Tuesday, 29 July 2025
ゲルニカの空襲
Monday, 28 July 2025
エッフェルのレトロな橋
Sunday, 27 July 2025
コロンブスとムラ―ト
Friday, 25 July 2025
Booking.comの宿探し
10年程前だったか、ゼミ仲間と群馬の法師温泉に行った時の事だった。長寿館のレトロな風呂に浸かり休んでいると、玄関の方で何やら騒々しくなっていた。
見ると若いイギリス人男女が宿の主人と揉めている。どうやら石川県の(栗津温泉にある)法師旅館と間違えた事が分かった。その日は宿も満室で日も暮れていた。今から引き返して石川県まで行けるはずもなく、女性は遂に泣き出してしまった。その後どうなったのか、食事が始まったので分からないが、旅にはこの手の失敗が付き物である。
今回の旅も同じような事が起きた。宿は着いた町で探す習わしだ。その方が時間に縛られて焦ることがない。大体夕方5〜6時になるとホテル探しを始める。昔は片っ端から「空いてますか?」と聞き回ったが、最近はBooking.comで予約を取ってから行く。その方が先方もビックリしないし効率的である。何より何度か使うと割引が利くのが嬉しい。
ところが時々とんでもない事が起きる。巡礼で有名なサンチャゴでパン・アメリカ―ノというホテルを予約したが、いざ行こうとすると地図にそれらしき道がない。それもそのはず、よく読むとチリのサンチャゴだった。
トレド(Toledo)に行った時も、Toledo Amman Hotelというホテルを予約したが、暫くしてトレドの名前が入ったヨルダンのホテルだと分かった。慌てて別のホテルを取り直したが、素晴らしいのは(通常返金不可の処を)AIが判断して単純ミスには課金しない事であった。
見知らぬ土地での宿探しは、「泊まる宿がなかったらどうしよう!」といつもどきどきハラハラする。チェックイン出来た時には本当にホッとするが、このスリルがビールの味を一層美味しくしてくれる。
Thursday, 24 July 2025
大正解のキリスト教禁止令
スペインの日本人と言えば、差し詰め今ならサッカーの久保建英選手であろう。流暢なスペイン語で、あれならサッカーを辞めても語学で生きていける。
古くは仙台藩が1613年に送った慶長遣欧使節団があった。ローマ教王に謁見した後、スペインのセビーリャに移った。訪れたセビーリャ大聖堂で、彼らも祈っていたかと思うと急に身近になった。帰国の時になってキリスト教禁止令が出たため、8~11人がセビーリャ郊外のコリア・デル・リオ(Coria del Rio)の町に踏み止まった。
記念碑があると言うので寄ってみると、公園の一角にサムライ像と皇太子が植樹した桜の木があった。今でもハポン(日本)姓の人が残っているという。ただ町は鄙びていて、桜の木も枯れんばかりで複雑な気分になった。
もう一つ、それに先立つ事30年前の1582年に九州のキリスタン大名が送った大正遣欧使節団もあった。こちらはポルトガルだったが、4人の少年が過ごしたリスボンのサン・ロケ教会にも行ってみた。以前彼らが出港した長崎の記念碑に行った事を思い出した。
ただ立派な教会や当時の勢いを見るにつけ、秀吉があの時「キリスト教を禁止したのは大正解だった!」との思いを強くした。あのまま放置していたら、今頃フィリピンや南米になっていたに違いない。
その他、スペイン内戦に参加して死亡したジャック白井や、ポルトガルの寒村で過ごした檀一雄もいた。帰ってから早速その時に書いた「火宅の人」を読んでみたが、娘の檀ふみが「生前はとても読めなかった」というのが良く分かった。
Tuesday, 22 July 2025
トルデシリャス条約
Monday, 21 July 2025
スペインの監視文化
スペイン、ポルトガルを旅した。レンタカーで3週間、5000㎞を走破した。日本とマドリッドを飛行機で飛ぶと約1万キロだから、その半分に相当する。道は凸凹しているし、車線変更は殆どウィンカーを出さないので怖い事この上ない。よく無事に済んだと改めて思う。
どちらの国も褐色の人が多い。8世紀から15世紀までイスラムの支配下にあった名残なのか、将又中南米やアフリカの旧植民地から来た人なのか、フランスやドイツとはちょっと違う人種構成である。
どこの教会も立派である。取り分けサンチャゴやセビリア、コルドバは凄い。目が慣れて来ると、どれもイスラム風からキリスト風に改装したのが分かる。今ではレコンキスタ(イスラム排斥運動)は救国の極みになっているが、改めてイスラム文化の高さにも感心した。
王政と共和制を繰り返した近年の歴史も興味深い。今の国王も元はフランスのブルボン家の末裔だから、歴代の亡命先は決まってフランスだった。殆どはイスラムの影響を受けた地域だが、浸食されなかったバスクやカターニアは別物、独立志向が強いのも頷けた。フランコを生んだ内戦の傷跡が今でも散見された。
とある港町で駐車をしようと幅寄せをやっていた時だった。1.5台分のスペースしかなかったので悠々と真ん中に入れて離れようとした。すると前のアパートから叔母さんが「もう少し詰めないと駄目よ!」と言う。カーテンの隙間から見ていたのだった。
巡礼地サンチャゴの近くに、守護神ヤコブが上陸したと伝えられているパドロンと言う町がある。祀っている教会を探していると、やはり男が窓から顔を出し「そっちでなくあっちだ!」と教えてくれた。どちらも監視されていて、これも(内戦による)内通文化の名残かと思った。
ともあれ色々な体験をした。暫くはイベリア半島の旅を振り返ってみたい。
Sunday, 20 July 2025
万平ホテルのジョン・レノン
久しぶりに ビートルズのHey Jude を聞いた。Judeとは今までJew(ユダヤ人)かと思っていた。しかし実際はジョン・レノンの子供(Julian)の名前であった。当時のジョン・レノンはオノヨーコとの不倫が始まっていた頃で、取り残された息子に励ましを込めてポールが作ったのであった。
そのジョン・レノンとオノヨーコ夫妻だが、70年代の後半だったか、夏の軽井沢で一緒した事があった。アメリカ人のDさんと万平ホテルに泊まっていると、彼らも滞在していたのである。食事時や散歩すると良く擦れ違った。今から思うと写真の一枚でも撮っておけば良かったが、当時はあまり関心がなかった。
Dさんは国際キリスト教大学(ICU)の留学生だった。ゼミの先生が大塚久雄氏で、東大から移って来られた頃だった。岩波新書の「社会科学の方法」は、当時の学生だったら読まない人はいなかったのではないだろうか。その頃先生は全集の出版を進めていて、Dさんも手伝っていた。
そんな縁で、Dさんが軽井沢の別荘にお邪魔すると言うので付いて行った。私は運転手で中々場所が分からず「道に迷いました」と言うと、先生は「運転も労働ですね!」と如何にも先生らしいコメントを頂いた。
あれから50年、ジョン・レノンは凶弾に倒れ、Dさんはオックスフォードに行かれ大塚先生はお亡くなりになった。軽井沢に夏が来るとまるで昨日のように感じる。
