Tuesday, 29 July 2025

ゲルニカの空襲

ビルバオから海岸線を西に行くと、ピカソで有名なゲルニカ(Gernika)の町があった。人口1万人強のこの町は、1937年4月26日にドイツの空襲にあって多くの市民が亡くなった。その悲劇を描いたピカソの絵は、以来反戦のシンボルになっている。

町には博物館があり、当時を音響で再現した部屋があった。日本から贈られた千羽鶴も飾られていた。ラ・マンチャのドン・キホーテの記念館にも、武士道と重ねた和風の絵があったり、テキサスのアラモ砦にも日本から贈られた石碑があった。日本人は刹那的になるとスイッチが入る民族である。

それにしても何故ゲルニカだったのだろう?帰国して日経新聞を読んでいると、理由は2つある事が分かった。一つはビルバオに続く要衝だった事、もう一つは(今でもそうだが)バスクがスペインの中でも異質な地方だった。バスクは日本で言えば強ち沖縄のようなマイナー民族の地で、カステーリャやアラゴンと言った由緒ある本流ではなかったのだ。

スペイン内戦は今一つ肌感覚で掴み難い。ただヘミングウェイの「誰がために鐘が鳴る」の舞台になったセゴビアのグアダラマ山脈を車で通ると、何度も観たグレゴリー・ペックとイングリッド・バークマンの名画を思い出すのであった。ロバートをスペイン風にロベルトと呼んでいたのが印象的だった。

そのビルバオは大きな町だったが、路地を入ると平日だというのに酒で潰れた裸の男が倒れていた。怖くはなかったが荒れている感じがした。

Monday, 28 July 2025

エッフェルのレトロな橋

イベリア半島は周りを海に囲まれている。特に北の方はリアツ式の海岸線で、沖に浮かぶ牡蛎や貝の養殖筏とのシルエットが美しい。その陸と陸を繋ぐのが橋、どれも大きくて芸術性に富んでいた。

ポルトガル国境に近いスペインの港町ヴィーゴは、クルーズ船から下りた観光客で溢れていた。その郊外のランダ橋は1500mと短かったが、強い日差しと海の青さに映えていた。

やはり港町のカディスに架かる「1812年憲法橋」は、スペイン最長の3062mで壮大だった。カディスはジブラルタルに近いので、ここ迄来ると半分アフリカだった。町は狭い路地が続くゲットーのようで、調べてみたらやはりやはり昔のユダヤ人街だった。レコンキスタが終わり、ユダヤ人はスペインから一掃された歴史を思い出した。

そんな中、ビックリしたのがエッフェル塔の建築家、グスタフ・エッフェルとその弟子たちのレトロな作品だった。一つはビルバオに掛かるビスカヤ橋である。いつぞやNHKのTV番組で世界遺産として紹介されていたのを思い出した。搭乗者はまずリフトで30m程の塔に移り、それから横に移動する仕組みは見ていて楽しかった。

もう一つはポルトガルの第二の都市ポルトに掛かるマリア・ピア橋である。これをお目当てに世界から観光客が押し寄せるが、目の前に現れた時はその大きさと美しさに圧倒された。1886年の作だが今でも市電が走り人も歩ける現役で、高さ36mから見下ろす景色はスリル満点であった。

そして橋ではないが、リスボン市のエレベーターもエッフェルの作だった。ポルトやヴィーゴもそうだが、街は海に向かって切り立っている為に急坂が多い。そんな登りの負担を軽減しようとして出来た。1時間待ってやっと順番が来たかと思った矢先、機械が故障して乗れなかったが・・・。

Sunday, 27 July 2025

コロンブスとムラ―ト

スペインで最も称えられた人はコロンブスであろう。セビーリャの大聖堂内に彼の棺を担ぐ大きな像や、トレドの教会には持ち帰った金で作った宝物がそれを物語っていた。アメリカ大陸の発見はスペインに大きな富をもたらした。今残っている立派な建造物はその時の名残である。

ポルトガルもそうだが、彼らはアフリカから奴隷を南米に運び、その労働力を使って金や銀を掘り、砂糖、綿花を英国に売った。ポルトガル人とアフリカ奴隷が結婚して出来た混血をムラ―ト、インディオとの混血をマメル―コと呼ぶらしいが、南米にはスペイン人、ポルトガル人、そしてアフリカ人の血が流れている。

ただ両国の繫栄は長く続かなかった。入植地や海洋ルートの維持におカネが掛かったからだ。その間に植民地政策に長けた英国が台頭し、やがてその英国も度重なる戦争で疲弊した。

今回どこに行っても中国人観光客が目に付いた。大した観光地でもない田舎町で、大型スーパーの上にあるホテルに泊まっていた。食事はスーパーで買って済ますから経済的なのだろう。そして真っ黒なアフリカ人も地理的に近いせいか、子連れで来ていた。

各地の土産物屋に並ぶ商品の殆ども「Made in PRC(中国産)」である。良品計画のような生活用品も多くが中国製、世界に中国製品で溢れている。スペインの観光はGDPの13%を占める重要産業である。それを(嘗ては英国の支配下にあった)中国人と、(嘗ての植民地だった)アフリカ人が支えている。

Friday, 25 July 2025

Booking.comの宿探し

10年程前だったか、ゼミ仲間と群馬の法師温泉に行った時の事だった。長寿館のレトロな風呂に浸かり休んでいると、玄関の方で何やら騒々しくなっていた。

見ると若いイギリス人男女が宿の主人と揉めている。どうやら石川県の(栗津温泉にある)法師旅館と間違えた事が分かった。その日は宿も満室で日も暮れていた。今から引き返して石川県まで行けるはずもなく、女性は遂に泣き出してしまった。その後どうなったのか、食事が始まったので分からないが、旅にはこの手の失敗が付き物である。

今回の旅も同じような事が起きた。宿は着いた町で探す習わしだ。その方が時間に縛られて焦ることがない。大体夕方5〜6時になるとホテル探しを始める。昔は片っ端から「空いてますか?」と聞き回ったが、最近はBooking.comで予約を取ってから行く。その方が先方もビックリしないし効率的である。何より何度か使うと割引が利くのが嬉しい。

ところが時々とんでもない事が起きる。巡礼で有名なサンチャゴでパン・アメリカ―ノというホテルを予約したが、いざ行こうとすると地図にそれらしき道がない。それもそのはず、よく読むとチリのサンチャゴだった。

トレド(Toledo)に行った時も、Toledo Amman Hotelというホテルを予約したが、暫くしてトレドの名前が入ったヨルダンのホテルだと分かった。慌てて別のホテルを取り直したが、素晴らしいのは(通常返金不可の処を)AIが判断して単純ミスには課金しない事であった。

見知らぬ土地での宿探しは、「泊まる宿がなかったらどうしよう!」といつもどきどきハラハラする。チェックイン出来た時には本当にホッとするが、このスリルがビールの味を一層美味しくしてくれる。

Thursday, 24 July 2025

大正解のキリスト教禁止令

  スペインの日本人と言えば、差し詰め今ならサッカーの久保建英選手であろう。流暢なスペイン語で、あれならサッカーを辞めても語学で生きていける。

古くは仙台藩が1613年に送った慶長遣欧使節団があった。ローマ教王に謁見した後、スペインのセビーリャに移った。訪れたセビーリャ大聖堂で、彼らも祈っていたかと思うと急に身近になった。帰国の時になってキリスト教禁止令が出たため、8~11人がセビーリャ郊外のコリア・デル・リオ(Coria del Rio)の町に踏み止まった。

記念碑があると言うので寄ってみると、公園の一角にサムライ像と皇太子が植樹した桜の木があった。今でもハポン(日本)姓の人が残っているという。ただ町は鄙びていて、桜の木も枯れんばかりで複雑な気分になった。

もう一つ、それに先立つ事30年前の1582年に九州のキリスタン大名が送った大正遣欧使節団もあった。こちらはポルトガルだったが、4人の少年が過ごしたリスボンのサン・ロケ教会にも行ってみた。以前彼らが出港した長崎の記念碑に行った事を思い出した。

ただ立派な教会や当時の勢いを見るにつけ、秀吉があの時「キリスト教を禁止したのは大正解だった!」との思いを強くした。あのまま放置していたら、今頃フィリピンや南米になっていたに違いない。

その他、スペイン内戦に参加して死亡したジャック白井や、ポルトガルの寒村で過ごした檀一雄もいた。帰ってから早速その時に書いた「火宅の人」を読んでみたが、娘の檀ふみが「生前はとても読めなかった」というのが良く分かった。

Tuesday, 22 July 2025

トルデシリャス条約

マドリードから北西に180㎞程行った処に、トルデシリャス(Tordesillas)という小さな町がある。観光名所ではないが、かつてこの町で締結されたポルトガルとの条約があった。それはコロンブスがアメリカ大陸を発見した直後の1494年、大西洋の西経46度37分を境に東をポルトガル領、西をスペイン領にしたのであった。

この線引きで、今のブラジルがポルトガルに、それ以外の南米がスペイン領になり、以降の言葉もそれが出発点になった。

もう一つ、同じ頃にカルロス1世がカール5世となり、スペイン初のローマ皇帝になった快挙があった。その母親のファナが過ごしたのがトルデシリャスの町だった。彼女は夫や子供の死で精神を病んだため、女王でありながら76歳の生涯の内46年を幽閉された。「狂女」とも呼ばれ、町の郊外に2年程幽閉されたモタ城も残っていたので行ってみたが、不気味な雰囲気だった。

因みに彼女の姉はイギリスのヘンリー8世に嫁いだ。ヘンリー8世と言えば6回の結婚を繰り返し、内2人を処刑した遍歴の有名人である。(子供が出来なかった)姉との離婚を巡っては、英国教会がローマと袖を別ったきっかけになったので大きな事件だった。

又50㎞程行ったヴァヤドリード(Valladolid)の町には、作家セルバンテスの家もあった。岩波新書の「物語スペインの歴史〜人物篇」に、家の前で殺傷事件があり、犯人を巡ってセルバンテス一家まで嫌疑が及んだ話が綴られてあった。事前に読んでいたので、それと重ねると400年前がグッと身近になったのであった。

Monday, 21 July 2025

スペインの監視文化

 スペイン、ポルトガルを旅した。レンタカーで3週間、5000㎞を走破した。日本とマドリッドを飛行機で飛ぶと約1万キロだから、その半分に相当する。道は凸凹しているし、車線変更は殆どウィンカーを出さないので怖い事この上ない。よく無事に済んだと改めて思う。

どちらの国も褐色の人が多い。8世紀から15世紀までイスラムの支配下にあった名残なのか、将又中南米やアフリカの旧植民地から来た人なのか、フランスやドイツとはちょっと違う人種構成である。

どこの教会も立派である。取り分けサンチャゴやセビリア、コルドバは凄い。目が慣れて来ると、どれもイスラム風からキリスト風に改装したのが分かる。今ではレコンキスタ(イスラム排斥運動)は救国の極みになっているが、改めてイスラム文化の高さにも感心した。

王政と共和制を繰り返した近年の歴史も興味深い。今の国王も元はフランスのブルボン家の末裔だから、歴代の亡命先は決まってフランスだった。殆どはイスラムの影響を受けた地域だが、浸食されなかったバスクやカターニアは別物、独立志向が強いのも頷けた。フランコを生んだ内戦の傷跡が今でも散見された。

とある港町で駐車をしようと幅寄せをやっていた時だった。1.5台分のスペースしかなかったので悠々と真ん中に入れて離れようとした。すると前のアパートから叔母さんが「もう少し詰めないと駄目よ!」と言う。カーテンの隙間から見ていたのだった。

巡礼地サンチャゴの近くに、守護神ヤコブが上陸したと伝えられているパドロンと言う町がある。祀っている教会を探していると、やはり男が窓から顔を出し「そっちでなくあっちだ!」と教えてくれた。どちらも監視されていて、これも(内戦による)内通文化の名残かと思った。

ともあれ色々な体験をした。暫くはイベリア半島の旅を振り返ってみたい。


Sunday, 20 July 2025

万平ホテルのジョン・レノン

久しぶりに ビートルズのHey Jude を聞いた。Judeとは今までJew(ユダヤ人)かと思っていた。しかし実際はジョン・レノンの子供(Julian)の名前であった。当時のジョン・レノンはオノヨーコとの不倫が始まっていた頃で、取り残された息子に励ましを込めてポールが作ったのであった。

そのジョン・レノンとオノヨーコ夫妻だが、70年代の後半だったか、夏の軽井沢で一緒した事があった。アメリカ人のDさんと万平ホテルに泊まっていると、彼らも滞在していたのである。食事時や散歩すると良く擦れ違った。今から思うと写真の一枚でも撮っておけば良かったが、当時はあまり関心がなかった。

Dさんは国際キリスト教大学(ICU)の留学生だった。ゼミの先生が大塚久雄氏で、東大から移って来られた頃だった。岩波新書の「社会科学の方法」は、当時の学生だったら読まない人はいなかったのではないだろうか。その頃先生は全集の出版を進めていて、Dさんも手伝っていた。

そんな縁で、Dさんが軽井沢の別荘にお邪魔すると言うので付いて行った。私は運転手で中々場所が分からず「道に迷いました」と言うと、先生は「運転も労働ですね!」と如何にも先生らしいコメントを頂いた。

あれから50年、ジョン・レノンは凶弾に倒れ、Dさんはオックスフォードに行かれ大塚先生はお亡くなりになった。軽井沢に夏が来るとまるで昨日のように感じる。