好き好んで寒い処に来る気が知れないが、だったらばと、寒い日本を抜け出して真夏のオーストラリアに行ってみる事にした。Jet Starで飛ぶこと8時間、ゴールドコーストは抜けるような空と海だった。

お目当てはゴルフである。ホテルにチェックインしナビでゴルフ場を検索すると、車で10分程の処にいくつものコースが出て来る。その中の一つを訪れて、「プレー出来ますか?」と聞くと、どこも笑顔で「勿論です!」と感じよく迎えてくれる。行ってみて、ゴルフ場にはゴルフ倶楽部とゴルフコースの2つがある事が分かった。どちらもゴルフには変わりないが、ゴルフ倶楽部はレストランやバー、スロットマシンの遊戯場が備わっていて、地域の社交場といった感じである。年配のお年寄りが昼からビールを飲んで歓談している光景が何ともオーストラリアらしかった。一方、ゴルフコースは単にゴルフだけの施設であり、9ホールだけの処もあったり、パーも70以下だったり様々だ。子供や若者も気軽に的にTシャツ姿で廻っていた。

ゴルフをやる時は、まずプロショップと称する店に行く。そこにいる支配人に挨拶し、代金を払ってスタートする。料金はグリーンフィーがA$20~50、貸しクラブがA$15、トローリーがA$3なので、全部で3000円~5000円程度と安い。貸しクラブはいい倶楽部だと立派だけど、殆どが使い古されているので当り外れがある。日本から持って行くことも考えたが、Jet Starの荷物代も掛かるので、今回は借りる方を選んだ。地元のメンバーは自分の電動カートを持っていて、置き倉庫から出して乗っていた。スタートはどこに行ってもガラガラだから、待つ事もなく直ぐにスタート出来る。コースは広々しているから気持ちいい。OBも少なく、隣のコースに入れば打ち返せばいい。ただコースを仕切る樹木が異常に大きいので、上を超すことが難しい。一人で廻ると、直ぐに前の組に追い付いてしまう。そんな時は遠慮なく追い越させてくれる。逆にカートに乗っている人は追い越していく。

面白いのは、コースにカンガルーやペリカン、多くの野生の鳥が生息していた。皆群れを成してゴルファーを見守っている。警戒心が強いので近付くと逃げてしまうが、それにしてもボールが当ることはないのだろうかと心配になる。ただ外国のゴルフ場に付き物の、コース案内に欠けているのもオーストラリアは例外ではなかった。ひどい所はティーショットの番号版がなかったりして、慣れないと道に迷ってしまう。3時間半ほどでラウンドし、終わってから倶楽部で冷えたビールを飲むのが定番だ。

日本では高いお金と時間を掛けてゴルフ場に出かける。何カ月も前からメンバーを募り準備も大変だ。だからスコアが悪いとその分落ち込みも大きい。終わってから反省会と称する飲み会があるが、あれはそのショックを和らげる意味があった。ただオーストラリアのゴルフは、安くて思い付いたらブラっと回れるから気軽だ。多少スコアが悪くても気にならないから、ゴルフは楽しい!久しぶりにそんな気分になったのだ。