Sunday 31 December 2017

ハイランドパーク

その金正恩が余生を送る北海の島って、どんなとこなのだろう?未知の世界で想像もつかないが、きっと住んでいる人も少なく寂しい場所なのだろうか?そんな事を思っていたら、何年か前に行ったオークニー島を思い出した。

オークニー島に行くには、スコットランドの北の端から船で3時間程掛かる。今でも紀元前の居住跡や列石が手付かずで残されているが、それらをエジンバラで借りたレンタカーで廻った。驚くことに、ロンドン郊外のストーンヘンジを上回る大変な列石群であった。今から5000年以上昔にこんなに寒い地に人が住んでいてかと思うと感動ものであった。そんな寒冷地に唯一ウィスキーの醸造所があった。知る人ぞ知るスモーキーなハイランドパーク(Highland Park)である。同じスコットランドのアイラと同じ孤島で作る風味は、そこで生きた人々の孤独とユーモアが伝わってくる味わいがある。

同じ北海にはベア島もある。行った事はないが、A・マクリーンの「北海の墓場(原題:Bear Island」)の舞台である。「ナヴァロンの要塞」や「シンガポール脱出」の著者が繰り広げるサスペンスである。物語はベアー島という北海の孤島に撮影隊が行く話だが、戦時中の財宝探しが絡んでいてとても面白い。読んでいると冬の荒波が聞こえて来るような迫力がある。ハイランドパークを飲みながら読むと、より小説がリアルになった記憶がある。

Friday 29 December 2017

スヴァールバル諸島

最近は何でもネットに出ているから、遂読み入ってしまう。最たるものは金正恩の亡命先だ。Xデーが来ると、彼はウラジオストック経由でロシアの居住区に逃れるらしい。そこには既に彼の別荘があるというから驚きだ。本当かどうか分からないが、改めて情報網の凄さを知った。

その亡命先だがスヴァールバル諸島(Svalbard)という。どこかと思って調べてみると、ノルウェーの北方の大きな島だった。地権はノルウェーだが、ロシア人の独立した居留地があるという。今でも2000人程の人が住んでいるが、厳しい自然環境は半端ではない。7月の夏でも最高気温は7度、冬になれば−20度になるという。とても北朝鮮の寒さどころでなく、移った処でそんな地で暮らす金一家の毎日がどんなものか、想像に絶するものがある。

Xデーはやはりオリンピックが終わった頃なのだろうか?先のソチオリンピックも、終わると直ぐにロシアがクリミアに侵攻した。古くはサラエボオリンピックもあった。こちらは8年後だったが、ボツニア紛争が起きた。この夏に訪れたサラエボ市は山で囲まれた盆地だった。周囲の山をセルビア軍に抑えられ砲弾が降って来た。勿論オリンピックの施設も、損害の例外ではなかった。そんな現実も知ったので(本当はない方がいい戦争だが)、ついついXデーを考えてしまう。

Monday 25 December 2017

クリスマスの退避

今日はクリスマスである。若い時ならいざ知らず、もう普通の日と変わらなくなってしまった。ただキリスト教の国の人達は違う。昔、合併交渉の佳境に入った頃、外人はクリスマスだからと一斉に帰国して姿を消してしまったのには流石驚いた。彼らにとってクリスマスとはそういうものなのかも知れない。

話は変わって緊迫する北朝鮮の状況、Xデーはいつになるのか気になる今日この頃だ。そんな事は起きないと多くの人は思っているが、放っておけば核の完成が近づくことだけは事実である。そんな最中、いつもの居酒屋論議で盛り上がった。誰かが「アメリカ人なら、クリスマスに誰でも家族を国に返すよ!」と言うのを聞いてハッとした。確かに彼らは2~3週間は帰国して冬休みを取る。あえて退避させる必要はない、年に一度の機会である。

そうは言っても冬季オリンピックも控えているから、仮に戦争が始まれば中止になってしまう。まさかないだろう?そうは思っても、ヤケに気になるこの時期だ。夕刊フジは1月9日説の記事を書いている。1月8日が金正恩の誕生日だからだ。

Sunday 24 December 2017

ファンドマネージャー

新聞を見ていたら、Sさんの名前があった。発掘株を紹介した本の推薦人だった。久々にお目に掛かったような気分になり嬉しかった。

Sさんは外資のファンドマネージャーだった。30年以上前から業界で名を馳せていた。たまたま同じテニスクラブで知り合ったが、いつも真っ赤なフェラーリでやって来ては豪快なテニスをしていた。若いのに髭を蓄え、綺麗な奥さんを同伴していた。噂ではハワイのマウイ島の別荘から、電話一本でトレーディングをしていると聞き、何とも格好いい姿に憧れたものだった。

浮き沈みが激しく、生き馬の目を抜く様な業界にあって、こうして長きに渡り一線で活躍していることは凄い事だ。氏の投資スタイルは集中した長期投資だそうだ。バフェットや澤上ファンドも確かそうだったが、中々出来るものではない。精悍な目つきの奥にどこか優しさを持ち合わせた人でもあった。きっと経営者とやり合えるのは、その人柄なのかも知れない。

Friday 22 December 2017

カイザー・シュマーレン

ドイツのデザートに、カイザー・シュマーレン(Kaiser Schmarren)がある。卵、牛乳、砂糖などで焼き上げるパンケーキであるが、プリンのように中は柔らかいのが特徴だ。上にはシュークリームが乗っていて、出て来る時は温かく、結構量も多いので食べ応えがある。名前のカイザー(皇帝)は、最後のハプスブルグ皇帝のフランツ・ジョセフから来ているらしい。

そのカイザー・シュマーレンを初めて食べたのが、ミュンヘンの郊外の小さなレストランだった。冬のある日、外は雪が積もる寒い日だった。辺りは静かで、教会の鐘の音だけ聞こえて来る田舎である。室内は暖炉で温かく、地元のヴァイツ(白)ビールとモーゼルワインを飲むとすっかりご機嫌になった。何を食べたか今になっては忘れてしまったが、肉料理しかない地域であるから、食べ終わった頃にはお腹が一杯になっていた。それでも最後に出てきたこのデザートを満喫できたのは、とても美味しかったからである。

実はそのレストランに連れて行ってくれたのが、ドイツ人のSさんだった。知的で鋭いビジネスマンだった。男同士の食事のため、普通なら割愛するデザートをその時は無理して頼んでくれた。しかしその後、Sさんとは距離が出来てしまい2度と二人で食事をすることはなかった。カイザー・シュマーレンの甘い味は、苦い思い出と相まって記憶に残るのであった。

Thursday 21 December 2017

偶然のサラエボ事件

江村洋著「フランツ・ヨーゼフ(ハプスブルグ最後の皇帝)」を読んでいたら、バルカン半島とシンクロする事がもう一つあった。それはサラエボ事件の現場であった。ボツニア・ヘルツゴビナの首都サラエボを訪れたオーストリア皇太子が狙撃され、それが切っ掛けで第一次世界大戦が始まった話は有名である。この夏にその現場に立った時はとても感動した。それはミリャツカ川に沿った大きな通りから入った、一方通行の細い一角であった。そこに曲がるには車の速度を落とさねばならない場所だった。あのダラスで起きたJFKと全く同じ状況であった。犯人グループはその日の為に、複数人が市内に配置して皇太子を待っていた。一発目は花束に包んだ爆弾だったが、幸い後続車の前で爆発した。ただ皇太子は何を思ったか、そこで負傷したお付きを見舞うと言って車を反転させ現場近くに戻って行った。まさか来るとは思っていなかった犯人の男は、目の前に差し掛かった獲物を見て咄嗟に引き金を引いた。

皇太子と言っても奥さんは身分が低かったので、皇帝は始め結婚に反対した。結局渋々許可した条件が、一代限りで子供に継承権は与えなかった。それを「貴賤結婚」というらしいが、その言葉を今回初めて知った。そんな皇太子が唯一奥さんを同伴したのがサラエボだった。江村さんの本はその辺のセンチメンタルにも触れているので、とても読者を引き込ませる力がある。いい例が皇帝の性格だ。例えばヨーゼフは倹約家で使い用紙にメモして指令するとか、軍人として朝4時に起きて11時に就寝するルーチン好きだとか・・・、こうしたフレーズが読者をして皇帝との距離を縮めてくれる。

「最後の皇帝」という意味は、それを象徴する多くの悲劇が決定打になっていたようだ。皇帝の一人息子は心中し、弟はメキシコで、奥さんのエリザベートもイタリア人に殺害された。そしてこうして甥だった皇帝夫妻もそのテロに会った。改めて時代の運命を感じてしまうが、それはまた現実的で皮肉的であった。テロを起こしたセルビアは、ハプスブルグのオーストリア・ハンガリー同盟から離れたいと思っていたかも知れないが、結果的には敵対したロシアの傘下に入ってしまったからだ。それを思うとあのクロアチアやスロベニアのように、じっとした方が良かったのではないか?と思ってしまうのである。いずれにせよ、撃ったプリンツィップ(Princip)というセルビア人は、まさか皇太子が目の前に来るとは思ってもなくサンドイッチを食べていたというから、偶然というか、そんな歴史の巡り合わせに立ち止ってしまうのであった。

Tuesday 19 December 2017

フランツ・ヨーゼフのホテル

この夏に、クロアチアのプーラ(Pula)という町に泊まった。ローマ時代のコロシアムが残るアドリア海の古い町だった。泊まったのは地元の人に教えてもらった大きなホテルであった。受付の女性が、「ここは昔XXも泊まったのですよ」と教えてくれたが、その人が誰だか分からなかった。ただどこかで聞いた名前だったのでずっと気になっていた。

ところが最近古本屋で買った「フランツ・ヨーゼフ、ハプスブルグ最後の皇帝」を読んでいたら、何とその時の話が出ていた。時代は18754月、まだ日本では明治維新が終わり廃藩置県の行われた頃だった。当時のハプスブルグ家の皇帝フランツ・ヨーゼフが、領地のダルマチア地方(今のクロアチア)を視察で訪れた時に寄ったのであった。ハプスブルグ家は既に退潮していて、当時はオーストリア・ハンガリー同盟と呼ばれていた。それも当時台頭してきたプロイセン(後のドイツ)に、ケーニッヒグレーツの戦いで敗れた後であった。そんな中、何とか繋ぎ止めようと思ったバルカンの領地も、その後ロシアに取られてしまった。

皇帝が泊ったホテルは、起きて窓を開けると目の前は港であった。季節こそ違うが、窓から差す朝日は眩しかった。彼はそこから東の端のコトルまで行った。それはこの夏に車で走った逆コースであった。黄昏を迎えたヨーゼス皇帝も同じように港を見ていたかと思うと、時代と時間を超えてシンクロするのであった。

Monday 18 December 2017

ベンジャミンとTED

最近、ベンジャミン・ジョッフという人のプレゼンテーションのビデオを見た。タイトルは「最近のハードウェア起業」というシリコンバレーの話であった。彼はHAX社というアメリカの投資家であり、日本語も流暢な知日家であった。話は、大企業だったら何年も掛かる商品化をベンチャーが安く短く成功させる内容だった。そんな彼が日本で中々ベンチャーが育たない理由をセイフティーネットがないからだと解説していた。例えば日立は一度出ると二度と戻れない会社だが、アメリカではそんなことはないばかりか、長期の失業手当てがあるから再チャレンジ出来るという。その安心感がシリコンバレーを支えていて、改めてアメリカの懐の深さを感じたものだった。

そんな話を同僚のHさんにしていたら、「ああ、その人だったらTEDに出ていましたよ!」というではないか!「え!、でもTEDって何?」と聞き返すと、NHKの番組だと教えてくれた。深夜にやっているプレゼンテーションの番組なので今まで知らなかった。世界の知名人を収録しているようで、若い人達は結構見ている事を知って驚いた。そのベンジャミン氏もそこのプレゼンターの一人だった。

同氏はそのプレゼンで、LEDの発明者の中村教授の言葉を引用して「日本からは中々世界が見えない!」と語っていた。それはとても心に突き刺さる言葉であった。それから現在のシリコンバレーを支えるのが実は若い中国人ということもあって、これからは日本もそうした人たちと協力していかないと駄目・・と諭していた。日頃、尖閣諸島や南沙諸島ばかり気にしている者にとって、それはとても新鮮なフレーズでもあった。それにしても、HAX社やTEDなど、歳を取ったせいでいつの間にか置いて行かれた世界だった。

Saturday 16 December 2017

ジョニー・アルディーの埋葬

先週、フランスのロック歌手 ジョニー・アルディー(Johnny Hallday)が亡くなった。フランスのエルビス・プレスリーと言われ、昔から絶大な人気があった。フランスの代表的な大衆誌であるパリマッチの表紙を良く飾っていた。ハスキー犬のような目つきは一度見たら忘れられない鋭さがある。ただ残念ながら歌は一度も聞いた事がない。あまりロックに関心がないからだ。

そんな彼の葬儀にパリ市民100万人が参列したという。歴代の大統領が3人も出席し、多くの市民がシャンレリゼ通りを行進した。その規模は革命記念日を上回る大変なものだったと、パリに住むHさんが興奮して伝えて来た。またこうした国民的な追悼はエディット・ピアフ以来だという。改めて歌というか芸術の都らしい出来事だと思った。

葬儀が終わると、遺体はカリブ海のサン・バルテルミー島(Saint Barthélemy)に運ばれた。奥さんが故人の遺志を継いだらしいが、どこかと思って地図を調べると、何とドミニカの近くでフランス領の島だった。でもどうして遥々こんな孤島に埋葬を希望したのだろうか?そんな事の方が気になった。今まで散々注目されて来たので、これからは人々から離れた処で静かに送りたい!そんな遺志だったのだろうか?”お墓は家族が来やすい場所がいい”と思っていたので、つい考えさせられてしまった。

Monday 11 December 2017

ジャーナリストの辺さん

TVの朝鮮報道で、しばしば登場するのがジャーナリストの辺真一さんである。分かり易い解説とフレッシュなネタ提供にはつい聞き入ってしまう。そんな氏の角川新書「大統領を殺す国、韓国」は中々いい本だった。歴代の韓国大統領の栄光と挫折を、TVと同じキレのいい洞察で纏めていた。つい時間も忘れて読み通してしまう一筆書きの快さがあった。

氏は在日の韓国人だから両国に通じている。そのため、韓国文化を日本人向けに通訳する才能に長けている。随所に「日本で言えばXXです・・」というフレーズは、映像をくっきり浮かび上がらせる力がある。例えば今の慰安婦を巡る件を、徳川家康の「鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス」と形容している。勿論それは日本の事だが、韓国も豊臣秀吉に準え「鳴かぬなら、鳴かしてみようホトトギス」と対比している。的を得た比喩で思わず笑ってしまう。誰かが「今の文在寅大統領は韓国の鳩山由紀夫だ」と称したピンポイントの感覚に似ている。

明快という点では、岡崎冬彦氏(ペンネームは長坂覚)の「隣の国で考えたこと」の中に引用した福田徳三氏もあった。氏は日韓の違いを、日本は封建制を経て近代化したが、韓国は両班の階級制度から飛躍したという。確かに形がないまま民主化すれば混乱するな!と思える所以である。その岡崎氏の本の中で柳周鉉著「小説 朝鮮総督府」も何度か出て来るので、これも取り寄せて読んでみた。韓国人の目で見た日韓併合史だが、伊藤博文から始まった統治の大変さを垣間見るのであった。

Sunday 10 December 2017

小津安二郎と小田原

世代は違うが、小津安二郎のファンである。白黒のノスタルジーもあるが、一呼吸置いた人の会話に深みを感じるからだ。代表作の「東京物語」や婚期を過ぎた娘を嫁がせる「晩春」はいい作品だ。特に笠智衆の父親役がはまり役で品がある。そんな小津監督が大船撮影所で仕事を終えて通ったのが小田原だった。

小津には小田原に好みの芸者が居たという。2人が会っていたのが老舗料亭の「清風楼」だった。今でも立派な佇まいで、文久2年創業というから150年の歴史がある。女将の話によると、当時映画の主人公だった原節子が小津に好意を寄せていたという。結局、小津も原節子も独身のまま終えたが、それには小田原の芸者も一役買っていたのだろうか?その清風楼が佇みのが宝小路である。当時は遊郭が立ち並ぶ盛況な一角だったらしいが、今ではさびれたバーが残る寂しい町であった。その夜も客は鰻を頼む老男女だけだった。夜の9時を廻る事には一人になり、早く店仕舞いしたい老夫婦に急かされるように店を後にした。

小田原の町は終戦の日8月15日に空襲があった。熊谷を爆撃した米軍機が、帰途の途中残った爆弾を処理する序で落として行った。その一撃で古い町並みが焼けてしまった。何とも不運な運命だったが、それが無ければもっと風情も人も残ったかも知れない。小津の人生と重ねた一夜であった。

Monday 4 December 2017

グランブルー

週末にTVで見た映画、「グランブルー(原題:Le Grand Blue)」は中々良かった。30年も前の映画というが、名作は時を経ても色褪せない魅力があった。物語はジェン・レノ演じるダイバーが、フリーダイビングと称する素潜りに挑む話である。イルカと泳ぐシーンは、海好きな人だったら堪らないだろうな!と思った。モデルは実在のイタリアとフランスのダイバーらしいが、どちらも最後は海に散ってしまう。生死を掛けて潜っている内に、悪魔の囁きに耳を貸してしまったかのかも知れない。

また付き合った女性は共に妊娠するが、ダイバーには相手にされない。それを知った女性が一人で子供を育てようとするのだが、「子供は人生を変える」と呟いていたのが印象的だった。舞台になったのはシシリー島のタオルミーナだった。どこかで聞いた事があったと思うと、今年のイタリアサミットの開催場所だった。

素潜りではないが、30代の頃だったか、何かのきっかけでスキューバダイビングに凝った時期がある。ウエットスーツやレギュレターを揃えてツアーに参加した。何人かでマイクロバスに同乗し伊豆の海洋公園や真鶴に通うのだが、特に冬の季節は海の透明度が良く潜るのには最適だと知った。その時に取得したライセンスはその後役に立って、プーケットやハワイ、モルジブで活躍した。特にタイの出張の合間に、「ちょっと潜ってきます!」と地元のスクーターに乗って見知らぬ海に入るのはとても快適だった。海の中は耳抜きや水面に上がる速度など、一つ間違えれば終わりだ。映画を見てそんな緊張を思い出した。

Saturday 2 December 2017

他人の健康が心配

最近、身近でヒアっとする事が多い。ビルの喫煙室でタバコを吸っていたKさんが突然倒れた。たまたま一緒に居た人が機転を利かせAEDを持ってきてスイッチを入れた。それが幸いしてKさんは一命を取り留めた。かと思えば反対のこともあった。

暫く前だったが、テニスコートで倒れたM君がいた。さっきまで元気で走り回っていたのに、突然呼吸が苦しいとしゃがみこんだ。段々辺りの人が集まり出し、彼を横にして様子を伺った。するとみる見る間に顔が蒼くなり息が苦しそうになった。寒さも襲ってきたようなので、皆で摩って「ハイ、大きく息をしてね!・・」と励ました。誰かが「AEDを探してこい!」と言うが辺りに見当たらなかった。そうこうしている内に救急車が到着し病院に運ばれた。ところが23時間すると、Mさんはケロッとした顔で戻ってきた。聞くと症状は過呼吸だったという。周囲が慌てて空気を吸い込ませた事が逆に症状を悪化させたと分かり、一同真っ青になった記憶がある。況やAEDなど流したことには、大変な事になっていた訳だ。

そんな事もあって、先日旧友のT君と久々にテニスをやった時には気が気でなかった。T君は心臓の手術が終わったばかりで、「生きている内にもう一度テニスをしたかった!」みたいな変なことを言う。「それって大丈夫なの?」と恐る恐る聞くと、「2度目だから大丈夫だよ」と言うし、いざボールを追いかけ始めると、動きは悪くない。毎週テニススクールに通っているだけあって、随分見ないうちに腕前を上げ、サーブは入るしボレーの詰めも良かった。予定していた2時間もあっと言う間に過ぎてその日は分かれた。ただその後容体が気になったので自宅に電話してみた。ところが何度掛けても誰も出ない。「ひょっとして入院したか!?」と心配は募った。個人携帯にメールすると、「今旅先だけど?」と拍子抜けする返事が返って来た。色々あるので、健康には過敏になる今日この頃だ。