あれは10年ほど前だったか、舞台になったスレブレニツァ(Srebrenica)の町を訪れた。サラエボの町を出る時、ヒッチハイカーのフランス人カップルを乗せた。彼らはセルビアの首都ベオグラードに行くという。途中で下したがそんな位置関係の場所だった。
着くとそこはアーリントンのように一面、真新しい墓標が並んでいた。8000本以上はあっただろうか、1995年にセルビア人によって殺害されたボスニア人が眠っていた。まだ事件が起きて20年しか経ってないから、遺体を回収した倉庫も生々しかった。
それにしても何故、このような場所で大量殺戮があったのか?その時は考える余裕もなかった。ただこうして時間が経ち、改めてその場所や地形を見ると次第に様子が分かってきた。
そこはドリナ川を隔てセルビア国境まで20㎞の町だった。事件の背景にはユーゴスラビアが解体して、アルメニアとクロアチアが独立し、セルビアも領土を確定しようと焦っていた時期だった。
それから3年後、今度は逆にそのセルビア人を保護しようと、セルビア軍(正確にはセルビア人によるローカル軍)がボスニア人の排斥に乗り出した。ひょっとして先の報復もあったのかも知れない。それがジェノサイトの始まりだった。
住民の構図はウクライナのクリミアやドネツクに似ている。その8割はロシア人である。ロシアはその同胞を保護する名目で侵攻した。
場所は明らかにボスニア・ヘルツェゴビナ領内であった。ただ今回地図を見て分かったのは、そこはセルビアがボスニア・ヘルツェゴビナ側に半島のように突出した特殊な場所だった。言わばベルギーのバストーニュのようなバルジだった。その複雑な地形が越境に影響したのは容易に想像できる。
スレブレニツァの墓地を見て、次の目的地である世界遺産のドリナ橋に行こうとした時だった。直線距離だと1時間位かと思って山道に入ろうとすると、「この先は危ないから迂回しろ!」と止められた。来た道を戻って遠回りしたのだが、今になって分かったのは、直進すればそのバルジのセルビア領を通る事になった。地雷もまだ残っているし、セルビアから果たしてボスニア・ヘルツェゴビナに戻れたかも分からない。
ボスニア人はイスラム教、セルビア人は正教徒、ヘルツェゴビナはキリスト教である。バルカン半島では、この三つ巴の構図が微妙なバランスを保っている。
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