Wednesday 30 December 2015

海難1890を観て

山岳小説でこの一冊と聞かれれば、迷いなくボブ・ラングレー著「北壁の死闘(原題:Traverse of The Gods)」を上げる。第二次大戦下、ドイツから科学者を救出する話だが、舞台はアイガー北壁である。息詰まる登攀の途中、科学者の体温が下がり、遂に命が尽きようとする。その時同行した女性が裸になって体を温めるが、厳寒と相まって緊迫した効果を生んでいる。

今上映されている映画「海難1890」を観ていたら同じようなシーンがあった。座礁したトルコの負傷兵を主役の忽那汐里が助けようとするが、こちらはリアル感がなかった。冒頭トルコの大統領の挨拶から何か国策映画の臭いがし、これは日土の親睦を謳った教育映画だと思った。

ただイラン・イラク戦争の時、テヘランの日本人救出劇はまだ良かった。空路は日本人に譲り、陸路を余儀なくされたトルコ人だったが、イスタンブールには車で2日も掛かる言う。でもたった2日で行けるの?そんな両国の地形を感じだ。

Tuesday 29 December 2015

サント・ノーレ通りの逸話

バンドーム広場とコンコルド広場の間にはサント・ノーレ通りが走る。エルメスなどの高級ブティックやエリゼー宮もある。観光客なら一度は訪れる一角だが、パリの買い物には暗黙のルールがあった。客はウィンドーショッピングが基本で、買おうと思った人だけが店に入る、という長閑な習わしである。ただかつての日本人、今の中国人の爆買でそれも変わりつつある。

そのサント・ノーレ通りだが、ル・ポアン誌にナポレオンを狙った爆破事件が載っていた。時は1880年、ナポレオンがオーストリアを相手にしたマレンゴの戦いで勝ち、エジプト遠征から戻ったクリスマスイブに起きた。22人の死亡者を出した惨事だったがナポレオンは無事だった。今のルーブル博物館から馬車に乗り、31才だった彼はその後妻にするジョゼフィーヌとオペラに行く途中だった。最近のテロのではないが、昔から物騒な事件は絶えない。

その通りの243番地にクロード・マルモという老舗の画廊がある。印象派から現代に至る写実的な絵画を専門としている。ある時店の人が、創業者のマルモには日本人の血が流れていると教えてくれた。以来、彼のルーツが気になっている・・・。

Monday 28 December 2015

ヴァンドーム広場の逸話

コンコルド広場から100m程行くとヴァンドーム広場に出る。広場の真ん中にナポレオンの塔が建っている。アウシュテルリッツの戦いでロシア・オーストリア連合軍に勝った時、敵の大砲を溶かして作ったものらしい。

取り囲む建物の一階には高級ブチィックや銀行が入っている。中でもひと際大きな建物は、パリ最高級ホテルのリッツである。ダイアナ妃が交通事故で亡くなった時、ハロッズの御曹司と出て来たのがこのホテルだった。逸話は多く、パリ解放後に記者だったヘミングウェーが立ち寄ったことから、バーの名前は彼の名前を冠している。また余り知られていないが、地下のプールは幻想的で映画のシーンかと錯覚する一見の価値がある。外は寒いのにそこだけ暖かく、何故か泳ぎもしない美女が人気のないプールサイドに横たわっている。

そのリッツホテルだが、知らないと見過ごしてしまうが、壁にメートル原器が掛けてある。フランス革命の直後、フランスは子午線から割り出して1mの基準を作った。その名残の一つがここに残っている。世界標準とはこれか!と思える。

Sunday 27 December 2015

コンコルド橋の逸話

大阪の私鉄駅で古本市をやっていたので覗いてみた。そこで100円で求めた川島ルミ子著「フランス革命秘話」は中々面白かった。例えば、バスティーユの刑務所はその後解体され、今のコンコルド橋になったという。パリは何でも逸話があるが、これは初耳だった。

コンコルド橋はコンコルド広場の前に架かる大きな橋である。車も通れる。目の前は国会があり、広場にはナポレオンがエジプトから持ち帰った王家のオベリスクや、名門のホテル・クリオンが立っている。そして何といってもこの広場を有名にしたのはルイ14世とマリーアントワネットの処刑である。今でも殆ど当時の面影を湛えているので、目を閉じればその光景が蘇る。

また革命によって、歴代の王の墓が暴かれた話もあった。サンドニ教会の事だが、その後ルイ18世時代になって破棄された遺体を掘り起こし、また教会に埋葬されたと云う。サンドニと聞くと、先のテロリストの隠れ家だったり、ピガールの怪しげな場所を連想する。ただこうして歴史の後日談に触れると、また行ってみたくなるのであった。

Saturday 26 December 2015

Christmas

It was a Christmas day yesterday. Japanese Buddhist are not directly concerned with this Christian sacred events. It is just one of the drinking day. I dropped Izakaya after work as usual. For young couple, it is important day how they spend their evening especially with whom. If you say to someone that you pass the eve watching TV in your room, people would laugh thinking that you are real bachelor. It is a miserable moment for single man.


We are proud of our emperor Akihito who was born one day before Jesus Christ birthday. It was Dec.23rd now being national holiday in Japan. On Dec 25th, Humphrey Bogart was borne in 1899 and Chaplin died in 1977. We remember Rumania ex-President Ceausescu was executed and Soviet President Gorbatchev resigned the same day.

Something happens somewhere but it is an ordinary day for most people.

Thursday 24 December 2015

Childhood and origin

Shintaro Ishihara, 83 years old, is a novelist, ex-governor of Tokyo Metropolitan City, and an extreme right politician. I wonder how his origin was coming from ? I found an article in the newspaper that he went to hear Tokyo tribunal of war criminals with his uncle when he was a child. At the entrance of court, MP asked him to stop and ordered to put off his Geta (wooden shoes) as it was noisy. He followed and went into the court without shoes. It said this humiliating experience cultivated his rivalry mind to US.

I was contrastively opposite. When I was a student, I traveled all America with hitchhiking in summer. In Las Vegas I luckily could see Elvis Presley show at Caesars Palace. I got a ticket but hesitated to go in as my dress was jeans and t-shirts when all visitors were with formal dress. I asked someone “ Is it Ok with this ?” He said “ No problem, come to our table!” I came to like tolerant American style since then.

If you want to understand the people, better to ask what he/she was doing and thinking in his/her childhood.

Wednesday 23 December 2015

旅になる棚卸

年末年始を海外で過ごす人が多いが、Aさん夫妻もその1人だ。昨年はフランス、今年はイタリアだが、娘さんの処に行く。娘さんは外資の国際監査チームの一員で、年に何度か滞在国を移動している。Aさん夫妻もその追っかけを口実に楽しんでいるという訳だ。

ただ受検する方は敵わない。知らない人が突然やってきて調べられては、情を挟む余地がない。その点日本の会社とは随分違う。思い出すのは今回の東芝事件だ。監査法人も粉飾に加担していたようで問題になっている。詳しくは知らないが、長年の付き合いで、知らず知らずの内に呉越同船になっていたのだろうか?

監査法人は四半期に棚卸と称する在庫確認を行う。現場に行って在庫の数を数えるが、実際は現場の人が数えているのに立ち会うだけだ。必然的に形式が優先する。そして現場の工場は田舎や海外にある。一仕事終われば、地元の割烹、レストランでお疲れ様の接待が待っている。その内、この3か月毎の棚卸は、仕事だか旅だか分からない行事になっていく・・・。

Saturday 19 December 2015

リトアニアと杉原千畝

今日は木枯らしが吹き荒れたので、テニスは諦め映画を観に行った。「杉原千畝」は期待通り中々良くできた作品だった。主役の唐沢さんの英語も素晴らしかったし、国際的に通用する構成で安心した。

杉原千畝氏は有名な人だが、改めて映画を観ると彼が早稲田大よりハルビン大に影響されたことや、かなりの情報活動(インテリジェンス)家だったことも分かった。また今のリトアニアの首都はヴィルニスだが、当時杉原が居た領事館は そこから100km離れたカナウスだった。映画には出てこないが、当時の生活はさぞかし大変で、小雪演じる奥さんの苦労が伝わって来た。

ヴィルニスの街には暫く前に泊まった。KGBの処刑室近くにユダヤ人博物館があり、杉原の記念碑が建っていた。注意していないと見過ごしてしまいそうな小さな家だった。日本人はリトアニアと聞くとこのユダヤ人救出を思い浮かべるが、実はリトアニアに暮らすユダヤ人は現在3000人しかいない。リトアニアは旧ポーランドの領地だったので、バルト3国の中でも熱烈なキリスト教国である。そんなギャップが、果たしてリトアニアの人がこの映画を観てどう思うのだろう?そんな事を考えた。

Friday 18 December 2015

プレーボーイ誌

暫く前に、プレーボーイ誌がヌード掲載を止めるという記事が載っていた。若い頃、ドキドキしながら競って入手したグラビアだったので時代の変遷を感じた。今やクリック一つで、しかも無料で見れる時代だから仕方ないのだろう。一時は600万部近かった発行数も、今や80万部まで落ち込んできたという。これからは、30~40代後半をターゲットに、ユーモア・セックス・文化で売るらしい。

そのアメリカだが、先日フィルム会社の人と話していたら、コダックの倒産の話になった。アメリカの会社は量産が全てなので、時代が変わると対応出来ない。その点、富士フィルムは化粧品やオフィス機器など、新分野を開拓して2兆円の会社として生き残っている・・と。

果たしてプレーボーイ誌はどうなるのだろう?雑誌は廃れたが、そこから転じた往年のプレーボーイはまだまだ健在だ。その人達の生き方にスポットを合わせれば、結構いい線が出てくるかも・・・。

Monday 14 December 2015

ポーランド人の墓

読売新聞の「戦後70年 歴史を歩く」は、中々いい特集だ。今週は異国に眠るポーランド人というテーマで、イランの墓地に眠るポーランド人とその末裔を紹介していた。「シベリアに比べればテヘランは楽園だ」という言葉は感慨深かった。

読んでいて、エストニアの首都タリンにも同じような場所があったことを思い出した。市の中心にある高台で、今では公園になっていてポーランドの丘と呼ばれる場所だ。眼下にはサッカー場と名門のテニスクラブが広がっている。その公園だが、昔はポーランド人の墓地だった。イランのポーランド人同様、ナチスの迫害にあって逃げてきた人達なのだろうか。ところが戦後ソ連の統治下になり、それらは潰しされ更地になってしまった。今では綺麗に整地されているが、所々に点在する墓石跡と、立て看板がないと殆ど分からない。

タリンの街はまだ地下鉄もなければ高層ビルも少ない。街を掘れば白骨が出てくるので、工事をストップし場所を公開している。

Sunday 13 December 2015

ラトビアの木賃宿

日本を訪れるバックパッカーはどんな処に泊まっているんだろう?そんな好奇心から、大阪難波のファースト・キャビンに泊まってみた。名前の通り、飛行機のファーストクラスである。水平なベット、イヤホンから流れる音楽、それにテレビもある。ワンフロアーに個室が連なるため、扉はアコーデオンカーテンだ。そのため、夜になるとスースーと近所の寝息が聞こえてきた。

持論だが、ホテルはシーツが全てである。殆どは寝ている訳だから、安心して眠れる清潔なシーツは大事だ。その点、イギリスやフランスの民宿は当たりはずれが無かった。

ただ臭くて眠れなかった体験もある。ラトビアのリエパヤという町の木賃宿である。かつてロシアのバルチック艦隊が対馬を目指して出港した由緒ある街だが、今は鄙びていた。収容所を思わせる鉄の扉と電気にのない廊下は、まるでソ連時代の監獄のようだった。夏なのでベットには掛け布団もない。その簡素なベットから立ち込める旅人の体臭は物凄いものがあり、朝が待ち遠しかった。

Friday 11 December 2015

人情三ツ星の民宿

2020年の東京オリンピックを控え、大田区で民宿条例が施行された。実態は知らないが、新しい試みは大歓迎だ。

その民宿だが、世界的にはイギリスのB&Bが有名だ。シャワーと朝食が付き、2階の個室に鍵が掛かる。今まで随分とお世話になったが、殆ど快適に過ごさせて貰った。それを支援する団体が、素人オーナーをサポートしているのが良く分かる。フランスでは、シャンブル・ドット(Chambre d'hôtes)と云う。知る限り、都会より田舎に点在している。農家が余った部屋を提供し、食事も自家製のミルク、鶏、バター、野菜、ワイン・・・と、ローカル色が極めて強いのが特徴だ。こちらも快適だ。ある人がミッシュランの星付けを文字って、人情三ツ星と称していたがとても頷ける。

民宿をやると意外なこともあるだろう。多くがバックパック旅行者だから、何といっても臭いが大敵だ。特に体臭や、インド人が部屋でカレーを作りでもしようものなら大変だ。ただ日本のファブリーズは優れ物なので、これを克服出来るだろう。日本版の三ツ星話が楽しみだ。

Thursday 10 December 2015

アクアスキュータムのコート

一昔前まで、ロンドンに出張に行くと云うと、アクアスキュータム(Aquascutum)のトレンチコートを買って帰るのが定番だった時期がある。ピカデリーサーカスから歩いて直ぐの、リージェントストリートに本店があった。格式高い割には品ぞろえが豊富で、観光客でも入り易かった。

アクアスキュータムのコートと言えば、映画「カサブランカ」でハンフリーボガードが着て有名になった。雨の降りしきるリヨン駅で、イングリッドバークマン紛するマリアを待つが来ない。雨に打たれ、裏切られた気持ちで汽車に乗るシーンである。いつぞや真似をして、雨の中傘も差さずに歩いてみた。時間が経つと段々浸みて来て、中々映画のようには行かなかった。

今年も寒くなったので着始めたが、デパートの鏡に映る姿はヨレヨレで驚いた。アクアスキュータムも暫く前に倒産し、何か昔を着て歩いているような気分になった。

Tuesday 8 December 2015

鮎並を肴に

呉出身のTさんと広島の酒を飲みに行った。地元の「雨後の月」から始まり、神雷、龍・・・と珍しい酒が出てくる、新橋の知る人ぞ知る酒店である。家族を地元に残し、東京に出てきてから2年が経つので、そろそろ戻りたいと云う。良く釣ったという鮎並を肴に話が弾んだ。

 呉と云えば戦時中の海軍工廠として有名だ。一時は50万人程の人が住んでいた大都会だった。暫く前に大和ミュージアムを見に訪れたが、今ではその面影は殆ど感じられない町になった。きっと戦争末期の爆撃でやられたのだろう、駅から煉瓦通りと称する中心街に掛けて、変にコンクリートの空間が続いている。

そんな話をしていたら、Tさんが「だったら倉橋島がいいですよ!」と云う。山本五十六が泊まった宿があるという。海軍兵学校の江田島には昔行ったが、これは知らなかった。いつか行ってみたい場所がまた一つ増えた。

Sunday 6 December 2015

石川遼の優勝

日中、時間があればアイフォンを見ている人がいる。「何を見ているの?」と聞くと、「ハア-・・・石川遼ですよ、7アンダーまで来ました」と悪びれた素振りで教えてくれた。知らなかったが、オンタイムでスコアが出るサイトがあるらしい。仕事中とはいえ、一度これに嵌まると止められないという。

その石川遼だが、今週は日本シリーズに優勝した。3日目でバーディーを量産し、独走だった。最後は14アンダーのブッチギリだった。先週一打差で優勝を逃したただけに、喜びも一入だろう。

見ていてやはり彼には華があると思った。若さだけでなく、誰もが応援したくなるような風貌と人柄からくるのだろうか。それは見られる職業柄、大事な要素だ。こうしてトロフィーを持つ姿が絵になっている。

Friday 4 December 2015

COP21

パリで国連の気候変動の会議、COP21が開かれた。テロの直後にも拘わらず、各国首脳が一堂に会したのは、流石フランスの政治力だと感心した。

そのCOPだが、10年ほど前に覗いて見たことがあった。場所はドイツの首都ボン、人口30万人の中堅都市であるが、市内は至って静かであった。バスを待っていると、自転車の通り過ぎるシューシューという音が唯一耳に入ってくる。会場へ行くのも専用電車と、環境に配慮していた。ところがその会議だが、本会議場は何時始まって何時終わるのかダラダラしている。始まったかと思うと、何を言っているのか殆ど聞き取れない。周囲はまるでサロンのようにザワザワ、真面目に聞いている人は居ない。

斯くして人々は身の置き場が無くなると観光に走る。ボンからちょっと電車に乗ればケルンの大聖堂やベートーベンの生家、映画にもなったレマンゲン鉄橋などに寄り、最後はビアホールに辿り着く。今回は華のパリである。さぞかし盛り上がるだろう。

Tuesday 1 December 2015

水木しげるさんを偲んで

水木しげるさんが亡くなった。ファンとして随分楽しませてもらった。水木さんというと、妖怪ゲゲゲの鬼太郎で有名だが、私は戦争物が好きで良く集めた。敗走記、総員玉砕せよ!、姑娘、白い旗など、自身の体験を基に描いている作品である。異色だが、劇画ヒットラーもとても面白い。そして何といってもコミック昭和史は,ねずみ男の解説で全8巻と圧巻である。

今更だが、水木さんの漫画は血生臭くて残酷な戦場が、ややもすれば滑稽に描かれているから読み疲れない。漫画のせいかも知れないが、それは水木さんの性格のような気がする。

今でも印象に残っているのは、彼が若い頃受験に失敗し、何をやっても上手くいかなかった時だった。彼のお父さんはのん気に見守っていた。その後彼が絵で大成したのも、その大らかさを引き継いだからかも知れない。ご冥福をお祈りする。

Monday 30 November 2015

赤城温泉と国定忠治

紅葉の終わるこの時期、今年も赤城の温泉に泊まった。一緒に行ったのは同僚のTさんだった。今回はTさんが宿を探してくれたが、「どうやら宿は混浴らしいですよ!」と云うではないか!

期待を込めて宿に着くと、如何にも田舎っぽいお婆さんが、「東京からお越しですか?」と出迎えてくれた 。早速温泉に飛び込む。湯舟は1つなのに、何と脱衣所は男女2つありTさんの言った通りだった。湯舟は2-3人入れる程小さく、斯くしてロマンを待ち続けた。ところが待てど暮らせど誰も入ってこない。不思議に思って女将に聞くと、何と「今日はお客さん達で貸し切りですよ!」と言われた。

赤城といえば、有名なのは「赤城山も今宵限り・・・」の国定忠治である。どんな人かと思って調べてみると、何のことはない地元のヤクザだった。強気を挫き弱きを助けるがモットーらしいが、実の処はどうだったのだろう。それにしても今でも寂しいこんな山奥で、彼は一体何をしていたのだろう?

Sunday 29 November 2015

カール12世の葬送

ロシア機がトルコ機に撃墜された。ロシアは侵犯していないと云うが、トルコは警告のテープを公開した。ただでさえも複雑なシリア問題が、更に拗れてしまいそうだ。

それにしてもロシアとトルコの関係は長い歴史がありそうだ。1700年の初頭、この人が居なければ今のロシアもなかったと云われるピュートロ大帝は、西と南に活路を求めた。その南がウクライナだったり、時のオスマン帝国だった。一方当時のヨーロッパの大国はスウェーデンだったので、両国は何度か衝突し大北方戦争が起きた。スウェーデンの国王だったカール12世は中々行動力もあったので、一時はピュートル大帝に勝ったこともあったが、絶体絶命の時に逃げ込み亡命したのがオスマン帝国だった。彼はそこで鋭気を回復し、兵を立て直し再びロシアに挑んだが、最後は(現在のウクライナの)ポルタヴァの戦いで敗れ、その後死亡した。スウェーデンは以降小国になって現在に至っている。

ある時ストックホルム美術館で、この時の「カール12世の葬送」と称する絵画に出会った。それは歴史の節目を象徴しているかのようで、とても印象的だった。彼を助けたオスマン帝国は西洋のシンパだったのか?今回の事件を通して、改めてそんなことを思い出した。

Tuesday 24 November 2015

パリのテロと移民文化

パリで大きなテロがあった。130人もの市民が犠牲になり、300人以上の人が負傷した。暫く前に新聞社を襲った事件があったから、又かという思いだ。

犯人はISと云うが、年毎に増す治安の悪さは、起こるべきして起こった感もある。昔はジプシーのスリや、バスク独立の過激派をマークすればよかったが、この10年で大分様子が変わった。特に今まで郊外にいた中東の移民が、日中からパリ中心部を闊歩するようになってきたからだ。

そもそもフランスは移民で成り立っている国である。アルジェリア、ベトナムの旧植民地や、ロシア、ポーランドなど政治的に迫害された貴族を受け入れた。中国人も13区にチャイナタウンがある。その大らかさはカソリック精神から来たのか、果ては豊かな土地のグルメ文化から来たのか、良く分からない。フランス人は女性的である一方で、ラ・マルセエーズの歌詞(血まみれの旗・・・武器を取って隊列を組んで進め!)に象徴される強かさがある。どう国が治まるのか、気になる。

Sunday 22 November 2015

大阪は好きでないけど

大阪には何度行っても土地勘が残らない。誰かに「それは好きじゃないからだよ」と言われたが、そうかも知れない。街はガサツでドブ川の匂いがする。何より大阪弁は性に合わない。まるで喧嘩をしているようで、気のせいか女性は誰もが辻元清美に見えて来る。

そんな中、ある本に大阪の地名の話が載っていた面白かった。例えば大阪と梅田、どちらも同じ場所なのに併存している。どうやら大阪は官製、梅田は民製らしい。また西中島南方も2つの街をくっ付けたもの。難波もナンパから来たと思っていたが、こちらは浪速から転じたものらしい。斯くして大阪人は昔の地名を譲ろうとしないが、東京では簡単に融和し新しい地名に替えてしまう。二本の橋が日本橋、国分寺と立川が合わさって国立・・・。

「山手線が混んでいる時、入り口から動こうとしないのは大阪人だ」と、ある大阪出身者が話していた。田舎っぽい一方で、変に自信がある文化はどこから来たのだろうか?この地名の由来が縁で、少し興味が出て来た今日この頃である。

Thursday 19 November 2015

今に生きる忍者

ある時人事部に新人が入って来た。若いのにやけに落ち着いていて、切れ目でモノに動じない雰囲気があった。何を聞いても不必要な事は決して話さない、やけに大人びた処があった。ある人がそっと、「彼は甲賀の末裔だ」と教えてくれた。祖先は忍者だったらしく、その口の固さを買われて人事部に配属されたようだ。

今週はその甲賀を訪れた。琵琶湖から草津線に揺られること20分、ただの田舎だった。それから又暫く行くと今度は伊賀に出た。知らなかったが、忍者の聖地はこんな処に固まっていた!辺りは低い山並みが連ねる至って平凡な農村である。忍者は永年百姓や商人を装って身分を隠してきたので、目立たないから生き延びたのかも知れない。親から子へ、その使命は伝承され決して口外しない掟があったようで、まるでフリーメイソンだった。

忍者屋敷もあるので、いつかゆっくり旅したい地域だった。

Wednesday 18 November 2015

晩秋の伏見稲荷

晩秋の京都を訪れた。生憎の雨の中、今回は時間もなかったので、京都駅に近い伏見稲荷大社に行った。

伏見稲荷は外国人観光客に人気が高いという。確かに外人が多い。団体から個人までお国柄も多彩だ。そして和服の人が目立つ。近くで話し声を聴くと殆どが中国人である。沿道のお蕎麦屋さんや刃物屋など、歩いているだけでタイムスリップした気分になるのだろう。彼らの楽しそうな様子が伝わって来る。

名物は何といっても千本鳥居である。山の頂上まで鳥居が連なっているから圧巻だ。ただ良く見ると、最近寄付された新しい物が多い。鳥居をくぐると、神様に頭を撫でられるようで、謙虚な気分になる。

Saturday 14 November 2015

Black Mary

It’s a rainy day. I had nothing to do at home. I saw a rental DVD that was minor file named “The Boy in the Stupid Pyjamas” The boy hero was a son of German officer in WWII who was a chief guard of concentration camp for Jew. A boy lived closely the camp so that was killed by accident together with Jew. A father shocked to know that he killed his son under his control.

I remember the Black Mary in Uragami Cathedral in Nagasaki which was attacked by atomic bomb in 1945. It was 2 days after Hiroshima. Nagasaki was famous for Christians as it was only area to be opened for Europe in natioanl isolation era. So many Japanese turned to be Christians but were killed by their fellow.

We used to say that the war is useless. People first find themselves when they meet the tragedy of friends.

Wednesday 11 November 2015

オクトーバーフェストの思い出

ドイツ在住のエッセイスト、熊谷徹氏の本を読んでいたら、オクトーバーフェストの話が載っていて懐かしかった。今まで飲んだビールで一番楽しかったのが、その祭りに行った時だったからだ。

オクトーバーフェストは9月下旬にドイツのミュンヘンで行われるビール祭りである。毎年世界から600万人が訪れるが、そう簡単にはビールが飲めない仕掛けになっている。まずホテルだが、ミュンヘン市内は勿論、市内から車で1時間程のホテルは一年前からの予約で一杯だ。仮に運良く泊まれたとしても、会場のテントには予約がないとまず入れない。地元企業が席を買い占めているからだ。

それでも10年程前だったか、地元の仕事仲間に連れて行った貰ったことがあった。その時も予約はなかったが、予約客が来る朝の11時前なら飲めるということで、やっとビールに辿り付くことが出来た。バイエルン地方の山高帽子を被り、威勢のいいホルンが奏でるドイツ行進曲聴き、子供用のジェットコースターに乗って・・・それは思い出に残る一日になった。

Monday 9 November 2015

Little Big Man

I like the movie “Little Big Man” starring Dustin Hoffman. The story starts from the reminiscence by old Indian whose name is Jack.

Jack was originally a white man but his life was coming and going between white society and Indian for 3 times each. I can’t hesitate of thinking his destiny that was checked by mysterious power. Once he was born in white family, rescued by Indian, became a soldier of General Custer and again worked with Cheyenne.

I like this kind of unforeseen circumstances and elastic life of living. I remember the word of Charles Darwin that it is not the strongest of the species that survive, nor the most intelligent but ones most responsive to change. 

Saturday 7 November 2015

ブレルの歌

昔、とあるベルギー人夫妻をお世話したことがあった。その時、お礼にCDを頂いた。それはベルギーの国民的人気歌手、ジャック・ブレル(Jacques Brel)の定番だった。ブレルは50~60年代に活躍した人で、強ち美空ひばりや裕次郎のような存在だ。フランス語圏の歌手なので、歌詞は勿論フランス語だった。シャンソンといえば、エディット・ピアフのような戦前のクラシックしか聴いたことがなかったので、その現代風なメロディーは正直あまり親しみが持てなかった。

ところが最近家にやってきたフランス人にこれを見せると、「このCDはいいよ!」と絶賛された。中でも、“私を捨てないで(Ne Me Quitte Pas)”の歌詞が素晴らしいという。そこで改めて聴き直してみたが、やはり重苦しく思い詰めた旋律がどうもしっくり来ない。

その逆もある。バルト海の行き付けのパブに、当時自宅で良く聞いていた徳永英明のCDを持って行ったことがある。それを掛けてもらおうとカウンターの女の子に頼もうと思ったが、ちょっと思い止まった。掛けてみて「何これ?」と思われたらどうしよう、そんな気持ちが先に立った。国民的なセンチメントは微妙に違うから慎重になる。

Tuesday 3 November 2015

Martha Argerich

I used to go Oita Prefecture where is one of the six prefectures in Kyushu island. Kyushu locates south of Japan so warm with many hot springs (Onsen). It is said Oita has the most numbers of Onsen in Japan. I didn’t know that. It is inconvenient access from airport to the city so the limousine takes 1 hour.

Oita prefecture is well famous for music festival that Martha Argerich participates every year. She is Argentine great pianist who became famous when she won Chopin Piano Competition in 1965. When I was a high school student, she came to Japan and played at Ueno concert hall. I never forget her energetic performance.

I don’t know much about her but happy to hear that she is still continuing her piano so far and loves such local Japanese region. If I had a chance to meet her, I would like to convey my heart that I was so excited and could not have slept at that night.

Monday 2 November 2015

スポーツに沸く欧州

今日は眠い。遂々昨夜のスイス・インドアのテニスを見てしまった。バーゼルで行われたフェデラーとナダルの決勝である。バーゼルはフェデラーの故郷、お父さんと珍しくお母さんも来ていた。彼はこの大会への熱の入れ様が凄く、2006年以降優勝6回、準優勝5回と毎年ファイナルまで行っている。して今年も彼が勝ち、優勝を7に伸ばした。

同じ頃、前夜行われたワールド・ラグビーの決勝、NZと豪州の熱戦も再放送していた。こちらも好ゲームで、結果は分かっていたが改めて楽しませてもらった。フォワードのパワーとスピードは素人目に見ても違う!

ラグビーはロンドン、テニスはスイス、そしてマインツの武藤がハットトリックを決めたのが、ミュンヘンの北西アウグスブルグであった。今日からパリで、錦織も登場するBNPパリバマスターズが始まっている。欧州の冬は暗く長いが、人々は身近に質の高いスポーツで秋の夜長を楽しんでいる。

Sunday 1 November 2015

エストニアのドイツ人

トーランドの本が面白かったので、「アドルフ・ヒットラー」を読み始めた。こちらは周知の事象が多いので新鮮さは左程ない。ただヒットラーが20歳の時、ミュンヘンでエストニア人のローゼンベルグという人物と出会う。2人は意気投合し、ローゼンベルグは後にナチの幹部になっていく。

それにしてもエストニア人との関係は何なのだろう?ふと思ったのはドイツ騎士団だ。中世からバルト海は沿岸はドイツ人が入植していたが、それを保護したのが騎士団だった。その末裔がずっと暮らして来た。ただ第二次大戦が始まる前、独ソの密約でバルト三国はロシアに売られてしまった経緯があった。残ったドイツ人は帰る場所もなく現代に至っている。

ある時、エストニアのタリンの街でおばあさんに道を聞いたことがあった。「英語は話せますか?」と聞くと、「英語は出来ないけど、ドイツ語は分かるけど・・」と言われた。ソ連崩壊後、郊外には教会が復活しつつあるが、勿論プロテスタントだったり・・・。エストニア人はブロンド髪のため、映画でドイツ軍役を演じることが多いし、本当にナチの将校もいて本になっている。エストニア人はロシア人よりドイツ人の方が好きなのは、何か訳がありそうだ。

Wednesday 28 October 2015

女子高生の話

随分昔になるが、とある女子高にオーストラリアから留学生が来た。彼女はクラスメイトにある心理テストをした。それは良くある質問であった。

「もしも海で船が遭難し、男女2人がボートの残ったとします。ボートには食べる物がありません。その時、ボートに一匹の魚が飛び込んできました。さて貴方はその時どうしますか?」。 想定される答えは、「私は愛する人に魚をあげる」とか「2人で半分にして分かち合う」であった。ところがそのオーストラリアの留学生は、「その魚で沢山の魚を獲って2人で食べる」だった。それを聞いたクラスメイトはその発想に驚いたという。実は私はその話を聞いて、その驚いた女子高生の感動に感動したのであった。

歳を取ると枯れ木になる。それでなくても刹那的になり、ややもすれば「どうせ出てしまうのだから、何を食べても同じよ」的な発想になってしまう。だからという訳でもないが、今頃何でこんなことを思い出すのか、自分でも良く分からない。

Monday 26 October 2015

上田監督を偲んで

ワールドラグビーも遂に決勝まで来た。準決勝を見ていて、やはりNZとオーストラリアは残るべくして残った感があった。

そんな最中、旧友のA君から上田昭夫著「王者の復活」を貰った。著者は慶大ラグビー部の監督を務めた生粋のラガーマンである。その彼はこの7月、難病の前に倒れた。早すぎた死だった。その彼の金字塔は、何といっても1986年の全日本選手権である。社会人のトヨタを破って学生優勝した。その日は仲間と国立競技場に応援に行き、目の前でトライを決めた若林選手の勇姿に酔った。ただその若林選手はその後事故で半身不随になった。そんなこともあり余計心に残った日であった。

本ではトヨタ社員の上田が、社内で板挟みに会った述懐を紹介していた。上田君には直接会ったことはないが、本から伝わった来るのは典型的な体育会である。慶応の保守本流で、大学に入るより難関の体育会、それも華のラグビー部である。誰もがやりたくても出来ない夢の人生を歩んだ気がした。

Saturday 24 October 2015

Sさんの言葉

若い頃、就活をやっていた時があった。その時、誰かの紹介で知り会ったSさんが居た。同じような境遇のSさんは、仕事がない時は只管走っていると云う。聞いてみると、42Kmのマラソンは勿論、60歳近いのに24時間レースに出ているというから驚いた。仕事が出来ない悶々としたマグマを、マラソンで爆発させていた。
 
そのSさんだが、ある時ぽろっと零した言葉があった。それは、「ヒトは幸福には鈍感だが不幸には敏感だ!」だった。何気ない一言に、苦労した彼ならではが伝わって来た。地獄を知るSさんだからこそ、見えた世界かも知れない。その後Sさんとは会っていないが、時々使わせて貰っている。
 
足元を見れば途轍もない幸せがあるのに、ヒトは中々それに気が付かない。その反面、誰も気にしないのに今の境遇を大きく嘆いてしまう。昔、田村正和の古畑任三郎シリーズだったか、ある男が「自分は駄目なんです・・・」と嘆く。すると古畑が「誰が駄目だと決めたんですか?」と迫る。中々名文句だと思って、これも取り込んでいる。

Friday 23 October 2015

Back To The Futureのイエロー

今週の10月21日は、バック・トゥー・ザ・フューチャー(Back To The Future)の記念する未来の日だったという。朝のニュースを見ていたら、アメリカでイベントをやっていた。ジョージ・オーウェルの"1984"もそうだが、子供の頃に読んだ世界まで辿り着くと、特別な感慨があるようだ。

そのバック・トゥー・ザ・フューチャーだが、主役のマイケル・フォックス紛するマーティーが挑発されるシーンが何度かある。悪役のグリフに、"チキン(腰抜け)"と言われる。すると敏感に反応するから面白い。このシーンはシリーズを通じて何度かあるが、良く聞いてみると、もう一つの言葉がある。

それは、"イエロー(黄色野郎)"である。字幕に出てこないが、チキンと同じコンテキストで使われている。昔、由緒ある巴里のホテルでも、ボーイが"猿"と陰口を囁いていたのを聞いたことがあったが、そんな感覚だったのか。外人と上手く付き合っている時はいいが、関係が拗れるとこんな心理に出くわす。映画ではトヨタの車を称賛しているので深い意味はなさそうだ。

Tuesday 20 October 2015

BIS in Basel

I am interested in reading the novel “ The Rising Sun” written by John Toland. It's a long story so takes time. I was surprised in 2 Japanese banker in Basel who tried peace talks with Allied force in 1945. They were the staffs of BIS (Bank for International Settlements) as Switzerland was neutral country.

Basel located in the center of crossing national border of Switzerland, France and Germany and belonged to Switzerland. I have used to visit BIS on business. BIS was notorious organization for 8% capital ratio. A lot of Japanese banks were obliged to be merged and disappeared with this regulation. But I had a good impression as my counterpart took me a good restaurant. It was a chateau restaurant named Schloss Bottmingen near the city.

The Basel airport has two exits that one is for Switzerland and another is for France as of today. I wonder how 2 Japanese banker survived in such a difficult war period. This city is now famous for the birthplace of tennis player Roger Federer.  

Monday 19 October 2015

Yellow Beetle

Volkswagen had a big emission scandal that they cheated the test. I can`t believe it as VW is deemed a clean company.

When I graduated the University, I bought VW Beetle with my first bonus. It was a yellow used Beetle. I liked its cute shape and trembling muffler noise. My 2nd car was also VW Audi100. It was a good car that could have driven so well. On the way back from Tignes for ski, an old engine exploded and stopped. Its running distance was 162,847Km that meant in Japanese "run more than expected(十六分に走ったな!).

I have a German friend who used to say that VW, Mercedes and BMW are their pride so that German people buy it without any hesitation. They love their national car. I guess it was them who got a shock this time. 

Thursday 15 October 2015

山本五十六の逸話

ジョン・トーランド(John Toland)の「大日本帝国の興亡(The Rising Sun)」は、45年前に出版された本だが、今読んでもとても面白い。例えば山本五十六の逸話である。彼は連合艦隊司令長官だったが、左指が2本なかったという。少尉で参加した日露海戦で負傷した。名前の五十六は親が56歳の時の子供から来た。

また当時の日本人をして、形而上学的な直観と動物的な本能が同居、優雅と残忍、正直と滑稽する因果の輪を持つと形容している。的を得た表現で感心した。そして刹那的に死を恐れない文化は、儒教から来たと云う。そういえば昔、人間は死んでも誰かにその魂が引き継がれると教えられたものだった。

其の他「政策あって原則なし」の文化をスーツケースと風呂敷に例えるなど、ルース・ベネディクトの「菊と刀」のような洞察があった。ただ、南京事件の犠牲者が20-30万人と書いていた事には、ちょっとガッカリしたが・・・。

Wednesday 14 October 2015

盧虚構事件の犯人

トルコで死者97人の大惨事があった。トルコの首都アンカラで、クルド人との集会を拓いていた最中だった。誰もがトルコ過激派の犯行だと思ったが、犯人は第三者のISだったことが分かった。

ふと思ったのは盧虚構事件である。1937年に満州に駐留していた関東軍に対し、国民党軍が発砲した事件だ。幸い国民党軍の宋司令官と北支駐屯軍の橋本少将とは硬い信頼関係があったので冷静だった。それにも拘わらず、中国側から何度か実弾が飛んで来た。おかしいなと調べてみると、犯人は国民党軍に紛れ込んだ共産党のスパイだったことが分かった。

当時の中国共産党は、排日を掲げて国民党を攪乱しようとし、盧虚構事件もその一環だった。それから4年して日本は太平洋戦争に突入し、70余年が経った。共に戦った国民党は台湾に追われ、漁夫の利を得た共産党が今の中国になった。ジョン・トーランド(John Toland)の名著「大日本帝国の興亡(The Rising Sun)」に、その辺が詳しく書かれているから興味深い。

Tuesday 13 October 2015

栗の話

信州の山を走っていたら、道に大きな栗が落ちていた。強風と晴天が幸いし、食べ頃の実が一挙に落ちたようだ。暫し足を止め拾い始めると、どこからともなく人が現れた。「取ってもいいですか?」と聞くので、「勿論、どうぞどうぞ」と2人で又拾い出した。

今年は栗とマツタケが豊作の年だという。秋刀魚が中国船に密漁され、秋の旬に事欠いているだけに朗報であった。取った栗は早速茹でて食べた。

ところで、冬のパリの風物詩と言えば、牡蛎と焼き栗である。特に焼き栗は黒いアフリカ人が、鉄板に上で焼きながら、「マロンショ!(熱い栗:Marron Chauds)」と大きな声で呼び込んでいる。だから誰もがマロンはフランス語の栗だと思ってしまう。ところが栗のフランス語はChâtaigne(シャティニュ)で、マロンはマロニエの木の実である。そんな私も栗と思って拾い集めていたら、「ノンノン!」とフランス人がやって来て、「それは食べられないよ!」と注意された。それにしても、どうしてマロンが栗になったのか、未だに分からない。

Sunday 11 October 2015

飛ぶ記憶

映画のボーンシリーズは何度見ても飽きない作品だ。スピード感と国際的な展開が緊張感を持続させてくれる。ストーリーは主人公のジェイソン・ボーンが、失った過去の記憶を辿る。(原作では中国人だったが)映画はアフリカ人の主導者を殺害する処から始まる。それが失敗し記憶が飛んでしまう。

先日テニスをしていたら、隣のコートで人が集り始めた。何か変な雰囲気に近寄ってみると、今までプレーしていたSさんがベンチに座っている。そして「ここはどこ?俺は何やっているの?」と話しているではないか。どうやら倒れて頭を打った時に脳震盪を起こしたらしい。幸い仲間にお医者さんがいたので、彼の指示で安静を保ち直ぐに救急車を呼んだ。ただ人って簡単なショックで記憶が無くなってしまう事が分かった。

頭を打たなくても人は大きなショックがあると記憶が飛ぶ。忘れないと生きていけないという本能がそうさせるらしい。Sさんはその後回復し普段の生活を続けているが、あの時の一瞬は空白になっている。

Friday 9 October 2015

ロボットの世界

安倍首相が日本のGDPをオリンピックまでに600兆円にするという。現在が490兆円だから中々大変だ。目玉の1つが今流行のロボットである。10兆円市場と言われるが、ひょっとして大化けするかも知れない。

私はテニスをやるので、ボールを打ち返すロボットが現れると有り難い。ゴルフも二足歩行のキャディーロボットが出来ると便利だ。いちいちカートまでクラブを取りにいかなくて済むし、芝目や距離を読んで教えてくれる。一人用の電動カートは既に市販されているので、時間の問題かも知れない。

先日、大阪のホテルに泊まった時、受付にアザラシのロボットが置いてあった。名前は「パロ」、年配の一人客が部屋で寂しくならないようにということらしい。既に欧米の老人介護施設で使っている。その内、出張者用の癒しロボットが出来るかも知れない。段々映画の世界が現実になっていく。

Wednesday 7 October 2015

大村教授と山梨の風土

ノーベル医療生理学賞を、北里大学の大村教授が受賞した。アフリカで感染症から2億人を救ったというから凄い業績だ。

その経歴は高校教師から始まり、階段を上りながら今日の地位を築いたという。学業だけでなく、スキーは国体級、ゴルフもハンディキャップがシングルという。今回の基になったバクテリアもそのゴルフ場で採取したらしい。それに何といっても経済力、特許で得た収入は億円単位で博物館を寄付したり、全てが異色である。

こんな人を生んだ山梨大学ってどんな処だろう?そう思って知人で卒業生のS君に聞いてみた。彼曰く、「山梨はブドウの産地だから、酵母の研究が盛んだ。だから菌の微生物を集めるのは日常茶飯事である。例えば幼児のアトピー対策に、牛の糞を枕元に置く」と云う。それによって免疫を付けるらしい。そんな風土が大村先生を作ったのかな?

Tuesday 6 October 2015

TPP & Ricardo`s theory

Trans-Pacific free trade (TPP) deal agreed at last. It was a long run negotiation. What a big surprise that it covers 40% of world trading market.  I personally appreciate that we can buy cheap beef, cheese, wine and export high quality rice to the world.

When I was a student, I learned the economic theory of David Ricardo`s "comparative advantage". It was a win-win theory that every countries can enjoy the benefit through trading if they concentrate only their competitive product. He exampled the wine in Portugal and cotton cloth of England. How he foresighted in 200 years ago!

Old people are worried about the protection for domestic company. But I am optimistic as young generation are elastic for change. It will be a good opportunity to go on next stage.

Sunday 4 October 2015

パリのホッシュ通り

ノルマンディー上陸を攪乱する小説、「パリを取り返せ(Fall From Grace)に中に、パリのゲシュタポ本部が出てくる。フランスを占領したドイツ軍は、パリのホッシュ通り(Avenue Foch)84番地にゲシュタポの本部を置いた。余り知らなかったが、本の中ではその拷問の様子が詳しく書かれていて気持ち悪くなる。

ホッシュ通りと言うと、凱旋門からシャンゼリゼとは反対側に伸びる大きな通りである。第一次大戦の陸将の名を冠した通りは、今では知る人ぞ知るホモのランデブーポイントである。人気がなく、車が止め易いからだ。ただ両脇の住宅は相変わらず高級で、ゲシュタポが使った理由も頷ける。

昔、このホッシュ通りのあるお宅を訪問したことがある。それはゲシュタポではなく、コンセルバトワールの教授宅だった。コンセルバトワールは世界的に有名な音楽学校である。そこのP教授から試験問題の楽譜を貰いに行ったのだ。バルブ絶頂期、取引先のお嬢さんが受験するというので、会社ぐるみの受験対策に取り組んだ。今から思えば完全に試験漏えいだが、当時はそれが普通だった。

Saturday 3 October 2015

夜の雨

台風で風と雨が夜に吹き荒れる。パタパタと断続的に窓を叩き付ける音が凄い。それに比べ、家の中はテレビもあるし別世界だ。

若い頃、良く一人で山に行った。近場の秩父、奥多摩から始まり、アルプスと称する主要なコースを良く歩いたものだ。確か西穂高から穂高山荘を目指して歩いた時だった。前日から降り出した雨で、岩道は滑るし、雷鳴が遥か下の方から突き上げてきた。天狗岳、ジャンダルムの難所を通る頃には辺りが暗くなり始めた。人気もなく、段々衣服に水が染み込み体温が奪われていく・・・初めて「遭難」の文字が頭を過った。

また河口湖でキャンプした時もそうだった。テントに雨が流れ込み、シェラフが水に浸かり始めた。真っ暗な中、水の中で寝る気持ち悪さは何とも言えないものがあった。朝が来るのがあんなに待ち遠しかった事もない。夜の雨はそんな昔を思い出す。

Thursday 1 October 2015

Melbec

French family moved to near my house. They followed Japanese custom to have brought a gift for hello. This kind of practice is important for new comer to be a member of the district. They knew it. They used to ask us how to leave garbage box, how to circulate a bulletin, etc., so one day we invited them to teach community practice. It was a beer drinking meeting with fun.


Few days later, they gave us a wine. It was an Argentine wine of Melbec and they told it was very rare type.

We pay an attention for wine whether it is Bordeaux or Bourgogne not for the type whether it is Chardonnay, Pinot Noir or Sauvignon etc., So that this kind of choice was new to us. As for Melbec, it was something different taste from others. I can judge whether this Sake is Niigata or Kobe origin but no sense for wine. C’est dur on distingue!       

Wednesday 30 September 2015

日本の公安警察

中国で日本人2人がスパイ容疑で逮捕されたという。詳しいことは分からないが、これから観光旅行も気を付ける時代になってきたようだ。

日本でも似たようなことがあった。随分前になるが、東京で国際会議を開いた時だった。20ヵ国位の人達がやってきて、連日そのお世話に追われたが、そんなある日一行を京都に連れて行くことになった。添乗員宜しく、いざ東京駅で新幹線に乗ろうとすると、フィリッピンから来たMさんが居ないではないか。探せど探せど見つからない。Mさんは50台半ばの女性社長だったが、歳の割にはミニスカートに厚化粧で、風俗女性のような雰囲気があった。どうやらそれが公安警察の目に留まったようだ。

暫く経ってMさんを引き取りに行ったが、構内にそんなヒトが目を光らせていたとは驚きだった。普段は気が付かないが、どこの国でも外国人は見張られている。

Tuesday 29 September 2015

ノルマンディー上陸のIf

フランスでどこが好きかと聞かれれば、迷わずノルマンディーと応える。パリから車で1時間ちょっと、大西洋に拡がる海岸線である。リンゴ酒のカルバドスとクレープ、そして蠣などの海の幸、そんなグルメと避暑地である。ただ戦争オタクにはちょっと違うものがある。

未だに残るドイツ軍のトーチカ跡、連合軍の砲弾跡や戦車の残骸、中でもアロマンシュの海岸に置き去りにされた陸揚げ用の桟橋跡は、D‐Dayがまるで昨日のような錯覚に陥る。

五十嵐氏の「ヴィオロンのため息・・・」を再読した序に、J.リーソー著「ノルマンディーの偽装作戦(The Unknown Warrior)とL.コリンズ著「パリを取り返せ(Fall From Grace)」を読んでいる。成功したから良かったものの、仮に連合軍の上陸が失敗していればどうなっていたのだろう。ドイツは残ったかも知れないが、やがてソ連に吸収され、結果ヨーロッパは共産化されていたかも知れない。そんな思いが実しやかに伝わってくるのであった。歴史にIfはないが、この1944年6月6日はこのIfがなくて本当に良かった、そんな思いを募らせながら小説の世界に浸っている。

Sunday 27 September 2015

シリアの移民

シリアからの難民で欧州は大変な事になっている。ドイツだけでも既に10万人の受け入れが決まった。一口に10万人と言っても、坂戸市や伊勢原市に相当するから大変な数だ。それを即断するする処が凄い。

ドイツのメルケル首相はポーランド、フランスのサルコジ元大統領もハンガリーからの移民の末裔である。フランスはアルジェリア、ドイツはトルコ、オランダはインドネシアからの移民なくして今日の繁栄はなかった。だから他人事ではないのだろう。

最近、埼玉でペルー人が6人を殺害する事件が起きた。ナカダという名に、祖父は日本からペルーに移住した末裔だった。日本に来ても日本語が話せないと経済的に自立出来ない・・・その現実は厳しい。ドイツに渡ってもドイツ語が出来なければ異邦人だ。親は自身を犠牲にし、子供を現地の学校に通わせ一人前にする。その気が遠くなるような辛抱があって初めて移民は受け入れられる。大変なのはこれからだ。

Saturday 26 September 2015

Mission Impossibe

I saw a movie “Mission: Impossible Rogue Nation”. It was a typical action movie that made people no boring all the time. Opening flight scene, speedy bike race, camouflage to the other… kept our tension to continue to end and I enjoyed very much.

I was surprised Tom Cruise looked so young although he is still 53 years old. I remember his first movie Top Gun was carried out in 1986. It is incredible that has passed about 30 years since then! It is really impossile thing.

It is said Tom Cruise is autistic. He does not look like. This kind of handicap may make him a little bit different person from others. His villa is in Capri of south Italy where is famous for blue grotto. It is very beautiful island with lot of sunshine, blue sea and fresh olive. I wonder these kinds of natural environment are source of his energy.