収容所からの脱走は自由を求める。ただそうでない脱走もある。それがカウラの脱走事件だった。
カウラ(Cowra)はシドニーから内陸に300㎞も入った町である。太平洋戦争の時に、南方戦線で捕虜になった日本の軍人と民間人約1100名が収容されていた。そして1944年8月5日に脱走事件が起きた。
捕虜達は鉄条網を乗り越えはしたものの、戦う武器もないまま、300人を超える死傷者を出して鎮圧された。中には自害した人もいて、当時はそれを狂気と見做された。ただ次第に日本人の死生観が明らかなるに連れ、事件の全容が解明されたのである。
日本軍人には「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残す事勿れ」の教えがあった。そのため多くの兵士は、捕虜として生きている事に葛藤していた。もしも生きている事が日本の家族に分かれば、村八分や恩給の停止などで大きな迷惑が掛るからだ。
脱走は万歳突撃のような、死に場所を求めた最後の行為だった。まだ中学を出たか出ないで軍隊に入った若者にとっては、その理不尽を疑う事もなかった。
数年前にカウラを訪れた時、「鉄条網に掛かる毛布(Blankets on the wire)」というオーストラリア人が書いた本を読んでそれを知った。同じ頃にイタリア人捕虜も沢山いたが、彼らは只管戦争が終わるのを待って楽しく過ごしていたという。その対照的な生き方に、改めて複雑な思いがした。
収容所跡には、オーストラリア政府の手厚い配慮で日本人墓地と日本庭園があった。頭が下がる思いでお参りした。